7時半、起床。
朝食はとらず、9時前に家を出て大学へ。
スロープの横ののメタセコイヤの落葉が進んでいる。
木の下を通っているときに、風が吹くと、枯葉が落ちてくる。
10時から現代人間論系の助手の採用面接。
それを終えてから、「たかはし」に昼食を取りに行く。肉豆腐定食を注文。
腹ペコということもあって、甘辛の汁が五臓六腑にしみわたるうまさである。
研究室で昨日学生からもらった(ゼミ論で貸していた本のお礼とのこと)プリッツをかじりながら紅茶を飲む。プリッツは「トムヤンクン味」でけっこう辛い。お茶うけというよりも、酒のつまみだろうか。
雑用を片付けて、大学を出る。
「SKIPA」に寄って一服していく。
アイスチャイを注文。チャイは夏も冬もアイスが好きである。
諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』(NHKブックス)は2001年に出た本で、当時読んだものだが、いま新装版を購入して改めて読み返している。来年度の授業で「現代人の孤独と社交」を演習のテーマにすることを考えているので、その参考書として。
「孤独は、決して、避けるべき否定的なものなどではない。孤独は、現代をタフに、しなやかに、かつクリエイティブに生きていくために不可欠の〝積極的な能力〟である。これからの困難な時代を、幸福に生きるために、現代人がトレーニングしてでも身につけるべき新たな〝能力〟である。」(9頁)
これが著者の基本的にスタンスである。
私が考えるに、家族を主要な舞台とした「幸福な物語」が揺らいでいる現在、台頭しつつある新たなタイプの「幸福の物語」は、「仲間のいる幸福」と「孤独である幸福」の2つなのではないだろうか。「仲間のいる幸福」はイメージしやすいだろうが、「孤独である幸福」は注釈がいるだろう。ここでいう孤独は孤立とは違う。他者とのつながりを望んでそれが得られない状態が孤立であるが、孤独は他者とのつながりを(一時的であれ永続的であれ)自らの意志と技法で切断した状態である。いうなれば、「孤独である幸福」は「幸福の物語」の個人化の行きつくところである。
本書には賢人たちの孤独に関する言葉がたくさん引かれている。
「私たちは、すべてが自分のためだけにある。完全に自由になれる、小さな、人目から隠された庵を確保しなければならない。そして、そこでは本当の自由と本質的な退却と孤独とを達成できる」(モンテスキュー『随想録』より)
「あらゆる人間はあらゆる時代と同様に、今でもまだ奴隷と自由人とに分かれている。なぜなら、自分の一日の三分の二を自分のためにもっていない者は奴隷であるから。そのほかの点では、たとえば彼が政治家・役人・学者など何者であろうとしても同じことである」(ニーチェ『人間的あまりに人間的』より)
しかし、本書の一番の特徴は、孤独を「能力」ととらえていることであり、その「能力」を鍛えるための方法論(レッスン)を呈示している点だろう。著者が呈示している「孤独であるための八つの条件」とは次のようなものである。(とくに6と7が社交と孤独をリンクさせる上で重要だろうと私は思う)
1.「わかり合えない人とは、わかり合えないままでいい」と認める勇気を持て。
2.あなたが、人間関係について暗に抱いている「歪んだ思い込みやこだわり」に気づけ。
3.自分の人生で「ほんとうに大切な何か」「どうしても、大切にしたい何か」を見つけること。
4.「自分は間もなく死ぬ」という厳然たる事実をしっかり見つめよ。絶えず、死の地点から、人生を捕える視点を持て。
5.自分だけの「たった一つの人生という作品」をどうつくるか、絶えず構想しながら生きよ。そのための想像力を駆使せよ。
6.さまざまなソーシャルスキルを身につけよ。とりわけ、他人の話を聴く力、他人を認める技術は必要。
7.ほんの一人か二人でいい。「この人だけは、私を見捨てない。どこかで見守ってくれている」。そう思える人を見つけておくこと。
8.自分だけは、自分の味方であれ。そのために、「自分を越えた地点から自分を見守るまなざし」を自分の中に育てよ。
蒲田に着いて、「有隣堂」で雑誌を二冊購入。お買いもの券を使う。
夕食は鶏鍋。鶏肉、鶏肉団子、鶏肉餃子が入っている。