ビッグ・ビル・ブルーンジー(William Lee Conly Broonzy)は、1893年6月26日ミシシッピー州スコット(Scott)の生まれ。亡くなったのは、1958年8月15日シカゴだった。ブルースファンにとってはその名は大きく、ギターを弾く者にとってはその名は重い。
ミシシッピーでの家族の生活は、シェア・クロッパー(sharecropper=小作人)だったという。ブルーンジーが少年の頃にアーカンソー州に移動、そこで彼はフィドル(バイオリン)を学んだらしい。14歳になる頃には、ダンスパーティーなどで演奏して、チップを稼げるようになった。彼の音楽の持つ多様性は、この頃のフィドルの演奏が生み出したものなのかもしれない。その後第一次世界大戦に従軍、除隊後は再びアーカンソーに戻り、農業に従事。そして、シカゴへ出たのは1920年代初頭のことらしい。年齢的には、20代後半になっていたことになる。そのシカゴでは、パパ・チャーリー・ジャクソンの援助を受けながらギターを習得し、才能を開花させていった。
その後は、長くシカゴを中心にギターリスト・ヴォーカルリストとして活躍。単独で、あるいは多彩なミュージシャン達と多くの録音を残している。以下に紹介するのは我が家にあるレコードだが、ブルーンジーの残した録音の全体から見れば一部分にすぎない。そんな彼でも、音楽だけで生活するのは難しかった時期もあったらしく、そんな時はシカゴの街で雑役夫として雇われ仕事をしたりしたらしい。
もっとも初期の録音Yazoo1011。名盤。ジャケットの写真も教則本などによく使われるもので、かのカワセ楽器さんにも同型のギブソン・ギター(Style-o)の後ろの壁に貼られている。
戦前の録音もう一枚、オーストリアのレーベルでWOLF RECORDSのBOB-2。この頃には様々な楽器が加わっていて、かなりモダンな音作りになっている。
上の二枚は、GNPcrescendというレーベルのシリーズで録音年の表記は無いが、戦後のものと思われる。
ブルーンジーは、1960年前後には当時のフォークムーブメントからの要請もあり、メッセージ性の強い録音をフォークウェイズ・レーベルなどに残している。生ギター一本の弾き語りでフォーク風の歌が多く、この2枚のLPはその頃のものではないかと推測している。白人向けのフォークブームに合わせた演奏という見方もあり、ブルースファンにはあまり受け入れられなかったようだ。しかし、わたしなどはブルーンジーの多様な音楽性がよく出ていて繰り返し聞きこみ、彼の「本音」がここにあるようにも感じている。例えば、「Black,Brown And White」という曲の次のようなフレーズ・・・
I was in a place one night ある夜、俺は
They was all having fun 皆楽しそうに
They was all byin' beer and wine ビールやワインを飲んでいる所にいた
But they would not sell me none だけど、奴らは俺に何も売ってくれなかった
They said if you was white, should be all right 奴らが言うには、肌の色が白けりゃいいさ
If you was brown, stick around 茶色なら、まあ、居るだけなら勘弁してやる
But if you black, m-mm brother, git back git back git back だが、黒きゃダメだ、帰んな
この欄に書くために、これら4枚のLP盤を聞き直してみてあらためて感じたことは「一つひとつの音を大切にする人だな」ということだった。それはすぐれたミュージシャンに共通のことなのだが、ブルーンジーの場合特にそれが強く感じられ、彼の音に込める気持ちが伝わってくるような気さえした。曲全体の流れの中で、どうしてもそこで使うべき音だけを気持ちを込めて使う、あたりまえのようだが忘れてはならないことなのだ。
ブルーンジーは数多くのブルースマンとセッションをこなした人で、次回以降にはブルーンジーが加わった重要な人物の録音を取り上げてみたい。
2022/2改訂
ミシシッピーでの家族の生活は、シェア・クロッパー(sharecropper=小作人)だったという。ブルーンジーが少年の頃にアーカンソー州に移動、そこで彼はフィドル(バイオリン)を学んだらしい。14歳になる頃には、ダンスパーティーなどで演奏して、チップを稼げるようになった。彼の音楽の持つ多様性は、この頃のフィドルの演奏が生み出したものなのかもしれない。その後第一次世界大戦に従軍、除隊後は再びアーカンソーに戻り、農業に従事。そして、シカゴへ出たのは1920年代初頭のことらしい。年齢的には、20代後半になっていたことになる。そのシカゴでは、パパ・チャーリー・ジャクソンの援助を受けながらギターを習得し、才能を開花させていった。
その後は、長くシカゴを中心にギターリスト・ヴォーカルリストとして活躍。単独で、あるいは多彩なミュージシャン達と多くの録音を残している。以下に紹介するのは我が家にあるレコードだが、ブルーンジーの残した録音の全体から見れば一部分にすぎない。そんな彼でも、音楽だけで生活するのは難しかった時期もあったらしく、そんな時はシカゴの街で雑役夫として雇われ仕事をしたりしたらしい。
もっとも初期の録音Yazoo1011。名盤。ジャケットの写真も教則本などによく使われるもので、かのカワセ楽器さんにも同型のギブソン・ギター(Style-o)の後ろの壁に貼られている。
戦前の録音もう一枚、オーストリアのレーベルでWOLF RECORDSのBOB-2。この頃には様々な楽器が加わっていて、かなりモダンな音作りになっている。
上の二枚は、GNPcrescendというレーベルのシリーズで録音年の表記は無いが、戦後のものと思われる。
ブルーンジーは、1960年前後には当時のフォークムーブメントからの要請もあり、メッセージ性の強い録音をフォークウェイズ・レーベルなどに残している。生ギター一本の弾き語りでフォーク風の歌が多く、この2枚のLPはその頃のものではないかと推測している。白人向けのフォークブームに合わせた演奏という見方もあり、ブルースファンにはあまり受け入れられなかったようだ。しかし、わたしなどはブルーンジーの多様な音楽性がよく出ていて繰り返し聞きこみ、彼の「本音」がここにあるようにも感じている。例えば、「Black,Brown And White」という曲の次のようなフレーズ・・・
I was in a place one night ある夜、俺は
They was all having fun 皆楽しそうに
They was all byin' beer and wine ビールやワインを飲んでいる所にいた
But they would not sell me none だけど、奴らは俺に何も売ってくれなかった
They said if you was white, should be all right 奴らが言うには、肌の色が白けりゃいいさ
If you was brown, stick around 茶色なら、まあ、居るだけなら勘弁してやる
But if you black, m-mm brother, git back git back git back だが、黒きゃダメだ、帰んな
この欄に書くために、これら4枚のLP盤を聞き直してみてあらためて感じたことは「一つひとつの音を大切にする人だな」ということだった。それはすぐれたミュージシャンに共通のことなのだが、ブルーンジーの場合特にそれが強く感じられ、彼の音に込める気持ちが伝わってくるような気さえした。曲全体の流れの中で、どうしてもそこで使うべき音だけを気持ちを込めて使う、あたりまえのようだが忘れてはならないことなのだ。
ブルーンジーは数多くのブルースマンとセッションをこなした人で、次回以降にはブルーンジーが加わった重要な人物の録音を取り上げてみたい。
2022/2改訂