文化逍遥。

良質な文化の紹介。

小林照幸著『死の貝』1998年、文芸春秋社刊

2016年05月19日 | 本と雑誌
 書名からすると貝の話のように思われるが、本の内容は寄生虫の話である。
わたしが小学校低学年の頃(昭和30年代後半)までは、学校で寄生虫の検査が定期的に行われていたものだった。具体的には、検便や朝起きた時に肛門にシールを張って寄生虫の卵があるかを確認するもので、卵が見つかった場合は駆虫薬いわゆる「虫くだし」を飲んで回虫などを駆除した。その後、水洗トイレや下水道の普及などにより昭和40年代に入るとほとんど寄生虫の感染は無くなったようだ。

 この本で取り上げているのは「日本住血吸虫」という人や家畜など多くの動物の血管に住み着く寄生虫で、その発見から撲滅に至るまでのルポルタージュと言える。日本住血吸虫は、感染すると腹が膨れ、あるいは成長を阻害し、時に死に至らしめるという恐ろしい寄生虫で、地方によってはかなり深刻な被害が出たという。そして、その寄生虫の孵化から幼虫―成虫に至る過程で、「宮入(みやいり)貝」という数ミリの小さな貝が中間宿主であることを発見するに至るまでの様々な医学者・衛生学者の血のにじむような苦労を資料に基づき小説風に完成させているので、深刻な内容のわりには読みやすい。時代としては、大正時代の話なので、わたしの父母の生まれた頃だ。それほど昔の話ではない。
 今では、農作業で命を落とすような病気にかかる危険性はほぼ無くなったろうが、父や母の生まれた頃にこんな恐ろしい寄生虫が田んぼや湿地に居て、命の危険と隣り合わせで作業していた事は驚きだ。そして、それは特効薬の開発や貝の駆除により終息するつい最近まで続いていたのだ。『死の貝』という書名からすると貝自体が危険なもののようだが、マラリヤにおける蚊のように吸血したりするものではなく、あくまで寄生虫の生育過程で必要な宿主になる貝というだけだ。その点を注意しておきたい。ホタルの幼虫の餌にもなることから、宮入貝を駆除したことがホタルの生息数が減った一因であるとも言われている。

 中国や東南アジアでは、今なお日本住血吸虫による感染が続いているらしい。セルカリアと呼ばれる肉眼では見えないほど小さな幼虫は、水のある所にいて皮膚を介して体内に侵入し、その後太い血管内で雌雄が合体、膨大な数の卵を産むという。われわれ都会に住む者は豊かな農村風景に心癒されるものだが、そんな甘い感傷を嘲笑うかのような危険性が自然の中には潜んでいるものであることを、この本は教えてくれる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする