ピアニスト・ヴォーカリストのメンフィス・スリム(Memphis Slim)は、1915年9月分3日にテネシー州メンフィスで生まれ、1988年2月24日にフランスのパリで亡くなっている。1940年にOkehレーベルに録音した際にピーター・チャットマン(Peter Chatman)の名を使ったので、下のLPライナーノーツや複数の資料で、本名をピーター・チャットマン(Peter Chatman)としている。しかし、この名は本来彼の父の名で、ジョン・レン・チャットマン(John Len Chatman)が戸籍上の本名らしい。彼の父は、ピアノはもちろんギターも弾き、ジュークジョイントの経営もしていたという。なので、敬愛するこの父の名を録音時などで使ったらしい。
余談だが、チャットマン(Chatman)というファミリーネーム(姓)からは、どうしてもミシシッピー・シークスの主な構成員だったチャットマンファミリーを思い浮かべる。あるいは、何らかの血縁があるのだろうか。いくつかの資料を当たってみたが、その点は分からなかった。
スリムはメンフィスで生まれ育っているので、時にビールストリートにあったクラブなどで働き、そこでプレイしていたピアニスト達の演奏スタイルを見聞きして習得していったらしい。シカゴに出たのは、1939年頃のことというから、20代半ばだった事になる。シカゴでは、すぐにレコーディングの機会に恵まれ、すでに述べたようにピーター・チャットマンの名でOkehレーベルに吹き込む。その後は、ビッグ・ビル・ブルーンジーの相棒だったピアニストのジョッシュ・アルタイマー(Josh Altheimer)が1940年に亡くなったので、そのあとを受け継ぎメンフィス・スリムの名で1944年頃までブルーンジーと活動している。
名曲『Everyday I Have The Blues』を書いたのは1955年で、1962年にはパリに移住する。’62年に「American Folk Blues Festival」ツアーの1員としてヨーロッパを訪れており、ヨーロッパでもピアニストとして生きていけると感じたらしい。事実、ヨーロッパでもパリを拠点に演奏・録音を続け、1988年にパリで亡くなっている。
我が家にはスリムの写真が無かったので、ネットから拝借してきた1枚。
スリムはセッションマンとして様々な録音に参加しているので、バッキングをつとめているレコードが我が家には多い。が、主たるヴォーカルを取っているものは結構少ない。以下に、その中から主だったものを載せておこう。
ソニーレコードから出ていたCD、5679。このオムニバスCDの中に、ピーター・チャットマン&ヒズ・ウォッシュボード・バンド名義で1940年シカゴ録音の「Diggin' My Potatoes No.2」という曲が入っている。Okeh原盤で、スリムはピアノとヴォーカルで、ウォッシュボードはウォッシュボード・サム。これが、最初の録音と思われる。解説はデイビット・エヴァンスで、国内盤なので歌詞や対訳も付いている。曲名を直訳すれば「ジャガイモ掘り」となるだろうが、性的な意味が隠された隠語だろう。
これが、1962年のヨーロッパツアー「American Folk Blues Festival '62」時、ハンブルグでのライブ録音LP。ドイツのレーベルLR RECORDSの42.017。Tボーン・ウォーカーのバッキングやウィリー・ディクソンとの息の合ったデュエットが聴きどころ。
ウィリー・ディクソンの項でも紹介したBluesvilleレーベルのLP1003。ヴォーカルをとっているのは全てジャケット写真のディクソンで、スリムはバックでピアノを弾くことに徹している。ジャケットには詳しいレコーディング・データは書かれていないが、他の資料では1960年頃にシカゴで録音されたものとしている。つまりヨーロッパ移住の数年前に録音されたもの、となる。けっこう繊細さを持った演奏で、それがヨーロッパでは受け入れられていったのかもしれない。
余談だが、チャットマン(Chatman)というファミリーネーム(姓)からは、どうしてもミシシッピー・シークスの主な構成員だったチャットマンファミリーを思い浮かべる。あるいは、何らかの血縁があるのだろうか。いくつかの資料を当たってみたが、その点は分からなかった。
スリムはメンフィスで生まれ育っているので、時にビールストリートにあったクラブなどで働き、そこでプレイしていたピアニスト達の演奏スタイルを見聞きして習得していったらしい。シカゴに出たのは、1939年頃のことというから、20代半ばだった事になる。シカゴでは、すぐにレコーディングの機会に恵まれ、すでに述べたようにピーター・チャットマンの名でOkehレーベルに吹き込む。その後は、ビッグ・ビル・ブルーンジーの相棒だったピアニストのジョッシュ・アルタイマー(Josh Altheimer)が1940年に亡くなったので、そのあとを受け継ぎメンフィス・スリムの名で1944年頃までブルーンジーと活動している。
名曲『Everyday I Have The Blues』を書いたのは1955年で、1962年にはパリに移住する。’62年に「American Folk Blues Festival」ツアーの1員としてヨーロッパを訪れており、ヨーロッパでもピアニストとして生きていけると感じたらしい。事実、ヨーロッパでもパリを拠点に演奏・録音を続け、1988年にパリで亡くなっている。
我が家にはスリムの写真が無かったので、ネットから拝借してきた1枚。
スリムはセッションマンとして様々な録音に参加しているので、バッキングをつとめているレコードが我が家には多い。が、主たるヴォーカルを取っているものは結構少ない。以下に、その中から主だったものを載せておこう。
ソニーレコードから出ていたCD、5679。このオムニバスCDの中に、ピーター・チャットマン&ヒズ・ウォッシュボード・バンド名義で1940年シカゴ録音の「Diggin' My Potatoes No.2」という曲が入っている。Okeh原盤で、スリムはピアノとヴォーカルで、ウォッシュボードはウォッシュボード・サム。これが、最初の録音と思われる。解説はデイビット・エヴァンスで、国内盤なので歌詞や対訳も付いている。曲名を直訳すれば「ジャガイモ掘り」となるだろうが、性的な意味が隠された隠語だろう。
これが、1962年のヨーロッパツアー「American Folk Blues Festival '62」時、ハンブルグでのライブ録音LP。ドイツのレーベルLR RECORDSの42.017。Tボーン・ウォーカーのバッキングやウィリー・ディクソンとの息の合ったデュエットが聴きどころ。
ウィリー・ディクソンの項でも紹介したBluesvilleレーベルのLP1003。ヴォーカルをとっているのは全てジャケット写真のディクソンで、スリムはバックでピアノを弾くことに徹している。ジャケットには詳しいレコーディング・データは書かれていないが、他の資料では1960年頃にシカゴで録音されたものとしている。つまりヨーロッパ移住の数年前に録音されたもの、となる。けっこう繊細さを持った演奏で、それがヨーロッパでは受け入れられていったのかもしれない。