今ではブルースのスタンダードになっていて、多くのブルースマンが取り上げる『Five Long Years』という曲がある。1952年にR&B部門ヒットチャートで1位になったが、それを作ったのがピアノとヴォーカルのエディ・ボイド(Eddie Boyd)だった。
生まれは、1914年11月25日ミシシッピ州クラークスデイル。1936年というから、22歳の頃にメンフィスに移動。ピアノは独学で習得し、5年間ほどメンフィスのクラブなどでプレイした後、1941年にシカゴへ出た。シカゴでは、ジョニー・シャインズ、サニーボーイ・ウィリアムソン#1、さらにはマディ・ウォータースなどと共演を重ねた。1965年にアメリカン・フォークブルース・フェスシバルでヨーロッパツアーに参加。そこでの待遇が良かったためか、1960年代後半にヨーロッパに移住する。当初はパリに住んでいたが、1971年にフィンランドのヘルシンキに移り、そこで1994年7月13日に亡くなっている。
ヨーロッパではピアニストの需要があったらしく、ブルース系のピアニストでヨーロッパに移住した人は少なくない。メンフィス・スリムは、1962年にパリに移住し、その地で1988年に亡くなっている。さらに、チャンピオン・ジャック・デュプリーはヨーロッパに移住し、ドイツのハノーヴァーで1992年に亡くなっている。スリムは1915年生まれで、ボイドとほぼ同い年。デュプリーは1909年生まれなので、ボイドより5歳ほど年長だが、同世代と言えるだろう。その世代の過ごしたアメリカは、たとえ北部のシカゴでも、黒人の生活する環境は厳しいものであったことを、これらのブルースマン達のヨーロッパ移住は物語っている。
カリフォルニアのGNP CrescendoというレーベルのLPでGNPS-10020。原盤はスウェーデンのSonetというレーベルから1976年頃に出たものらしい。レコーディングデータは書かれていないが、「ヨーロッパ・スタジオ」録音と記載されているおり、別の資料には1973年の録音と記載されている。プロデューサー及びライナーノーツはサミュエル・チャータース。バンド形式の録音で、ギター、ハーモニカ、テナーサックス、ベース、ドラムス、などが加わっている。特に、ギターとハーモニカそしてバック・ヴォーカルをつとめているPeps Perssonという人が好サポートしている。
サニーボーイ・ウィリアムソン#1のCDで、DOCUMENTレーベルの5059。1947年シカゴでの録音4曲でボイドがピアノを担当している。ここでボイドは、ジャズの雰囲気を持った、なかなかにモダンなピアノを弾いている。それが、サニーボーイ・ウィリアムソン#1のストレートなブルースハープとうまく絡み合い、アコースティックなモダンブルースを作り上げている。ウィリアムソンは、この翌年1948年6月に暴漢に襲われて亡くなっている。なので、この録音くらいがアコースティックな響きを尊重した最後のシカゴブルース、とも言える。これ以降は、エッジのきいたエレキギターが前面に出てくるようになり、ハーピストもハーモニカにマイクを付けて手に持ちアンプリファイドするのが標準になってゆく。ウィリアムソンはクラブでの演奏終了後、帰宅途中に殺されたが、その日はボイドが共演しており、仲間が無残な殺され方をしたのを目の当たりにしたらしい。上のLP解説の中で、この事件の20年後にボイドがヨーロッパに移住したのは、共にプレイした仲間が不条理な死に方をしたのを目にしたのが一因ではないか、とチャータースは指摘している。
VANGUARDレーベルの2枚組CDで、1960年代に行われたニューポート・フォークフェスティヴァルからのライブ録音。ここでボイドは1曲だけだが、ベースのウィリー・ディクソンと共に『Five Long Years』を演奏している。ディクソンはその実力を存分に発揮し、息の合った演奏になっていて、わたしの好きな録音。歌詞の一部を拙訳を付けて載せておこう。
I got a job in a steel mill chucking steel like a slave(製鋼所で仕事を見つけ、奴隷のように鉄を叩き続けた)
For five long years ever Friday(5年もの間、週末に・・)
I went straight home with all my money(稼いだ金を持って、真っ直ぐ家に帰った)
I worked five long years for one woman (一人の女のために 5年も働いたんだぜ)
And she had the nerve to put me out (それでも あいつは癇癪おこして 俺を追い出しやがった)
ちなみにボイドはシカゴへ出てきた頃、音楽だけでは生活できず、実際に製鋼所で働いていたという。あるいは、この歌詞に近いことが、ボイドかあるいは彼の周辺に現実にあったのかもしれない。良い音楽は、現実の中から生まれるものだ。
生まれは、1914年11月25日ミシシッピ州クラークスデイル。1936年というから、22歳の頃にメンフィスに移動。ピアノは独学で習得し、5年間ほどメンフィスのクラブなどでプレイした後、1941年にシカゴへ出た。シカゴでは、ジョニー・シャインズ、サニーボーイ・ウィリアムソン#1、さらにはマディ・ウォータースなどと共演を重ねた。1965年にアメリカン・フォークブルース・フェスシバルでヨーロッパツアーに参加。そこでの待遇が良かったためか、1960年代後半にヨーロッパに移住する。当初はパリに住んでいたが、1971年にフィンランドのヘルシンキに移り、そこで1994年7月13日に亡くなっている。
ヨーロッパではピアニストの需要があったらしく、ブルース系のピアニストでヨーロッパに移住した人は少なくない。メンフィス・スリムは、1962年にパリに移住し、その地で1988年に亡くなっている。さらに、チャンピオン・ジャック・デュプリーはヨーロッパに移住し、ドイツのハノーヴァーで1992年に亡くなっている。スリムは1915年生まれで、ボイドとほぼ同い年。デュプリーは1909年生まれなので、ボイドより5歳ほど年長だが、同世代と言えるだろう。その世代の過ごしたアメリカは、たとえ北部のシカゴでも、黒人の生活する環境は厳しいものであったことを、これらのブルースマン達のヨーロッパ移住は物語っている。
カリフォルニアのGNP CrescendoというレーベルのLPでGNPS-10020。原盤はスウェーデンのSonetというレーベルから1976年頃に出たものらしい。レコーディングデータは書かれていないが、「ヨーロッパ・スタジオ」録音と記載されているおり、別の資料には1973年の録音と記載されている。プロデューサー及びライナーノーツはサミュエル・チャータース。バンド形式の録音で、ギター、ハーモニカ、テナーサックス、ベース、ドラムス、などが加わっている。特に、ギターとハーモニカそしてバック・ヴォーカルをつとめているPeps Perssonという人が好サポートしている。
サニーボーイ・ウィリアムソン#1のCDで、DOCUMENTレーベルの5059。1947年シカゴでの録音4曲でボイドがピアノを担当している。ここでボイドは、ジャズの雰囲気を持った、なかなかにモダンなピアノを弾いている。それが、サニーボーイ・ウィリアムソン#1のストレートなブルースハープとうまく絡み合い、アコースティックなモダンブルースを作り上げている。ウィリアムソンは、この翌年1948年6月に暴漢に襲われて亡くなっている。なので、この録音くらいがアコースティックな響きを尊重した最後のシカゴブルース、とも言える。これ以降は、エッジのきいたエレキギターが前面に出てくるようになり、ハーピストもハーモニカにマイクを付けて手に持ちアンプリファイドするのが標準になってゆく。ウィリアムソンはクラブでの演奏終了後、帰宅途中に殺されたが、その日はボイドが共演しており、仲間が無残な殺され方をしたのを目の当たりにしたらしい。上のLP解説の中で、この事件の20年後にボイドがヨーロッパに移住したのは、共にプレイした仲間が不条理な死に方をしたのを目にしたのが一因ではないか、とチャータースは指摘している。
VANGUARDレーベルの2枚組CDで、1960年代に行われたニューポート・フォークフェスティヴァルからのライブ録音。ここでボイドは1曲だけだが、ベースのウィリー・ディクソンと共に『Five Long Years』を演奏している。ディクソンはその実力を存分に発揮し、息の合った演奏になっていて、わたしの好きな録音。歌詞の一部を拙訳を付けて載せておこう。
I got a job in a steel mill chucking steel like a slave(製鋼所で仕事を見つけ、奴隷のように鉄を叩き続けた)
For five long years ever Friday(5年もの間、週末に・・)
I went straight home with all my money(稼いだ金を持って、真っ直ぐ家に帰った)
I worked five long years for one woman (一人の女のために 5年も働いたんだぜ)
And she had the nerve to put me out (それでも あいつは癇癪おこして 俺を追い出しやがった)
ちなみにボイドはシカゴへ出てきた頃、音楽だけでは生活できず、実際に製鋼所で働いていたという。あるいは、この歌詞に近いことが、ボイドかあるいは彼の周辺に現実にあったのかもしれない。良い音楽は、現実の中から生まれるものだ。