聖書解読の難問の一つに「イエスの名の力の実体は何か」があります。
この問題にも量子物理学を援用すると、踏み込むことができます。
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まず、とにかく聖句を見ましょう。
詳細に考えるために、長いけど、そのまま引用します~。
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「ペテロとヨハネは午後3時の祈りの時間に宮に上っていった。
すると、生まれつき足のきかない男が運ばれてきた。
この男は、宮に入る人たちからの施しを求めるために毎日、
『美しの門』という名の宮の門に、置いてもらっていた。
彼はペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネと共にその男を見つめて『私たちを見なさい』といった。
男は何かもらえると思って、二人に目を注いだ。
すると、ペテロは『金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。
ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。』といって、彼の右手を
とって立たせた。すると、たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって
まっすぐに立ち、歩き出した。
そして歩いたり、はねたりしながら、創造神を賛美しつつ、二人と一緒に、
宮に入っていった」
(使徒行伝、3章1-8節)
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~この聖句を読んで、
「イエスを信じる者には“イエスの名” でこのペテロのような力が現れるはず」
~と考えるクリスチャンは少なくありません。
日本だけでなく、世界にもそう漠然と考えている人が、筆者の知る限りでは多いです。
でも、やってみると現れない。
そこで「自分は信仰が足りないのかなぁ」と自信なく思ったりします。
「信仰が足りない!」といって、信徒を叱る牧師さんもいます。
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「イエスの名の力」は単純な問題ではありません。
まず、次のように考えられるでしょう。
<「なが血」の女とイエスの着物>
前述した「なが血」の女の記録を思い出しましょう。
彼女は、イエスの着ていた着物に触れて即座に癒やされました。
イエスの着物には、父なる創造神からの「いのち波動」が帯電していたから、と筆者は説明しました。
そしてそのいのち波動彼女に流れ込むことによって、「なが血」はたちどころに癒やされたのだ、と解読しました。
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<名も波動体>
名は信号ですが、これも着物と同じように波動を発信する波動体です。
そこで「なが血の女」が触れた着物と同じように、「御子が着ていたイエスの名」にも「いのち波動(エネルギー)」は帯電していた、と考えられます。
そしてその「いのち波動」が、ペテロの手を通して足萎えの男の右手に流れ、男の足は完全化された。
~そう解せられるのです。
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ただし、「名」については、「着物」よりも解読がややこしいところがあります。
着物は、物(もの)でして、一般の人々が着ている着物と、イエスが来ているものとの識別は容易です。
だが、名は信号ですから、そのあたりの明確な区分は、必ずしも容易ではないです。
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名というのは、元来、複数の人間にも付せられているものです。
イエスという名もそうであって、それは、イスラエルの多くの若者にも、付けられていました。
この状況では、イエスという名は「一般的なイエスの名」です。
そういう一般的なイエスの名に「いのち波動」が帯電することは、ないでしょう。
もしあるなら、世界中のイエスさんはみな超能力者になってしまいます。
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<御子だけに着せられた名>
「いのちエネルギー」が帯電するのは、「御子だけに着せられた固有の名に」でしょう。
それが故にペテロも「ナザレのイエス・キリストの名によって」と限定的に言ったのでしょう。
「ナザレのイエス・キリスト」という名には強烈な「いのち波動」が帯電していたのです。
そしてそれがこの足萎えの男に流入した、のです。
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このあたりは詳細であることが必要ですので、聖書に出てくる「ナザレのイエス」という語についても考えておきましょう。
この語句を見て、これが御子イエスを特定しているような印象を持つクリスチャンが多いです。
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だが、そうではない。
ナザレにも、複数のイエスがいたはずです。
「ナザレのイエス」では、そういうイエス「たち」を指すことになります。
これでは、父なる創造主のひとり子に着せられた名に限定されていません。
それもあって、ペテロは(上記聖句で)「ナザレのイエス・キリスト」と長く言っているのではないでしょうか。
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<キリストは「救い主」>
ちなみにキリストは「救い主」という一般的な名称です。
これを「イエス」に付して、「イエス・キリスト」というと、その意味は大きく限定されます。
とはいえエルサレムには、「俺はキリスト」と自称するものもいたでしょう。
それを信じた人も多少ともいたのではないでしょうか。
だが、ガリラヤ湖沿岸の小さな田舎の村、ナザレにはそれはいなかった。
だから、「ナザレのイエス・キリスト」は、ひとり子の御子に着せられた限定的な名になっていた、と思われます。
(続きます)