鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

=天理教と聖書の奥義=20  ~地上だけでの一時的な身体?~

2023年05月22日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

復活したイエスの復活体が、波動体であって、
さらに、以後天国におけるイエスの身体も波動体である、とすると
量子論的には筋が通る。
 
  ~前回、そんな考えを述べました。
 
 
@@@
 
今回、そのアイデアをもう一歩推し進めてみます。
 
するとイエスの「本来の身体は波動体」ではないか、とのアイデアも出てきます。
 
つまり、本来、波動体であったイエスは、この地上世界にいる間だけ、
物的肉体として存在していたのではないか、と。
 
正確には、生まれて十字架刑死して墓に葬られるまでの間だけ、イエスの身体は
物的肉体だったのではないか、と。
 
~そういう解読も浮上してきました。
 
 
 
@@@
 
 
<人類の罪を代償するには>
 
それには、次のような理由も加勢してくれます~。
 
物的肉体でないと「死ぬ」ことはできない、というのがそれです。
 
 
+++
 
イエスがこの地上世界においてなすべきとして、父なる親神から与えられた最大の仕事は、「死ぬこと」でした。
 
彼は十字架刑死することによって、アダム以来の人間の原罪を代償しました。
 
その「死」は、物理的力を加えられることによって「壊れる」ことによってもたらされます。
 
壊れて、循環運動をしなくなったことによって、もたらされます。
 
そういう事象は、物的肉体でないと起きないのです。
 
 
+++
 
 
<復活するためにも>
 
福音の神髄である「復活」もそれに直結しています。
 
人間に復活の姿を見せるには、イエスは「死」ななければなりませんでした。
 
イエスはそのためにも、物的肉体を持った人となったとも考えられるのです。
 
 
+++
 
 
<マリアの胎に宿ったのも>
 
そうすると、イエスのこの地上世界に現れる際、生母マリアの胎の中に宿った理由も特別な意味を持ってきます。
 
聖書はイエスが処女マリアから生まれたと記録していますよね。
 
だが、そもそもどうしてそんなドラマチックというか、奇抜な方法で生まれねばならなかったのでしょうね。
 
父なる親神様は、ドラマチック好みだった、というのは理由にならないでしょう。
 
後に人類がクリスマスのお祝いが出来るため、なんてのは、もっと理由になりません。
 
 
+++
 
だが、人間であるマリアの胎に宿り、そこで育って誕生することによって、
イエスは物的肉体を持った存在として、地上での生涯を送ることができるのです。
 
それによって、「死ぬ」ことが出来る。
 
波動体では「死ぬ」ことはできません。
 
 
+++
 
そして、復活以降のイエスは、本来の波動体としての身体にもどったのだ、と。
 
マリアからこの地上に生まれて、死んで墓に葬られるまでの間の、イエスの身体は一時的な身体だった、と。
 
この考えは、筆者にかなりなリアリティを与えてくれます。
 
 
(続きます)
 
 
 
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=天理教と聖書の奥義=19   ~量子物理学恐るべし~

2023年05月21日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

 量子論という最新の物理学理論は、イエスの復活体を物理的にイメージするに
決定的な役割を果たしてくれます。
 
 従来の古典物理学理論では、イエスの復活体は粒子の結合体としかイメージできませんでした。
 それではイエスの復活体は、物的肉体としかなりません。
 
そういう身体なら、弟子たちが閉じこもっていた部屋に(壁を通過して)入ってくることは、
不可能なはずです。
 
けれども古典物理学では、それ以外のイメージは描けないのです。
 
 
+++
 
<韓国でも>
 
韓国は、聖句解読が進んでいる国ですが、この点に関しては、限界(壁)を破れていません。
 
しかたなく、「生前の肉体でありながら、壁も透過できる、そういう不思議な身体に復活された」
などとやっている状況です。
 
 
@@@
 
「存在の根源は波動であり、粒子はそれが凝集した状態」という存在論。
 
~この思想があって、はじめて、イエスの復活体が壁を透過して弟子たちの部屋に現れた、という
状況に、物理的説明が成り立ちます。
 
波動は物質の壁を通過しますから。
 
 
@@@
 
<昇天できるのも>
 
それだけではありません。
復活したイエスは、500人が見守る中で、天に昇っていきました。
 
これは「口だけのこと」ではありません。
人々が実際に、自らの五感をとおして視覚した事実です。
 
+++
 
復活体が物質の肉体のままだったら、重くて、天に昇ることなどできないでしょう。
 
このあたりも、復活体が、根底的に波動体であること、
 
人々の目に見えたのは、物質化する直前の波動体であること、
 
そういうイメージによってはじめて物理的に理解できるのです。
 
 
+++
 
<父なる神の右に座すのも>
 
さらにいえば、昇天後のイエスは天国で父なる神の右に座していた、と聖句にあります。
 
最初の殉教者・ステパノが石打ちで殺されるとき、彼の目にそれが見せられています。
 
物質は天国には存在できませんから、物質の肉体ではそれはありえません。
 
 
+++
 
<将来の空中再臨も>
 
 くどいようですが、もうひとつ言うと、将来のイエスの空中再臨もそうです。
 
 物質の身体なら、空中に現れることなどできないでしょう。
 
 
@@@
 
 
<パウロ神学の限界>
 
それらの問題を、量子論は一気に解決してくれました。
 
これがなかったので、かのパウロ神学のパウロも、
 
「復活がなければ、あらゆる福音は空しい」とくりかえすしかありませんでした。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「もしキリストがよみがえらなかったのなら、
あなたがたの信仰(信頼)はむなしく、
・・・・(中略)・・・
私たちは、すべての人の中で一番哀れなものです」
 
   (コリント人への第一の手紙、15章17-19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~といったようにね。
 
+++
 
パウロは回心した後、福音に通じていきました。
 
そして、福音にはイエスの復活が神髄になっている、との全体観も得ていました。
 
だが、イエスの復活体を物的肉体としてイメージするしかなかった。
 
そのために、聖句をあちこちからもってきて、
ただ、「キリストの復活がなければ、すべてが空しい」
と繰り返すしかなかったのです。
 
旧約聖書に精通していて、かつ、論理マシンとも言える論理力をもったあのパウロにしてそうでした。
 
 
量子物理学の認識効用は決定的なのです。
 
 
(続きます)
 
 
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=天理教と聖書の奥義=18   ~物質化直前の波動体~

2023年05月20日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

こんな疑問を考えてみましょう~。
 
イエスの復活体は、十字架死して葬られる前の身体とは違っていたのではないか。
だから、弟子たちも即座にイエスだと認知できなかったのではないか?
 
では、それは具体的にどういう身体だったのか。
 
これも物質に投影して物理的に比喩認識したいです。
 
それには、量子物理学(量子論)の知識が役立ってくれました。
 
量子物理学の知識にはまだモヤモヤしたところがたくさんあります。
 
けれども、その中から筆者の目的に役立つところを簡明に援用し、考えてみます。
 
 
@@@
 
 
<粒子論から波動論へ>
 
量子論以前の物理学では、物質の根源はツブツブの物体、すなわち粒子と考えられていました。
 
具体的には原子(アトム)です。
それは、陽子や中性子や電子でなっているのですが、それらもまた粒子でした。
 
ニュートン物理学のニュートンも、アインシュタイン物理学のアインシュタインもそう考えてきました。
 
 
+++
 
<二重存在>
 
ところが、後に量子物理学者と呼ばれるようになる人々は、それは波動と粒子とで成っている二重存在であると認識しました。
 
それを証明した実験「二重スリット実験」は有名ですが、とにかくそういう「重なった存在」だと発見した。
 
そしてそれに量子(クオンタム:quantum)という名を付けました。
 
 
+++
 
<波動が根源>
 
 
そして、その後、根源は波動の方にあり、これが凝集した部分が粒子であった、と認識しました。
 
波動というのは、より根底的に言うと「振動:バイブレーション)」です。
けれども振動は外に向かって拡散し、波となって広がっていきますから、波動でもあります。
 
そして波動の方がイメージしやすいので、通常波動と言われています。
 
この波動が凝集するとその部分は、(つぶつぶの塊)と感じられ、粒子と認識される~というわけです。
 
 
 
 
@@@
 
すなわち、根源は波動(振動:バイブレーション)の方であって、その波動の海の中に、振動が凝集する領域もある~と。
 
それが(つぶつぶの塊)と感じられ、粒子と認識されてきただろう~と。
 
量子という物質はそういう風景でイメージされました。
 
筆者は、このアイデア部分をちゃっかりいただくことにしました。
 
 
 
+++
 
<素人には「凝集体」の方が>
 
 ちなみに量子論学者はその凝集体に「波束(はそく:波動の束)」という名をつけています。
 
 だがこの思想は、筆者のような素人にはそのまま「凝集体」としておいた方がイメージしやすいです。
 
 我々聖句吟味解読者は、直感的、感覚的に「イメージ」出来ればいいですから、主に凝集体と呼ぶようにしましょう。
 
 
@@@
 
 
<聖書の「霊」も物理的にイメージできる>
 
 
この思想は、聖書に出てくる「霊」という存在を物理的に投影してイメージするのにも助けになります。
 
それをたとえば極小の凝集体が組み合わさってできた存在とイメージするのです。
 
もちろん、量子ですから粒子は、波動の中に漂うようにして波動と共存しています。
 
+++
 
そこでもうひとつ、その粒子体は人の意識活動をも形成する、とイメージするのです。
 
 
 
@@@
 
 
<サイ科学会>
 
 
実は、それに似た思考は、以前にもなされてきております。
 
 
かつて人間の心理を科学的に研究する国際的な学会がありました。 
 
 「サイ科学会」という名称で、「サイ」は、サイコロジー(心理)のサイです。 
 
 集っている研究者は、人間の意識(心理)は、物質の素粒子の10億分の一にもあたる、極小のつぶつぶの粒子からなっていると仮説認識していました。 
 
  そしてその粒子を「サイ粒子」と呼んでいた。 
 
  その上で、その意識(心理)を科学的に研究する学会を立ち上げていました。 
 
+++
 
 その意識体は聖書で言う「霊」にあたります。
だから、聖書的には、「霊心理を研究する学会」ということもできます。
 
がとにかく、その学会では、人の心理の実体は、超微細なサイ粒子のネットワーク体と仮設認識していたわけです。 
 
 
@@@
 
 
<「霊なら肉や骨は構成しない」とイエス>
 
 
 聖書の「霊」も量子論を用いてこのように、似たようにイメージすることが出来ます。
 
 すなわち、霊は波動が凝集してできた超微細な粒子の結合体とみるわけです。
 
 
 すると、聖書における、復活して現れたイエスの次の言葉もイメージ理解できてきます。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・
 「イエスご自身が彼ら(弟子たち)の真ん中にたたれた。 
 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。 
 
 するとイエスは言われた。 
『・・・(中略)・・・わたしの手や足を見なさい。 
 ・・・・(中略)・・・・・霊ならこんな肉や骨はありません。』 
 
            (ルカの福音書、24章36-40節) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・
 
 
イエスはもちろん、霊は実在し意識を形成するという認識です。
 
だがそれが超微粒子で成っている、とすれば、
骨や肉は構成しないと想像することは出来るでしょう。
 
 
 
@@@
 
 
<図式的に考えてみると>
 
では、イエスが復活前にもっていた肉体はどうイメージできるか?
 
これは、霊よりも粒子がどんどん大きくなったものとしてイメージしたらいいでしょう。
 
図式的に考えましょう。
 
たとえば、霊粒子を左の端とする線分を右に描いていきます。
 
右に進むどの時点でも、波動は凝集化しうるとします。
そして右に進むにつれて、凝集する粒子は大きくなっていく、とイメージしましょう。
 
+++
 
<右端は物質の粒子>
 
そして右の端では、粒子は固定的なものとなる、とイメージします。
固定化した粒子、すなわち物質の粒子です。
 
すると復活前のイエスの身体は、その大きくなって固形化した物質粒子で構成されていたとイメージできます。
 
 
@@@
 
<固形化直前の波動(粒子)体>
 
 
さあ、これでイエスの復活体の量子論的イメージを形成できます。
 
それは、波動が「固形化して物質化する直前」の、波動凝集体が組み合わさってできた波動体だとイメージするのです。
 
直前ですから、それは、物質の身体の様態も持っています。
 
だが、物質には至っていないので、波動体の特性も持っています。
 
イエスの復活の身体は、そういう波動体だったとイメージできるのです。
 
 
+++
 
それは固形化(物質化)直前ですから、物質の身体の様態をももっています。
 
だが、それはまた波動体でもありますから、物質の身体のようなメリハリはありません。
 
波動であるが故の「ゆらぎ」ももっていたかもしれません。
 
ともかく、そのようにして、マグダラのマリアや弟子たちが、復活のイエスをイエスだとしばらくの間認知できなかった理由(状態)も、物理的にイメージできるのです。
 
 
(続きます)
 
 
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=天理教と聖書の奥義=17   ~「いのちエネルギー」の認知効果~

2023年05月18日 | 天理教と聖書の奥義

 

 イエスの復活とそれによる人間の永続保障は、福音の核の核、神髄の神髄です。
 
  これがなければ、人間という存在も、空しいです。
  空虚です。
 
  永続がなかったら、人間も詰まるところは、あってもなくてもどうでもいいものとなります。
 
 
 
@@@
 
 ところが、このイエスの復活は、聖句で十分吟味されてきていません。
 その認識は、漠然としたままです。
 
+++
 
聖書を見ましょう。
 
 復活のイエスに最初に会ったのは、生母マリアを別とすれば、イエスをおそらく最も愛した女性、マグダラのマリアです。
 
 だがその彼女も、最初、自分に語りかけ、対面している人がイエスだと認知できなかった。
 
 「ヨハネの福音書」それを刻銘に記述しています。
そのまま引用しましょう。
 
 
+++ 
 
<マリアは墓前に立って泣き続けていた>
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、マリアは墓前に留まり、泣いていた。
泣きながら身体をかがめて墓の中をのぞき込んだ。
すると、二人のみ使い(天使)が、イエスの身体が置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、
一人は足のところに、白い衣をまとって座っているのが見えた。
 
み使いは彼女にいった。
「なぜ泣いているのですか」
彼女はいった。「だれか私の主をとって行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
彼女はこう言ってから、後ろを振り向いた。
 
するとイエスが立っておられるのを見た。
しかし、イエスであることがわからなかった。
 
イエスは彼女に言われた。
「なぜ泣いているのですか。だれを探しているのですか」
 
彼女は、それを墓の管理人だと思って言った。
「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのかいってください。
そうすれば私が引き取ります」
イエスは彼女に言われた。「マリア」
彼女は振り向いて「ラボニ(先生)!」と言った。
 
     (「ヨハネの福音書」20章11-16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
 
~復活のイエスに対面しても、それがイエスだとマリアはわからなかったのです。
 
なぜか?
 イエスの復活体は、以前の物理的な肉体とは違っていたから、としか考えられません。
 
だが筆者の知る限りでは、このことを意識的に自覚した聖書解読者はいません。
 
 ヨハネ伝では「ロゴスは人となって我々の間に住まわれた」とイエスを言っています。
 
 この「ロゴスが人となった」イエスの身体は、見た目では他の人間と同じ肉体でした。
 
 だがヨハネは「槍で刺されたその身体からは、血と水が出た」
   と目撃証言しています。
 
   人間の身体からは、刺されたら血だけが出ますから、  
   正確には、人間の身体と違うのです。
 
 +++
 
   けれども死んで墓に葬られるまでのイエスの身体は、人々には自分たちと同じ身体だと、即座に五感認知できるものでした。
 
   だが、復活したイエスの身体は、そうではなかったのです。
 
  だから、マグダラのマリアも、弟子たちも、当初、イエスだと認知できなかったのです。
 
 
  では、復活体としてのイエスの身体は、どうであったか?
 
  これを物理学的。比喩的に示されないと、我々人間は、イエスの「復活」をリアルに悟ることはできません。
 
 
 
  @@@
 
   この決定的な問題を、どう解決するか?
  
  その考察をする前に、筆者は、それ以前の体験についてまず語りたいと思います。
 
  話があちこちに飛びますが、これは論文ではなく、むしろ、クラシック音楽の「協奏曲」のように
    風景認識して下さい。
 
   例えばベートーヴェンのピアノ協奏曲の第五番「皇帝」を聞いてみましょう。
そこには、同じテーマ旋律が姿を変えて何度も現れてきます。
 
    (他の協奏曲も同じですが、筆者はこれが好きですので・・・)
 
 そういうようなものだと、筆者の話を理解して下さい。
 
 具体的な体験話に入ります。
 
 
@@@
 
 話はもっと前に飛んで、筆者の以前の聖書認識に戻ります。
 
 まだ、量子論を勉強していなかった筆者には、聖書理解におおきな障害物がありました。
 
 それは「いのち」ということばです。
 
 これが定義抜き、説明抜きでボンボン出てきます。
 
 神学者や牧師先生は、それを説明抜きで語っています。
 
 信徒は「そういうものだろうな」と思って聞いていますが、その実、誰もわかりません。
 
「いのち」は聖書論理のなかのキーワード中のキーワードです。
 
これをまったく理解しないでよくやってるな、という思いを鹿嶋は抱いてきました。
 
 
 +++
 
  こういう「みえないもの」を人間が理解する方策は、それを目に見えるもの、物理学的なものに
  投影する、ということにしかありません。
 
  これをたとえ、比喩といいます。
  実は、イエスだって、この比喩投影をどんどん使って、宣教しています。
 
 
+++
 
  筆者鹿嶋は、長い間、「いのち」という言葉の比喩イメージを求めました。
 
  あるとき、「なんか、エネルギーのような概念だなぁ」という感じを受けました。
 
  そこで、思い切って「いのちエネルギー」という比喩的な用語を造りました。
 
+++
 
  「えいやっ」とやってみた。
 
  そうすると、聖書の中の「いのち」という言葉が、とてもわかった気持ちになってきました。
 
  そしてこの比喩は、ほぼ、聖書解読に大きな悪影響を及ぼすことなく
  聖書を理解させてくれました。
 
  そこでその言葉を拙著『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書)で
  使いました。
 
   そうしたら、「いのちエネルギー」をつかうと礼拝メッセージがしやすくなって、助かっている
という牧師さんが一人ならずおられる、といううわさも耳にしました。
 
 そんな体験を持っていましたので、イエスの復活体についても比喩投影できる物理概念がないか、と考え始めました。
 
 
(続きます)

 

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=天理教と聖書の奥義=16    ~解釈自由と福音の神髄~

2023年05月16日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

 サザンの(聖句主義)教会では、「個人の聖句解読の区自由」を大原則として活動します。
 
これを聞くと、外部者のほとんどは「そんなことしたら教会は(解釈の争いが起きて)分裂してしまう」といいます。
 
だが、実際には、教会は分裂しないです。
 
メンバーが吟味する聖書には、教えの神髄が内包されています。
 
それは、いってみれば福音(よき知らせ)の神髄です。
 
それについては、メンバーの解読・見解は一致します。
 
どうしても共有できない場合は、他のグループを探して参加すればいいのです。
 
+++
 
 
 
 
 
@@@
 
 
福音の神髄中の神髄は「天の創造主王国での永生」と、その資格を得る方法を教えています。
 
イエスは様々なことを教えましたが、その核心はまず「天国」(天の創造主王国)が存在する、ということでした。
 
マタイの福音書には、特に、その教えが繰り返し述べられています。
 
天国はどういう所かを、イエスは、まずは「消滅するものはなく、すべてが永続する世界」だと教えました。
 
(それ以外の天国の有様は、新約聖書の最後の書物『黙示録』に記されています。)
 
そして、それを「永遠のいのち」を与える、という約束で示しています。
 
永遠のいのちとは、永続するいのちエネルギーです。
 
それが与えられるというのは、将来、永遠の世界である天国にて永生する資格が与えられる
ということでもあるのです。
 
@@@
 
 
その資格がいかに福音(よき知らせ)の神髄であるかは、
今、人間が生きている世界の性質を考えるとわかってきます。
 
 
+++
 
 
いま我々が生きている地上の世界は物資でできている物質世界です。
そこではすべてが死んで消滅します。
 
人間は五感がすぐれて明確につくられているので、物資世界が全世界だと思って生きています。
 
(お釈迦様はその世界観で物質世界に平安を持って生きる方法を探求しました。
その考察が知識体系となり、弟子たちはそれを人々に伝えました。釈迦は紀元前6世紀の人です)
 
 
だが、人間には「永遠」という思いも与えられています。
 
それによって人は永遠への希望を抱きますが、同時に死への恐れも抱きます。
 
+++
 
<死の奴隷>
 
イエスは、自らの宣教の中で、それを「死の(恐怖の)奴隷」と言いました。
 
それを聞いたユダヤ人たち(特にサドカイ派と呼ばれていた高所得層の人々)は「私たちは自由人で奴隷ではないよ」といいました。
 
対してイエスは、「いや諸君はみな罪の奴隷なんだよ」といった。
 
+++
 
どういうことかというと、罪というのは霊の死をもたらします。
 
「罪の報酬は死」という聖句はそれをいっています。
 
霊の死は肉体の死につながっています。
 
死は怖いです。
 
だから、「罪の奴隷」とは「死の恐怖の奴隷」と同じ意味なのです。
 
@@@
 
これは人間存在の根底を明かす指摘です。
 
だが、イエスはただ、指摘するだけで終えませんでした。
 
この宿命的にもみえた恐怖を、根底から取り除いてくれたのです。
 
+++
 
どうやって?
 
まず、前述のように、イエスはまず永続する世界(天国)の存在を教えました。
 
(旧約聖書には「天国」の語は一度もでてこない)
 
 
「悔い改めよ、天国は近づいた」という聖句はそれを言っています。
 
+++
 
次いでイエスは、人がそこにおいて永続できる道を開き、人間に教えました。
 
イエスはその方法を、十字架死させられる前から、語っていました。
 
有名な「最後の晩餐」は殺される前に弟子たちととった最後の夕食を意味しています。
 
その時、イエスはこう口に出しています~
 
「私は殺されるが、復活して天国に永住する。 そして、私の言葉を心に抱く諸君も、
そのようにします」
~と。
 
だが、弟子たちはこの時点ではその言葉に信頼を置くことが、今ひとつ出来ませんでした。
 
 
@@@
 
けれどもイエスは、実際に十字架刑で殺され、死後墓に葬られ、三日後によみがえって弟子たちの前に現れました。
 
これによって、状況は一変しました。
 
実際には弟子たちは、しばらくの間は、それが復活したイエスだと認識しきれませんでした。
だがイエスは入念に繰り返して、それが自分であることを示しました。
 
そして、ついにそれが復活したイエスだと確信できたとき、弟子たちは別人になりました。
 
あたかも、「従来の自分は自分でなかった(どうでもいいものだった)」かのような感覚になった。
 
+++
 
五感での認識は、人間に確信を与えます。
 
彼らは、死後、自分の霊が天国で永住できることに「確信」を持ちました。
 
+++
 
突然、彼らのうちにあった死の恐怖はなくなりました。
 
彼らは大胆に語り出しました。
 
「イエスは復活された! われわれはその目撃証人だ!」
 
その彼らの言葉に、奇跡が伴いました。
 
こうしてその言葉を受け入れ、確信する人々が爆発的に増大しました。
 
こうしていわゆる「初代教会」がはじまるのですが、
これには、イエスの復活を五感で認識したことが、決定的なターニングポイント
となっています。
 
@@@
 
<福音書の成立>
 
これによって、弟子たちは地上で生きる限り宿命的な「死の(恐怖の)奴隷」状態から解放されたのです。
 
復活を目撃した人々は500人にのぼりました。
 
その中から、そこのことを後世の人々に書き残そうという活動が起きました。
 
これうしていわゆる「福音書」が作成されます。
 
新約聖書の冒頭には、これが四本収録されています。
 
後世の人々(我々も含めて)この書物によって、イエスの復活の目撃を「追体験」できます。
 
福音書によって、我々は「死の(恐怖の)奴隷状態」から解放されるのです。
 
+++
 
復活によって永生の確信をあたえたこと。
 
これが福音の核心であり、神髄です。
 
これについては、聖句主義メンバーはみな、解釈を共有します。
 
+++
 
聖書における他の話は、これに付随するおまけのようなものです。
 
イエスは数多くの「癒し」をおこないましたが、癒やされた人間もいずれ死にます。
 
聖書に記録されただけでも、三人の死んだ人間を生き返らせもしています。
 
だが、その人間も百年もすれば死ぬのです。
 
これらは、「死の(恐怖の)奴隷状態」を取り去ってくれるものではないのです。
 
イエスが復活して、自らの姿を五感で認識させた、というのは、福音(よき知らせ)を活きたものにする神髄なのです。
 
 
(続きます)
 
 
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