鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

=天理教と聖書の奥義=10    ~使徒ヨハネと天理教教祖への啓示~

2023年05月04日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

イエスの弟子(使徒)たちの中で、ヨハネは特別な人でした。
彼は、『ヨハネの福音書』を書いていますが、学者的・神学的思考をする人でした。
 
その福音書には、イエスの言動の記録するだけではなく、彼自身の神学理論も書いています。
 
 
ヨハネの福音書のなかの聖句~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
「創造神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」
 
  (ヨハネの福音書、3章16節)
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~は、有名ですが、これはイエスの言葉ではなく、彼自身の神学理論を記したものです。
 
 
@@@
 
彼はイエスの言動を観察・記録するだけでなく、イエスという存在を存在論的・神学的に理解することを
切望していました。
 
たとえば、十字架上で息を引き取ったイエスの脇腹を、兵士が槍で刺す場面があります。
 
そのときイエスの身体から「血と水」が出ました。
 
彼はそれを自分は間違いなく見たのだ、と念を押すように書いています~。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・兵士のひとりがイエスの脇腹を槍で突き刺した。
すると、ただちに血と水が出て来た。
それを目撃したものがあかしをしているのである。
そのあかしは真実である。
その人が、あなた方にも信じさせるために、
真実を話すということをよく知っているのである。」
 
     (ヨハネの福音書、19章34-35節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~ここでヨハネが「それを目撃したもの」というのは、自分のことです。
その「あかし」というのも、自分の証言です。
 
ヨハネは、自分でそう言っておいてさらに「そのあかしは真実である」と自分でダメ押ししています。
 
のみならず、「その人(実は自分のこと)が真実を話すということをよく知っている」
と、また自分で言っています。
 
 
+++
 
どうしてそれまでにしていうか。
 
この出来事が幻でなく、現実に起きた出来事である、ということを確かなものにしようとしたのです。
 
そのうえで「血と水がでたのはなぜか」を知ることを切望したからです。
(人間の身体なら、血だけが出ます)
 
 
@@@
 
彼は、イエスとは、「イエスの身体とは何なのか」を、存在論的に知りたかった。
 
それを何年も考え続け、霊感を受けて、ついに答えをえました。
 
結論を、福音書を書く時点になって自らの福音書の冒頭に書きました。
 
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     「はじめにロゴス(創造神の理法)があった。
 
     ロゴスは創造神とともにあった。
     ロゴスは創造神であった。
 
     すべてのものは、この方によってつくられた。
      このかたによらずにできたものは一つもない」
 
       (ヨハネの福音書、1章1-3節)
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
ヨハネは、イエスは「創造神の理法(ロゴス)の具現体」だと認識するに至ったのです。
 
 
そして、それは結果的に、今日聖書を読むものにとってのイエスの存在論になっています。
 
われわれ福音書を読むものは、これをベースにして、イエスという「存在」を認識して解読しているのです。
 
(そこまで考えないで福音書や『黙示録』を読んでいるものも少なくはありませんが)
 
 
 
@@@
 
 
以上を心に留めて、天理教の教義を、今少し詳細に見てみましょう。
 
実は、天理教の教祖、中山みきは、信徒に親神を説明する前に、まず
 
「南無(なむ)天理王の命(みこと)」という言葉だけを唱えさせています。
 
 
 
+++
 
 
その意味は以下のごとしです~。
 
 
「南無」は「南無阿弥陀仏」の「南無」で「頼ります」という意味です。
 
「天理」とは(天の理法が具現した存在)です。
 
 そして、その方は創造主(親神)であって、創造者はすべての被造物の上位の存在であるから、
  一口に言えば、「王」です。
 
「命(みこと)」は、尊い方につける尊称で、「・・・様」と解していいでしょう。
 
 
つまり、
「南無天理王の命」は、「天理王様に頼ります」です。
 
教祖は最初に、「天の理法の具現体である、天理王様に頼ります」という言葉だけをまず信徒に、繰り返し唱和させよという啓示を得ているのです。
 
 
@@@
 
これを、ヨハネのイエス認識とならべ比べてみましょう。
 
ヨハネは、イエスを「創造神のロゴス(天の理法)の具現体」といっています。
中山みきは、(親神を)「天の理法(天理)の具現体」だといっています。
 
両者はほとんど同質的な認識です。
 
 
@@@
 
 
驚くべきことです。
 
一体、ヨハネより1800年も後の幕末の日本で、中山みきにこの認識を与えたのは、誰なでしょうか。
 
創造神なのか。 イエスなのか。 あるいは天使なのか。
 
そもそも、天理教とは一体何なのでしょうか?
 
聖書の福音とならべて、どう解したらいいでしょうか。
 
筆者鹿嶋が得た当面の考えを、心に浮かぶままに次回から記してみようと思います。
 
 
(続きます)
 
 
 
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=天理教と聖書の奥義=9    ~聖書と同質以上の神概念が!~

2023年05月02日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

ところが、天理教の教典には聖書にある神概念と同じものが記されていました。
 
いや、それだけではない。 聖書解釈で用いられる神概念と同質以上のものをも
含んでいたのです。
 
 
@@@
 
詳しく眺めてみましょう。
 
このシリーズの 3 にも書きましたが~
 
 
+++
 
1.この世界のすべては、創造神によってつくられている。
 
2.特に、人間は自分の子としてつくられている。
 
3.創造神は人間にとっては「親」であり、親神様である。
 
4.親神は、人間の親が子を慈しむように、すべての人を慈しんでおられる。
 
5.そのことを悟ると、人の心は不思議に「勇んで」くる(活性化する)。
 
6.すると、通常は「陰」であった気持ちが、「陽」に変わる。
  何をしていても、どんな境遇になっても「陽気」になる。
 
~と、天理教の神概念はまとめられる、と鹿嶋は述べました。
 
 
+++
 
ここには、創造神は人間の親でもある、という教えが明示されています。
 
たとえば~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2.特に、人間は創造主の子としてつくられている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~はそうです。
 
 
@@@
 
 
では、聖書ではどうか?
 
聖句を見ましょう。イエスの言葉です~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
「・・・鳥のことを考えてみなさい。・・・(中略)・・・あなたがたは鳥よりもはるかにすぐれたものです。
・・・(中略)・・・ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。
・・・(中略)・・・しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
・・・(中略)・・・あなたがたの父である神は、喜んであなたたがたに御国をおあたえになるからです。」
 
          (ルカの福音書、12章24-32節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~ここでイエスは人々に創造神を「あなたがたの父」と語っています。
 
イエスは創造主を「父なる神」と読んでいますが、人間にも
「あなた方の父」といっています。
 
見逃しやすいところですが、ここでイエスは、人間も、「創造神の子」といっているのです。
 
 
@@@
 
これは聖書の重大な奥義です。
 
だがこの奥義は、従来の聖句解読では見逃されやすいです。
 
鹿嶋はその主たる理由は、「万物の創造者であることと、人間にとって父(親)である
ということが、一つの言葉に収めがたい」からだと考えています。
 
実際、聖句解釈ではそこは「創造主」とか、「主」とか言う言葉で片付けられてきています。
 
すると、創造神が(人間の)「父(親)」でもあることが放念されがちになるのです。
 
 
 
@@@
 
だが、天理教の教祖、中山みき、には、そのことが明確に啓示されていたのです。
 
それが「親神」という呼称によって啓示されています。
 
繰り返しますが、「親神」という呼称は、絶妙というか、すごいものです。
 
『親』という語には、「存在させた(生んだ)」という創造神のニュアンスと同時に、
「子の父」という意味も含まれています。
 
 
これによって、創造神が人間の「父(親)」でもあることが、示唆されうるのです。
 
 
+++
 
これには鹿嶋は感嘆・仰天しました。
 
筆者はこれまで『創造主」という語で聖書の神を述べてきました。
 
それしかない、と思って、『(人間の)父」であるという意味を呼称に含められずに来ました。
 
聖書訳者も、クリスチャンを自称する人も、みなそうだと思います。
 
 
+++
 
だが、『親神』という言葉があったのです。
 
天理教の教義は、それを教えてくれました。
 
筆者は以後、聖書解読では、この語を用いようと思っています。
 
 
(ああ、また ”異端!” と罵る自称クリスチャンが多出するだろうなぁ)
 
 
 
(続きます)
 
 
 
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=天理教と聖書の奥義=8    ~創造神理念は自然発生しない~

2023年05月02日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

以上のことを長々と述べた主な理由は、「万物の創造神」という神概念は、人間の心には自然発生しないことを示すためでした。
 
 
<在物神の神イメージ>
 
 
人類には、神という「見えない、超人的な力ある存在」へのあこがれと恐れの感情はありました。
 
だが、そのイメージは、「物質の中に存在する」というものでした。
 
+++
 
たとえば大きな樹木や岩や、山や海や空をみて、「そのなかにいる」、と想像するものでした。
 
筆者はそういう神概念を「在物神(じぶつしん)」と呼んでいます。
 
「物」の中に存「在」すると想像される「神」という意味です。
 
+++
 
人類の心に自然発生したのは、在物神の神イメージだけでした。
 
そうしたなかで、紀元前1500年頃のある日、モーセに「オレは創造神」であり、「まことで唯一の神」だという啓示が与えられたのです。
 
啓示というのは、超自然的な存在から投げかけられるメッセージです。
 
世の中には、霊感に優れた人間もいますが、彼の口から出る言葉でもありません。
 
 
 
@@@
 
だがそういう話を聞くと、人はまず「モーセもそういって自分の考えを述べていたのだろう」と思います。
 
ところが、『旧約聖書』に記録された啓示を読むと、そうではない、ことがわかってきます。
 
+++
 
彼が受けた啓示の言葉は、兄のアロンが記録しています。
 
それらは『創世記』や『出エジプト記』『申命記』など、旧約聖書の冒頭の五冊の書物に記されています。
 
「モーセ五書」と呼ばれる、それら書物に記された長大な言葉は、とても、人間が考案できるものではない。
 
「律法」だけでも、膨大な文章量です。
 
それを読んでいくと、一人の人間が考案できるものでないことが、容易にわかってきます。
 
 
@@@
 
モーセが受けた啓示の中に初めて、万物の創造神という神概念が、人類社会に登場するのです。
 
イエスも、その神概念を受け継いで、教えを展開しています。
 
+++
 
それ以外に、純粋な創造神概念は人類の意識に、自然発生してはいません。
 
以後、他の宗教で語られる創造神めいた概念は、「聖書」の援用であり「言い換え」なのです。
 
そのことを正確に認識することを主目的として、鹿嶋は前回までの話を記しました。
 
 
(続きます)
 
 
 
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=天理教と聖書の奥義=7    ~親鸞『正信偈』にも証言が~

2023年04月30日 | 天理教と聖書の奥義

 

 
前回述べた「浄土仏教はキリスト教の言い換え」という認識には、筆者はもうひとつ根拠を持っています。
 
日本では浄土真宗が盛んな地域の信徒は、いまでも月ごとに集まって、『正信偈(しょうしんげ)』というお経を唱和します。
 
また、葬式にお経を頼まれたお坊さんも、これをよく唱えますが、このお経は親鸞が作成したものです。
 
 
+++
 
「♬ 帰命無量寿如来」(きみょうむりょうじゅにょらい)」
 
~で始まるその偈文は、いまも、浄土真宗地域の「講」(スモールグループ)の人々が唱和する「お経」の定番です。
 
 
@@@
 
 
その経文の中頃に、「♬善導独明仏正意(ぜんどうどくみょうぶっしょうい)」、というフレーズがあります。
 
講のメンバーは唱和を途中で小休止して、お茶を飲んだりしますが、後半の唱和に入るとき、リーダー役がこのフレーズを高々と唱えます。
 
これが意味するところは、次のごとしです~。
 
 
+++
 
「善導」はかの「言い換え」の集大成者、善導上人です。
 
「独明」は、「一人だけが明らかにわかっていた」です。
 
「仏正意」の「仏」は釈迦、すなわち、お釈迦様です。
 
「正意」は「本心」です。
 
 
つまり、「善導上人お一人だけが、お釈迦様が言わんとした本心を明察しておられました」
 
~と親鸞はいっているのです。
 
 
+++
 
 
まったく、よく言うよね。
 
「本心(真の意味)」とは「人間は仏の教えを信じると極楽浄土に行かれるよ」ということです。
 
だけど釈迦は、涅槃(心の平安)をうる方法を探求する際、
神仏など超自然な要素など一切考慮に入れておりませんよ。
 
いれていたら、あんな思考は出来ません。
釈迦の試みたのは、哲学なのです。
 
+++
 
なのに「その教え(の本心)は、実は、浄土仏教の教えだった」という。
「善導上人だけは、そのことを悟っていた」
~上記のフレーズは、それをチャッカリ言っているのです。
 
ホントにもう・・・。
 
 
@@@
 
だが、親鸞のこの知識は、法然から伝えられたものに他なりません。
そして法然は、浄土仏教が善導上人(613-681)によって集大成された知識の体系であることを、
その著書『観無量寿経疏』を通して知っておりました。
 
それがお釈迦様の本心であるかどうかはともかくとして、
とにかくこの言葉は~、
 
「浄土仏教が仏教僧たちが作り上げた、福音(聖書)の言い換えの断片的知識を、善導がまとめ上げたものである」ことを、結果的に証言しているのです。
 
+++
 
浄土仏教が、キリスト教の「言い換え宗教」であることは、もはや明らかです。
 
だが筆者、鹿嶋はそのことを公言しませんでした。
 
突然そんなことを言われても、日本人はついてこられないだろう。
 
「鹿島春平太も狂ったか・・・」と思われるのが関の山だとみて、今日まで沈黙を守ってきました。
 
だが、もうそれを言い残しておくべき、と決心しました。
 
 
 
(続きます)

 

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=天理教と聖書の奥義=6    ~「言い換え宗教」である根拠~

2023年04月28日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

ところで、「浄土仏教はキリスト教の言い換え」だというと、「鹿島春平太も突然なにをいいだすか」
と思う人が多いでしょう。
歳とって痴呆化したのか~という人もいるだろうね。
 
だが実態はそう単純ではありません。
 
口に出すのは今がはじめですが、実は鹿嶋は、以前から「浄土仏教はキリスト教教義の言い換え」という認識への根拠をもっていました。
 
 
 
@@@
 
筆者は現役時代から、中国経済の研究グループにも属し、現地調査も一度ならず試みていました。
 
研究の一環として歴史も調べ、唐の時代の長安については現地調査しました。
 
+++
 
現在、長安という都市はなくなっています。
だが、それを9分の一に縮小した都市、西安(しーあん)が保存されています。
 
これには、さすが中国、と感心しました。
 
そこには、かつて100万人が住んだという世界最大の自由都市・長安のエッセンスが保存されています。
 
 
@@@
 
 
西安の近郊には、人の身長より大きな石の板が埋められていた土地がありました。
 
それには、自由都市長安に花開いた諸思想に関する記述がありました。
 
あの偉大なる国家、唐の末期に玄宗というおバカ皇帝がでました。
 
彼は突然儒教以外の思想を全部禁止しました。
 
皇帝の権力を使って、徹底した宗教統制を行いました。
 
その結果、自由都市長安に花開いた諸思想が、すべてなきものにされていきました。
 
+++
 
だがその思想活動を、心ある人々が文章にして、大きな石の石版に彫り込みました。
 
これも中国ですね。
 
彼らが、後世に伝えようとして石版を土の中に埋めた。
 
中国には孔子の昔から、貴重な言葉を石版に彫り込んでおく、という伝統がありました。
 
 
 
@@@
 
 
石版の本物は、博物館に収められてあるそうですが、レプリカは見られました。
 
それを見に来る人々で一番多いのは、西欧のクリスチャンだということです。
 
 
筆者は中国語が読めませんので、案内者の解説たよりでしたが、玄宗は狂ったように思想統制をしたようです。
 
長安で栄えた諸思想をみな、弾圧、禁止し、中国古来の儒教だけを信じるように政治権力で強制した。
 
こういうことをすると、国民の精神は萎縮し、国が崩れていくのです。
 
巨大なる国家は、皇帝が一人の女(楊貴妃)に溺れたくらいでは、崩壊しないです。
 
 
+++
 
ともあれ、思想統制の結果、ネストリウスキリスト教も、仏教も一時的に衰えてしまいました。
 
だが、人々に広く受け入れられた思想は、深いところで存続し続けます。
 
それらの事実と、石版に彫り込まれた文章などよって、我々は浄土仏教の出来方も察知出来るのです。
 
 
(続きます)
 
 
 
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