鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「正しい学び方」24~人間テレポーテーションは起きていた~

2020年12月05日 | キリスト教の正しい学び方

 

 前回に示した人間のテレポーテーションは理論上のものだ。
それに沿った実験がなされたかどうかは知らないが、なされたとしても、成功していないだろう。
 
 だが、理論に驚くほどに対応する出来事が、今から二千年前に新約聖書の『使徒行伝』に記録されている。著者は医師だったルカだ。
 
<ルカによる記録>
 
 これはもう、聖句そのものを提示するのがいいだろう。
少し長いが引用してみる~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「・・・主の使いがピリポ(イエス12弟子の一人)に向かってこう言った。
『立って南へ行き、エルサレムからガザに向かう道に出なさい。
(このガザは今、荒れ果てている)』
 
そこで、彼は立って出かけた。するとそこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、
女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピア人がいた。
彼は礼拝のためエルサレムにのぼり、いま帰る途中であった。
 
彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
御霊(聖霊)がピリポに『近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい』と言われた。
 
 そこで、ピリポが走って行くと、預言者イザヤの書(旧約聖書の「イザヤ書」)を読んでいるのが聞こえたので、
『あなたは、読んでいることが、わかりますか』と言った。
すると、その人は『導く人がなければ、どうしてわかりましょう』と言った。
 
そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。」
 
 『使徒行伝』8章26-31節
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~長いのでここで一区切りしよう。
ピリポはイエス12弟子の一人だ。この時点ではイエスは復活し天に昇って、地上にはいない。
 
 イエスは代わりに、聖霊を送ってきている。
その聖霊がピリポに、宦官の馬車に近づくように命じ、ピリポは従った。すると宦官は彼を隣に座らせた。
続けよう~。
 
 
<「イザヤ書」の聖句>
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「彼が読んでいた聖書の箇所には、こう書いてあった。
『ほふりばに連れて行かれる羊のように
また、黙々として
毛を刈るものの前に立つ小羊のように、
かれは口を開かなかった。
彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。
彼の時代のことを、誰が話すことができようか。
彼のいのちは地上から取り去られたのである。』
 
 宦官はピリポに向かっていった。
『預言者は誰についてこう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか』」
 
             『使徒行伝』8章32-34節
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~こうしてピリポはイエスを説明する時を与えられるのである。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ピリポは、口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に述べ伝えた。」
 
               『使徒行伝』8章35節
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
<宦官バプテスマを求める>
 
~すると、宦官はイエスを知信してバプテスマを求める。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「道を進んでいくうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。
『ごらんなさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか』
そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水に中に降りていき、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。」
 
 『使徒行伝』8章36-38節
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
<ピリポに神秘事象が起きる> 
 
~そしてここで驚くべきことが起きる。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「水から上がってきたとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
それからピリポはアゾトに現れ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリアに行った。」
 
                     『使徒行伝』8章39-40節
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
<神秘事象から自然事象へ>
 
 この出来事を、ルカは淡々と記録しているようにみえる。だが筆者は従来これを、驚くべき子と、ただただ超自然で神秘的なことだとしか、受け取れなかった。
 
 けれども、量子テレポーテーション理論を知った後には、これを自然の中に起きる物理学的現象だと認識する道が開けた。
 
+++
 
 ここでの「主の霊」は聖霊と解しても、聖霊の名を受けた天使と解してもいい。筆者は天使と解するのだが、とにかくその霊は、ピリポを量子テレポーテーションしていると考えることができるのだ。
 
<ピリポの量子テレポーテーション>
 
 ピリポが最初に宦官に出会った地はガザである。そこからアゾトという地に、テレポートされているとイメージできる。
 
このとき「主の霊」が光子のペアー量子を作り、ガザとアゾトに置いた。
次にピリポという人間からその設計情報をスキャンし、ガザの粒子(量子)に重ね合わせた。
 
次いで、その情報をアゾトの粒子に重ね合わせ、それを読み取る。するとなんとピリポが忽然とそこに現れるのだ。
同時にガザの側のピリポを構成していた粒子(量子)はバラバラになって飛散し、ピリポは忽然と消えたる。
~そう考えることができる。
 
+++
 
 ガザでのペアー量子の作成 ⇒ その片割れのアゾトへの設置 ⇒ ピリポの設計情報のスキャン ⇒ その情報のガザのペアー量子への重ね合わせ ⇒ その重ね合わせ情報のアゾトでの読み取り・・・。
 
 これらの作業を天使が瞬時にした、と解すれば、『使徒行伝』の著者ルカが記録したこの事件が、自然界に十分あり得る物理学的現象だ、とイメージできるのである。
 
(「学び方」24・・・完)
 
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「正しい学び方」23~人間のテレポーテーション理論~

2020年12月01日 | キリスト教の正しい学び方

 

 
<人間テレポーテーションの動画>
 
さて、人間のテレポーテーション理論だ。
この理論を把握するにも、動画は大きな助けを与えてくれる。
言葉での説明に先行して、前回に引用した二つ目の動画を再び提示する。
 
 
後半部分に人間テレーポーテーションの理論が描かれている。
 
+++
 
<二つのカプセル>
 
 言葉で説明するとこうだ。
 
 光子などの粒子(量子)をペアー粒子(N , P としよう)に分割する。
 
双方の粒子はエンタングルメントしている、つまり、絡み合っている。
 
ニューヨーク、パリの地点に、各々人間(Aさん)が入れる大きさの粒子カプセルを造る。
 
 それらカプセルには、人間を構成している粒子の組み合わせを示す情報(枠組情報ないしは設計情報といってもいい)をキャプチャーできる機能が装備されている。
スキャナーのような機能だ。
 
 
+++
 
さて、ニューヨークのカプセルにAさんが入る。
そこで、彼を構成している粒子の枠組(設計)情報をスキャンする。
 
その情報を粒子Nに重ね合わせる。
出来上がった情報をパリに送る。
 
+++
 
パリでそれが読み取られると、パリの粒子カプセルにAさんが出現する。
同時に、ニューヨークの粒子カプセルでは、Aさんを構成していた粒子がバラバラになって飛散し、Aさんは消滅する。
 
+++
 
 これは前回に見た量子テレポーテーションと別なようだが、基本原理は同じだ。
 
人間を構成している粒子も波動でできている。だから、根源は光子と同じだ。
 
それ故、光子がテレポートされれば、人間も全く同じ原理でテレポートされるはずだ。
 
+++
 
 ただし、人間は単体の粒子ではなく、粒子の組み合わせでできている。その組み合わせ(設計)情報が、人間のテレポーテーションの場合は介入する。
 
動画は、その理論像を描いている。
 
~今回はここまでにしよう。
 
 
(「学び方23 ・・・完)
 
 
 
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=臨時版= 「霊がよくわからない」

2020年11月22日 | キリスト教の正しい学び方

 

臨時版をさしはさみます。
 
 
<聖書三部作>
 
某大新聞社の記者から取材要請が入った。
 
~トランプ大統領の支持層と言われる「福音派」について専門家にインタビューしてきている。
だがサザンバプテストの福音派のことが、いま一つわからない。
インタビュー形式で答えて欲しい~と。
 
~筆者がかつて新潮選書から出した「聖書三部作」(『聖書の論理が世界を動かす』『誰もが聖書を読むために』『神とゴッドはどう違うか』によって、目から鱗が落ちた、といわれる。
 
そして「いま、三部作をあらためて精読している。
よくわからない言葉がある。
「霊」だ。霊とは何か?」~といわれる。
 
+++
 
<日本人と霊の概念>
 
問われて気付いた。
日本人には霊という意識体がまだ知的に認識されていないのだと。
 
私は、三部作で聖書における霊の概念を十分に言葉を尽くして説明したつもりだった。
 
「聖書の人間構造理念」の図をも書いて説明した。
フロイトの「意識構造図」を援用し、その潜在意識をとの対比しての説明もした。
これで読者には分かっただろう、と思った。
 
+++
 
 当時の担当編集者・佐藤誠一郎さんは、「これでわかる」とOKを出した。多くの読者からも、理解したことを踏まえた感想を受けた。
 
なのに、伝統ある大新聞の記者が「霊というのがよくわからない」と言うとは・・・。
 
+++
 
だが、思えば三部作は今や四半世紀も前の本だ。
時の流れは速く、もうこの本で「霊」を学ぶ人もほとんどいなくなっている。この記者さんも若そうだし。
 
その結果、霊という意識体のもたらす心理体験が、みな「脳神経系の事象」と思われている。
こういう誤った通念の中に、全日本人がいることになってしまっているのだ。
 
三部作が与えた部分的影響は、過去の「焼け石に水」となってしまっているのだ。
 
+++
 
「日本人には霊の知的理解が欠けている」
最近、それを痛感することがあった。「NHKスペシャル」だ。
聖マリアンナ医科大学を定年退官された大教授の言が知らされた。
氏はかつて老人向けのデイサービスを提唱し、それを制度化させた功労者だ。
実績ある大学者。
 
その彼が90歳を越え、認知機能の衰えを自覚して「死の不安」に苦しむようになった。心の鬱状態だ。
 
氏は、こんな感想を述べておられた~。
 
+++
 
「自分はデイケア制度などによって、人間が平安に老後を送って死を迎えられる体制を完成できたと思っていた。ところがこの不安、この恐怖はなんだ」
 
 「自分は、人の心は脳神経作用の結果だと思って老後政策を作ってきたが、どうももう一つの意識体が心にはあるらしい」~と。
 
~私は痛感した。
 
「こういう浅薄な心理観(行動主義的心理観)でないと、業績が認められて大病院の大教授にまでいかれない、という日本の学問の実情」を改めて確認した。なんとお粗末な・・・。
 
私はあらためて「全日本人は聖書三部作を読むべし!」
「三部作よ、四半世紀を超えてリバイバルせよ!」
と叫びたくなった。
 
(「霊がわからない」・・・完)
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「正しい学び方」22~量子テレポーテーション~

2020年11月10日 | キリスト教の正しい学び方
 量子物理学はこんなイメージの学問だ、と前回述べた。
 
 物質をどんどん砕いていくと、あるところから、砕かれてできた粒子は、従来の古典物理学での”物質”とはかけ離れた性質を現した。
 研究者はこのレベルの粒子に「量子」の名を与え、その性質を探究し始めた。
こうして始まった学問が、量子力学だ、と。
 
<分割された量子間のエンタングルメント>
 
 今回は、この物理学が明かした量子の驚くべき性質の一つ「量子もつれ」を覗いてみる。
 
 原子核の周りを回っている電子も量子だ。これもまた不可思議な性質を持っている。それは互いに逆方向にスピン(回転)している二つの要素が重ねあわさってできているそうだ。
 古典物理学の常識ではイメージできない性格だが、この「重ね合わせ」というのも量子に特有の性格だという。
 慣れてない思考だが、まあ、聞いておこう。
 
+++
 
 そしてこれは二つに切り分けることができ、分けるとそのスピンの方向が相互に正反対になっている、という。
さらに二つは密接に繋がったような状態になっている、と言う。
 
 そこで双子の量子とも呼ばれるらしいが、英語でこの状態をエンタングルメント(entanglement:もつれ合い、絡み合い)という。日本ではこれを「量子もつれ」といっている。もう一寸気の利いた日本語はないのかね。ともあれ当面そうなっている。
 
<「もつれ」の具体像>
 
 さてそれからが面白い。この両者を、離れた二つの地点、~たとえば、ニューヨークの一地点とパリの一地点~に置くと、とにかく、その「もつれ状態」は以下のようになる~。
 
 双子量子のうちのニューヨークのものをA、パリのものをBとする。
(前述のように、AとBとは互いに逆方向に回転している。Aが時計回りならば、Bはその逆というように)
 
+++
 
 そしてAに別の量子Xを重ね合わせ(量子は重ね合わせられる)その測定をして情報を得る。
 
 次にその情報をパリのBのある地点に送り、重ね合わせを解くと、なんと、Xはその地点に出現する~という。
また同時に、ニューヨークの地点にあったXは消えている~という。
 
+++
 
 この事象は実験で確かめられている。
それを「量子テレポーテーション」というそうだが、テレポートというのは古典物理学的にイメージしての名前だ。
 
 つまり、従来の感覚にわかりやすいように、光や電子などにのせて“送られた”、というイメージの言葉で言っている。
 
 だが、実際にはそうではない。
Xは「送られて」などしていない。ニューヨークで忽然と消え、同時にパリに忽然と現れているのだ。
 
+++
 
 この気味悪い現象は、文章だけではイメージ理解しがたい。だが、現在では動画という便利なものがある。その一つを下に挙げておく。絵と音声が加わると、わかりやすいだろう。
 
 
 
ちょっと説明不足な点がある。
次の動画の前半部分がそれを補ってくれる。
 
 
(「学び方」22 ・・・完)

 

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「正しい学び方」21~創造神は波動の放射源~

2020年10月27日 | キリスト教の正しい学び方

 

<素粒子という概念>
 
 量子物理学(量子力学)の基本理念は次のようなものだと筆者は受け取っている~。
すなわち、ものをどんどん砕いていくと、それ以上に砕くことのできないものに至るとイメージできる。そこにはもはや内部構造はない、そういうぶつぶの粒子、とのイメージの概念だ。
 それは現在、素粒子( an elementary particle )と呼ばれている。
 
  今から2000年以上前、ギリシャの哲学者、デモクリトスはアトム(原子)という概念を考え出した。
 彼は、物質はこの究極的な粒子が形を変えたり、組み合わさったりしてできている、と考えた。
 これはその時代における素粒子概念だ。
 
 
<素粒子はどんどん微小に>
 
 その原子が実際に観察されはじめたのは、19世紀末だという。
 
 そして20世紀に入ると、原子の内部構造が次々に見出された。
 
 なんと原子は究極の素粒子ではなく、原子核と電子からなっていた。原子核の周りを電子が回っていた。
 
 さらに原子核は陽子と中性子からなり。陽子はプラスの電荷を持ち、電子はマイナスの電荷を持っていた。
この両者は荷電粒子といわれている。
 
+++
 
 さらに微細にみていくと、光子とか、クオークとかレプトンとかいった素粒子が見つかって、現在のところは12個だそうだ。これは標準モデルだ。だが、それらにも謎がいっぱいで、これからどう展開するかわからない、という。
 
 筆者はそうした詳細な世界には踏み込まない。聖句を投影理解するに役立ちそうな基本概念だけを、使いやすいようにして援用しようとしている。
 
 
 
<従来の「物質」を超えた性格>
 
  光子くらいに微小になると、素粒子は従来の物質で観察されていたところを超えた性質を現した。そこでこのレベルからの素粒子に研究者は (クオンタム:quantum)の名を与え、その不可思議な性質の探究を始めた。量子物理学(力学)のはじまりである。
 
 前に示した「粒子と波動の性質を併せ持つ」というのはその量子の基本的な特性一つである。
 そして前回にも述べたが、筆者はその両者のうちで波動(振動)の方が根源的らしい、との直感を得てそのイメージを使うことにしている。
 
 これは素人の勝手な間違い、ということはできなさそうだ。 このあたりの理論からは、プロにおいても純想像の世界であって、筆者のイメージが絶対に間違いとは言えないのだ。
 
 また実際、物理学者も「波束(はそく)」という言葉を持ち出している。これは波動が束になったというイメージの概念で、これが粒子と認識されるものだ、と考えているようだ。そして、この考えには波動の方が根源らしいという仮想がある。プロは公言しないだけだ、と筆者は思っている。
 
 筆者はそれを「束(波動の)」というのが気に入らなくて、凝集体としてイメージ理解している。
 
 
<創造神能力を物理的にイメージ>
 
 さて、そうすると、この波動のイメージは、聖書論理の原点である創造神を物理学的にイメージするのに画期的な助けを与えてくれる。
 その一つが「波動の放射源」と言うイメージだ。
 
 するとすべての“被造物”が、こうイメージできるようになる~。
 
 すなわち、創造神から放射される波動の一部が凝集して粒子となる。その粒子が組み合わさったのが、(聖書で言う)被造物だ、という風にだ。
 
<御子の役割の物理的イメージ>
 
 ここで少し先走ってのべておく。上記の理解は、従来難解とされてきた「ヨハネ伝」1章の冒頭の聖句を物理的にイメージする助けにもなる。
 聖句はこれだ~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「初めにロゴスがあった。ロゴスは創造神と共にあった。ロゴスは創造神であった。
この方は初めに創造神と共におられた。
 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」
 
 (『ヨハネによる福音書』1章1-3節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
  ここでのロゴスというのは、理法、論理、言語などを意味するギリシャ語だ。だが、この聖句でヨハネはロゴスを「この方」と言い換えている。
  そして「この方」とは創造神の御子(イエス)をさして言っていることが、後の文脈ですぐにわかってくる。
 
  この御子は後に人の姿をとって「人の子」として地上に現れる前の御子となる。
この時点では霊としての御子イエス、霊イエスだ。
 
+++
 
 さあ、そうすると、「ヨハネはとんでもないことを言っているぞ」となる。
すべてのもの(万物)を造られたのは「父なる創造神」というのは、聖書の大前提だ。
なのに「霊イエスによってすべてのものが造られた」と言っていうのは、この大前提を否定してることになる・・・と。       
 
+++
 
 ところがここにひとつ仮説を挿入すると、ヨハネの聖句に筋が通ってくる。
仮説とは~「波動が粒子になり、粒子が組み合わさって被造物ができるにつけては、その組み合わせを造るための何らかの“デザイン情報”が働いている」というものだ。
 そしてこれを霊イエスは作成しているのだ、と。
 
 すると「創造」とはこういうものとなる~
「霊イエスは、父なる創造神の意図を受けて、粒子の組み合わせデザイン情報を作成する。
そこに創造神が波動を注ぎ込んで被造物は完成する」と
 
 これが聖書の“創造”の詳細だとイメージすると、上記の聖句は、筋の通るものとなる。
 
  ~つまり、著者ヨハネは、被造物は父なる創造神と御子との共同作業によってできているという霊感を受けていた、と。
 ヨハネは、その作業を「御子の働きの側面に焦点をあてて、「この方によってすべてが造られた」と記しているのだ~と。
 
+++
 
  鹿嶋はまた勝手な個人的イメージをのたまっているな、と、あきれかえったり警戒したりされる読者もいるだろう。
 だが実は、筆者はこのイメージをうるにつけて、量子力学のある理論の助けを得ている。
 量子テレポーテンション理論というのがそれだ。
 
 これを示すと、上記の解読が、筆者の個人的イマジネーションにだけによるのではないとわかってもらえるかもしれない。次回にはそれを覗いてみよう。
 
 
(「正しい学び方」21・・・完)
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「正しい学び方」20 ~言葉の波動が身体波動を再創造~

2020年10月24日 | キリスト教の正しい学び方

 

<根底は波動と解する>
 
 量子力学の思想を、聖書の中の言葉(聖句)の物理的理解に援用するには、若干の予備作業がいる。
 
 まず、二重スリット実験で得られれたような「粒子と波動から成っている二重存在」というイメージを修正する。
 
 粒子とは「波動が凝集することによって出来るもの」とする。たとえば波動の海の中には、波動(振動が他の空間に伝わってできる運動)が凝集する領域もできるだろうと考える。それが(つぶつぶの塊)と感じられ、粒子と認識されるのだろう、とイメージする。
 
 こうすると、波動の方が根源の存在だというイメージが得られる。
「二重存在」という認識は、二元論的ニュアンスが強く、使い勝手がわるい。
そこで根源を波動として一元論的にイメージするのだ
 
<「波束」というが>
 
 これは学問的に間違っている、というわけではない。
このあたりは理論物理の領域で、専門物理学者にもイメージ世界のことがらだからだ。
 
 実際、物理学でも凝集体的なものをイメージして「波束(はそく:波動の束)」という言葉を使っている。
だが「束(たば)」というと筆者には、稲の収穫時に刈り取られた稲の束が思い浮かぶ。すると波の一つ一つが稲のような線分の形に思われて、しっくりこない。
 
 なにも、束ねなくても凝集すればいいではないか、とおもう。そんなわけで筆者は「凝集体」という言葉を主に用いる。
 
 
<言葉と物質は同次元>
 
 
 量子力学の存在論思想は、言葉と物質とを同じ「波動」という次元で理解するのを可能にしてくれる。これは画期的な新境地だ。
 
 中学あたりの理科では、言葉が声となって発せられると、空気を振動させそれが音の波となって伝わっていくことを学ぶ。
だが、言葉の波動はそれだけではない。
 
 言葉は話す人の感情や意志などを内包していて、そうした思いは振動だ。その振動が波動となって他の空間に伝わっていく。
たとえば、ある唄を心で口ずさんでいると、隣にいる人もそれを口ずさみ始める。
日常生活の中でのそういう経験から、われわれは意識が波動体であることを体験的に知っている。
 
 そして量子力学は、物質の根源も波動であることを示してくれた。
すると言葉と物質は同じ次元、同じ局面の存在となり、我々は聖書に記録されている言葉の影響を
わかりやすく認識出来るようになる。
 
<言葉の波動が物質に影響・・・>
 
  たとえば、聖書には「イエスの言葉が病人の身体を変化させた」との旨の記述が繰り返し現れている。
 
 イエスが「歩け」と言葉を発すると脚萎えが歩き出す、「目よ、開け」というと、盲目者が見えるようになる。これなど見えない領域の事象を含めた描写だ。
 
+++
 
 従来それは「イエス様の不思議な力による。信仰でアーメンと受けいれるべき」などと説明されてきた。これはすべてを神秘の世界のことと認識するやり方だ。
 
 だけどこういう風に、すべてを神秘の箱に収納し、理由もなく「アーメンと信じなさい!」とだけやっているのでは、その教えは在物神宗教やおまじないに近づいてしまうよ
 
<言葉の波動が肉体組織を再創造>
 
 脚や眼球を構成する物質の根源が波動だとなれば、認識は異なってくる。従来の不思議事象を「神秘の箱」から取り出して、物理学的にイメージできるようになる。
 
 言葉も波動だ。それは人の意識を信号にして伝える意識波動だ。
 波動は波動に影響を与える。イエスの発した言葉は「創造神の強烈な波動」となって、脚や眼球の根源的な構成物である波動に影響した、とイメージできる。
 
 影響を受けて、脚の筋肉や眼球を構成していた波動が変化し、肉体組織が再創造された、と考えられる。
 
~こういう物理的イメージ理解が可能になるのである。
 
(「正しい学び方」20・・・完)
 
 
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「正しい学び方」19~~量子物理学の風景~

2020年10月21日 | キリスト教の正しい学び方

 

 
<量子力学からの助けの手>
 
  筆者は前著書の後に量子物理学(量子力学)の思想を新しく学んだ。この分野は前から提唱されていたが、筆者は遅れてそれを知った。それは筆者の聖書の論理理解に多くの助けを提供してくれている。
 
+++
 
 この思想の新しさの一つは、存在の根源に関するところだ。
 
 以前の物理学では、物質は究極的には超微小の「粒子」(つぶつぶのもの)によってなっている~と考えられていた。いま素粒子と呼ばれている概念だ。
ニュートン物理学のニュートンも、アインシュタイン物理学のアインシュタインもそうだった。
 
 
 ところが量子物理学では、その素粒子の根源は波動であることを見出した。それを示した実験の一つに光子(こうし)を素材としたものがある。
 
 「二重スリット実験」と呼ばれているそれを、筆者は他の投稿で示していて、繰り返しになるが、再提示する。重要な事柄なので、(~を参照せよ)では不便すぎるのだ。
 
<二重スリット実験>
 
実験は次のように行われた。
 まず、電球の光を、縦の二重スリットのある板に当てて、光がその奥に立てかけてある壁に映し出される姿を見る。
 
 
 
 電球の光は、物理学的には光子(こうし)という素粒子だ。
 ちなみに光子は、我々の目に外部の物質の姿を認知させてくれる素粒子でもある。これが物質に当たって反射し、我々の眼球を通って網膜に影響を与える。我々はそれを受信し、脳の中で映像に変換して姿を認識している。
 
 
<粒子なら二本の縦線が壁に出来るはず>
 
 さて実験だ。もしそれが粒子(つぶつぶのもの)なら、その奥に立てかけてある壁には、二本の縦線ができるはずだ。下記の図のように。
 
 
 
<だが、縞模様(干渉縞)になった>
 
 ところが実際には、縦線は下記の図のようにタテの縞模様(しまもよう:干渉縞という)になった。
 
 
 
 これは光子と呼ばれていた物質が、実は、つぶつぶの粒子だけでなかったことを示唆している。
 
 
 
+++
 
 さて、ここからはイメージ世界での話だ。
そうなるのは、その素粒子が波動をも含んでいるからだとしか考えられない。波は左右各々のスリットから出るとき、下記の図のように、扇状に広がって出ていくはずだ。
 
 そして左右の波の高い(濃い)ところが重なり合うとところでは、波は互いに増幅し合ってより高くなり、明るさが濃くなる。
 逆に、高いところと低いところとが重なる部分は、波は打ち消しあって弱くなり、明るさは薄く(暗く)なる。
 そこでその濃い部分が縦の筋(縦線)となっているはずだ。
 
 
 
 このことから、従来素粒子と認識されていた光子は、つぶつぶの粒子と波動から成っている二重存在だったことがわかった。
 
<物質一般の根源も>
 
 光子のこの性格は、電子など他の素粒子についても確かめられた。さらにその性格が分子についての実験でもみとめらたらしく、物質の根源が粒子と波動という二重存在であるという理論は確定的になった。
 
 だが、二重存在と言う言葉は、二元論的存在であるという印象を与えすぎる。このあたりからは、ことは基本的にイメージの世界であって、理論もイメージされた純理論的なものとなる。
 だからそれを「粒子と波動との性格を併せ持つ存在」とか「粒にも波にもなり得る不思議な存在」と表現することも出来る。
 
 がともあれ、研究者はその「振動(波動)でも粒子でもありそうな」不思議な存在に、量子(クオンタム:quantum)との名を与えた。この思想の上で作り上げられてきている物理学知識が量子物理学だ。それは通常量子力学と呼ばれる。
 
+++
 
 いまや量子力学の存在論の現実妥当性は、従来の物理理論の存在論より高い、という認識は日を追うにつれて増大してきている。
 実際に超高速の量子コンピューターが造られるという事実もまた、量子理論の正しさを証拠づけている。そうしたこともあって、今やそれ以前の物理学は古典物理学と呼ばれるに至っている。
 
 ごく最近では、ネット通信でのIDの暗証番号にも、量子信号を使うというビジネスが現実化している。従来は素数を用いてきているが、これだと量子コンピュータによって解読されてしまう可能性が高いという。
 日本の会社・東芝は、この技術での世界最先端を走っていると伝えられている。
 
 この量子力学の思想は、聖書の物理学的理解におおいなる助けを提供してくれる。次回からその考察に入っていこう。
 
 
 
(「正しい学び方」19・・・完)

 

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「正しい学びかた」18~霊事象を物理学知識に投影

2020年10月16日 | キリスト教の正しい学び方
 
 
 前回、旧約の祝福(幸福)は健康とか経済的な祝福、つまり物質的祝福であり、新約の祝福は霊ベースの祝福だ、といった。
 
 それを明確に認識するために、新約聖書「ヨハネ伝」における「イエスとニコデモの会話」をみておこう。
 
 
<高僧ニコデモとの会話>
 
  ニコデモはユダヤ教の高僧でユダヤ議会の議員でもあった。
他の高僧たちはイエスの教えを受け付けなかったが、少なくともイエスが十字架死するまで関心を抱き続けた例外的な人物であった。
 
 彼は、同じ高僧たちからの目撃を避けて、夜ひそかにイエスのもとにやってきた。
 
その彼の問いかけに対してイエスはこう応じている。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イエス「人は新しく産まれなければ、創造神の国(天国)を見ることは出来ません」
 
ニコデモ「どうしてそんなことができますか。もう一度母の胎内に入って生まれ出ることなど出来ないのに」
 
イエス「あなたはイスラエルの教師であるのに、こういうことがわからないのですか」
 
     (『ヨハネによる福音書』3章1-10節)   
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 ~ここでイエスは霊のことを言っている。ニコデモはそれがチンプンカンプンわからない。
ユダヤ教の指導者で高僧がこの状態という場面が、ユダヤ教では霊の世界が皆目視野にないことを如実に示している。
 
 
<核心は霊理論の学び>
 
 イエス・キリストの名が示唆する如く、キリスト教はイエスの教えだ。
イエスの教えでは、霊理論がベースだ。
 
「キリスト教の正しい学び方」では、霊の論理をどう学ぶかが核心になる。
 
 霊は目に見えない。
これを対象とする認識の理想は、霊感が働いての直接認識だ。
 
 だが、これはよほどの人でないと難しい。
難しいのにわかった気持ちになって結論だけを口で繰り返すとどうなるか?
 
それは「まじない」と同じになる。
それをしていると「まじない宗教」の学び方を伝えることになってしまう。
 
 
<セカンドベストを考える>
 
 我々はセカンドベストの方法を考えねばならない。
それは言葉の枠組み(理念)でもって、霊感を働かす焦点を絞ることだ。
 
それには物理的事象に投影(比喩)して(なぞらえて)言葉で説明するのが有効だ。
 
宣教者パウロのもこの方法をしばしば用いている。
次もその一例だ。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「あなたがたのからだは、あなたがたにうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり・・・」
 
    (『コリント人への第一の手紙』6章19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 ~ここでパウロは「あなたがたの身体のうちには聖霊が住まわれている」ということを示すために、身体を神殿に投影させて説明している。
 
 神殿は神の住まう宮殿として建てられているのが通常だ。
そこで身体をこれになぞらえれば身体の中に聖霊が住まわれている、ということがより視覚的にイメージできる。 わかりやすくなる。
 
 
<四半世紀前の体験>
 
 筆者自身もこの種のことを体験している。もう四半世紀ほど前のことになるが『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書)という書物を出した。
 
 それまで筆者は聖書の「いのち」という概念の理解に苦労してきた。
だが執筆中「いのちというのは物理学のエネルギーの概念みたいだなぁ~」という思いが浮かんだ。
そこで筆者は「いのち」を敢えて「いのちエネルギー」と表現した。
 
 創造神はそれを被造界に放射する源のように考えた。
また、創造神は意識体だから、放射するエネルギーは、創造神の意識波動を持っている、とも想像した。
 
 
<霊は充電式乾電池>
 
 さらに、いのちエネルギーを電気のようにイメージし、人の霊を充電式乾電池のように考えた。
 
 加えて、当人の意識波動が創造神の意識波動に近似的であるほど、いのちエネルギー(電気)の充電効率は高まると、イメージした。
 
+++
 
 霊乾電池からも電気は自然放電し、不完全充電化する。
それが補充されるには、人は自らの霊(意識体)の意識波動を創造神のそれに近似的にしていなければならない。
 
 こう考えたら、聖書の理解が飛躍的にクリアになった。
 
 多くの方々からこれで聖書が突然わかり易くなった、との感想をいただいた。
一部の牧師職の間で、説教がしやすくなったという感想があるとの知らせを受けたのにも、感銘した。
 
+++
 
 あの頃から筆者の物理学知識も増大した。
 
次回からは、これらを援用して、さらにわかりやすい「学び方」を伝えたいと思う。
 
 
(「正しい学びかた」18・・・完)
 
 
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「正しい学び方」17・・・「新しい命令契約」(新約)とは?

2020年10月13日 | キリスト教の正しい学び方

 

 
 では「新しい命令契約」(新約)とはなにか?
 それは、自らを“人となって現れた創造神の子(「人の子」はそういう意味)”と宣言したイエスによって与えられた新契約である。そしてこれは深く広い内容を持っている。
 
<神学(theology)>
 
 聖書の中の言葉(聖句)の間の論理的つながり(体系)を見つけ出す知的作業を、神学(theology)という。
この知的探索作業は、膨大な知識体系を産み出してきていて、それが今日では大学における一つの学部(神学部)を形成している。(同志社や関西学院、西南学院などの大学には神学部がある)
 そういう学問の一分野を成り立たせるほどの内容を、「新しい命令契約」はもっている。
 
 ちなみに探究は旧約聖書の聖句との繋がりにも及ぶ。だが、それによる知識は副次的なもので、中心は新約聖書の聖句である。新約は深淵にして広大な内容を持っているのだ。
 
<新約の二つの骨子>
 
 その「命令契約」の内容を示すのは容易ではない。そうしたなかで、敢えて試みれば、それは二つの骨子として示すことが出来る。
 
 その第一は、契約を果たすことによって得られる祝福(幸福)を得る方法を新しく(旧約と違うものとして)提示したことだ。
 
<第一骨子:祝福を得る新方法>
 
 旧約では、律法を守ることによって人々は幸福をえられる、としていた。だから人々は律法を犯さないで祝福を得ようと努めた。その方法を探究する国教(ユダヤ教)までできた。
 
 だがイエスは「律法を守りきることは人間には出来ない」と教えた。
 それを代表的に示すのが「姦淫の情を抱いて女をみればそれは姦淫を犯したと同じだ」(『マタイによる福音書』5章27-8節)というイエスの言葉だ。
 
 彼は律法の戒めは実は「行為の罪」だけでなく「思いの罪」をも含めている、と示した。それにつけて彼は「自分は律法を完全化しに来たのだ」と言っている。(『マタイによる福音書』5章17節)
 
+++
 
  すると人間はどうやっても律法に反してしまうことになる。罪を犯さないでいることは出来ないのだ。
 だがイエスは、そうした律法を廃棄してあげることは出来ない。創造神は律法をすでに契約として発している。契約なので一旦発したら、創造神といえどもそれを廃棄することはできない。
 
 イエス自らも「自分は律法を廃棄しに来たのではない」と言っている。(『マタイによる福音書』5章17節)
 
+++
 
 だが彼はそれを踏まえた上で、律法の戒めに反することで生じる罪を相殺する、全く新しい方法を提示した。それは次のごとき驚くべき方法だった・・・。
 
 ~自分は天から来た創造神の子なので罪を犯していないから死ぬ必要は無い。その自分が、殺されて人間の罪の代償を創る、というのだ。
 
 イエスは自分はこれからそうする、という。そしてそれを自分の罪の代償だと受け容れた(信じた)人間には、その代償が現実の実在となって罪が相殺される、という。こういう手法で人間は幸福を得ることが出来る、とイエスは約束した。
 
 イエスはこの思いがけない方法を、「新しい契約」として提示した。これが「新約」の第一の骨子だ。
 
 
 <第二骨子:契約に霊領域を導入>
 
 第二は、契約に霊の領域を持ち込んだことだ。これは第一骨子のようにダイナミックなものではないが、より根底的なものだ。
 
 旧約をよく見ると、そこで提示されている幸福は、すべてが健康とか経済的豊かさとかの、物質的なものであることがわかる。
 たとえば、詳しくは後述するが天国というのは霊界だ。イエスはそれを紹介するのを、自分が地上に来て行う不可欠な仕事の一つとした。
 だがその天国という言葉は、旧約では一度も出てこない。それほどに、旧約で示される世界は基本的に物質的な世界だ。
 
 イエスは、「悔い改めよ。天国は近づいた」と宣言して、天国を繰り返し繰り返し説明した。そして人間の幸福を「将来霊がその天国(天の創造主王国)で幸福な状態で永続すること」として示した。
 
 そこにイエスが示した幸福の本質がある。肉体が受ける健康や経済的豊かさは、その副産物のような位置にある。
 
 健康や経済的物質的祝福は肉体が得るものだ。だが、その肉体は百年もすれば死んで終わってしまう。一方、霊は永続する存在だ。そちらが受ける祝福は永遠の祝福だ。
イエスの約束した幸福はよくみるとそちらに主眼が置かれている。
 
 以上の二つの骨子が、イエスが示した命令契約だ。それは旧約では示されなかった新しい契約なので「新約」となるのである。
 
 
 
(「正しい学び方」17・・・完)
 
 
 
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「正しい学び方」16~「旧い命令契約」(旧約)とは?~

2020年10月09日 | キリスト教の正しい学び方

 

 さて、旧約(旧い命令契約)をみるのだが、その前に、簡単な用語導入をしたい。
 
<預言者>
 
 預言者という言葉だ。
 これは「超霊感者であって、かつ、その受信内容を言葉として預かって、書きとどめるもの」の意味である。
漢字で書くと、「”預”かったメッセージを”言”葉に書き留める“者”」となるので日本では預言者としているわけだ。英語はprophetである。
 
 モーセの記録によれば、彼以前にも超霊感者はいた。アブラハムはその代表で、沢山のメッセージを幻や言葉を霊感受信している。だが、彼はその内容を書き遺さなかった。
 
 書き遺した最初の人はモーセだった。だから彼は「最初の預言者」とされている。
 
 
<律法と報いの一方的約束>
 
 それを踏まえて、旧約の具体内容に入る。上位者である創造神が、人間に向けて発した「旧い命令契約」の第一の部分は、守るべき戒めだ。これは律法(Law)と呼ばれる。
 言い換えれば「これを守れ」と創造主が人間に向けて発した戒め。これが律法(りっぽう)だ。
 
 第二の部分は「これを守れば恵みを先代にわたって施し、守らねば、その咎(とが:罰のこと)を三代、四代にに与える」という約束(一方的)だ。(『出エジプト記』34章6-7節参照)
 
  なお、この戒めに反することを「罪(sin)」という。
 守られている状態が「義」である。
 
 そしてこの戒めと、それを守るかどうかに応じて与えられる報いの約束を加えたのが「旧い命令契約」(旧約)である。
 
 
<ダントツの超預言者>
 
 このように律法も一方的約束もまた、超々霊感者モーセに、言葉と幻を与えることでもって、伝えられている。
 その言葉は、驚異的に多い。近代的な法文に書きかえると、600~900の条文になるという。モーセはそのすべてを受信し書き留めている。
 
+++
 
 モーセはすでに大量の歴史事象の幻を与えられ、記している。その上にさらに、この大量の言葉メッセージを与えられている。
 彼は文字通りの超スーパー霊感者・預言者といえる。旧約聖書には多くの超霊感者が現れるが、モーセは文句なしのダントツ預言者だった。
 
 
<十の戒め>
 
 旧約聖書に記された律法(戒め)は超大量だった。
だが、モーセにはそれらを代表的に示す十の戒め(「十戒」)も、与えられている。
 
それは次のようになっている~
 
・・・・・・・・・・・・
1.創造神以外の神を拝んではならない。
    (俺以外の存在を神として拝むな)
2.偶像を造ってはならない。
    (オレを像に刻むな)
3.創造神の名をみだりに唱えてはならない。
    (この段階では、創造神の名は「エホバ」となっている)
4.安息日を守れ。
    (週の中の一日はいかなる仕事もせずに、俺を思い拝する日とせよ)   
5.父母を敬え。
6.殺すな。
7.姦淫するな。
8.盗むな。
9.偽証をするな。
10.隣人のものを欲しがるな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
<「対神的戒め」と「対人的戒め」>
 
 よくみると、このうち前半の四つは、創造神にどう対すべきかの戒め(命令)である。言い換えれば「対・創造神への戒め」。短く言えば対神的戒めだ。
 
 後半の六つは、人間が人間に対するとき守るべき戒め(命令)である。対・人間への戒めで、略せば対人的戒めだ。
 
+++
 
 これらの戒めと、それへの対応に応じて与えられる報いの一方的約束。これが「旧い命令契約」(旧約」に記録されている。
 
 イスラエルの民は、これを守って幸福を得る活動を始めた。この運動が、ユダヤ教になっていった。
 
 
(「正しい学び方」16・・・・完)
 
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「正しい学び方」15~「旧約」「新約」の意味~

2020年10月05日 | キリスト教の正しい学び方

 

 
 ここで、旧約聖書、新約聖書という名につかわれている「旧約」「新約」の意味を考えておこう。「旧」「新」は文字通り、旧い、新しいとみていいだろう。
 問題は「約」だ。これはまずは「契約」の約だとイメージしよう。そして我々の世界での契約を考えよう。
 
<人間社会の契約>
 
 我々が知っている人間社会での契約は、人と人とが合意して結ぶ約束だ。それは次の二つの点を特徴としている。すなわち~
 
 ①当事者が対等の立場で話し合い合意して作る、という点。
 
 ②合意内容は不変の約束とされ、後の変更は認められない、という点。
 
              ~以上である。
 
 
<創造神と人間の契約>
 
 さてここに創造神を考慮に入れよう。
この旧約、新約の「契約」は創造神と被造物との間でのものだ。
 
 TV受像機を創った人間は、それを思うままに使用するように、創った側は、創られた側に対して絶対的に上位な存在となる。
聖書もそうした地位関係を全世界に貫徹する鉄則としている。
 
 創造神は被造物である人間に対して、文句なしの主人なのだ。だから、創造神は創造主とも呼ばれる。聖書の中での、人間が「主よ、主よ!」と呼んでいる状況も、それを背景にしている。
 
+++
 
 被造物であり絶対的に下位者である人間は「従者、しもべ、奴隷」などと呼ばれる。様々な名称で呼ばれるが、その実体は同じだ。
 
 日本語の「奴隷」には、牛馬のようにむち打たれて働かされる、と言うニュアンスが強いが、聖書ではそうではない。
主人の命令に従って行動する存在というだけで、しもべ、従者と同じだ。
 
 
<実質「命令」となる>
 
 さて、こういう両者の間での契約となると、それは人間社会での契約とは違ったものになる。
少なくとも、上記①の特徴「当事者が対等の立場で話し合い合意して作る」という側面はなくなる。
 
 それはむしろ、上位者からの下位者への「命令」に変質する。
実質的に「命令契約」あるいは「一方的な契約」とったようなものになる。
 
<だが契約だから変更は不可>
 
 それでも旧約、新約というようにわざわざ「契約」の語が使われているのは、上記②の契約特質を示すためだ。
 
 つまり、実質的に命令だろうと、一旦契約として発せられたものは、堅持され変更することはできない。
上位者である創造主といえども、自分の発した命令契約には縛られる。創造主は何でも出来る全能者ではないのだ。
 
 だがそれ故に、創造主の発した言葉は変更無きもの、不動のもの、となる。
 
+++
 
 これは何でもないことのようにみえるが、重大な意味を込めている。
考えてみよう。創造神が一旦言ったことを変更できたら、被造物は創造主を信頼できなくなる。もうやっとられなくなる。
だがそういうことはない、というのだ。
 
 創造神の真実がここにある。
その不変の命令(言葉)を含んでいる教典が聖書だと、旧約、新約の語は示唆しているのだ。
 
 
<言葉の格子>
 
 すると全存在界はこんな風景となる~。
 
 創造神から出た言葉は、不動のサブスタンス(実体)として永続する。
言葉は連なって格子を形成して、被造空間に存続し働き続ける。
 
 その格子が何枚も被造空間に散立している。
人間も天使も、格子の間や、格子の目を通って動き回っている。
悪魔もその格子の隙間を巧妙に動き回っている。
 
 人間はときとして、創造神から格子の力を用いる権勢を与えられる。
 
・・・歴史はこういう枠組の中で展開される。
これが聖書の示す、世界の風景だ。
その意味が「契約」の語に込められているのだ。
 
+++
 
 その一方的契約に「旧いもの」と「新しいもの」がある、という。「新約」「旧約」の語はそれを示唆している。
ではその二つの一方的契約とは具体的になにか? それを次回に眺めよう。
 
(「正しい学び方」15・・・・完)
 
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「正しい学び方」14~新約聖書の成立~

2020年10月04日 | キリスト教の正しい学び方

 

<イエス旧約を新解釈する>
 
 モーセより1500年ほど後、旧約聖書が編纂されて400年後のイスラエル民族の中に、イエスが現れた。
 彼は自分は人間の姿をとった創造神の子(「人の子」であると言った。そして旧約聖書は実は自分のことを述べた書物なのだ、と宣言した(『ヨハネによる福音書』5章39節)。
 
<偉跡で証拠づける>
 
 すると旧約聖書には従来にない画期的な解釈が施され、新理論ができることになる。
 イエスは自らの教えを奇跡~病の癒しなどの~で証拠づけた。
 
 ユダヤ人は神とは創造神のみと認識していた。
すると、人間に出来ないことは、創造神からのものと受け止められる。かなり多くのユダヤ人は、そう考えてイエスの教えを受け容れた。
 
+++
 
 なお、創造神が共にいないと出来ないはずのわざを、聖書では「しるしと不思議」ともいう。これをあえて「偉跡」という人もいる。
 
 そこには、創造神によって必然的になされるもの、との意味が込められている。日常語の「奇跡」にはそこまでの重い意味はない。「偶然現れた」という感じも否定しない言葉だ。「偉跡」はこれと区別するために用いられている。
 
<復活、昇天の予言と実現>
 
 また彼は、自分は殺されて、復活すると予言し、その通りに殺され復活して、400人以上の人々の目の前に現れ、天に昇っていった。多くの目撃者がそれを証言した。
 
 彼は殺される前に、自分は天国に昇った後に再び空中に現れる(これを再臨という)との約束もしていた。
 
 
<再臨し復活させると約束>
 
 イエスは「再臨の際、自分を信じて死んだものを復活させる」とも約束した。
 イエスの復活を目撃した者たちは、その約束も信じられるようになり、再臨も待つようになった。
 
 これら一連の教えが記されたのが新約聖書だ。これがキリスト教の教典となっている。
 
 目撃者の証言を信じる人、教典の記述に確信を抱く人は増大し続けた。こうしてキリスト教は現在では世界最大規模の宗教になっている。
 
<新約聖書の構成>
 
 新約聖書は次の四種類の文書で構成されている~。
 
  • ①イエスの言動を、その伝記の中に記録した四冊の書物(四福音書と呼ばれる)。
  • ②イエスの教えを宣ベ伝える弟子たちの活動記録(『使徒行伝』)。
  • ③イエスの教えを解説した手紙類。
  • ④愛弟子ヨハネが受けた幻の受信記録(『黙示録』)。
 
                                                                        ~以上である。
 
 
「正しい学び方」14・・・完)
 
 
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「正しい学び方」13 ~旧約聖書が成立する~

2020年10月03日 | キリスト教の正しい学び方

 

 
 
 前回、モーセは創造神と自称する存在から幻とことばでメッセージを受け、それを記録した、と述べた。その続きを述べる。
 
 彼が受けた幻は、天地が創造される状況のものだけではない。今の人類の始祖と解されるアダムと、彼に関する多くの情報もそれだ。
 
<アダム>
 
 このアダムがつくられて、肉体の中に霊を注入され、エデンの園に置かれ、罪を犯して追放される。モーセはこうした幻も見せられて、それを記録している。
 アダムは紀元前4000年頃の人物で、モーセより2500年くらい前の人だ。
 
<ノア>
 
 ノアはかの「ノアの箱船」で知られている。
 アダム以後、霊の入っていない人間との結婚が増えた。そこで創造神は霊のある人間のなかで、ノアの家族だけを残してあとは大洪水で死なせてしまう。
 こういう物語も、モーセは記録している。ノアは紀元前3000年頃の人だ。
 
<アブラハム>
 
 アブラハムは、残されたノアの家族から、再び増殖した人類の中の一人だ。
 アダムが罪を犯すことによって、霊を注入された人間であっても、その創造神への感性(霊感)は薄れてしまった。そうしたなかで珍しく創造神を知信していた人間の一人がアブラハムだ。
 
 創造神は彼を在物神だらけの居住地から旅立たせ、創造神の存在を常識とする子孫を星のように増やす。これがイスラエル民族となる。
 アブラハムはモーセより500年ほど前の人である。
 
 +++
 
 これらの人々もまた、モーセよりはるか昔の人だ。そしてその物語には、関連する多くの人々も登場している。超多量な情報だ。だがモーセはこれらを事実として直接見ることはできない。
 なのにこれらのことも物語っているのは、創造神がこれら多種多様な人々の幻をもモーセに与え、記録させたからだ。そういった理由もモーセは書き残している。
 
 
<超霊感者が続いて『旧約聖書』が>
 
 イスラエル民族には、モーセ以後にも幻を受け、それを創造神からのメッセージと「信じて」記録したり、それをベースに民族に関する歴史を記したりする超霊感者が出続けた。
 
  イスラエル民族はこれらも創造神からのメッセージと「信じて」保存した。そしてその蓄積された保存文書を編集し、紀元前400年頃に集大成した。これが旧約聖書となる。
 
 今のキリスト教の聖書でみると、旧約の著者は1100年にわたって分散している。その数は、聖書に名が明らかになっているものだけでも、20人以上いる。
 
+++
 
 その中で、モーセは特別な存在だ。今流にいえば、超々霊感者となるか。それでも十分に表現できない。上記のような、もの凄い量の幻を受けているからだ。
 
 ちなみに彼の受けた幻は、彼からして過去の事柄の幻である。対して、彼以降の超霊感者たちが受けたのは、モーセの時代を基準にしたら、みな未来の事柄の幻である。
 端的に言ってみれば、モーセは自分より過去を向いてるが、彼以後の超霊感者はみな未来を向いている。そういうこともになろうか。
 
<ユダヤ教>
 
 また、この書物をもとに、イスラエル民族の中に、一つの民族宗教が出来ていった。それが「ユダヤ教」である。
 
(「学び方」13・・・・・完)
 
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「正しい学び方」12 ~教典の始まり~

2020年10月02日 | キリスト教の正しい学び方
<理論は教典に>
 
 創造神という神イメージをベースにする宗教は、神とはなんであるかを示す理論を持っていて、それは教典の中に記されている。これは前述した。
 
 キリスト教の場合、教典は聖書だ。聖書は旧約聖書と新約聖書という二つのパートからなっている。
 
<書物なら著者が>
 
 書物には著者がいるはずだ。旧約聖書の最初の五巻の著者はモーセだ。『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』の五巻は「モーセ五書」と呼ばれる。
 
<教典のはじまり>
 
 モーセは紀元前1500年頃の人物で、イスラエル民族の中の一人だった。ところが聖書の冒頭(『創世記』の最初の部分)を開いてみると、我々が住むこの天地が創られた状況が記されている。
 
 そう聞くと、モーセはそんな何億年も前の事柄をどうして書けたか、と誰でも思うだろう。だが、その答えを彼はその書物の中に書いている。
 
 あるとき創造神自らが「オレは万物の創造神だ」と宣言して、そのメッセージを与えてきた、というのだ。
 創造神がメッセージを幻と言葉で与えてきて、これを記録せよ、と言った。彼は、それを創造神からのメッセージと"信じて”書いた。彼自身がそう書いている。
 
<モーセが語りアロンが書く>
 
 少し詳細に言うと、実際に書き留めたのは、モーセの兄アロンだった。モーセは超霊感者だったが、霊感の豊かな人は概して、受けた内容を言葉で書き留めるのは不得意なものだ。
 そこで彼は「私には書けない」と創造神に言った。すると創造主は「アロンに書かせたらいい」と応じた。そんなことまでもモーセはアロンに語って記録させている。
 
 アロンは祐筆の役割をしたのだ。だけど、これはまあ、モーセが書いたと読んでいってもいいだろう。織田信長や豊臣秀吉の手紙も祐筆が書いているのだけれど、これらを信長の手紙、秀吉の手紙、と読んでいって歴史理解が大きく間違うことがない。そんなようなものだ。
 
+++
 
 モーセ(アロン)はメッセージ受信記録を書き留めた。同時に、そういう行為をする自分自身の状況をも、歴史記述として書き留めた。モーセ五書は受信記録書であるとともに、歴史(記録)書でもある。
 
 そして、彼が属するイスラエル民族も、それらを基本的に創造神からのものと受け容れた。彼らはそう「信じて」それらの記録を民族をあげて保存した。
 
 
(「学び方」12・・・・・完)
 
 
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「正しい学び方」10~「信じる」の意味~

2020年09月28日 | キリスト教の正しい学び方
 筆者はキリスト教に関するメチャクチャな誤解を、一つ一つ解いてきている。
 これは新約聖書のなかで”バプテスマのヨハネ”(「ヨハネ伝」の著者ヨハネと別人)が自らの仕事について言っているのと同じ性格の作業だ。
 彼は「主の道をまっすぐにせよ」といっている。
 
聖句ではこうなっている~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「ヨハネの証言はこうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして『あなたはどなたですか』と尋ねさせた。
 ・・・・(中略)・・・・
 彼は言った『わたしは預言者イザヤが言ったように、”主の道をまっすぐにせよ”と荒野で叫んでいるものの声です”』
 
        (『ヨハネによる福音書』1章21-23節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 ここで「主」とは、これから現れようとしている、創造神の御子イエスのことである。 「主の道」とは、これからイエスが教えようとしている「天国」~この語は新約聖書で始めて出てくる~の理解に至るまでの道である。
 
 理解がそこに至る途中には、従来の複雑で誤解に満ちた観念が満ちている。これを悔い改めて道をまっすぐに正せ、と自分は言っているのだ、とヨハネは答えている。
 
+++
 
 筆者のしてるのも、これに似ている。これから本書で明かされていく「キリスト教の正しい学び方」に至る道には、メチャクチャな誤解が日本には特にたくさんある。先にそれを正し、ゴールへの道をまっすぐにする仕事をしているのだ。
 
<「信じる」の不明確さ>
 
 今回はその障害の一つになっている「信じる」という言葉の意味の不明確さをとり除いておこう。
 これは宗教活動全般におけるキーワードでもある。 そしてキリスト教の正しい理解のためには、特に重要な鍵用語である。
 
 にもかかわらず、この言葉は多くの意味内容を含んでいて、現状ののままでは漠然とした状態にある。
それが、あたかも自明であるかのようにして、現在用いられている。それがキリスト教に関する、誤解をもたらしているのだ。
 
<肯定的に受信>
 
 そもそも「信じる」とは定義するならば、その基本的な意味は「信号(サイン、情報、メッセージなど)を肯定的に受信する行為」となる。
 
 詳しくは後述するが、人間は自由意志を持つように造られている。 それ故、あるメッセージが与えられたとき、人は二つの姿勢をとりうる。 ① 心を開いて受容する。 ② 受容しないで心から閉め出す、がそれだ。
 
①はメッセージを肯定する姿勢であり、広い意味での「信じる」だ。
②はメッセージを否定する姿勢であり、広い意味での「信じない」だ。
 
<対・在物神概念では>
 
 だがその心理内容は、在物神に対する場合と、創造神に対する場合では、異なってくる。
 
 ここで在物神概念に関して、若干の追記をしておく。 
筆者は、そのイメージの中身は感慨でできていて、この神とは何かを説明する理論がない、と前述した。
 
 だがそれは、この神は何であるかの言葉が「全くない」と言う意味ではない。
 お稲荷さん(稲荷神社)で狐に内在していると思われている神にも、若干の意味説明はあるだろう。いなり寿司が好き、油揚げが好き、というのもそうだろう。
 
 白い蛇の内にいると想像される神もそうだ。この家の主として家を守っている、等々の理屈は付随している。
 インド古来のヒンズー教にはシバ神などが登場し、それらの神の性格が様々述べられている、と言う。
 
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 だが、その理屈には精緻な論理体系が内在している、ということはない。教祖などの人間が、思いついたように述べた話の域を出ない。
 
 もう少し事例を挙げておこう。
 奈良の三輪神社はご神体は三輪山という山とされてきているが、いつしか蛇も境内に祀られるようになっている。理由を聞いてみたら、「ある人が三輪山を大きな蛇が巻いている幻を見たといったことからはじまる」と。
 それで蛇も祀るようになった」とのことだった。
 その程度の理由もまた、あえて存在理論というような論理を含んでいない。
 
 これもそうだ。
 最近、日本のとある神社で、「女性の願いを聞いて下さる神社」とうたったらどうかというアイデアが関係者にうかんだらしい。実施したら参拝者が三倍になった、という。マーケティングで言う“差別化”が上手くいったのだ。
 
 だが、そこにも存在理論といえるほどのものはない。
その程度の理屈(説明)なら対・在物神感慨にもあるのだが、この理屈は、信じる、信じない、を左右するほどの機能は殆どはたしていない。
 その意味で、在物神イメージには、その神の特性を述べる理論はないのだ。
 
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 そこで、対・在物神では、その「信じる」はそれから得られる「感慨をそのまま受け容れる」、という意味になる。
それには通常、「拝そう」「仰ぎ奉ろう」という感慨が付随する。
そこで対・在物神の「信じる」は、「信拝」「信仰」といったものになる。
 
その心理をまとめて言えば「仰ぎ拝して信じる」となる。
短く言えば「仰拝信」だ。 さらに略せば「仰信」となろう。
 
<対・創造神の「信じる」>
 
 創造神に対しての「信じる」は次のような心理過程で成立する。
 
① 言葉での紹介に耳を向ける。    
  創造神イメージはまず言葉で伝えられる。
 「福音は聞くことから始まる」の言葉通り、耳を向けてみることで、プロセスは始まる。
 
② 受け容れてみる。
    「リンゴは食べてみないと味がわからない」と言う。
   試しにその言葉をうけいれてみることが必要。
   これを「そんなものいないよ、笑わせるな」といってたら、ここでおしまい。
 
③ 聖句を探究して、その概念を知っていく。
    理念がだんだんと明確になってくる。
 
④ 本当らしい、と確信する。
 
~この心理内容を対・在物神のように短く示すには②~④についていうのがいいだろう。
 すなわち「受 ⇒ 知 ⇒ 信」、まとめていえば「受知信」、さらに略せば「知信」となろう。
 
<認識機能の相違>
 
 「信じる」心理における認識能力の働き方の違いも見ておこう。
人間には、感性と理性という認識能力が与えられている。
そして理性と感性が協働して働く認識能力を知性という。英語ではインテリジェンスだ。
 
 対・在物神での「信じる」は、信号受信が感性だけでなされるタイプだ。
 前述したように、在物神イメージの心理的内容は”ジーンとくる”感慨である。感慨の受信は感性だけによってなされるのだ。
 
 他方、対・創造神での「信じる」は、理性と感性が協働することによってなされる。言い換えれば、知性によってなされる。
 
 創造神信号の心理的内容は理念である。理念は言葉と理論を含めている。その理論の筋道を理性が把握し、それに感性(霊感もその中の一つ)が実在感を感じていく。
 
<「信仰」は在物神に適した言葉>
 
 このように、「信じる」という心理は、対・在物神と対・創造神で大きく違う。なのにその区分は現在も自覚されてない。
 その状態で、信仰という語が多くの場合用いられている。現在日本ではこれが「信じる」をいうときの代表用語となっている。
 
 だが、「信仰」は、どちらか言えば在物神信号の肯定的受信のほうに適した言葉である。これは「仰ぎ見る状態での」受信だ。仰いでいたんでは「理解する」というステップは含まれない。
 
 初の邦訳聖書の作成者、ヘボン先生は英語のfaithやbeliefを信仰と訳された。
せめて「信心」にしておかれたらよかった、と思うのだが、キリスト教の神様に高貴なニュアンスを出すために、信仰にされたのかもしれない。
 
<創造神には「知信」で>
 
 だが、信仰という訳語はキリスト教の正しい理解を少なからず妨げている。
 
 創造神信号の肯定的受信では、知性が理解をした上で行うのだ。
筆者はそれを示すために、当面あえて「知信」としている。本稿ではこの語を、信仰に代えて主に使うことにする。
 
(「学び方」10・・・・完)
 
 
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