鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.31 自由吟味者、英国へ移住 !

2016年06月07日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」、本日も続けて参りましょう。

1535年は、ヘンリー8世が英国国教会を強引に設立した年です。

英国の精神史を時代区分する、画期的な年です。

ルター改革がスタートした1517年と並んで記憶すべき年なのです。

+++

聖句自由吟味者を視野に入れることによって、そのことは初めてわかります。

そしてその知識は、「正しいキリスト教の学び方」に不可欠な要素を構成しています。





<現代メールリストを超えた情報効率>


聖句自由吟味者たちは、驚くべき情報ネットワークを形成しています。

彼らは小グループに分かれて、リーダーを一人おきます。

そのリーダーたちが常時連携状態を保ち、交信し合っています。

その様は、今も米国南部のサザンバプティスト地域でみることができます。

+++


中世欧州では、その情報パイプはとりわけアクティブでした。

彼らは、常に逮捕・拷問・殺戮される状態の中で生きていました。

だから些少な変化があっても,即座に知らせ合わねばならない。

その情報は即座にリーダーに連絡され、各々がグループメンバーに伝えます。

このようにして、ネットワークに常時情報が流れていると、そのパイプはきわめてアクティブな状態を保つのです。



+++



このネットワークは、現在の電子メールリストによるそれよりも効率的に機能したでしょう。

自由吟味者は、全員が同じ様な世界観、歴史観を共有しています。

そのような全体観は、日々起きる個々の事項をその中に位置づけ、解釈をもたらします。

取るべき行動の方向も定めます。

だから、メンバーはどんな事件にも似たような解釈と行動見解をもつことになる。

すると、迅速なわかりあいが可能になって、ネットワークは驚異的な効率を発揮するのです。





<自由吟味者は大量移住したに違いない>


「イギリスでカトリックの僧侶たちが追放され、独自の国教会ができた」

「宗教活動が大幅に自由になった」

そういう情報も、欧州大陸の地下で活動していた自由吟味者には即座にいきわたりました。

取るべき行動も、阿吽の呼吸で方向付けられました。

彼等はすみやかに英国への移住を開始しました。

+++


ところでそんなことは、公式の歴史教科書や専門書には全く書かれていない。

そんなことさらっといっていいのか。

鹿嶋はどんな実証資料を基にそれをいうのか。

~そういう疑問を抱く読者もおられるでしょう。



答えは・・・、

~それを直接示す文献資料などもちあわせていない・・・です。

だったらそれはあまりに大胆ではないか。

学問的におかしいではないか。

~こういう感想もあるでしょう。


だが、あえていいます。

~「それはおかしいことではない」と。


+++

考えてみましょう。

自由吟味者たちはいつでもどこでも、信仰上の身分を隠して暮らしていたのです。

「社会の秩序を乱す無政府主義者」と危険視されていたのでそうするしかなかった。

それが国外移住するとなったら、その公式の文献資料など残るがありません。

だが、ないからといって、何も言ってはならない、ということにはなりません。

筆者は実証資料の大切さを否定するものではありませんが、「実証主義」には反対です。

それは歴史記述者の想像力を、非常にしばしば妨げるのです。

+++

余談ですが、戦後の社会科学者には形式的な実証主義にしがみついて食べている人が多いです。

鹿嶋は、自分の生業(流通経済学、マーケティング学)をその大勢のなかで行うのに苦労してきました。

いまもそうです。


+++

話を戻します。

自由吟味者が、後にアメリカ大陸に移住する際については、

「小さなグループに分かれて乗船した」

「数多くまとまって渡航すると不審に思われるからだった」

~といった回顧の資料はあります。

だが、それだって、後年の回顧です。

乗船者の信仰上の身分を記した実証資料など、存在するはずありません。





<自由吟味活動広がる>

だが事実として自由吟味者たちは、大挙して英国に移り住んだのです。

それをないことにしたら、以後の英国史には漠然としたところがどんどん出来ていきます。


英国では、彼らは社会の表面に出て活動しました。

そして、その真摯な聖句吟味の姿に心打たれ、群れに加わる人が多く出ました。


+++

元英国女性首相サッチャーの回顧録にもその一端を垣間見る話があります。

彼女の両親は雑貨店を営んでいました。

そのもとに幾人かの大人が影のようにやってきた。

そして両親と共に聖書を開いてなにやらひそひそ話し合う。

終わると彼らはまた影のように去っていく。

そういうことが周期的にあったと、少女時代の思い出として書いています(日本経済新聞「私の履歴書」)。






+++

これは自由吟味者のスモールグループ活動以外のなにものでもありません。

彼女の両親も群れに加わっていたのです。

サッチャーの読書好きも、幼少からの家庭の空気によるところが大きかったのかもしれません。






<精神活性化の仕組み>


自由吟味者たちは英国一般人民に広範な影響を与えはじめました。


+++

ここで 再び示しておきましょう。

聖書を自由に吟味する人達は、どうしてその精神と知性が活性化するのか。

聖書はこの世界で「真理(変わらざる究極の知識)への夢を提供する」唯一の書物です。

そこには「万物の創造神が人間に伝えたメッセージが含まれている」という可能性があります。

そういう夢を期待させる唯一の書物です。


+++

そのつまるところの真偽は、認識能力の有限な人間にはわかりません。

ただ、実際に探求してみると、「これは究極の真理では!」と思える知恵にぶつかるのです。

人間が経験から得た知識と思えないような、驚くべき知識に遭遇する。


それに触れると、人の精神と知性は電気に触れたように覚醒され、活性化します。

この書物の吟味が精神活力にもたらす効果には、強烈なものがあるのです。


そして、この聖書の言葉の吟味を、スモールグループで行うと、活性効果はさらに飛躍します。

自由吟味活動では、このスモールグループ方式を、定番のようにして併用しています。






<七つの海の支配者に>

自由吟味者たちの活き活きした姿に触れ、取り入れて、英国人民の精神は活性化しはじめました。

後の18~9世紀になると英国では、自由吟味活動が醸し出す活性蒸気が地面から沸き昇ってくるような状態になっています。

この空気を触覚することが、英国史の総合的理解のカギにもなります。

+++


近代英国が突如、スペインの無敵艦隊を撃破し、七つの海を支配して黄金時代を迎えたのも、この人民活力によります。

欧州大陸では、カトリックとプロテスタントが連合して教理主義的思想統制を維持していました。

一つの正統教理を定め、それでもって人民の精宗教活動を抑圧していけば、人民精神は沈滞します。

他方、英国では自由吟味で人民の精神は活性化した。

この対照が結果的に、大陸の老舗大国の相対的地盤沈下をもたらしたのです。





<判例法と大陸法>


余談です。

英国の法体系が、判例ベースの判例法になるのも、自由吟味の精神土壌によります。

従来、全欧州の法体系は、ローマ法の法典をベースにしたものでした。

そのなかで、判例ベースの法体系が英国で出現した。

それによって、従来の体系は欧州大陸だけのものとなり、大陸法と呼ばれるようになった。

+++

英国でこんな奇跡的なことが起きたのは、自由吟味活動が立ち昇らせた蒸気による以外に考えられない。

個々の聖句を自由に吟味しつつ個別的に理解を深めていく、という思考方式は、判例法の方法そのものです。

自由吟味の精神土壌がなかったら、判例ベースの法体系は出来上がらないのです。




(Vol. 31 自由吟味者、英国へ移住!  完)













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Vol.30 英国国教会が海峡を越えて噴火

2016年06月04日 | キリスト教の正しい学び方







こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」本日も続けて参りましょう。

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今回から、教会の呼び名を変えなければなりません。

教会の運営方式は、基本的に二つあります。

一つは聖句自由吟味方式で、これは信徒個々人に聖句解釈の自由を与える方式です。

もう一つは教理統一方式で、こちらは教団本部が、「これは」唯一の正統な解釈だ」といって信徒に与え、これで活動を統一していく方式です。


+++

これまでの話では、教理統一方式をとる教会は一つだけでした。

だからその呼び名でよかったのですが、先回、その中にルター派教会が登場しました。

こうなるともう具体的な名称でないと、従来の教会も示せなくなります。

そこで、実名を登場させましょう。

もう、おわかりの読者も多いと思いますが、その名はカトリック教会です。

ルター派教会は、カトリック教会の中から産声を上げたのです。


+++


ルターの改革運動は、直接的にはルター派教会を出現させました。

だが、間接的には、海を隔てた島国に、もう一つの教会も成立させています。

英国国教会、短くは、英国教会、英語名ではアングリカン・チャーチがそれです。


+++

これも教理統一方式で活動する教会です。

こちらは、ルター派教会が正式にカトリック教団に承認される前に、出来ています。

アウクスブルクでの「宗教和議」で、カトリックた、ドイツ連邦国内でルター派がカトリックと同等に教会を開く権利を認めたのが1555年です。

英国教会が成立したのは、なんと1535年で、その二十年も前です。

だが、ルター戦争開始からは、20年近くが経っていました。


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こちらは、カトリック教団の承認など受けないで出現しています。

時の英国王、ヘンリー8世が一方的に設立した。

彼は、強引に英国教会を作り、 それまで英国でも国教教会だったカトリック教会に代えて、国教にしてしまったのです。








<離婚許可状が契機に>


直接の成立契機は、国王の離婚問題でした。

ヘンリー8世はスペイン王室からキャサリンという姫を王妃に迎えていたのですが、20年たっても男の世継ぎが生まれませんでした。

そこで国王は女王の侍女をしていたアン・ボレインという女性に生ませようとした。

だが、彼女は愛人としてではいやだと応じません。

やむなくヘンリーは王妃と離婚をしようとする。

だが、英国は伝統的にカトリック教会を国教としてきていましたから、ローマ教皇から離婚許可状をもらう必要がありました。

ところが申請しても認可状はきませんでした。

豪腕ヘンリー8世は、ならば国教を取り替えるだけのことと、イギリス国教会を作ってしまったのです。






<カトリック方式の英国版>


そういう事情ですから、運営方式はほぼカトリックのそれをスライドさせたものとなりました。

教会に教区を設け、人民を各々居住地の教会に所属させるのも、カトリック方式の踏襲です。

カトリックの法王に相当する存在も作った。

これをカンタベリー大司教とし、最終決定権を持たせました。





<大司教任免権は手中に置く>


けれども、国王はその任免権を、自らの手に保持しました。

すると、政治から宗教にわたって国王主導で統治できる体制が出来上がります。

こうしてヘンリー8世は、自らを絶対権者とする、絶対王制を確立したのでした。






<シェークスピアは追放されたカトリック聖職者か?>


英国でのカトリック教会の聖職者は、突然解雇され追放されました。

失業保険も何もありません。

余談ですが~

彼らの一グループがが生計を立てるために、ストラスフォードにある劇場の座付き作者になった。

その際、彼らはシェークスピアという実在の人物を表にたて、彼の作として名作を発表していった、

~という説にはかなりな根拠があります。

作品に、聖書の思想を深く知っていなければ書けないような事柄が多いのです。




<ドイツの抗議エネルギーが英国で噴火>

話を戻します。

当時英国は、島国の田舎国でした。

カトリックが軍隊を送れば、容易に潰せる中小国家でした。

ところが、カトリックはそれが出来なかった。

スペイン、フランスの大軍は、ルター戦争で、ドイツに釘付けにされていたのです。

ヘンリー8世は、当然それをも読んで行動を起こしたのでしょう。

+++

だが、遠因もあった。

ヘンリー8世は、それまでにも、ドイツで起きている新事態の情報を得てきていました。

欧州一円支配者の強大な権力に反抗する戦争が20年にもわたって続いてきている。

この情報によって欧州世界の空気の変化を、彼はあらかじめ察知してきていました。

それが、彼の決断の背景にあったにちがいありません。

その意味で、ルターのプロテスト(抗議)エネルギーは、英国教会を噴火させたといえるでしょう。




<宗教統制の緩い国が出現>


新国教会には、僧侶が新しく任命されました。

これらの新僧侶には、カトリック僧侶のような厳密かつ執拗な宗教統制の技量はなかった。

統制のプロがいなくなった英国では、自由吟味者への攻撃も緩くなりました。

(それでも自由吟味者の火刑はあったようですが、頻度はきわめて少なかった)

こういう空間が、ルター戦争の真っ最中、戦が決着する20年も前に、海峡を隔てた島国に出現した。


これがまた欧州に新たな事態を、将棋倒し的に引き起こしていきます。




(Vol.30 英国国教会が海峡を越えて噴火   完)









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Vol.29 ルター「宗教改革」の実像

2016年06月01日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」本日も続けて参りましょう。

+++

今回は、資料探索の話を中断して、本筋にもどろうと思います。

探索の話ばかり続けますと、「キリスト教の正しい学び方」が主題、という印象が薄れていきますので



そこで本日は、ルターの「宗教改革」(1517~)に入ります。






<宗教改革の定説は「ゆがんだメガネ」>


宗教改革に関する、教科書、専門書の定説はこうですよね~

従来のキリスト教はカトリック(旧教)である。

そこにマルティン・ルターは新教(プロテスタント)を出現させた。

こうしてキリスト教活動は、旧教、新教の二つの流れで構成されることになった~と。


+++

だが、このメガネはゆがんでいます。

この枠組は、聖句自由吟味活動という一大潮流が視野に入っていないものです。






<教理統一教団は後発会社>

これまでに述べたように、キリスト教会は、聖句自由吟味活動によって始まりました。

この方式でキリスト教は大普及した。

100年以上にわたって、その動きが続きました。

その後に、教理統一方式の教団があらわれました。

この教団は、後発会社なのです。

後発企業の幹部僧侶たちは、聖書の解釈体系(教理)を一つ入念につくりました。

そして、それを唯一正統な解釈として、信徒に与えていく方式をとりました。




<大衆信徒に大量対応するのに有利な方式>

この方式は、大衆信徒を大量に教会に所属させ、効率的に運営していくのにとても有効でした。

教団規模は急成長しました。

教会員も献金も多量になり、財力も急増していきました。

そして、ついに、時の政権(ローマ帝国)に唯一国教として認められました(392年)。

国家権力を使える立場を得たのです。






<本家本元を攻撃しはじめる>

すると彼らは、自分たちの出身母体であり、本家本元の自由吟味方式の教会を攻撃し始めました。

活動者たちを絶滅させようとしていった。

なんとも皮肉な歴史展開です。

だが、これが「キリスト教の学び方」の正しい枠組みなのです。





<ルターは教理統一教会育ちの聖職者>


さてルターです。

ルターは、自由吟味活動家ではありませんでした。

彼は教理統一教会の教職者だった。

この教会の神学校で育ち、僧侶の資格を得て働いていました。

知力が高い人で、同時にこの教団の神学校の教授も務めていました。








<内部から揺さぶる>

その彼が、教団の内部から教会の行き方に異議を唱えた。

それがルターの改革運動でした。

彼は内部から揺さぶりをかけたのです。

+++

彼の非難対象は、教皇(法王ともいう)制度でした。

この絶対権力社長制とも言うべき制度に異議を唱えた。

そんなものは「聖書的には成り立たない」と主張したのです。




<優れたキャンペーン能力>

教団本部に異議を唱えたのは、彼が最初ではありません。

ジョン・ウィクリフやヤン・フスらは改革運動の先駆者でした。

だが、みなつぶされていきました。

++

ところがルターは、つぶれなかった。

彼は広告キャンペーンの名人でもありました。

改革キャンペーンが開始されると同時に、隣国フランスで、ルターのの所論を述べた本が発刊されました。

そういう手はずを、彼はあらかじめ整えていたのです。

(後にもう一人のスターとなるカルバンはこれに影響を受け、フランス、スイスで反教理統一教会運動を企てました)






<地元の諸侯の賛同も得ていた>


ルターは地元の封建諸侯たちにも、十分な根回しをして、運動に賛同を得ていました。

これには、彼の年上の奥さんの貢献が大きかったようです。

彼女はサロンを開き、地元の有力者との入念な交わりを実現していました。





<見事な広告発信>

それらを背景に彼は、1517年、本国ドイツで発信を開始しました。

「現在の教団のやり方はおかしい!」

「法王制度なんて、聖書に反している!」



+++

発信方法も、ドラマチックでインパクトは強烈でした。


ヴィッテンベルクという都市に、教会兼城郭になっている大きな建物がありました。

その城門の壁に、本部教会への批判を書きつらねた紙を彼は貼りつけた。

深夜に95箇条に分けた読みやすい文章にして、貼り並べた。

朝になると、人々がその前の広場に集まり見るという仕掛けです。





<機を見てイベントも仕掛ける>


ルターはまた、有能なイベント演出家、かつ、タレントでもありました。

教団本部は、彼に破門状を出しました。

すると彼は、神学校の校地の一角で薪を燃やして、キャンプファイヤーのようなことを始めた。

そして破門状を火の中に投げ入れました。

集まった神学生たちの目の前で、それをした。

破門状も、一大イベントに仕立て上げてしまうルターでした。





<教理統一教会、大軍団で攻撃>



教理統一教団は、軍隊を送って反抗運動を粉砕しようとしました。

当時、教理統一教会の傘下にあったのは、フランスとスペインの軍隊でした。

これらは教理統一国家群の中の、いわゆる「宗主国」でした。

教団はこれらの大軍団で運動を押さえ込もうとした。


ところが、地元の封建諸侯たちは反撃に立ち上がったのです。

彼らは、長年教理統一教会の統率下におかれ、その命令に従ってきていました。

それがなんと、ルター支持にまわった。

彼らは、ルターをかくまい、戦いを開始しました。







<経済問題が大きかった>


余談です。

地元の諸侯がルターを支持したのには、経済問題も大きく影響していたようです。

従来国教だった教理統一教会は年々上納金を課してきていました。

これが多額だった。

諸侯たちはルター教会を設立して、この上納金負担から逃れようともしたのでした。


+++

ちなみに、後年、北欧諸国もまた、ルター教会支持に回ります。

この時にも、経済動機が大きく働いたようです。

これについては、インタビュー調査で証言してくれた人もいます。

筆者たちが北欧諸国の実地踏査をしたとき、 スウェーデンのある大学教授が、経済動機の大きさを指摘してくれました。





<日本戦後の高度成長期に類似>


余談の余談ですが、このあたりは、面白いですね。

日本のお寺や坊さんにも、法外な葬式、法事費用を人民に貸す時期がありました。

昭和35年ころに始まる高度経済成長期がそれです。

このころ、大衆は霊的な事柄にまったく無知だった。

それが霊的なことへの恐れを生み、彼らは坊さんのいうことに恐怖をもって従っていました。

いわれるままに法外な費用を支払っていた。

+++

一般家庭の葬式で、読経代金が60万円、戒名代金が20万円といったケースも希ではなかった。

そのほか、初七日、四十九日などの行事を営ませ、その都度高価な読経料を課した。

経済成長で大衆も何とか工面して支払えるようになっていたこともあって、彼らはしたがっていました。

「寺の坊さんがベンツに乗る」時代がやってきた。

いい気になった僧侶には、舞い上がる人もいたのです。





<弱みにつけ込むことは続かない>


けれども大衆は、徐々にこの状況に疑問を持っていきました。

そして「葬儀は親族だけで済ませました」と報告し、葬式をしない家族も現れた。

葬式代をディスカウントする葬儀屋も現れました。

僧侶の読経出張サービスをインターネットで、安価に通信販売するビジネスまで現れました。


+++

無知の弱みにつけ込むと、事態はこういう風に反転するのですね。

欧州の教理統一教会にも、その時がやってきたのでしょう。






<ついに一円支配に風穴>

話を戻します。

ルター戦争は長引きました。


+++

結局、共に疲れ果て、双方妥協しあって終息した。

アウグスブルク宗教和議(1555)でもって戦いは終結したのです。


そこでは~

 ルター派に、自派の教会をつくる権利が認められました。
 
  領主は、従来から存在する教理統一教会とルター派教会のどちらかを選択できることになった。

  そして人民は、領主が選択した方の教会に所属すること

    ~となりました。


欧州における、教理統一教会の一円支配は終わったのです。



   


<聖句吟味が自由になったわけではない>

ただし、これで聖句吟味活動が自由になったのではありません。

ルター派教会もまた、教理統一方式の教会で、自由吟味活動は相変わらず異端として制圧対象になっていました。

ルター自身も、自由吟味活動など許したら、教会も社会もバラバラになってしまうと思っていました。

その意味で、ルターの反対運動は、同じ方式の教団内部でのコップの中の嵐にすぎませんでした。

+++

けれども、それで、欧州は変わったのです。

アウグスブルク宗教和議で、一円支配体制のドイツでの終焉状況は固定しました。

ドイツのこの情勢は波及しました。

欧州の人々の社会意識、空気は大きく変わりはじめました。

ルターの改革運動とそれに続く宗教戦争は、欧州で1200年に及んだ中世の統制社会に風穴を開けました。

それによって欧州に新風が吹き込み、新時代の扉が開いたのです。





<自由吟味者の自由精神が噴火>


この動きに自由議員身者は、直接変革ショックを与えたのではありませんでした。

だが、彼らが地下で形成する自由の熱気のようなものは、ルターの改革にも影響していたでしょう。

具体的な歴史資料にはなりえなくても、「地から湧き上がる(思想の)空気」というものは、あるのです。

+++

北欧地域ほどではないのですが、ドイツは教理統一教会の宗主国、フランス、スペインからしたら僻地です。

やはりアンダーグラウンドで活動する聖句自由吟味者が、一定数いたと見るのが自然です。

後にドイツで起きる農民戦争(1524-5)には、過激化した自由吟味者が多数参加していたのですから。


+++

ルター戦争までのドイツの精神風景はこうだったでしょう。

~すなわち、自由吟味者たちが地下に潜んで活動し続けている。

その上の、地上では一般人民が従順に生きている。


+++

戦争は、その光景を変えました。

~まず自由吟味者が地表近くにまで上昇する余地ができた。

彼らとともに自由精神も上昇した。


その暖気に暖められて、一般人民も自由と反抗の精神を心に形成していったでしょう。

権力者への対抗意識をもち、対抗行動を取るものも現れた。

この頃のドイツ人民の精神風景を上空から鳥瞰すれば、地下の自由精神マグマが、ところどころで噴火しているようだったでしょう。


(Vol.29 ルター「宗教改革」の実像  完)



    








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Vol.28 マーケティング、CI、キリスト教の理念

2016年05月19日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」本日も続けて参りましょう。

+++

前回、小さな小さな邦訳冊子『血まみれの道』が、原典不明の謎の本であったことを述べました。

後に筆者は、その探索を7年後、米国南部のバイブルベルト地帯で行うことになります。

だが、そこに一足飛びに行かないで、まずはそこに至るまでの経緯を述べておこうと思います。

でないと、筆者の探究自体がトンデモ本ならぬ「トンデモ行動」に見えてきてしまいますから。


+++


少し学問的な話になります。

煩わしいとお思いの方は、以下、ハウスマークで囲まれた部分は、飛ばしていいです。




 



<マーケティングの新分野、CI>


筆者の生業は、流通経済学の研究と教育でした。

この経済学は経営視点からの流通活動をも研究対象に含んでおります。

そしてそれは、英語では、マーケティングとも言います。

筆者は、 マーケティングの研究屋でもありました(今も研究は続けていますが)。






<コーポレート・アイデンティティ>


さて、そのマーケティングに、1980年代頃、新しい研究課題が出現しました。

コーポレート・アイデンティティ(Corporate Identity)といいます。

頭文字をとってのCIという語をご存じの読者もおられるかもしれませんね。


+++

マーケティング学ではその研究は、企業のシンボルマークを対象としてはじまりました。

以後、CIの研究と論議は、そういう視覚的(ビジュアルな)用具をめぐって続けられていきました。

実践分野では中西元男や深見幸夫とかいった大家も現れ、活躍しました。

筆者もその研究を進めましたが、まもなく、言葉の上での疑問が浮かびました。




<アイデンティティって何?>

コーポレートは企業です。

それはいいのです。

だが、アイデンティティという語の意味がはっきりしなかった。

まあ、いまだからいいますけれど、マーケティング学者さんというのは、あまり深い思索をしない人種でした。

今も基本的には同じです。

彼らは、アイデンティティとは、シンボルマークのようなものだ、という認識で議論しておりました。

なんの疑いを持つことなくそうしていた。


+++

<旧約聖書に創造神の属性として>


だが筆者はそれでは気持ち悪くてしょうがなくなりました。

そこで、その語の由来を調べてみました。

すると、理念としてはとても旧いものであることがわかってきました。

+++

それは既に旧約聖書のなかに 出現していました。

旧約聖書のゴッド、すなわち、万物の創造神には「変わらざる方」という属性理念があります。

「毫も変わらなければ」それは永遠にそのままである続けますから、永続者でもあります。

そういう理念が旧約聖書に、そもそもとしてありました。





<ギリシャ哲学の「同一性」に>


この理念が、紀元前6世紀頃にはギリシャに流れ込んでおりました。

ユダヤ人は、世界に離散する歴史を繰り返しています。

中国の漢字にすら、彼らの思想の影響が入り込んだと推察される文字が見られます。

古代日本にも移住していたという説もある。

ギリシャはイスラエルのほとんど隣国ですから、もう「変わらざるもの」の理念も自然に流入していたでしょう。


+++

ギリシャ哲学者はこの理念を学問化しました。

論理学と数学をベースにした彼らの学問知識でもって、学問として取り組んだのです。

「変わらざるもの」を論理化したわけですね。

そしてそれを「同一なるもの」という言葉で表現しました。

任意の二つの時点を取って、全く同一ならば、それは「変わらざるもの」ということになりますからね。


ちなみに、その性質が「同一性」です。

英語では sameness です。

現代日本では、その言葉を取って、「同一性」といっています。

「性同一性」とかね。


+++

ギリシャ哲学者は、この言葉を使って、「はたして永遠不変なものは世界にあるか」と議論しました。

そこから沢山の副産物、存在論や認識論が生まれました。

それは後に、多くの学問的資産を人類世界にもたらします。





<神学の中で「アイデンティティ」に>

そのギリシャが次にローマ帝国に飲み込まれます。

ギリシャ哲学の知識も帝国での知的資産としてとりこまれます。


+++

紀元後、ローマ帝国ではキリスト教が大普及していました。

そのキリスト教活動の中に、神学(聖書の中の論理体系を探求する学問)ができました。

それが、ギリシャ哲学の論理的思考を取り込みました。

そして、旧約聖書の中にある創造神の属性「永続不変者」を神学的に考察しました。

その際、「変わらざるもの」に新たなラテン語名が与えられました。

identite がそれです。

紀元後2世紀の後半のことです。

こうしてわれわれ今日の流行語、アイデンティティの源が出来たのです。


+++

時は流れてルネッサンス時代となります。

このときギリシャの学問が再評価されました。

中世の期間中「哲学は神学のサーバント」といわれてきた知識が、分離独立して、浮上した。


アイデンティティ論も新展開しました。

ライプニッツの「モナド〈単子)論などはその代表ですが、この辺りは割愛します。





<エリクソンが一般用語にする>


ともあれそんなわけでアイデンティティという語は、神学的、哲学的概念でした。

こういう深い意味の用語は、なかなか一般日常語化はしないものです。


+++

ところが、現代になって、エリクソンという心理哲学者が、それを一気にポピュラーなものにします。


彼は・・・「変わらざるもの」という理念から、⇒ 「物事の深いところにあるもの」

⇒ 「物の中核にあってそれにまとまりを与えているもの」という風に連想展開をしたのではないでしょうか。


とにかく、アイデンティティを「人間の意識のまとまり (英語ではunity: 一体性といってもいい) に関連する理念」として用い始めました。





<属性意識を「アイデンティティ」で表現>


例をあげるとわかりやすいです。


たとえば、人間は自分について様々な所属(広くいえば属性)意識を持っています。

日本国民、東京都民、山田家の一員、**校の同窓生、等々です。

それが心のなかでまとまりを持っていると、その人の意識は一体性を得て、統一感覚を得ます。

すると人は快適な気分になるんですね。


+++

逆に、まとまらないと、意識は分裂症的になります。

すると人の気分は、不快で辛く苦しくなります。


+++


これらの属性イメージに、エリクソンは「アイデンティティ」の語を与えました。

民族アイデンティティ、コミュニティアイデンティティ、ファミリーアイデンティティ、スクールアイデンティティというがごとくです。





<属性イメージを統一する意識体は「自我アイデンティティ」>


さらにエリクソンは、これらを統一させ一体化させようとする意識体をも考えました。

そういう意識も、人の心の中核にある、と考えたのです。

そしてそれを「エゴ〈自我)アイデンティティ」としました。


+++


彼はこの理論でもって、戦後のベトナム戦争時代に発生した奇異な若者の心理を説明しました。

ヒッピーと呼ばれた彼らを、「アイデンティティが意識の中で統一されない」人間だと解説した。

そしてこの症状にアイデンティティ・シンドローム(アイデンティティ症候群)という名を与えました。


+++


それが結構「わかった気持ち」に人々をさせたのですね。

マスメディアも彼の概念を頻繁に用いて、社会問題を論じました。

エリクソンは一躍時代の寵児となりました。

それと同時に「アイデンティティ」という語も、流行し、一般用語になったわけです。




<ほとんど気分で>

コーポレート・アイデンティティの語は、その流れの中で誰かが言い出したのでしょう。

「その気分で」といってもいいかもしれませんね。

それが広がったものだとおもわれます。

+++

このとき漠然ながらも考えられたことを推察すると、たとえば、次のようにもなるでしょう。

つまり~

集団の成員が同じシンボルマークを共有したら、同じイメージを共有するのだから、一体性は高まるだろう。

だから、企業のシンボルマークはコーポレート・アイデンティティともいえるのだ。

~といったごとくです。


実際、エリクソンの考えは、個人だけでなく「人間集団にまとまりを与えているイメージ」にも応用出来そうなところをもっています。

その思考はかなり、直感的、連想的ですけどね。

ただし、この種の思考からは、用語の定義は~当然ながら~出てきません。









~以上は学問的な話です。

こんなことは、興味のない人は、飛ばしていいです。


+++

直接大事なのはこれだけです~

どうして、コーポレート「アイデンティティ」などと言う言葉が使われるのか。

それはエリクソンという心理哲学者が、人間心理における「一体性形成要素」を示すに、アイデンティティの語を使ったからである。

米国でその意味を種としたアイデンティティが流行語になったからである。


ならば、その用語は人間「集団」にも応用できるだろう。

成員が共有し合って一体性を形成する要因とするのだ。

さすれば、シンボルマークも、アイデンティティ要素となるだろう。

のみならず、日本の富士山もそうだ。

これはマークではないが、同じ視覚的なシンボルだ。

日本人は、みんな、富士山というビジュアル物を共有している。

それでもって、日本国民としての一体性の意識を補強している。


企業も人間集団だ。

だから、従来コーポレート・マークといっていたものも、コーポレート・アイデンティティといおう。

~こうしてCIの語は出来たのです。





<理念も一体性要因になる>


筆者はそう理解し、それはそれでいいと考えました。

そしてもう一歩前進してみました。


~集団の一体成形生要素は、なにも、シンボルマークや他の視覚的なものに限らないではないか。

集団で共有する理念もそうであるはずだ。

たとえば成員が自己の集団に関する理念を持ち、自分をその一員としてのイメージしたらどうなるか。

彼らがその理念を共有するほどに、集団としてのまとまり(一体性)は増すだろう。





<内的ID,外的ID>


そして考えました。

ならばその理念にもアイデンティティの語を与えたらどうか。

それはシンボルマークなどのビジュアルな共有物とは違ったアイデンティティ要素になるだろう。


ではそれをビジュアル物と区分して、「インナー・アイデンティティ」と呼ぼう。

従来のシンボルマークは、外的な共有物だから「アウター・アイデンティティ」としよう。


~するとCIは、インナー(内的なもの)、アウター〈外的なもの)とで複眼的に見るべきものとなる。

また、インナーの考察を進めれば、CI論は、経営哲学の領域とも繋がっていくだろう。

筆者は、そう考えました。





<理念の構造>

ここで「理念」という言葉も明確にしておきましょう。

文字から行けば「念」とは「深い思い」です。

「理」とは、その思いに筋道を与えたものです。

筋道を与えると、それは概念になり、言葉になります。


+++

言葉で理念を集団で共有すれば、成員は同じ考えを共有することになる。

さすればそれだけ、考え方が似てくるでしょう。

それが集団の一体性を高めるでしょう。





<国家事例の方が理念内容は豊富>


筆者は企業のインナー・アイデンティティの事例収集を志しました。

個別事例が増えれば、共有理念に関する一般的理論もえられていくでしょう。

+++

そこで成員が共有し合って一体性を形成していそうな企業理念を具体的にを調べ始めました。

その結果、企業のもつ共有理念は、概して思想的にそんなに豊かなものでないことがわかってきました。

そのくせ、そんなものでも探索には結構エネルギーがかかることもわかりました。

企業にはいわゆる企業秘密が多く、それが支障になりがちなのです。


+++


筆者は、国家の理念についても概観してみました。

こちらは同じ人間集団でも、企業より遙かに豊かな思想内容をもっていました。

しかも、幸いなことに、こちらではその理念がほとんどオープンになっています。

筆者はそれを素材にして企業のID政策を考えたらいいのではないか、と考えました。


そして国家理念となると、ダントツに最適な経験素材がありました。

米国がそれです。

この人間集団では、個人の自由が世界でももっとも広範囲に認められています。

それでいて、成員の一体性意識はとても強いのです。

筆者は、米国を主要対象と定めました。






<米国国家理念の中核はキリスト教理念>


米国の国家理念となると、その代表はキリスト教の理念です。

大統領が就任式で、聖書に手を置いて宣誓するのもそれを示しています。

米国のキリスト教活動と理念を調べよう。

1990年代前半までには、筆者はその見解には到達していました。

若干の調査もし、新潮社で本も書かせていただきました。

+++

だが、具体的な手触りが、イマイチでした。

その後の米国での実地踏査でも確信ある答えには達せられませんでした。

(この踏査は前述した米国での仕事の機会~1996-7年~に行いました。これについては、また、後述します)


+++


一口にキリスト教理念といってもその対象範囲は広大です。

問題は、そのなかでいかなる思想要素が米国の国歌アイデンティティ(一体性)形成に効いているかです。

それがはっきりしない。

筆者の心風景は漠然としていました。

1997年頃まで、その状態が続きました。


+++


そうしたなかで、筆者の心に不思議な思いが生まれました。

このテーマの解明に、あの小冊子『血まみれの道』の原典は、不可欠な鍵を秘めているのではなかろうか。

それは国家アイデンティティ政策、ひいては、企業アイデンティティ政策にも深い知恵を与えてくれるかもしれない。

その思いは、成長し続けました。



(これは、訳者である「一匹狼牧師さん」を捕まえようとするよりも、米国の現場で原典を本格的に探求した方がいいな・・・)


筆者は、7年後に在外研究機会が得られそうな状況にありました。

そこでのCI研究計画の中に、謎の冊子の原典探索も含めよう。


そうすれば、その過程でまた、予想外の副産物も得られるかも知れない。

かくして探索は7年後に先送りされたのでした。




(Vol.28 マーケティング、CI、キリスト教の理念     完)







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Vol.27  衝撃本『血まみれの道』の謎

2016年05月15日 | キリスト教の正しい学び方







こんにちわ。


「キリスト教の正しい学び方」、今日も進めてまいりましょう。


+++


前回、聖句自由吟味者の悲劇をリアルに見せてくれる一冊の小説を紹介致しました。

その際~、

ここで示されているカタリ派虐殺の事件は、実は、欧州全域で1200年にわたって起きてきたことの一つに過ぎない,

作者箒木氏はその視野はお持ちでないようだ、

~と申しました。


+++

するとこんな疑問もわくでしょう。


~だけど鹿嶋は、そんなこと、どういう根拠でいうのか?

公式の歴史教科書にも専門書にも記されてないようなことだというが、少なくとも、根拠とする何らかの資料があるはずだ。

全般的な情報を示した資料でなければならないだろう。

それは何で、どうやって入手したのか?


~今回はそれへの応答の一端を披露しておきましょう。






<邦訳冊子『血まみれの道』>


実は筆者にこの視野を与えた最初の資料は、一冊の小さな冊子です。

英語本の邦訳書で、タイトルは、『血まみれの道』です。

振り返れば、出会いはもう20年前のことであります。


+++

1900年代の中ごろのことです。

筆者は、一年間の米国での仕事を終えて帰国しました。

まもなくして、知り合いの牧師さんが一冊の冊子を知らせてくれました。

「なんか強烈な本があるよ」と、話題半分に小さな邦訳冊子を見せてくださった。

















<トンデモ本か?>


宗教ジャンルの書物には、興味本位の「トンデモ本」がとても多いです。

その牧師さん自身も、そんな気分のようでした。

「帰国後の気分転換にもなれば・・・」といったムードで見せてくださいました。

案の定、そこには従来学んできたキリスト教史、西欧史、の常識とかけ離れた事柄が書いてありました。


+++


一読してみて、筆者はよくあるトンデモ本の類いを連想しました。

「血まみれ」とかいった題名の言葉も、どぎつい感じでした。

表紙のイラストからもそんな印象を受けました。






<著者に真摯な姿勢を感じる>



けれども、再度読んでいくと、この著者に、とても真摯な姿勢が感じられてきました。

さらに読み続けると、筆者のキリスト教知識を埋めてくれるような情報も、見つかりはじめました。


+++


筆者は、従来より、学校で学んだ西欧史、キリスト教史に、空白のような部分をいくつか感じてきていました。

たとえば、英国史で清教徒(ピューリタン)と呼ばれる人々が出てきます。

教科書、専門書の説明では、この人たちの革命行動の哲学がよくわかりませんでした。

いくら読んでもわからない。

だから関連した事柄、~たとえば、こういう人々が英国で何故出現したのか、何故あのような行動をとったのか~、なども漠然としたままでした。

こうした空白部分を、この冊子情報は埋めくれました。


+++

もちろん、それが歴史事実であるかどうかは、確かめる必要があります。

鹿嶋は、ともあれ原本に当たってみよう、との意を強めました。







<原典情報がない!>


邦訳冊子には原著者は、J.M.キャロルと書いてありました。

訳者は、田嶋浩次とあった。 


当時筆者は、現役の流通経済学(マーケティング)の研究と教育を生業としていました。

そのせいか、有益そうな邦訳書を見ると、反射的に原典と照合しようとする習性ができていました。

特に、この資料は強烈に反常識的な内容の冊子です。

筆者はすべては原典をみてからだ、と考えました。


+++


ところが、この邦訳冊子には、原典の情報がいっせつ記されていませんでした。

あるのは著者名だけです。

翻訳本では原本の題名~この場合は英語~などの情報を示しておくのが当然です。

それも記されていない。


筆者は、訳者に直接尋ねてみようとしました。

だが、訳者の住所も電話番号もいっせつ記されていなかった。

ただ、発行者と印刷者が「バプテスト文書出版」とだけあり、私書箱の番号だけが記されていました。


(どうも、発行者は訳者ご自身らしいな・・・)


こう推測した筆者は、その私書箱あてに往復はがきを出しました。

「訳書に感銘を受けた。ついては原著書の情報をお教えいただきたい」との旨を「往信」側に書いて出した。

・・・ところが、「返信」は待てど暮らせど来ませんでした。

+++

しばらくして、この方は日本のバプテスト派教会の牧師さんらしいことがわかりました。

その筋の人を頼って接触を試みました。

だが、「離れ狼ないしは羊」のような存在らしく、牧師との接触もあまりしない人という。






<米国でも見つからない!>


やむなく米国の大学で教師をしている友人に調査を依頼しました。

彼は、中西部の私立大学で日本語担当の助教授をしつていました。

その一方で、牧師として日本人居住者のための日曜礼拝をボランタリーで開催している、という人でした。

筆者はメールを出しました。


「日本から米国の図書情報を提供する機関のページで検索したが、本が出てこない」

「ついては、米国でしらべてくれないか。J.M.キャロルという著者名と、題名におそらくBloodという語が入っていそうであることが、手がかりだ」


友人は、調べてくれました。

返事は、「米国でも見つからない」でした。



(やはり、よくある変な宗教書なのかなあ・・・)


そう思ってやりすごそうとしました。

だがその一方で、なぜか、筆者の心には「この本はいったい何なのだ…」という思いが残りました。

次回には、この冊子本の原典を探る旅と、それにまつわる様々な出来事のお話しを始めます。




(Vol.27  衝撃本『血まみれの道』の謎   完)












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Vol. 26 作家の描写力に助けられて~『聖灰の暗号』~

2016年05月09日 | キリスト教の正しい学び方








こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」、本日も進めて参りましょう。

今回は、歴史の実体をリアルに認識する方法について考えましょう。



+++


AD426年に「幼児洗礼法に従わないものは処刑」という法律ができて以来、自由吟味者は筆舌に尽くしがたい拷問と殺戮を受けてきました。

だがその文書資料は権力側の教理統一教団によって、あらかた強奪されれ、焚書されています。

残った資料は少なく、悲劇の状況を描いたイラスト風の絵も、記録情報としては幼稚で、リアルに現実を伝えきれていません。

筆者など、想像を巡らせて、「人間、自分が正しいことをしていると思って 、こんなことまでできるのか!」と驚愕の思いに駆られるのみです。





<作家の洞察力>


だが、時として、その障害を乗り越えさせてくれる人種がいます。

作家がそれで、彼らは人並み優れた人間洞察力をもっています。

調査力も卓越しています。

彼はその洞察力を働かせて自由闊達に資料を掘り出すのです。

そして、それをもとに事態をリアルに描くことができます。

そういう言葉の技量を持っているのです。

+++

その力を発揮して、近年、自由吟味者の状況を描き出した日本人がいます。

箒木(はばきぎ)蓬生(ほうせい)という小説家がその人です。

+++

氏は、カタリ派と呼ばれた自由吟味者たちの悲劇を、小説『聖灰の暗号』に描き発表しました(2007年)。

このグループの子孫の口伝を聞き、資料を掘り起こした。

そして、ミステリータッチのドキュメンタリー小説に仕立て上げました。

そこには、自由吟味者たちが逮捕され、拷問され、火刑にかけられる様が、生々しく描かれています。










<日本人歴史研究者を主人公にする>


小説は、カタリ派の歴史を研究テーマにする日本の歴史学者を主人公にしています。

須貝というその研究者の探求と発見の行動が縦糸になっている。

そして、それに様々な人物を横糸に絡めて物語を展開しています。

+++

教理統一教団は国教となって国家権力を得ました。

そして、自分が正統とする教理に従わない者を異端tとして逮捕します。

執拗な尋問(異端審問)、拷問、殺戮を実施します。

作者はそれを暴き出していきます。

+++

主人公、須貝は権力によって封印された歴史資料をひとつひとつ明かしていきます。

そして、抹殺、抹消された惨殺の歴史を暴露していきます。


作者、箒木氏は、文中で主人公須貝にこう語らせています。

「・・・カタリ派は、この地上から完全に抹殺された人たちですから。

まして司教管区の中心が置かれていたところでは、語ることさえタブーになったのではないでしょうか。

実際に生きた者の歴史というのは、そんなふうにして壁の中に塗り込められます。 

立派な壁画の上に漆喰を塗り、そこに全く別のフレスコ画を描くようなものです」


+++


資料探求する須貝には、暗殺の手ものびます。

犯人は当初姿を現しませんが、物語の展開の中で一人一人明らかになっていきます。

中には、予想もつかなかった主人公の知人も含まれていて、読者を驚かせます。

そういうミステリー要素を含めたドキュメンタリー小説に箒木氏は仕立て上げています。





<調査の契機>

鹿嶋は、作者がこの小説に取り組む契機のことを、読んだ記憶があります。

たしか新潮社の読者雑誌『波』ではなかったかと思いますが、どうだったか。

箒木氏の本業は、精神科の医師です。

普段は九州の病院で患者の治療に当たっておられます。

+++

氏は、その関係でフランスで開催された学会に出ました。

とあるホテルに滞在しました。

するとロビーで、ある青年が近づいてきて語りかけた。

「あなたは作家でもあると聞いた。ついては、自分が先祖代々伝えられてきている歴史を小説に書き残してくれないか」と。

彼はカタリ派(自由吟味グループの一つ)の子孫だといいます。

箒木氏は、 それを契機に、カタリ派の資料発掘に着手した。

たしか、そんなような話を読んだ記憶があります。


+++

<優れた歴史手がかり>

ともあれ箒木氏は、『聖灰の暗号』を書き、出版しました。

そこでカタリ派という自由吟味者集団の惨劇をリアルに描き出しました。

この本は、自由吟味派が被ったすさまじい惨劇を、読者が理解するには、比類無き手がかりになると思います。




<これは留意しておく>


ただし、留意しておくこともあります。

小説の中の説明書き部分をみるところでは、氏は、これを12~13世紀にかけて起きた一大ホロコースト事件と認識しているようです。

だが、実際にはこの種のことは、欧州中世には、日常的に起き続けてきました。

1200年にわたって、広範にわたって起き続けてきた。

+++

筆者は後に、もう一つの文献資料をご紹介します。

その本の著者キャロル氏は、自由吟味活動を包括的に調べた研究者です。

かれはその著書の中で、推計5000万人ほどの人々が殺されてきた、と述べています。

箒木氏にはそうした包括的な視野はありません。

そうしたなかで、自由吟味者ホロコーストの一事例を、リアルに再現してくれているのが

『聖灰の暗号』なのです。




(Vol. 26 作家の描写力に助けられて    完)





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Vol.25  教理統一主義者と自自由吟味者の福音信仰の違い

2016年04月27日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」、本日も進めて参りましょう。

キリスト教の最大にして根底的なテーマは福音です。

その福音への信仰内容は、人によって差があります。

ここで、教理統一派と聖句自由吟味派との福音信仰の違いを見ておこうと思います。

二つの教会のその面での違いを浮上させておくのは、歴史考察に有効だと思えるのです。






<福音とは>

福音とは、~

「イエスの名が、創造神の子で救い主の名だと信じれば、霊にいのちエネルギーが充電される」

~という知らせです。

確認のために、その福音の神髄を述べた聖句を、示しておきましょう。

一つは、『ヨハネ伝』冒頭部分の聖句です。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「・・・この方〈イエス)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
創造神の子供とされる特権を(イエスは)お与えになった」
  
(ヨハネによる福音書、1章12節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




「霊にいのちエネルギーが充電されると、自動的に創造神の子になる」というのは、聖書の鉄則です。

だから、これは、福音を述べた聖句となるのです。

~もう一つ、これも『ヨハネ伝』の中の聖句です。

こちらは最後の「締めくくり」というか「あとがき」のような位置にある聖句です。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「この書(ヨハネが書いている福音書)には書かれていないが、まだほかの多くのしるし(奇跡)をも、イエスは弟子たちの前で行われた。

しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが創造神の子キリスト(救い主)であることを、あなた方が信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」

(ヨハネによる福音書、20章30~31節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




『ヨハネ伝』は、イエス最愛の弟子、ヨハネが書いたイエスの伝記です。

ヨハネは、自分の「イエス伝」の冒頭と最後の締めくくりを、福音の神髄でサンドウィッチしているのです。







<「信じる」とは「肯定的に認識する」こと>


少し説明を加えましょう。

ここで「信じる」とは、前述しましたように、「肯定的に認識すること」です。

「イエスを信じる」というのは、「イエスを肯定的に認識する」ということになります。

そして、「肯定的に認識」すれば、人はその対象のイメージを心の内に受け入れ、保ちます。


+++

「信じない」というのは、「否定的に認識する」ということです。

「否定的に認識」すれば、人はその対象のイメージを心から閉め出します。

「イエスを信じない」というのは、「イエスのイメージを心から閉め出し、心に保たない」ということになります。




<どちらの教会員も、福音は信じている>

福音メッセージ(よき知らせ)は、イエスの口から出たものです。

このメッセージについては、教理統一教会の会員も、自由吟味教会の会員も共に信じて心の内に保っています。

それは人間個々人の幸福に、ずばり直接かかわるメッセージだからです。

教理統一教会では、教団本部からその解釈が正統教理として発せられ、信徒はそれを受け入れ、心中に保ちます。


+++

それはよくわかる話ですが、自由吟味派の教会員については、少し説明が要ります。

彼らは、全てのメッセージを聖句そのものに照らし合わせて、吟味します。

その際、福音メッセージもまた吟味します。

そのことから、彼らは吟味する前には信じていないだろうと想像をすることも出来ます。

だが、実際にはそうではありません。

福音は、自分の幸福にずばり直接関わっている基底メッセージです。

生きる人間にとって、これは、聖書の中の言葉(聖句)のなかでも、根底のものです。

自由吟味者も、やはりこれは、出発点から、まずは肯定的に認識して(信じて)かかります。

でないと、実際の話、他の関連聖句を力強く吟味していく意欲は起きないし、一時的にその気になったとしても持続しないのです。


+++

たしかに、聖書の中で真理を、自由吟味でもって探求していくのも、喜びのある活動です。

「知」の欲求が満たされるというのは、本当に楽しいことです。

それをスモールグループでもって助け合いながら進めていくのも楽しいことです。

その活動の中で得られる相互共感と友情も、 大きな喜びになります。


+++

けれども、自由吟味者はその活動を、殺戮される危険と常時背中合わせにありながら、やり続けたのです。

それには、福音への確信が大きくあずかっていたはずです。


たとえ肉体は殺されても、自分の霊は、活力を持って永遠に存続する。

福音を信じていることによって、「いのち」を得て永続する。

このことを確信することで、心にわき上がる勇気と開放感がもたらす力は大きかったはずです。





<吟味は確信を深める>


自由吟味者は、福音を肯定したうえで、その背景にある論理体系を吟味検討して見出していきます。

すると、彼らの福音信頼には「知性」が加わります。

信頼感覚に「知」の筋道が入る。

世に言う「理論武装」というのは、そういうことでしょうが、それを通して彼らの福音への認識は深まったでしょう。

それは、彼らが、殺戮される危険に常時おかれながらも、動じることなく自由吟味活動を続けられた大きな原因だったと思われます。





<聖句吟味の一事例>


ただし、彼らが抱く「知」の論理体系には、ひとりひとりに特有な個性的な部分が含められています。

個人の聖書解釈自由の原則の上で、各々が自ら納得できる聖句解釈を求めていくからそうなるのです。

そうしたなかで、筆者が考えてきた論理を、一例として示してみましょう。

これまで述べてきた知識を援用しながらやってみます。








  

(以下は理屈で、長くなります。ここからの、このハウスマークで囲まれた部分は、飛ばしてもいいです)






<肉体に霊が入っている>


福音の論理を理解するには、まず聖書の人間構造観を知ることが必要です。

聖書では、人間は「肉体に霊が入っている」という構造になっているという認識です。

肉体は、我々が肉眼で見ている身体です。

聖書では、その中に霊体ともいうべき、霊が入っているとする。

それが人間の意識の本体だという認識です。




<霊の意識は「潜在意識」に相当>


霊は意識体です。

それは肉体の中に入っている間は、その人の深いところの意識を形成します。

フロイトの深層心理学でいうと、潜在意識を形成しているといえるかもしれません。




<霊はいのちで充電されうる>


また、霊は「いのち」を吸収・蓄積できます。

聖書でいう「いのち」はエネルギーのような概念です。

このエネルギーは、まるで、電池に充電されるかのように、人の霊に吸収・充電され得ます。

これについては、霊を充電式乾電池のように、そして、「いのち」を電気エネルギーのように考えるとイメージしやすいでしょう。





<「いのち」は霊に喜びの意識を形成する>


いのちで充電された霊は、活力を持った「活霊」になります。

すると霊の意識は、メリハリのきいたハッキリしたものになる。

+++

また霊がその状態にある時、人は深い喜びに満たされます。

自らの霊にいのちというエネルギーが充電されると、その人の意識の深いところに、 深い喜びが形成されるのです。

+++

他方、この充電がなされてない霊は「死霊」です。

それは活力なく、意識は弱々しく、ボ~としていて、鬱状態にあります。






<いのち充電されるには>

では、いのち充電されるにはどうしたらいいか。

その方法は簡単で、「イエスの名が、創造神の子で人間を救う方の名、だと信じること」これだけです。

福音とは、このことを知らせる「よき知らせ」というわけです。






<ソシュール「記号論」の発見>


次に、「名」についても考えておきます。

イエスの名を例にとりましょう。

「名」は、「イ・エ・ス」という音や文字による信号でできていますが、それだけでない。

それが持つ「意味」もセットとしてもっているものです。

意味とは、たとえば、「創造神の子」「救い主」「いのちを与える方」といった事柄です。


+++


そのことを明らかにしたのは、哲学者ソシュールです。

彼は、名というものが、「単に物事を指し示す信号であるだけでなく、その意味をもセットでもちあわせている実体」であることを、明らかにしました。

この認識論を、日本では記号論というのですが、彼はこの仕事によって「記号論」の元祖とされています。

彼はフランス人で、信号を「シニファン」といい、意味を「シニフィエ」と、フランス語でいっています。




<イエスとは「イエスの名」>


これを援用してイエスという名を考えましょう。

イエスの名も、音や文字によって示される信号だけでなっているのではない。

その信号に連なっている意味をも、潜在的にセットで持ち合わせている。

~ということになります。


われわれは、イエスをその顔や姿や髪型や着物などで想像することが出来ます。

伝記に記された様々な事柄から色んなイメージを心に描くことが出来ます。

だが、それらは多様で「まとまり」をもちません。

他の人々と明確に区分する境界線をもちません。

だから、人は実際には、漠然としかその全体像がイメージできません。


+++

他方、イエスという名には、その全てが含まれているのです。

これには、イエスに関するエッセンスが、最も効率的に凝縮されているのです。

創造神のひとり子、人間を救う方、等々の意味もすべて凝集されている。

凝聚されて、「まとまり」をもっている。


そしてそのイメージは、「イ・エ・ス」という信号によって、他の人々と、明確に区分されています。


+++


だから、「イエスを肯定的に認識する」のも「イエスの名」を肯定的に認識するのが断然効率的だということとなります。

福音において「イエスの名を信じる」とされているのは、そういう認識構造上の理由があるのです。






<「名」もまた量子>



もう少し行きましょう。

こんどは、前述した量子力学(量子論)の知識を援用しますよ。


量子論は、陽子や中性子や電子や光子の実体は、量子という運動体であることを明かしました。


量子は波動の塊のようなイメージのものです。

それは運動体であり、波動を発しています。


+++

「名」(という記号)もまた量子でできています。

名はその「信号」によって、人の知覚に影響を与え続けています。

たとえば、紙に黒インクで書かれた「イエス」という文字は、その信号を放射し続けています。


そうやって人の認知エネルギーを誘発する活動を常時続けています。


「名」はそういう力をもっている実体なのです。


また名は、その「意味」によって、受信者に意味をイメージさせます。

そういう精神エネルギーのかかる仕事を誘発する働きをも、し続けています。


~このような力、エネルギーを「名」は放射しているのです。






<受け入れた心の中で効力を発揮>


すると、イエスの名は、それを肯定的に受け入れた人の心の中で、その効力を発揮し続けることになります。

言い換えれば、その名を信じると、それは、その人の中で量子的な力を放射し続けるのです。






<いのちは霊のエネルギー>


福音の言葉である「イエスの御名によっていのちを得る」の「いのち」についても、考えておきましょう。

前述したように聖書では、それは一種のエネルギーのような概念になっています。


+++


他方、イエスの名を肯定的に認識して受け入れると、その人の心を構成する霊は変化します。

その変化した霊に、 「いのちエネルギー」は、吸収・充電される、と考えたらどうでしょうか。


~すると、上記の「イエスの御名によっていのちを得る」という聖句は、論理的に理解できてきます。


イエスを受け入れた霊は~その霊は~いのちを得て、活き活きした「活霊」になるというわけです。







<生まれたままの霊は「死霊」>


実はこの論理の背景には、聖書特有の前提思想があります。


人の霊にかんする思想です。


人はその霊が「いのちエネルギー」による充電が不全な状態で生まれてくる、という認識が聖書にはあるのです。


+++


人間は「オギャー」と生まれたとき、すでに、その霊が不完全充電状態にある、というのです。


その後、歳とっていく過程で、自然放電もあるでしょう。


だから人の霊は、自然なままでは、不完全充電状態にある、というのです。


+++


不完全充電の霊は、いうなれば「死霊」です。

これは前述の「活霊」というのに対比している用語です。


生まれたままでは、人の霊はみな死霊なのです。

福音の論理には、そういう認識が背景にあります。





<霊とコンピューター>


さらに進みましょう。


人間は肉体が生きている間は、「自分の霊が死霊である」という自覚がありません。

(霊があるという自覚もありません。 実はうっすらとは霊感で感じているのですが・・・)


この論理は、人の意識活動をコンピューターになぞらえてみると、理解しやすいです。

やってみましょう。






<生きてる間は霊は肉体と協働している>


肉体が生きている間は、霊は身体の中にあります。

そして脳神経系と協働して人の意識活動を形成しています。


+++


このときの霊と脳神経との関係が、コンピューターに対応させてイメージできるのです。

たとえば、こんな風にです~。


霊はハードディスクです。

そこには意識情報が収納され・蓄積されています。

+++


脳神経系は、ランダムメモリーとモニターとキーボードのようです。


人間が思考活動をするとき、脳はまず霊(ハードディスク)から意識内容(データ)を、とりだします。

そしてそれを顕在意識領域(ランダムメモリー)に広げます。


次に、頭脳は、その意識内容をハッキリ認識できるようにします。

この作業が、モニターに映して映像化するのに、対応しています。



そして、人はモニターを見ながら、意志の力でその内容に操作を加えます。

これが、キーボードでの打ち込みに対応しています。


この作業が終わると、脳はその加工された情報内容を霊(ハードディスク)に収納するわけです。





<肉体と協働している間は、霊の自覚は困難>


このように、肉体の中にある間には、人の霊は脳神経系と協働していると考えられます。

そして、それなりに機能を果たしています。

脳神経系に動かされて、受け身で機能を果たしているわけです。


だが、脳神経系と協働している間は、人は自分の霊がほとんど自覚できません。

従って、自分の霊が、脳神経系に動かされているだけで、実は活力の欠けた死霊であることをも、よく自覚できません。




<肉体を抜け出ると死霊も自らを自覚>


けれども肉体を抜け出ると、霊は自分を自覚し始めます。


死霊は自分が死霊であることを自覚し始める。

自分に活力がないことを自覚する。

活力がないので、もうこれといった行動ができないことも自覚するのです。



そこでただ「ボ~」として空中を漂っているしかありません。

この世の地表に「ぼ~」として存続することもあるでしょう。

一般に「地縛霊」という名で感知されているのは、こういう霊なのかもしれません。





<活霊は元気状態なまま>


他方、イエスの名を心に受け入れた人の霊はどうか。


福音によれば、その霊は「いのち」を充電されています。

そして「活霊」になっています。


+++


こちらの霊には生命力があります。

それは肉体を抜け出ても、活力のある状態でいます。


ちなみに、聖書の思想では、この霊は、パラダイスというところにいくことになっています。

パラダイスはもともとは聖書用語ですが、その意味は聖書にも説明されておりません。


「活霊が天国に入るまでの間、休むところ」とも想像できますが、よくわかりません、


おそらく、天使に導かれていく、と推察されますが、直接そう書かれた聖句は聖書にはありません。






<生きていて信じるものは、死ぬことがない>


おまけです。


今述べたような神学論理は、イエスの次の言葉~難解なこの言葉~の意味も理解させてくれます。



・・・・・・・・・・・・・
「生きていてわたし(イエス)を信じるものは、死ぬことがありません」
(ヨハネによる福音書、11勝25節)
・・・・・・・・・・・・・



~がそれです。


ここで、「生きていて」というのは「肉体が生きている間に」という意味です。

「死ぬことがない」は、霊が「自分が死んだ」と自覚することがない、と理解できます。


+++

これもまた、死霊を対比させるとその意味がハッキリしてきます。

前述のように人は肉体が生きている間は、自分の霊を自覚できません。

だが、肉体を離れ、脳神経系と協働できなくなると、その霊は自分を自覚できるようになる。


死霊の場合は、「自分がエネルギーの欠けた、死んだ状態である」ということを自覚します。

つまり、「死」を自覚するのです。

それが上記聖句での「死ぬこと」の意味になります。


+++


他方、肉体が生きている内にイエスの名を信じた人の霊は、すでにその時点で活霊になっています。

すると、肉体を抜け出ても、活霊のままということになります。


つまり、信じた人の霊は、もう、肉体を離れても、「生きている感覚のまま」なのです。

「自分は死んでいる」という自覚をすることがない。


+++


「たとえ死んでも生きる」は、そのように理解できます。




(ここまでは、当分、スキップしていいところです)

  















以上長々と論理の一例を述べてきました。


だが、福音の言葉それ自体は短いです。

「イエスの名が、創造神の子で救い主の名だと信じれば、霊にいのちエネルギーが充電される」

~という知らせ。

それだけですからね。


自由吟味活動者の場合は、それに、たとえば上記のような理屈をつなぎ合わせているわけです。

様々な聖句と照らし合わせて、それをしている。



これはまあ、外部の人から見ると、馬鹿な「理屈遊び」をしてるようにみえます。


だが、米国南部の自由吟味教会では、こうした議論を、毎週礼拝前に行っています。

数人毎のスモールグループに分かれて、その後の全体礼拝と同じ時間をかけて、やっています。






<幼子のように>


そしてここで、大切なことがあります。

それは~

そういう論理体系がないと、福音の言葉の効力はなくなる、というようなことは、ない

~ということです。


短い福音の言葉を抱くだけでいい。

いや、イエスの名を肯定的に認識するだけでもいい。

(そこに福音の神髄はすべて凝聚されているのだから)

それで、霊にいのちエネルギーが充電される効果は得られる~といいう論理に聖書ではなっているのです。


+++


すると、この効果は、幼子にも発揮されることになります。

幼子には、短い福音の言葉の背景にある、聖書的、神学的な意味など理解することは出来ませんよね。

だが、それでいいというのです。


彼らが「神の子イエス様~、救い主イエス様~」と信じると、それだけで「いのちエネルギー」は彼らの霊の内に充電されていくことになる。


それが聖書の論理です。


+++


それだけではありません。


この幼子のような信頼が、最も霊に「いのち}充電を受けやすいという論理も聖書にはあります。

イエスの次の言葉はそれを示唆しています。




・・・・・・・・・・・
「・・・子供のように神の国を受け入れるものでなければ、決して神の国に入ることは出来ません」

  (ルカによる福音書、18章17節)
・・・・・・・・・・・・・・





詳しい説明は省きますが、ここで「神の国(店の創造主王国)に入る」というのは、霊が充電されたことに伴って自動的に起きる、将来の出来事です。


+++

だったら、福音(よき知らせ)の効力は教理統一教会の信徒にも実現するのではないか?

そのとおりです。

福音(よきメッセージ)は、教理統一教会でも効力を発揮するのです。






<究極的には五十歩百歩>


これにはおそらく、次のような真理が込められているでしょう~。


そもそも、吟味・検討を深めていくからといって、人間が福音の奥義を極めつくすような事態は起きません。

人間の、認識力には限界があるのです。


だから、創造神の目からすれば、聖句吟味者の信頼は、つまるところは、「幼子の信頼」と五十歩百歩なのです。


そこでさきほどの~


・・・・・・・・・・・
「・・・子供のように神の国を受け入れるものでなければ・・・・」

  (ルカによる福音書、18章17節)
・・・・・・・・・・・・・・


~となるわけです。


(ここで信仰者の読者の方のために、讃美歌を一曲入れておきますね)








<自由吟味者の利点>


では、自由吟味者の活動は、全く無駄なのか?

そうでもなさそうです。

各々が自由吟味をして自分の神学論理体系を抱くことには、次のような利益はあるでしょう~。


① 福音への信頼感が深くなる。

② 外部者の攻撃に対する、精神力が強くなる。

③ 人に福音を教える力が豊かになる。

④ 同志の間での、コミュニケーション力が高くなる。


~こんなところでしょうか。


今回はこれまでにしておきましょう。





(Vol.25  教理統一主義者と自自由吟味者の福音信仰の違い    完)









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Vol.24  幼児洗礼法で自由吟味者を攻撃する

2016年04月18日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」・・・今回も進めて参りましょう。

今回は、教理統一教団が聖句自由吟味者に、すさまじい攻撃を加え始めた様を示します。

それについて、読者に前もってお願いしておきたいことがあります。




<正典聖書の編集は大きな功績>

筆者の歴史記述から、「鹿嶋は教理統一派への敵意を抱いている」という先入観をもたないようにしていただきたいのです。

この教派は、自由吟味派の活動に対して貢献もしています。

たとえば正統聖書の編集がそれです。


筆者はそれを認めています。

歴史は単純ではないのです。




+++

旧約聖書には紀元前にすでに大々的な編集作業が加えられました。

だが、新約聖書の編集はキリスト教界に求められた大課題でした。

まず、イエスに関して書かれた伝記が複数あります。

その教えを解説した数多くの手紙があります。

ヨハネという愛弟子に延々と見せられた、幻の記録もあります。


+++

それらはみな手写しで写本され、用いられていました。

残っていたのはみな写本でした。

手書きの写本には、中身の文章にばらつきがあります。


それらの文書から、信頼すべきものを選び出して編集するというのは、大仕事なのです。


+++


教理統一教団は、国教になると、それを成し遂げました。

彼等は、最終吟味を繰り返し、最終決定をするために、公会議を開催しました。

公会議は全欧州の司教が一堂に会しておこなう大がかりな会議です。

こうした活動は、教理統一教団でなければ、できません。



この教団には、強大な資金力がありました。

聖職に専業するプロが形成する人的資源もありました。

そして彼らを一体として動かせる組織力もあった。

ピラミッド型の管理組織がそれでした。

+++

教団は、395年に正典聖書を完成しました。

正典からもれたものも「外典」としてまとめて遺しました。

自由吟味者の聖句探究活動も、この聖書の存在によって大いに助けられていったはずです。





<歴史は単純ではない>


歴史は単純ではないのです。

確かに教理統一者は、自由吟味者を悲惨な目にあわせてきました。

だが、よくみると、その原因の大半は、相手を理解できないことにありそうです。

+++

個々人に聖句の自由吟味を許しても、教会員の聖句解釈がばらばらにならない、ということを教理統一活動者たち理解できませんでした。

そんな方式の集団からは、無政府主義者がどんどん埋まれてしまうとしか、考えることができなかった。

無理もない。

自由吟味活動を経験したことのない、一般の人間の知性はそんなものです。

筆者はそれらも含めて事実としてとらえ、できうる限り客観的に歴史を記述していこうと思っています。






<惨劇の開始>

さて本題に入ります。

キリスト教の教理統一派は、国家権力を背景にして、全欧州のキリスト教活動の統一に向かいました。

自らの教会が正統とする教理を全人民が受容し、教会のポリシーに従ってくれることを期待したのです。

だが、これに自由吟味原則で活動する人々は従いませんでした。

両者は根底において対極的だったので、これはもうどうしょうもありませんでした。





<正統教理があったら自由吟味活動は成り立たない>

教理統一教団は、教会本部でプロが作成した教団教理を唯一正統なものとします。

他方、聖句自由吟味者はそういう教理を認めないことに活動の基盤を置いています。

一つの解釈(教理)を正統としたら、もう個々人が聖書を吟味することなど無意味になってしまう。

自由吟味活動が成り立たなくなるのです。





<幼児洗礼法を制定する>

だが、国教会は自己の教理一色に全人民を染め上げようとせずにはおられませんでした。

彼らには国家権力があります。

法律を作成し、施行する権力もあります。

AD400年代に入ると、彼等は幼児洗礼法を公布しました(416年)。

+++

幼児洗礼とは「子供が生まれたらすぐに洗礼をほどこす」行為です。

洗礼とはバプテスマの邦訳語です。

聖書では、「イエスの名が救い主の名であると信じた者を、水に沈めて浮かび上がらせる行為」となります。

これは浸礼といわれることもあります。

+++

国教会となった教理統一教団は、この儀式を国内のすべての新生児にさずけることを、法律でもって人民に義務づけたのです。

彼らは、赤子用に、滴礼(てきれい)という略式の洗礼でもって、これを実施させようとした。

滴礼とは、額に水を垂らす方式でおこなう洗礼です。




<違反者は処刑とする>


だが自由吟味者たちはこれにも従いませんでした。

「生まれたての赤ん坊が、どうやって、イエスを救い主と信じるんだよ!」となりますからね。

だが教理統一教団はそこで引き下がることはありませんでした。

10年後の426年、今度は「幼児洗礼を行わない親は処刑する」との法令を追加しました。




<殺戮の歴史が始まる>

ついに、凄惨な血の歴史が始まりました。

教理統一教団は国家の軍隊を用いて自由吟味活動者の居住地を襲いました。

彼らを逮捕し、殺していきました。

自由吟味者は、ピレネーやアルプスの山々の谷間に、あるいはスイスの僻地にのがれて活動を続けました。

軍隊はそれを探索・発見してまたとらえ、殺すを繰り返しました。

これが1200年の長きにわたって延々と続きました。




<北欧地域にも多数が逃れたはず>

ところで、自由吟味者の避難地について、筆者には、もう一つの直感認識があります。

個人的ですが、確信を持っています。

+++

自由吟味者は、今でいう北欧地域にも多く逃れたと思うのです。

今の国家でいうと、デンマーク、スウェ~デン,ノルウェー、フィンランドなどの地域ですね。

筆者はこの地を旅して住民との直接会話を試みました。

機会の許す限り、交わりもしました。

そして、この地が教理統一教団の攻撃を逃れた聖句自由吟味者の地となったことを、感触しました。

旧き絵画などにもその痕跡がありました。




<当時は極寒の遠隔地だった>


当時としてはこの地は、教理統一教団の本拠地、イタリー、フランス、スペインからは、非常な遠隔地でした。

中世当時には、はるかなる異郷の地、地の果てだったといってもいいでしょう。

おまけに、この地の冬の底冷えは尋常ではありません。

日本人がクルマで自由旅行をし、所々で下車して市民と交わるには、三月の下旬だって、背中にホカロン張らないと辛いですよ。

+++

また、この地は北の海に面しています。

この地の先住民には海賊の伝統があります。

自由吟味者たちは、万一攻められたとしても、その技術の助けを得て海に逃れることができたでしょう。

そんなわけで、国教側の軍隊も、この地までは侵攻しなかった。

そうに違いないと筆者は確信しています。




<学校教育の手法もそれを示唆>

また、現代のこの地の学校教育法もそれを示唆しています。

ここでの方式は聖句自由吟味方式の形態そのものなのです。

+++

教科書などにある既成知識を生徒の吟味対象とする。

スモールグループを形成させて、そこに投げ込む。

メンバーはそれについて話し合う。

吟味をしている内に、知識は生徒の心の内で活きたものとなる。

+++

北欧諸国の学校生徒の知力が卓越して高いことは、いまや他国にもよく知られています。

世界から多くの参観者が来訪しています。

この知的成果も聖句自由吟味方式の援用で産み出されるものなのです。




<実証資料は価値あるものだが>

筆者はこの地が、自由吟味者の「逃れの街」だったと確信しています。

残念ながら、それらを示す「正式の」、いわゆる歴史資料を筆者はまだ見つけておりません。

殺戮の惨劇を示す「公式の」文書資料ももちあわせておりません。

けれども考えてみれば、それはなくてもいいのです。

国教会の軍隊はここまでは侵攻してこなかった(と推定できる)のですから。

侵攻がなければ攻撃もなく、攻撃がなければ、殺戮も、その記録もないのが当然なのですから。

+++

そもそも、聖句自由吟味者たちがこの地に逃れてきたという記録もありません。

そんな痕跡を残すような逃げ方を彼らはしないのです。

(これは、後年の自由吟味者についてもおなじです。

欧州大陸から英国に移住する際にもそうです。

また、英国からアメリカ大陸に移住する際にも、彼らは少人数に分かれて、目立たないように移住しているのです)




<実証「主義」は知性の堕落を生む>

そんなわけで、いわゆる公式の歴史資料など残るはずがなく、筆者の手元にもありません。

けれども、かといって、直感的実感を積み重ねてできてきた筆者の推察を、筆者はここで隠すわけにはいきません。

実証資料を軽視しているのではありません。

それは歴史認識には貴重なものです。

資料による実証は、大切なのです。

けれども、実証「主義」というのは、筆者にはいただけません。

それは歴史研究者の想像力を殺ぎ、彼らの思考を幼稚にしてしまうからです。


今回は、ここまでにしておきましょう。


(Vol.24  幼児洗礼法で自由吟味者を攻撃する  完)













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Vol.23 「国教」の規制力は「神イメージ」が左右する

2016年04月11日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」・・・今回も進めて参りましょう。

しばらく、西欧中世史に入るための、予備知識を述べてきました。

これから、実際の歴史考察に入りましょう。





<教理統一教会、ローマ国教となる>

コンスタンティヌス大帝がなくなると、教理統一方式の教会は、自らの教団を国教にする工作を推し進めました。

そして、ついに、AD392に、国教の地位を得ました。

+++


それによって、教理統一教団は、強大な世的権力を手にしました。

そのことを的確に認識するには、国教なるものを、基礎から考えておくことが必要です。

まず、言葉の意味を吟味しましょう。

+++


国教というのは、為政者(国家権力者)が「わが国家はこの宗教で行く」と定めた宗教です。

それ以外の宗教活動は、禁止です。

しかし人間というのは、こと宗教に関しては、禁止されていても様々な活動をやらかすものです。

ですから国教勢力側は、現実には、他宗教の活動を規制する仕事を続けることになります。


    

<二つの神イメージ>


そしてその際、その規制運動の強さは、国教となった宗教が、いかなる神イメージを心に抱いているかによって異なってきます。

それを考えるには、筆者がこれまでにのべてきた「神イメージ」の概念が役だちます。


その図をここでも再掲示しましょう。










<在物神>


在物神とは、「もののなかに存在するとイメージされる神」です。

図の右側のゾーンには、在物神イメージを誘う、様々な物質が記されています。


在物神を拝する宗教が国教とされる場合、その規制運動はさほど厳格なものにはなり得ません。

なぜなら、在物神イメージは根底的に「感慨からなるもの」で漠然としているからです。

+++

つまり、信仰者はもののなかにその神が存在するとイメージします。

そして礼拝するそのときに、神を認識した感慨を抱きます。


礼拝時にその感慨を味わったら、もう神を認識した気持ちになってほぼ満足です。

その感慨の神がどんなものであるかを、言葉〈理念)にして考えていくことはありません。


そして礼拝が終われば、感慨は消えていきます。

従って、在物神信仰者の神イメージは、漠然とした状態のものなのです。

+++

そういう「神」イメージでは、他の神々のイメージとの境界線を明確に引くことができません。

違いの区分線は、神イメージが明確に「理念化」していることによって可能になる。

理念というのは、人の心の中で、強力に働くものなのです。

在物神崇拝の国教では、他との区分が詳細におこなえない。

だから、他宗教への規制も持続しがたいのです。





<創造神>


創造神という神イメージは、そうではない。

それはまず人間の理念に導入されるものです。

その理念を抱いていると、事後的に、実感という感慨が得られていくようになる。

そういう神イメージです。

+++

創造神という神のイメージは、もともと人間の自然の感覚にはないものです。

外部から注入されることによって、はじめて人の心に明確に存在することになるものです。

+++

キリスト教の場合には、それは、霊的メッセージの受信記録として人間社会に導入されています。

まず、古代のイスラエル民族の中に超霊感者たちが周期的に出ました。

その彼らが受信したメッセージの中に、創造神の理念はありました。

ちなみに、彼らは後に預言者と呼ばれるようになっていきます。


+++

メッセージの発信者は、自らを、万物の創造神だと名乗りました。

そして、メッセージを与えた。


霊感者たちは、それを創造神からのメッセージと「信じて」記録した。

こうやって、創造神の神イメージは、人類社会に「外から」導入されてきたのです。




<創造神イメージには諸理念が連なっている>


だから創造神という神イメージには、明確に理念があります。

筋道があり理屈があります。

+++

たとえば、それは、「時間的空間的に無限者」である、というがごとくです。

他に、自分以外の万物を「言葉を発することによって創造した」、という属性も理念です。

「自らの内から、ひとり子と聖霊が出る」というのも理念です。

そのひとり子が、「自らを信じた人間を救う」というのも理念です。

「救う」とは、「人間の死後の霊を活き活きした状態に保ち、死後の審判で天国に迎え入れる」という意味です。

これもまた理念です。

+++

そういう、様々な理念がこの神イメージには繋がって、壮大な理念体を構成しているのです。


+++

これらの理念によって、人間は、この神を、他の神々のイメージと区別することが出来ます。

創造神を奉じる国家宗教は、みずからと他の神を拝する宗教を詳細に区分出来ます。

すると規制も詳細にできるようになり、取り締まり活動も持続するのです。






<戦前日本の国家神道の事例>


これを戦前の日本における国家宗教と比べてみましょう。

維新政府は日本の国家宗教を神道と定めました。

++++

神社の建物の中に内在しているとイメージできる神を、国家の神として礼拝することにした。

そして、神道以外の宗教活動を禁止しました。

その対策の一つが、廃仏毀釈でした。

廃仏毀釈とは、仏教を排斥し、寺や仏像などを壊す運動です。

+++

昭和の戦時が近づいていた時代には、大本教や天理教が崇拝する宗教器物を破壊しました。

だがその攻撃は荒々しく、短期的なものでした。

神道が奉じる在物神の神イメージがはっきりしないので、規制担当者にも、他宗教との区別の基準がよくわからなかった。

だから、規制行動は持続しません。

その結果、国家神道の最盛期だった昭和の戦時中であっても、人々は寺で葬式などの儀式をやっていました。





<西欧中世の国教は規制力が強力>



これが西欧史となると事態は異なってきます。

キリスト教が奉ずる創造神のイメージは、理念が構成しています。

創造神とそれに繋がる諸理念でもって、他の宗教、さらには、思想一般との区分でさえ明確に出来ます。

+++

それでもって、裁きの基準を詳細に作成することもできる。

中世に国家権力を得た教理統一教団は、異端審問裁判所というのを創設するところまでいきました。

そこで、人々の思想や言動を裁くといいうところまで、いってしまうことができました。

+++



ガリレオもジャンヌダルクもここでもって裁判にかけられています。

ガリレオは特定の住宅での蟄居の身となり、そこで生涯を終えています。

ジャンヌダルクは、死刑の判決を受け処刑されています。

+++

以上のように、国教と一口に言っても、それが人民に及ぼす規制力には差があることを知っておかねばなりません。

その奉ずる神が、創造神か在物神かによって、雲泥とも言える差異が生じる。

西欧史を正しく認識するには、この知識は必須なのです。





<幼稚な宗教知識>


それに関連する余談を一つのべて終わりましょう。

日本では、「西欧人は一神教で、ひっつの神しか認めないから独善的でかたくなだ。日本人は多神教で、他者の神を認め合うから寛容で柔軟だ」といった論議がまことしやかになされています。

知識人とされている人々も、ほとんどうちそろって、この種の見解を述べている。

+++

だが、これは表皮的な社会認識です。


拝される神が多数になるのは、在物神を信仰する社会では自然な帰結です。

あちこちの山や川、大木や巨岩、様々な彫像、死んだ先祖の骨などに各々神をイメージしていたら、神が多くなるのは当たり前なことだ。

文化特性というものは、そういう深層的なところでとらえないと、的確な社会分析の用具になりえません。


日本人も、「一神教・対・多神教」といったレベルの文化認識から、もう卒業せねばなりません。



今回はこれまでとしましょう。



(Vol.23 「国教」の規制力は「神イメージ」が左右する   完)







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Vol.22 自由精神の許容度が成長社会の鍵

2016年04月06日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」・・・今回も進めて参りましょう。

前回、初代教会で始まった聖句自由吟味活動は、「世界を知りたい」がための探求活動であることを示しました。

そして、それがどのような認識構造をもっているかを、科学の認識方法と照らし合わせながら、お話ししました。

今回は、その自由吟味活動が、人間の知的成長、国家社会の強さ、などにどのように関係しているかを考えましょう。






<「社会」は人が組み合わさった人間集団>


まず、人間が生きている場である、「社会」を、基本から考えましょう。

人間は、肉体を持って生まれます。

肉体には食物を与えねばならない。

外敵の攻撃からも守らねばなりません。

+++


人間はその活動を一人ですることも出来ます。

だが、複数が集まって、共同でなす方がはるか効率がいいです。

そこで、自然に集団を形成することになります。

+++

集団として食料を生産し、食欲を満たし身体を保全するには、相互に争いが起きないようにルールを定めることが必要になります。

また、それを持続させるには、全体を監視し、ルールを破った人には懲罰を与えねばならない。

そういう仕事が必要になりますが、集団の全員がそれをするわけにはいきません。

みんながこれをすると、食物の生産活動をする人などがいなくなってしまうからです。

そこでこれを主たる業務として担当する人が現れます。

これが統治者(統率者)です。

+++

彼がうまく働くと、集団全体が一人の人間の身体のように、一体性をもちます。

(その際、統治者は人間の身体の中の頭脳のような役割を果たします)

このような一体性をもつと、集団は「社会」になります。

社会とは、人々が有機的に組み合わさって一体性をなして動いている人間集団なのです。

東京渋谷のハチ公前に、群れている人々の集団とは違います。




<身体保全が出発動因>

社会は、このように、食欲の充足と身体の保全を出発動機として出来る人間集団です。

ここで、用語を簡素化しておきましょう。

食べるのも基本的には身体の保全のためです。

外敵からの防衛も身体保全のためです。

そこで両者をひっくるめて「身体保全」の行動とも呼べることにしましょう。

+++

この言葉を使うと、社会は「成員が身体保全を出発動機として形成した集団」となります。

この初心動機は、以後も社会の基底で働き続けます。

全ての成員の心底に、身体保全の動機が働き続ける。

そしてそれが「全員の総意」となって社会意識を形成します。





<統治者は社会の一体性を促進しようとする>


そうしたなかで、成員は各々自分の分担する役割を果たして暮らします。

果たしながら、それが、よりよくなされるようになることを期待します。

これも「社会の総意」になる。

そしてその「総意としての期待」は統治者にも働きます。

統治者の主業務は、社会の一体性の維持です。

彼は社会の総意を受け、社会の一体性をより高度に実現しようと志します。


+++

社会には、ルールに反する行為をしてしまう人間も常時出続けます。

統治者はこの行為を、できうる限り少なくしようとします。

ところが、そう願うほど、ルール違反者が大きく気に触ってきます。

だから、統治者は、多かれ少なかれ、ルール違反人間に対して神経症的になっていきます。

そこで、ルールをより緻密にしたりして、人々の自由勝手な振る舞いを、出来うるかぎり制御しようとしていきます。





<身体保全を得ると精神自由の欲求が増す>

ところがここで問題が生じます。

人間心理においては、一定の身体保全が得られると、精神の自由への欲求上昇が起きるのです。

その自由精神は、自分の分担する仕事への創意工夫に向かい、改善となって実ることもあります。

だが、他の様々な面でも人は自由意志の発露を欲していきます。





<統治者の自由精神にたいする二つの姿勢>


これに対する統治者の姿勢は、二つに分かれます。

一つは、自己の心中にある統制本能を押さえつつ、社会の一体性を損なわない限りに、自由精神の発露を許容していく姿勢です。

するとその社会では、精神文化は多様化し、洗練もされていきます。

各人の分担する仕事も改善され、向上していきます。

+++

第二は、自由意志を制約していく姿勢です。

この場合、統治者は、自由精神を発露した行為の、ルールに抵触する面が気に触ってならないことが多い。

それに耐えられずに、統率行為に入るのです。

が、ともあれこの姿勢から出る諸政策は、人民の自由精神を萎えさせます。

そして、社会の活力は衰退していきます。





<国家社会、唐の盛衰>

古代・中世の国家社会の歴史を見ますと、「許容から統制へ」という動きが多く見られます。

そしてこれは為政者の交代によるところが大きいようです。

たとえば、中国の唐の時代、初代・高祖から五代皇帝までは自由精神と文化の多様性に対しておおらかでした。

その舞台となったのが都の長安でした。

長安は当時世界最大の100万の人口をもち、開かれた国際都市として、東西の商品、文化、宗教を許容していました。

中国には昔から儒教がありましたが、その上に、仏教もネストリウス派のキリスト教(景教)も自由な活動が許容され、大発展しました。

+++

ところが六代皇帝・玄宗は、突然、国粋主義に走って、儒教以外の全ての宗教を禁じ、宗教者を大弾圧し追放しました。

思想統制は、人民の間に恐怖を生み、それが他の様々な面での制約を産んでいきます。

官警による捜査、摘発や人民の相互監視によって国民は萎縮し、社会の連携活動がなくなってしまいます。

すると社会の各部門で次々に機能不全が起きる。

こうして、唐は突然崩壊に向かいました。

+++

歴史物語では、玄宗が楊貴妃に入れあげて、統治業務を忘れたことが、唐という国家が崩壊した原因とされています。

だが、それはまさにお話です。

玄宗が突然、自由精神禁止の政策を打ったのが真の原因です。






<室町幕府の盛衰>

同じようなことが日本の室町幕府においても起きています。

開祖尊氏から三代将軍義満までは、室町将軍は、気宇壮大な自由人でした。

彼らは自由精神許容の政策をとりました。

+++

ところが四代将軍・義持は、真逆に転じました。

彼は、三代将軍義満を非難し、義満の居所であった北山御殿を、跡形もなく破壊・消滅させてしまいました。

天皇の御所以上に豪華に創ったといわれた御殿を完全破壊した。

彼の神経には、義満将軍の自由奔放な資質が表れた北山御殿が耐えられなかったようです。

おそらく、義満という人がまぶしかったのでしょう。

そして突然精神統制政策に転じました。

これを機に、室町幕府も室町国家社会も絵のように転落に向かいます。





<統制好きな統治者を押しとどめることは出来ない>


古代・中世国家社会での自由精神政策の真逆転換は、気質の真逆な統治者による政権交代によっておきることが多いようです。

気質にかかわらず、統治者というものは、統治権力をもっています。

だから統制気質の強い統治者による抑制政策は、人民の自由精神を発露したいという願望に打ち勝ってしまいます。

それによって、人民の精神と「知」の活動は、萎縮していきます。

自由精神抑制政策は、監視の強化と処罰の頻発によって恐怖政治に繋がります。

人々は精神が萎縮して、従来のレベルの仕事もなしえなくなっていきます。

こうして、社会のあらゆる部門で機能不全が起きる。

国家社会から一体性が薄れ、国家も弱体化します。


+++


こうした場合、アウトサイダー的な統治能力者が現れ、従来の統治権を奪取するのが一般的です。

彼は、新しい体制の国家社会を始めます。

しかし、これもまた、前政権と同じ過程ををたどることになるわけです。

まさに、「歴史は繰り返す」です。






<西欧では例外的な動きがある>

さて、ここから話は本筋に迫っていきます。

この「繰り返す歴史」に当てはまらない、例外的な状況が古代の西欧社会でスタートしたのです。

ここには、抑圧されても、脅されても、仲間が殺されても「自由精神を捨てきれない」人々が大量に出現していたのです。

その精神を彼らの心に生み出したのは「世界を知りたい」という強烈な探究心、知的欲求でした。

これを中核にしたライフスタイル(生き様)を、彼らは、この世での自らの「肉体生命以上に価値あるもの」としていました。


+++

この探究は、自由意志を働かせて行わないことには、できません。

そこで彼らは「世界を探求していくに不可欠な手段」として、精神の自由をまもろうとしました。

強固に守り続けた。

統治者の強烈な統制活動に従順になり得なかった。

その彼らの存在が、西欧史を独特な人類史にしていくのです。



    


<聖書を貫徹する人間思想>

ここで聖書の話をさしはさみます。

聖書には~

 「人間は自由意志を持つようにして創られた」
  
  ~と直接書かれてはいません。

そういう聖句はみあたらないです。

+++

けれども、聖書にはその人間思想が一貫して流れています。

たとえばイエスが弟子に教えを述べるとき、常時、自由意志を保持させた状態でのべています。

信じさせようとして、脅しや強制の言葉を投げかけたりは、いっせつしていません。

イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダに対してもそうです。

最後まで彼を自由意志で行動させています。

+++

けれども、かといって、筆者は聖書のその思想を、人間の「精神自由志向の強さ」の論拠にはいたしません。


聖書の思想を根拠にしないで、率直に現時点での人間事象を見ます。

すると、「人間は自由意志を発揮できる状態に置かれるほど、その知性も身体もよく成長する」という事実が見えてくるのです。

筆者は40年の教育稼業をとおして、それを観察してきました。

+++

また、過去の歴史事実をも眺めてきました。

すると、「人民の知力が大きく成長することが、国家社会が強国になるカギ」であることも見えてきました。

そしてその知力成長のカギは、「人民の自由精神を、社会の一体性が崩れない限りで最大化するシステム」にあることも浮上してきた。

そうした経験認識に立って、自由精神の視点から、西欧史を観察しようとするのです。





<教理統制活動と自由吟味活動>

その視点に立つと、キリスト教活動にも二つの類型が浮上します。

① 聖句の自由吟味を通して「世界探求」をする活動と、

② 正統教理によって「人々を統制していこう」という活動とがそれです。

それを代表する教派、教団の具体的な名称は、読者はこれまでの話で想像がつくと思います。

だが、具体的な名は、間違った教科書や専門書や社会通念による手垢でまみれています。

それによる認識の「ゆがみ」を避けるために、筆者はこれから一般的な名称を使うことにします。



① は「教理統制活動」とします。

② は「自由吟味活動」とします。


どうしても必要ということがない限りそうする所存です。







これで終わります。

前回紹介した天才哲学者ベルグソンは、宗教教団が進む、静的宗教化の道を必然的なものとして示しました。
(『道徳と宗教の二源泉』)

そして、それが社会に与える、憂うべき動向を警告しました。

だが警告はしても、これをストップさせる手段、その打開策を示すことは、彼はできなかった。

「聖句自由吟味方式のキリスト教活動」を知らなかったからです。

筆者はこれから、その活動を視野に入れて、進もうと思っています。

最終的には打開策をも示せるといいですけどね・・・。










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Vol.21 聖句自由吟味方式の認識構造

2016年04月01日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」今日も続けて参りましょう。

今回の「認識構造論」は本邦初公開です。

文章が十分に練られているとはまだ言えませんが、以下に示してみます。


+++

先回、カトリック方式の教会の信徒は小中学生的であると申しました。

対して、聖句自由吟味方式の教会員は学者的であり、教会は学会的だといいました。

学者は、学問研究をする人です。

+++

では、学問とは何でしょうか?

漢字では「学び問う」と書きます。

要するに、様々なことを学び、かつ、問いかける(質問する)営み、ということでしょう。

英語はどうかとみると、ラーニング(learning)で、これも色々学ぶという意味です。

+++

だが今日ではそれは一つの限定的な方法による認識行為をさしています。

江戸時代までは、日本の学問は、中国の儒教に沿った学びでした。

「論語」を主とした学びで、その中心は「人間の心の修め方」にありました。

心のあり方は、行動にも繋がりますので、「正しき行為を造ること」が学びの主たる目的でした。




<今の学問は「科学」のこと>

だが、日本は明治維新を契機に、学問を西欧方式に転換しました。

西欧では、科学(サイエンス)という方法での学びをしていました。


科学は人間の営む認識方法の一つです。

それは「認識対象を人間の五感で経験認識出来るものに限定する」という特徴を持っています。

その認識対象が自然現象であれば自然科学となります。

物理学や化学はその代表です。

対象が人間社会の事象であれば社会科学となります。

経済学や法学はその代表例です。

+++

学問とは今の日本ではそういう科学と同じ意味を持っているのです。

小・中学校などで「学問知識を学ぶ」とは、「科学の認識方法で得られた知識を学ぶ」、という意味です。





<まず科学の認識構造から>

いま述べたように、科学が認識対象にするのは、五感で経験認識できる実在のみです。

科学は五感主義的な姿勢を明確にもっているのです。

だが、このように範囲が限定されていても、その対象である実在は多様性に充ちて混沌としています。




人間はこれをまず感性でそのまま、直感的に受信します。

(感触としては、ハートにドシンと受信します)

(下の図を見てください)











この直感受信した内容もまた混沌としています。

だからそのままでは、理解(筋道だった認識)が出来ません。




<理論模型で理解する>


そこで科学者は、人間に与えられた理性という能力を用いて、それを論理的に認識しようとします。

これを単純な形で見るために、模型を造ります。

子供がジャンボジェット機を理解しようとして、プラモデルを組み立てますよね。

これと同じことを科学者はするのです。



模型は英語ではモデルです。

プラモデルの「モデル」ですね。

これがいわゆる「理論」です。

だからそれは理論モデルともいわれます。

+++

人はこの模型の眼鏡をかけて、それを通して対象実在を理解しようといたします。

科学の認識方法には、対象を五感経験可能な範囲に限定する、というだけでなく、「それを筋道立てて理解(認識)しよう」という特徴も有ります。





<市場価格は需給を調整>


さてここで、科学における模型〈理論)と対象実在との関係をみておきましょう。

たとえば、経済学(経済科学)には市場に関する次のような模型(理論)があります。

市場の価格には、供給量と需要量との相互関係を調整する機能がある、というのです。

どういうことかといと、たとえば、供給量が足りなくなると、市場価格は上がります。


なぜ?

その財貨が足りくなると、買い手は競ってそれを入手しようします。

そこで、多少高くても手に入れようとする。

売り手はそれを見て、高めの価格を提示します。

買い手はそれを受け入れます。

こうやって、市場価格は上昇するのです。


+++

ところが価格が上昇するとすると、「ならばオレもその商品を売ってもうけよう」という人が現れてきます。

その結果、供給量は増える。

こういう風に価格は需給量を調整するというわけです。

+++

もう少し行きましょう。

その「おれも売ろう、おれも売ろう」という、集団の勢いが余って、供給量がオーバーしたとします。

そうなると、価格は下がります。

すると、「それならもう造って売ることや~めた」という人が現れます。

そして、供給量は減る。


こういう風に価格は需給量を両者が一致するように、調整してくれる。

これが市場価格の模型であり理論です。





<理論模型から「はみ出す」事象>


ところが、現実実在は多様です。

この模型に当てはまらない現象も現れるのですね。


+++

たとえば、最近、石油の原油価格が急低下しましたね。

模型に従えば、供給量は減るはずです。

ところが南米の産油国では、逆に供給がふえるという事態が現れました。

これらの国では原油価格の低下によって、国家の歳入が急減しました。

そこで、もっと原油を売って従来の歳入額をとりもどをうと、原油を増産することになったのです。

これって、理論模型と逆の現象ですね。


+++

現実実在は多様性に満ちています。

模型から「はみだす事象」も現すのです。


+++

でも、かといって模型など何の役にも立たない、というわけではない。

南米産油国での現象は、模型があれば、それから「はずれた現象」として、とらえることができます。

つまり、それもまた模型との比較をして、ある程度論理的に理解できることになります。

+++

模型がなければ、ただ、多様な現象がある、という認識しか出来ません。

それでは意識は混とんとしてしまいます。

模型があればそれによって、やはり筋道だった理解が可能になるのです。

また、そうした現象をも含めて説明できるように、模型を修正しようという方向も出てきます。


+++

理論模型は単純で大まかなものです。

けれども繰り返しますが、われわれは、これでもって、混沌とした現実実在をある程度筋道だてて認識することができるわけです。






<聖書が対象とする世界の理解の仕方>


以上が科学の認識方法です。

聖書が対象とする世界の認識方法でも、「その型」は同じです。

+++

もちろん、聖書が対象とするのは、科学が対象とする世界よりも、はるか広大で深遠な世界です。

科学の対象は「五感で認識出来る世界(物質界)」ですが、聖書では霊界も含めた、全存在界ですからね。

だからまた、科学の対象よりもはるかに多様で混沌とした実在世界ではあるのですが、これも型としては科学と同じ方法をとっているのです。





<聖句は第一次理論模型>


聖書の中の言葉、すなわち聖句は、科学の理論模型に対応しています。

こうきいて聖書を開いてみたらビックリでしょうね。

「聖句が模型に当たる」というのに違和感を感じる人は多いでしょうね。

+++

だが、聖句は言葉で出来ています。

言葉は、混沌とした対象実在そのものではない。

言葉は筋道だった概念でできていて、やはり人が頭の中に描く模型です。

+++

それを組み合わせて出来ている文章もまた、筋道を持った理論模型です。

聖句は、科学に対比すると模型に相当するものなのです。

これは第一次理論模型として理解しておきましょう。


+++

ただし、この模型は預言者と呼ばれた超霊感者、・・・こういう特殊な人間によって作られています。

彼らはそれを、幻を見て書いている。

その幻を、万物の創造神からのものと「信じて」書いています。

この点、独特ですが、預言者もやはり人間です。.

その面で言えば、聖句はやはり人間が作った理論模型なのです。





<聖句の理論模型は超複雑>


話を戻します。

けれども、聖句は科学の理論模型のように簡明ですっきりしたものではありません。

この言葉群自体が、まだまだ、多様性にみちている。

(だから牧師さんによって、いろんな解釈が出てきます)

そこでこの聖句を、もう一つ簡素に整理しようという試みが出てきます。

聖書が対象とする実在を筋道立てて認識しようとして、そういう動きが出るのです。

その作業が神学です。






<神学理論は第二次理論模型>


神学(theology)というのは、聖書の言葉(聖句)に内在する論理体系を取り出す作業なのです。

この理論模型ができると、人間の頭は、やっと容易に聖句を理解できるようになります。

+++

ちなみに、この作業を平たくいったのが、聖書解釈です。

牧師さんは、説教で、この解釈を述べるのです。

解釈は解読ともいいます。

また、出来上がった解釈を教理(creed,または doctrine)ともいいます。

これはいうなれば、第二次理論模型です。





<カトリックは統一教理を供給>

カトリック教会では、この教理を本部で統一教理として造ります。

そしてそれを正統な解釈として、一般教職者や信徒に与えます。

カトリックではそれで終わりです。





<初代方式教会の第二次模型作りは個性的になる>



他方、初代方式の教会では、この作業はもっと進展します。

まず、信徒は神学理論を、個々人の解釈によって心に抱こうとします。

初代教会方式では、それができるように個々の信徒に、解釈の自由を与えているのす。

+++

実際に自己の解読を得ようと本腰入れて試みると、解釈者個々人は、自分が人生で得た体験情報と照らし合わせながらそれをすることになります。

自分の生活体験とつなげての解釈が、当人の最も納得できる解読になるのです。

彼らはそれを、スモールグループにもちよって相互に吟味しあいます。

それによって個人的なバイアス(偏向)は修正されます。

同時に、彼らは他者の生活体験と思考法を相互に知り合うようにもなっていきます。

そうやって彼らは、自ら神学作業をするわけです。





<旧約をイエスの比喩表現として解釈>

自由吟味者には、さらに先の活動も準備されています。

それは、第二次模型づくりを「イエスを知ろう」という方向に推し進めるという作業です

どういうことかというと・・・・・。


+++

新約聖書はイエスの伝記などを通して、イエスという方を説明しています。

旧約聖書には、イエスという名は一度も出てきません。

だが、その旧約もまた、イエスを比喩で述べていると解読できる箇所を多く含めています。

イエスにも「旧約聖書は私のことを述べた書物」という主旨の言葉があります。
(ヨハネによる福音書,5章39節)


+++

「なに?!」ですね。

名さえ現れてないのに、イエスをのべているとはどういうことか。

もし述べているとなればそれは、比喩(たとえ)という方法でもってしているしかないでしょう。

すると聖句解読は、そういうたとえ(比喩)を探求して解読するという作業が主眼になるでしょう。


+++


これを推し進めてみます。

すると、なんと、そういう解読が可能になる聖句が聖書では見つかり続けるのです。

それだけではない。

従来、何を言っているか不明だった聖句も、イエスのことを述べているという視点から解読すると、パラリと解けてしまうことが起きるのです。


+++

これは鮮烈な体験です。

こういう経験を続けていくと、解読者には「イエスは、この世に現れる前から、旧約聖書で証言されている」という認識が濃くなってきます。

旧約の最初の著者であるモーセは、イエスより1500年前に現れた預言者(超霊感者)です。

その彼に始まって、彼に続く20人以上の預言者たちが、将来出現するイエスを証言する幻を受けていたことになる。

それに気付くと、イエスに関する認識は、新約聖書によるだけの状態から、一段と深まります。

イエスは単なる新しい教えをした教祖なのではない、と実感できてくるのです。



+++


そしてここまで進むと、解読者の心には見えない霊界の実態を確かに認識したという確信が、感動と共にわき上がります。

このあたりは、筆者はなぜかわかりません。

けれども、そういう気持ちになる。

だが、なぜかわからないので、経験知識をベースにして理由を説明することは筆者には出来ません。

そこで、ここは聖句での繋がりだけを示しておきましょう。

+++

聖書にはイエスの「諸君はわたしを通して創造神を知ることができる」という旨の言葉があります。

「知る」とは、霊感出来る、体感できることをいうのでしょう。

万物を創った創造神を霊感できる。

さすればその「意図」も感知できるでしょう。

すると、それまで心にあった被造界の断片的が、あらたなつながりをもって見えてくるのでしょう。

こうして、世界認識はさらに上昇しはじめるのです。

+++

その状況はテレビ受像器をはじめて創った制作者を知ったのに似ているでしょう。

制作者という人物を知ると、テレビを作るに際しての彼の意図が見えてくる。

すると、様々な部品の間の微妙なつながりが新たに見えてきて、テレビの新しい全体像が浮上してきます。

それに似ていると思われる。

+++

今少し広くいうと、その「本質」が見え始めたことになる。

聖句自由吟味者の世界探究でいえば、「全世界」の本質です。

これが見え始めるのが「第三段階」です。

なんかこれは、多くの読者には「禅問答のような話」になるかもしれませんね。






<第四段階は「しるし」>


ところがさらに第四の段階もあるのです。

第三次模型の認識が進むと、癒しなどの ”しるし” が現れることがある。



それらは平たくいえば、奇跡ですが、聖書では”しるし”と表現されています。

この言葉には、五感で認知できる証拠、というニュアンスも含まれています。

これは理論模型というより、現象の体験ですね。

だから、第四次理論模型というより、第四段階の認識といったところでしょうか。


+++

実際のところ、ここまでくる人は、さほど多くはありません。

けれどもこういう人は、いつの時代にも存在してきました。

戦後では、キャサリン・クールマン(故人)、オーラル・ロバーツ(故人)、ベニー・ヒン(現役)らがそれです。

ベニー・ヒンもさすがに歳とってきましたが、すると、今度はジョセファット・カジマという若手が現れました。

前の三人は米国人ですが、カジマはアフリカ(タンザニア)人です。

また、これらの有名どころだけでなく、大小様々な「しるし」が現れる人は、数多く出ています。


+++

自らに ” しるし ” が現れた人の確信は、揺るぎないものになります。

筆者はそれを観察して知るのみですが、とても深そうです。

それだけではありません。

これを観察するdけでも、聖書に述べられたイエスと創造神への確信は深化します。






<個人の信仰で語っている?>

ところで、こういう話を聞くと、「この筆者は個人的な信仰を交えて書いているのでは?」という印象を抱く人も出るでしょうね。

でも、そうではありません。

筆者は、客観的な、対象に距離を置いたスタンスを保持しながら、これを書いています。

もし信仰を交えて書くのなら、この「しるし」の話はこうなるでしょう。

聖書には、この「しるし」事象を約束したイエスの言葉も、記録されています。


「信じるものには次のしるしが伴います。 すなわち私の名によって悪霊を追い出し・・・・
病人に手を置けば癒されます」 (マルコによる福音書:16章17~18節)


信仰(聖句への信頼)を交えて論じるならば、こうした聖句を根拠にすることになります。

「ほら、イエスのこの約束の言葉が実現したよ・・・」といったごとくにです。


筆者はそういう話し方はしません。

みずからの、観察とわずかながらの体験をふまえて述べているのです。





<聖句自由吟味の進路は深い>


話を戻しましょう。

上記のような段階を進むには、聖句自由吟味の原則に立つことが不可欠です。

自由意志をはたらかせられる環境にないと、こうした探究はできない。

本部から与えられた「正統」教理に、(恐怖心をもって)従っていたのでは、そもそも聖句探究という試みは起きえないのです。





<スモールグループの効力>

話は長くなりましたが、もう一つ、ここでスモールグループの効力を述べておきましょう。

自由吟味を進める際には、個々の解釈を吟味し合うスモールグループ活動は驚異的な効力をもってきます。

+++

聖句自由吟味者は、まず、みずから聖句に接近します。

その際、先人の成果である神学理論も用いますが、とにかくまずは個人探究です。

彼等は、複数の視角から聖句を照らします。

それがすなわち、吟味なのです。

吟味をすると、聖句は当人の意識の中で立体化してきます。

自由吟味者は、みずからそれを行います。

+++

だが、人間個々人は、一時点に一つの視点からしか聖句を見ることはできません。

複数の視覚から見るには、一定の時間をおいて一呼吸して、別の視点に立ち直さないといけません。

これは精神力も時間おエネルギーもかかる作業です。


+++

ところが、数人のグループに入ると、その吟味の効率は飛躍します。

複数の人は、各々独自な視点から見ることが多いからです。

彼らが自らの解読を出し合うと、結果的にほとんど同時に、複数の視点から聖句を吟味することになります。

これによって聖句は参加者個々人の意識の中で、短時間に立体化します。

立体化すると、聖句は活き活きと動き出すのです。




<最適人数は経験則から>

このスモールグループの最適人数には、経験則があります。

それは数人であることが経験上確かめられてきています。

+++

実際、それ以上多くなると、相互の視点を明確に認識し合うことが難しくなります。

また、それ以下になると、聖句を照らす視点が少なくなります。

初代教会で取られた方式は、最適な方式なのです。

この方式は、今日においても、米国南部の自由吟味教会で実施されています。




<動的宗教の大集団>


以上で初代教会方式の活動説明は一段落です。

しかし、こういう活動を宗教活動というべきでしょうかね。

探求対象は宗教経典(聖書)ですが、メンバーは自らの「知」の深化を目指して自由吟味してますからね。

これはむしろ、学問活動というべきではないでしょうか。


+++

がともあれ、そういう特異な活動に注力する人々が、ローマ帝国支配下の全欧州に、まず、先行的に、大量に存在したのです。

もし人数を総計すれば、大集団です。

だが、それでもこの集団はベルグソンのいう動的宗教の状態を保った。

静的宗教の教団にはなりませんでした。


+++

この集団が、スモールグループの連携体だったことが大きかったでしょう。

彼等は、全員が草の根的に地表に張り付いていました。


通常の静的宗教のように、ピラミッド的な管理組織が社会の中でそびえ立つということがなかった。

だから、国家社会の統治者も、この集団を社会安定要素のひとつとして取り込む必要を感じなかったのでしょう。




<水と油>


これはもうカトリック教会とは、多くの点で水と油になるでしょうね。

カトリックは典型的な静的宗教です。

教団はその目立つ体質の故に、帝国政庁より迫害を受けてきました。

たが、その後国家社会に吸引されて公認宗教となりました。


次いで、唯一国教の地位を得た。

国家権力の一部を手中に収めました。

こうして、カトリック教団は、自らのキリスト教方式に、他のすべての宗教活動を統合しようとしていきます。


+++

この活動は猛烈味を帯びていきます。

教団は、聖句自由吟味活動を赦せませんでした。

この審理内容は、人間集団理として、ここで少し詳細に見ておく必要があります。




<現世対応的な体質>

これまでに示したように、後にカトリック方式となる教会運営の新方式は、聖書を読まない大衆信徒への対処策として考案されました。

当初これを考案した人たちは、初代教会方式を知っています。

だから彼らは、これが当座の現実的対応策の面を持っていることを知っていたでしょう。

その意味での新方式の限界をもわかっていたでしょう。

+++

だが、この方式を取ったら、集団は猛烈な速度で成長しました。

職業僧侶を神学校で育成する必要に立たされました。

それにつれて、事態は変わっていったと思われます。





<神学生は自由吟味者に敵意を抱いていく>


神学校に入ってくる若者は、教団の唯一教理を正統な真理として学びます。

白紙の状態でそれを学びます。

すると彼らは、これこそが正しい方式だと思い込みます。

特別な洞察力に恵まれた天才を除けば、人間の知性というのは、こんなものです。

それは、かなり自然な成り行きとして進行したでしょう。


+++

彼らの目には、解釈自由で活動する初代教会方式の人々を、「真理は一つ」を放棄している連中とも映じてきました。

そこで、初代方式の教会を、無政府主義者の集まりであり、その育成機関と認識した。

短絡的な行為ですが、通常の人間の知恵とはそんなものです。

+++

カトリック方式教会の若者たちは、自由吟味活動者をかなり早期から非難、攻撃し始めています。

読者は意外に思われるでしょうが、世界史の教科書にアウグスチヌスという神学者が大々的に紹介されていますよね。

彼は後に現れるトーマス・アクィナスとならんで大スター扱いです。

だが聖句自由吟味者の残した資料には、かれは、自由吟味教会攻撃の急先鋒者だったと記録されています。







筆者はこれ以後、欧州の中世史に入ります。

そこでは、読者が西欧史の教科書にみることのなかった歴史事実を記していきます。

それは読者を驚かすことになるでしょうが、筆者はそれらを単なる事実の羅列として示すことを避けようと思っています。


そういうものは歴史理解ではなく、単なるレポートです。

現代、そうしたレポート的なものを論文とする風習が一般化してしまっていますが、それは読むものを退屈させます。


筆者はこれらの事実の「理解を」していただくために、二つのキリスト教活動方式についてあらかじめ詳細に、考察したのです。

今回は、ここまでにしましょう。


〈Vol.21 聖句自由吟味方式の認識構造  完)












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Vol.20  今の「西欧史」は片肺飛行

2016年03月22日 | キリスト教の正しい学び方



みなさま、こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」、(臨時版)を終えて、本筋にもどります。

+++

いまわれわれは、キリスト教活動を西欧の歴史の中で把握する試みをしています。

そうすると、キリスト教活動の姿が立体的にみえてくるからです。

そこで今回も続けていくわけですが、ここで、是非とも確認しておくべきことがあります。




<キリスト教活動二つの系譜>

それは、紀元後二世紀以降のキリスト教活動には、明らかに異なる二つの系譜があるということです。


一つは、初代教会ではじまった、聖句自由吟味活動の流れです。

第二は、二世紀に出現したカトリック方式での活動の流れです。

この二つは実は併行して進行してきています。

+++

にもかかわらず、今日まで西欧史は、後者だけが存在するという前提で説明されてきています。

これはどう言ったらいいか、片肺のエンジンだけで飛行をしている状態というべきか。

飛行機は迷走し、眼下の風景もゆらゆら揺れて正確に観察できません。



筆者はこれまでにも、二つについてある程度のべてきました。

今回は、改めて二つを比較しつつ、今一歩踏み込んで述べてみましょう。





<初代教会方式>

初代教会方式での教会は独特な活動目標をもっています。

ひと言で言えばそれは「世界を知る」こと、「世界の全てを知る」ことです。

もう少し具体的にいうと、「霊界も含めた実在世界」の認識をすることです。

それを、個々の会員が自由に探究し、知ろうとするのです。

+++

そこではまず教会員個々人が、自由に聖句を吟味します。

そしてそれを、自らが所属する数人の小グループに持ち込んで再吟味します。

それによって個々人が、いわば「知」の充足をうるのです。

それが活動の主目標です。

初代教会方式の教会は、知を求める個々人の集合体なのです。




<カトリック方式>

カトリック方式での教会は、それとは対極的と言えるほどに異なった活動様式を取ります。

まず教会活動は、すべて職業聖職者が指導します。

そして彼らの活動の主目標は、信徒の集団である教会を、維持し発展させていくことにあります。


+++


この教会の信徒は聖書をあまり読まない大衆的信徒です。

指導者は、彼らを信徒集団としての一体性(まとまり)をもたせつつ、様々なサービスを提供し、献金を受け、教会を運営していきます。



+++

カトリック方式では職業教職者は、聖書のエッセンスを簡易にまとめたものだけを信徒に教えます。

それを教団本部が定めた唯一正統な聖書解釈だとして教えます。

信徒には聖書を吟味することを禁じます。

唯一にして正統なものがあるのでしたら、もう吟味する必要はありませんからね。

+++

一般信徒には聖書を読むことも、禁じます。

聖書の内容は複雑だから、素人の信徒がそれを解釈するのは危険だ、というのが理由の一つです。


+++

その状態で教会は、日曜には礼拝サービスを提供し、週日には信徒に葬式や結婚式などのサービスを提供します。

それらの費用や、教職者の給与や様々な教会活動の費用は信徒の献金でもってまかないます。

こうやって教会を発展させ成長させていく。

この面は、現代社会の会社、企業に共通しています。




<両方式の比較~カトリック教会~>

カトリック方式の教会はまた、この世に存在する他の多くの宗教教団と共通した性格を多く持っていきます。

たとえば日本の浄土宗や浄土真宗は次のような方式をとっています。

まず、どちらも、全国に存在する配下の寺(末寺という)を管理する本部(本山という)をもっています。。

そこが全国の支部寺(末寺という)を管理・運営するのです。

浄土宗の本山は京都の知恩院です。

浄土真宗は本山が二つあって(関ヶ原の戦いの後に分立)、西本願寺と東本願寺がそれです。

+++

本山は、各地の末寺(まつじ:まつでら、といわれることも多い)に自派の寺として運営する認可を与えています。

また、教会の正統教理を教える学校(神学校)をつくり、その卒業生に僧侶資格を与えます。

そして彼らに各地の末寺で働く許可を与えます。

信徒は、それらの末寺に所属する檀家となります。

そして、葬式などの諸サービスを受け、お布施(献金)をします。

末寺は集めた献金の一部を、本山に収めます。

+++

カトリックも同様なことをします。

信徒を教区に分け、そこに教会堂をたてます。

そこ(教区教会)に、信徒を所属させる。

これは日本の仏教での檀家に相当します。

そして、それらを本部で管理し運営します。

+++

本部には神学校も造ります。

そこを卒業した神学生に教区教会の諸行事を司る権限を与えます。

これが司祭です。

司祭は、様々なサービスを行い、信徒から献金を集め、それを本部に上納します。

+++

カトリック方式の教会では、一般信徒はもちろんのこと、一般の職業僧侶も教典をよみません。

教会本部には教団の正統教理があります。

それと異なる聖句解読をすると「異端!」として攻撃される。

だから、やはり実際には、聖書の奥義の探求はできなくなるのです。

+++

浄土真宗の職業僧侶も同じで、彼らは教典など探求しません。

そもそも彼らは漢文の解読能力を持っていない。

本部の学校では、漢文の音読だけを学びます。

それができれば、就任した末寺や檀家でのサービスは出来るのです。


ところが教典は漢文で書かれていますから、奥義の探求など出来るわけがない。

その状態で、経文の音読をして、日々の檀家サービスをこなしているのです。




<ベルグソンの「動的宗教」「静的宗教」>


すこし余談をします。

フランスの哲学者ベルグソンは宗教を「動的宗教」と「静的宗教」とに分けています(『道徳と宗教の二源泉』)。

動的宗教とは、教祖が霊感を受けて活き活きと語り、信徒が精神が活性化した状態で活動している時期の宗教です。

大発展する宗教は、発足当時には動的であるとベルグソンはいいます。




<静的宗教>

ところが教団が発展して社会的に大きな勢力になると、事態は変わってきます。

国家を運営する側の人の主たる関心は、国家社会の安定にあります。

そこで、大教団を現実社会を安定させる一機構として組み込もうとしてきます。

大教団も要求に応じて社会機構としての役割を増していく。


+++

その過程の中で、たとえば活動の儀式化も進みます。

言葉での説明が少なくなりそれが儀式に入れ替わる。

「まあ、難しいこといわないで従いなさいよ・・・」となるわけです。


儀式とは「教え」の内容を、シンボル化したものです。

シンボルとは、複雑な実在を簡易な事物で現した〈象徴した)代替認知物です。

これでもって「教え」を抽象化したのが儀式です。

この儀式の割合が、活動全体の中で、多くなっていくのです。

+++

こういうことが進むと、その宗教から当初の活力が減退していって、静的になる、とベルグソンは考えます。

その結果出来上がるのが、彼のいう静的宗教です。






<「哲学」の天才ベルグソンも初代方式教会には盲目>

これをいうとき、ベルグソンの意識にある手がかり、ほとんどもっぱらカトリック教会です。

彼は天才的哲学者ですが、宗教の知識は人並みでした。

彼の生きた近代フランスは、カトリックが圧倒的な国になっていました。

彼はそのカトリック方式の教会だけを経験素材として理論を立てているのです。

初代教会方式の聖句自由吟味方式教会活動には盲目なままで理論を作っています。

+++

けれども、カトリック的な方式の教団の性格変化を見るには、彼の理論は役立ちます。

浄土宗も浄土真宗も、戦国時代の後には大宗教になっていました。

ベルグソンの理論でいえば、静的宗教化していました。

その過程で、浄土真宗も、社会の一勢力として政治と組み合わさっていきます。

徳川時代に本山は、東(東本願寺)と西(西本願寺)に分けられました。

それは強大になった本願寺勢力を弱めるために、徳川幕府がうった政策の結果とみられています。




<発足に現実対処的な要素があった>

カトリック教会のケースでは、そもそもの発足の動機に、現実対応の要素が多分に含まれています。

聖書を読まず、聖書解読の意欲もあまりない大衆の参加希望者が、大量にやってきた。

担当者は、これに現実的に処していく必要性に迫られました。

その状況の中で、前述したような対応策が出来ていったのです。

+++

それもあって、カトリック教会には現代のサービス企業と共通した面もあります。

もちろん「イエスを信じることによって天国が約束される」という精神はあります。

キリスト教会ですからね。


++++

だが同時に、現代のサービス企業に共通する要素も運営面にはあるわけです。

そしてこの知恵が、「経営的」には、大成功をもたらし集団は急成長しました。

それは教団の規模と財力を急拡大させました。

ローマ帝国政庁も、これには関与せずにはいられなくなります。

教団も存続のためには、要望に相応に対処してかねばなりません。

そうこうしているうちに、やはり「世的」で政治的な要素は増大していくのです。

+++

コンスタンティヌス大帝は、そのカトリック教会を、公認宗教といたしました。

大帝は、公認主教の中でも、この教団をとりわけ優遇しました。

それによって、教団には世的・社会的な権力も増大していきます。




<「世の」権力者は権力を際限なく求める>

そして世的な性格を持った人間集団は、その権力をまずます大きくしたい欲望をもっていきます。

権力というのは便利なもので、人を説得の手間をかけずに従わせることを可能にします。

だから人はこれを一たび味わうと、もっと欲しくなるのです。

+++

カトリック教団は、ですから、自然に国教の地位を求めていくことになります。

教団に、国家の権力を具備させようとするのです。

そこで、大帝亡き後のローマ政庁に対して「国教化」への働きをかけ続けます。

大帝の後継者には、国教のマイナス面(前述しました)を洞察する力はありませんでした。

紀元後392年、カトリック教会はついにローマ帝国の唯一国教となります。




<初代方式の教会員は学者的>

他方、初代方式教会はどうでしょうか?

こちらはカトリック方式教会と対極と言っていいほどの性格をもっています。

まず、この集団はとても学者的、研究者的です。


活動の主目的が、霊界を含めた実在を知ることにあるのですから。

目的が個々人の「知」の深化にあるのです。

+++

初代方式の教会はまた、聖句解釈の自由を大原則にしています。

だから、各々が自分の解読結果、自分の聖書解釈をもつことが出来ます。

これも学者的です。

学者は学会に出ていろんな人の研究報告を聞き、議論をします。

だが、結局はそれらの情報を自分の知識に生かそうとしますからね。

そうした意味でも、初代方式の教会活動は、学会と共通した性格になっているのです。





<カトリック方式の教会員は小中学生的>

対してカトリック教会では信徒は、教団教理を正統な解釈として与えられます。

こちらは、日本の小学校、中学校の生徒のようです。

日本の義務教育では、学会で定説となった知識を教師が一方的に与えるのみですからね。

その知識の吟味は許されません。

カトリック教会の信徒は、日本の義務教育の学校生徒のような性格を持つことになるのです。




<自由吟味方式はキリスト教界のみのもの>


では、ほかの宗教はどうか?

たとえば仏教界に教典の自由吟味活動する方式の寺などあるのか?


ありません。

他の宗教界でも、初代方式のキリスト教会のような活動は、見当たりません。

初代方式の教会活動は、全宗教界においてもユニークそのものです。

全くもって特異な活動なのです。


+++

この方式の特性を、今ひとつ踏み込んで把握しておくことが必要です。

キリスト教の正しい認識にも、今後の歴史把握のためにとても重要なのです。

考察の糸口としては、どうしてこんな活動がキリスト教の分野で可能になったのか、などが有効だと思われます。

そして、一つにはそれは、聖書という教典の特異性によるところが大きそうです。


そこで、この辺りから説明に入りたいと思います。

だがそれには、かなりな言葉を費やさねばならない予感がします。


従ってそれは次回にまとめて論じることに致しましょう。



(「キリスト教の正しい学び方」   第20回  完)










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(臨時版)日本学校教育の疾患と打開法

2016年03月18日 | キリスト教の正しい学び方




みなさんこんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」、ここで臨時版を差し挟みます。

+++

「生徒の万引き記録をとりちがえ、やってない生徒を自殺させた」・・・という事件が最近ありました。

聞いた当初私は唖然としました。

だが、しばらくするとそこには教育の深い疾患が感じられてきました。

原因は単に担当女教師のずさんさにだけあるのではないのではないか。

もっと深く広範なところに遠因があって、それは、日本学校教育の根底的な疾患に根付いているのではないか。

また、テレビに登場したあの校長の、「人畜無害なニコニコおじさん顔」にも、なにかのつながりがあるようにも感じられてきました。

わたしはそれを、根底的なところにまで踏み込んで考えてみようと思いました。




<理想の人間像が教育の土台>

教育思想の背景には、理想とする人間観、人生観があるものです。

その上で、教えられる生徒を、それに近づけていこう、とする。

そこから方法は産まれるはずです。

日本の事例で考えてみましょう。




<武士道>

日本の学校教育は、明治から始まりました。

その際の理想人間像は武士道のそれだけでした。

武士には、武士道という人間思想があった。

そして日本の明治以前の時代には、人間観をベースとした教育思想を持てるのは、武士だけでした。

それ故、結局武士道人間像だけが人間の理想像として作用したのです。

+++

そこでは「武士たるものは自分が属する藩の存続発展のために役立ち、必要とあれば”死ぬ”ことの出来る人間たるべし」、と考えられていました。

「武士道とは死ぬことと憶えたり」という言葉は、それを端的に示したものです。






<普段は事務仕事をする>

といっても、藩のために「死ぬ」場面はそう頻繁にあるわけではありません。

武士の普段の仕事は、藩の運営のための事務仕事でした。

農民が農地を耕すように、普段には一兵卒として効率よく事務仕事をこなすのが武士の理想でした。

またそれらを道徳観を持って行うための「論語」の知識をもつことも理想として加えられていました。

+++

つまり、最低限「読み、書き、そろばん」ができ、論語の知識を持ち、「ここと言うときには」恐れずに死ぬことのできる人間、これが武士の理想像でした。

そこで武士教育の教師も、そうした人間を育てることを教育の責務と考えていました。




<「命令=服従」の学習方式>

武士は、戦の時には戦う軍人でもあります。

軍隊の行動原理は「命令=服従」です。

戦の時、話し合いでことを決めていては、敏速な集団行動が実現しないからです。

+++

この鉄則は、論語や、読み書きそろばんを教える際にも貫徹しました。

武士の教師は、学習させる際にも、自然にそれに沿った行動様式を取りました。

生徒に定番の知識を与え、その吸収を「命令し従わせる」のです。

「信之介、わかったか、では復唱してみろ!」と言うがごとくです。

そうすることが教育の神髄だという信念を、教師も教えられる側もごく自然に持っていました。




<国民国家実現は急務>

その状態で、日本は西欧列強に囲まれ、植民地にされる危機に立たされました。

植民地にされないためには、西欧のさまざまな事物を吸収しなければなりません。

明治新政府は、西欧近代国家を目指して、日本再構築を開始しました。

+++

西欧列強は人民が「国家」を意識して結集する、いわゆる「国民国家」を実現していました。

日本にもこの体制の確立が急務でした。

軍人である武士が、各々自藩のために命を賭けている状態では、国家としての一体性が形成できないのです。




<「藩」を「国家」に置き換える>

そこで、新政府は命を賭けるべき対象だった「藩」を「国家」に置き換えました。

「藩籍奉還」と「廃藩置県」を強行し、藩を消滅させた。

そして、天皇を国家のシンボルとして、人民の意識を国家に結集しようとしました。

徴兵制でもって、武士だけでなく、日本人全部が軍人になりうるようにもしました。

こうして西欧並みの「国民国家」の実現に突き進んだのです。





<武士道ベースの教育哲学でばく進>

そういうわけで、西欧にならって造った学校でも、そこでの教育方法の型は、江戸時代の武士道のままでした。

理想の人間とは、必要なときには(藩ではなく)国のために恐れず「死ぬ」人間だ。

近代国家に役立つ人間になるには「西洋の学問から得られる定番知識」を身につけることも必要だ。

学校では、そういう国民を造るべく、知識の吸収を「命令=服従」の方式で、やらせました。

初期に学校教師になるのは、武士あがりの人々でしたので、それはもう自然な帰結でもありました。




<日本軍人は強かった!>

この方式は、日清戦争、日露戦争で大いに効力を発揮しました。

学校で訓練された「命令=服従」の行動様式は、すなわちそのまま、軍隊の求めるそれだったのですから。

日本政府は以後も戦の可能性の中にあり続けました。

だからこの軍国的な学校教育方式は、大正、昭和になっても続けられました。

+++

その勢いで、日本は中国を侵蝕し、東南アジアから西欧諸国を追い払い、みずからの植民地としました。

「父よあなたは強かった!」


(昭和14年の軍歌の一節:  一番の歌詞は・・・


  「父よあなたは強かった   兜(かぶと)も焦がす炎熱に

    敵の屍(かばね)と共に寝て 泥水すすり 草を噛み

      荒れた山河を 幾千里     よくこそ撃って 下さった」)


      https://www.youtube.com/watch?v=5XXggeAttdw



日本軍は破竹の進撃を続けました。

進撃の半分は、武士道教育で育った人間の惰性によるものでもありました。




<米国に張り倒されても無思想教育に走るのみ>

惰性は止まりにくいものですが、日本の指導者はとくにそうした全体的な方向運転は苦手でした。

この動きは、米国に張り倒されてやっと止みました。

太平洋戦争で、原爆のダブルパンチを食わされ、第二次大戦で敗戦してやっと止んだのです。





<一億総懺悔>。

すると日本人は、それまでの全ての事柄について総懺悔を始めました。

純朴の民なんですね。

学校教育については「天皇現人神思想にだまされてきた!」と気付いた。

その勢いで「もう思想教育なんてゴメン」となって、戦後の学校教育は「無思想教育」となりました。

+++

ただし無思想といっても、全く何もないのでは行動できません。

総懺悔の空白地帯の中に、長年すり込まれてきた人間観が残存しました。

教育の基礎には、武士道の人間観が潜在したのです。




<命令調ベースの知識供給>

これはもう、他にこれといった思想が見付からなかったことによります。

日本の思想資源はあまり豊かでなく、その人間観は単純なのです。

だから日本人には、教育方法の改善も、難しかった。

その結果、今も、学校では定番知識が命令調ベースで提示されます。

そしてそれを素直に吸収する生徒が、いい生徒、となっています。




<何故か「自分の頭で」考える子が出ない>

ところが、そうやっていたら、何故か「自分の頭で考える」姿勢が強く産まれません。

創意工夫の力の強い子が例外的にしか出てきません。

平和の中では、それが問題にされたりしてきます。

にもかかわらず、その原因がよくわかりません。

具体的な対策もイメージに浮かびません。

それが日本の教育界の実情です。





<西欧は「自由意志を働かせる」教育>

なぜか?

明治維新で西欧の学校制度を真似たにもかかわらず、西欧の教育観を踏み込んで知ろうとしなかったからです。

その土台にある、西欧が理想とする人間観を認識するための、地道な努力をしなかったからです。

+++

西欧の教育方式は、武士道方式とは対極的なものです。

+++

それは聖書の人間観をベースにしてできています。

聖書は、「創造神は人間を”自由意志を持つように”つくった」という思想を持っています。

一旦そう造ったからには、創造神は、人の「自由意志領域に立ち入って強引に動かす」ことはしない。

「万物の創造主」は本来、何でも出来る全能者なのに、そういうことは決してしない。

聖書には、その論理が貫徹しています。

+++

そして、実際に人に「自由意志でもって知識を吟味」させてみます。

すると、事実として人間の精神は最大の活性を発揮するのです。

そこで、西欧の学校では、自由意志を働かせて知識を吟味して学ぶように、生徒を誘導します。




<発端は聖句自由吟味活動に>

こんな方式がどうして考案されたのか。

実はこの方式は、初代教会でなされた、「小グループでの聖句自由吟味活動」として誕生しています。

それが紆余曲折を経て(本シリーズで明かしますが)西欧に広まり、学校教育も、この方式でなされるようになっているのです。

+++

実は鹿嶋がこの「キリスト教の正しい学び方」で明かそうとしている最大のテーマは、そのことの歴史的な実態です。

だが、実際には今話はその途中です。

だからこの(臨時版)は、はからずも、その課題を先取り的に示してしまうことにもなっているのです。




<日本でもセンスのある教師は>

ここで、留意しておくべきことがあります。

日本の学校に、輸入された西欧文化の中に、西欧教育の「自由意志方式」を察知した教師もわずかながらいたということです。

彼らはそれを、日本の学校制度の中で、臨機応変に試みました。

+++

これは、持って生まれた「教育センス」でもってなされるものです。

どの社会,いつの時代にもセンスのある人間はいるものです。

彼らは、自由意志を発揮させて得られる教育効果を、本能的に悟ってやってきているのです。

+++

そして彼らは日本では少数者ですから、その成果が目立ちます。

だから語りぐさにもなってきました。

けれどもれでもって、日本にも西欧風の「自由意志方式」が大いにあったのだ、と一般化してはなりません。

そういう印象に飲まれてはなりません。

大勢としては、そういうものは日本にはなかったのです。

日本の大勢は、武士道方式だったし、いまも基本はそうなのです。

+++

繰り返しますが、センスのある教師は例外的に少数でした。

日本の大多数の学校教師は「命令=服従」ベースによる「知識の刷り込み」しか知りません。

その実情を踏まえていないと、教育問題は夢想の中に蒸発していってしまいます。




<指導者資質を殺いでいく>

日本の教育事例に戻ります。

武士道ベースの教育は、現場の一兵卒を育てるには適合しています。

だが、それは同時に、人の内にある指導者資質を殺ぐ働きをします。

+++

軍隊であっても、指導者に求められる資質は、現場の兵卒のそれとは一線を画します。

指導者は、戦の「全体像」を動態的に認識しつづけていなければなりません。

そして対応する戦略を常時考案し実施しつづけてなければなりません。

「自分の頭で考える」能力とは、そういう能力をいうのでして、これは指導者の地位を占めたものは絶対にもたねばならない。

(なのにその地位を、自己の利得を主目的として占めたものが多数になった結果が、昭和の悲劇でした)

+++

そういうことを漠然と認識するのは容易です。

だがその能力がどうやったら育成されるかを「具体的にイメージする」ことは難しい。

司馬遼太郎さんが描く、明治の指導者は少数の別格でした。

その資質の人間を多数育成することは日本の学校教育には出来ませんでした。

出来ないままに、兵卒人間を量産し続けた。

そして、米国に張り倒されて敗戦して、ようやっと眠りから覚めたのが今の日本です。





<本質抜きの民主教育>

目が覚めた状態の中に、戦後、教育改革の衣装を着て登場したのが民主教育です。

「これまでは封建主義だった。これからは民主主義を教えねばならない」。

~こういって生徒に自治会などをさせました。

だが、それは民主主義という思想のもつ本質に無知なままでおこなわれました。

ただ、形として、民主政治のまねをさせただけでした。




<定番「旧約解釈」の自由吟味活動>

西欧民主主義の根底は、定番だった旧約聖書の解釈を、自由に吟味することから発しています。

まず、個々人が自由に解読し、それを、数人の小グループに持ち寄って自由吟味する。

そこから産まれる個性的な解読を、できうる限り活かして全体社会の決定が出来ることを彼らは願った。

その願いから、民主制という、多数決にして少数意見に留意する決定制度が考案されたのです。

その精神を日本人は味わっていない。

だから、民主教育もまた、命令でもって押しつけられる定番思想になってしいるのです。




<定番知識も吟味すれば精神は活性化>

教科書にある知識は、学界で定説化している定番知識です。

こういう知識であっても、自由吟味させれば、人間の精神は(もちろん子供の精神も)活性化します。

+++

西欧の自由意志ベースの教育では、精神の活性度は最大の鍵です。

そもそも、「創意工夫する」とか「自分の頭で考える」のは、精神と「知」の活性がなければできません。

とりわけ、指導者にもなり得る人物を育てるには、その精神の活性化を最大目標にすべきです。

定番知識をすり込んであげるだけでは、生徒の精神は、倦怠化し、鈍化します。

そうなった人間は、兵卒として使うしかなくなるのです。




<認識論的にいうと>

今回の「万引き取り違え事件」にもどりましょう。

教師にとっても、校則は一つの定番知識です。

それは本来、教育思想を背景として出てきているものです。

だが、吟味しなければそれは、単なる定番知識のままとなります。

+++

定番知識のままでただそれを見ていると、人は飽きます。

これに直面していると、人の精神も知性も鈍化します。

それは不快な状態だから、人間はあえて対面しなくなる。

今回の女教師もその一人と推測されます。

+++

そして彼女に限らず、日本の教師の大半は、そういう精神状態にあります。

そして、これらの教師たちは、実際のところ、知の活性化している外部のフリーの教師(塾などの)たちの教育活動を妨げています。

実例をいいます。

たとえば、小学校の学校教師は、音楽で、「スタッカート」だけを正しいとし、「スタカット」「スタカート」とあると、間違いにしてしまいます。

成績をつける権威をかさにきて、そういうことを平気でやっている。

これがたとえば、音楽の本質を教えようとする、音楽塾の外部教師を、苦しめています。




<校長のなすべきこと>

学校教師は、それを、自己保全のためにやっています。

小さなクレームで職を失う恐怖で、やっている。

立場が弱いが故にやっている。

++

実は、校長の大きな任務は、この恐怖を取り除いてあげることにあります。

この状態の打破を促すべく、現場の教師たちに校則の自由吟味をさせる。

そのことへの恐れを取り除いてあげるのが、すぐれた校長や教頭です。

+++

ところが、校長自身がそれを怖がっていたらどうなるか。

何もしないで、人畜無害なニコニコおじさんでいるしかないでしょう。

鹿嶋は、テレビに出てきた校長の顔、姿にそういう保身動機を見るのです。





<例外的校長>

しかしここにもやはりセンスのある人物はいます。

この校長は、現場教師に吟味の自由を与え、活性化する働きをします。

しかしここでも、日本ではそれは、きわめてわずかしかいません。

この人は、人畜無害の空気のような存在でないと、校長になりにくい中で、一種の有能さで校長になった。

そういうケースが多いです。

だがそういう人物は、日本ではごくわずかで、多数派にはなりがたいのです。




<根底的打開策>

この事態はどう打開されうるか?

唯一の打開策は、多くの日本人の意識が変わることです。

それは知識の自由吟味がいかに活力社会を造り上げてきたかを示す「歴史事実」を知ることで、実現するのです。

+++

人は、個人に知識の自由吟味を許すと、その集団社会が無政府状態になると直感し懸念します。

だが、現実にはそうはならない。

集団の成員は、基本的な原理を共有するようになる。

だから無政府状態にはならない。

これは歴史のなかの事実をみて知る以外にありません。

+++

鹿嶋は、多くの日本人がこれを知ることが、カギだと思っています。

日本が、指導力、ガバナビリティの欠如によって崩壊するのを救う唯一の道だと思っています。

この「キリスト教の正しい学び方」シリーズを書いている大きな理由がそこにあります。

だけど、それにも歴史事実を示すことが必須です。

だから、「調べて書く」「調べて書く」を繰り返しています。

+++


それゆえ、本来それは、結論的なところで述べるべきものです。

けれども、今回のあまりに哀れな事件に触発されて、先走ってしまいました。

また、本論に戻ります。



(臨時版: 「日本学校教育の疾患と打開法」  完)







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Vol.19 驚異の征服力がキリスト教土壌を急拡大

2016年03月02日 | キリスト教の正しい学び方





みなさま、こんにちわ。

きょうもまた、「キリスト教の正しい学び方」を進めて参りましょう。

+++


前回、古代ローマ国は、まるでキリスト教を受容するべく準備された受け皿のようだった、と申しました。

この観点からローマ帝国をもう少し見ておきましょう。

+++

古代ローマ人のもつ征服力は、近代以前の人類史では空前絶後です。

バリスタという強力な弓兵器、合理的な軍団編成・運営方式、闘技場(コロッセイム)に今もみられる土木建築技術・・・どれをとっても、その先進性は驚異的です。

これでもってして、ローマは短期間に全欧州、および、アフリカや中東の地中海沿岸地域を領地に収めました。




<スコットランドは強かった>

ただし現代のイギリス本島(ブリテン島)の、北半分は領有できませんでした。

ウェールズ地方とイングランド地方は征服しましたが、今のスコットランドにあたる地域は残りました。

スコットランド軍は、例外的に強かったようです。




<驚異の土木建築力>

そこでローマはスコットランドとの境界線に、ブリテン島を東西に横切る長大な城壁((ハドリアヌスの長城)をつくりました。

1万五千人の兵士が、厚さ3メートル、高さ6メートル、長さ120キロの城壁を建築した。

わずか5年間で完成させたといいます。

ブルドーザーのない古代のこの時期に、こんなことをやってのける人間集団〈国家)があったなんて、うそのようです。




<一体性維持の問題>

話を戻します。

破竹の勢いで領土が拡大すると、国家としての一体性を維持するのが大仕事になります。

有力な将軍の駐在地が地方に分散していくからです。

彼らは政治的にも有力者で、その地の統治者となります。

この人たちの精神が首都ローマの中央政庁と相呼応する状態を保つ努力が、帝国の一体性維持に必要になるのです。




<弾力的な権限配分>

しかしこの問題にもローマ人は卓越した才能を発揮しました。

彼らは皇帝と元老院との権限配分を柔軟に調整することでもって対応しました。

一体性向上の強力な決め手は、皇帝権力の強化です。

いわゆる五賢帝時代は、聡明な皇帝が、強化された帝権を用いて適確な統治を行った時代です。

+++

皇帝の能力が凡庸化すると、各地を実質的に統治している将軍の政治力が相対的に強くなります。

こういうときには、元老院の権限を強化して危機を乗り切ったでしょう。


   

<ディオクレティアヌス帝の四分皇帝制>

そうしたなかで再び有能な皇帝が出ました。

ディオクレティアヌス帝です。

彼は自らの指揮下に政権を集中させると、帝国を四つの地域に分けました。

+++

一つは皇帝に、三つは副帝に統治させた。

この副帝たちは一年ほど経つとその地域の皇帝になります。

実質、四皇帝制へといいう大改革を行ったわけです。
〈彼自身はそうしておいて、あっさりと引退してしまいました)

この時代は四分皇帝時代ともいわれます。




<拡大し続けた快適空間>

ローマは隣接地を征服すると、そこに小ローマを造っていきます。

そこで市民権を得ているものは、快適な生活をします。

鳥瞰すると、こうした快適空間は欧州と地中海沿岸地域で拡大していきました。

+++

こういう空間に住むと、市民は永遠理念を求めるようになります。

このようにして、ローマ帝国はキリスト教の受け皿を拡大していきました。



<永遠理念の役割>

現世的な快適社会に住むと、人は何故永遠理念を求めるのか。

「肉体は死んで消滅する」という事実がもたらす、自己への空虚感を深く感じるようになるからです。

+++

そしてそこに永遠世界の理念が入ると、意識が変わってきます。

永遠世界の理念は、人間がその中に自分を位置づけ、自己に永遠の属性イメージを抱ける道を開くのです。

たとえば、霊的世界の理念は永遠世界の理念です。

これをもち、人間は肉体だけでなく霊からも構成されている、という概念をもつと、事態は変わります。

人は自分に永遠の属性があるというイメージを得るのです。




<自価意識が急上昇する>

するとそれは、当人の自価意識を急上昇させます。

+++

「自価意識」とは、「自分という存在が、が存在する価値あると思う意識」です。

人間は現実社会で様々な価値理念を造って、自分に付加しています。

それで自価意識を造り、精神に活性を得て生きている。

自価意識は、日々生きる人間の精神と知性の活力の基盤として働いているのです。

+++

ところが、本体の自分が「死んで消滅しておしまい」ならどうなるか。

価値とは所詮、本体に付加される「意味のイメージ」です。

そのご主人が消滅したら、価値〈世的な)は空しいものとなってしまいます。

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人はそういうことを、本能的に感じつつ生きています。

だから、人が通常自覚している現世的な自価意識は希薄で弱いものなのです。

+++

ところが「肉体が死んでも、自分の霊は永続する」との理念をもつと、それに付加される価値イメージも安定化します。

それによって、自価意識は持続的になり、強く濃厚になります。

さらにその価値が、霊的なものとしてイメージされるならば、自価意識は飛躍します。

+++


キリスト教思想は、その永遠理念を供給する強靱な論理体系を持っています。

だから、それはローマ帝国空間では、「砂漠での泉」となって市民の心に染み込んだのです。

+++

当時キリスト教はローマ統治下の空間では禁教でした。

にもかかわらず、キリスト教活動は、地下運動として拡大し続けました。




<聖セバスチアン事件>

そこに、後に「聖セバスチアンの殉教」と命名される事件が起きました。

皇帝のお膝元で起きた。

皇帝の親衛隊長、セバスチアンがキリスト教信徒だと発覚したのです。

彼が他の信徒を密かに助けていたことがわかった。

皇帝の取り巻きは激怒します。

+++

セバスチアンは、弓の射手に取り囲まれ、矢を射られ続けるという刑に処されます。

その矢がハリネズミの針のような状態になった、との言い伝えもあります。




・・・・・・・・・・・・

余談です。

この場面を描いた絵画「聖セバスティアンの殉教」に心をとらえられた少年が、戦前の日本にいました。

後の作家・三島由紀夫です。

彼は、この絵に「自らの肉体的生命以上の価値を抱く崇高さ」を感じ取り、鮮烈な感銘を受けた。

そして、戦後の日本国家にそれがないことを嘆き、天皇親政を取り戻そうとしました。

天皇に再び「そのために死ぬ価値ある対象」になってもらおうとしたのです。

+++

彼は「盾の会」という集団を組織し、彼らと共に、市ヶ谷の自衛隊駐屯所の総監室に突入した。

総監に革命の必要を説くためでした。

そして説得がならぬとみると、切腹し、同志に首をはねさせて死を遂げました。

「自分のいのち以上に価値ある理念のために死ぬ」という理想を自ら実践したのでした。

・・・・・・・・・・・・








話を戻します。

セバスチアン事件を契機に、ローマ政庁はキリスト教徒絶滅政策を開始しました。

ちなみに、この政策はディオクレティアヌス帝がやったと通常、言われています〈教科書もそうなっている)。

だが、実際にはそうではなかったようです。

この皇帝はキリスト教には寛大だった。

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303年から始まるキリスト教徒絶滅作戦を主導したのは、共同皇帝ガレリウスでした。

広域統治の天才、ローマの帝国政庁は、あの広大なローマ領地全土で、絶滅大作戦を展開しました。

地下運動のキリスト教活動を見つけ出し、信徒を捕らえ、見せしめの拷問をしたうえで殺していく。

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闘技場で流血の殺し合いを楽しむローマ人です。

闘技場の定番メニューは、午前中が動物と剣闘士の戦い、昼休み時間が罪人の公開処刑、午後が剣闘士同士の殺し合いだったという。

〈こんなのを年中楽しんでいる連中と、戦場で出会いたくないなぁ〉

彼らは、処刑においても合理的で残忍でした。

魚を料理するかのように、キリスト教徒とカトリック教会の指導者を拷問し、処刑しました。

+++

ところがガレリウスは311年に、性器が腐るという過酷な病にかかりました。

今で言えば糖尿病だったのでしょうか。

神罰でもイメージしたのか、この年に、迫害解除布告が出され絶滅政策は終了します。

ガレリウスは、その年に死んでいます。




<中央政庁の権威失墜する>

9年近くにわたる国家的大政策が失敗に終わってしまいました。

こうなると、中央政庁の権威は失墜します。

各地の皇帝や将軍たちは、国家統一を目指して戦争を開始しました。

そして、コンスタンチヌス1世が最終勝利をおさめ、内乱は収束しました。

彼は四分皇帝の一人、コンスタンティウスの息子です。





<「大帝」キリスト教を公認する>

帝国を再統一したコンスタンチヌスは「大帝」と称せられるほどに強大な皇帝権力を手にしました。

そして何と、313年にそれまで禁教だったキリスト教を公認したのです。

従来禁教だった最大の理由は、キリスト教が「創造神をローマの皇帝より上位におく思想」をもっていたことでした。

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だが、大帝はここでウルトラCのアイデアを実施した。

カトリック教団を抱き込み、活用する政策です。

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彼は「創造神は、天上天下のすべてを統治する存在であるが、地上の世の統治はローマ皇帝にゆだねている」という思想を教会に容認させたのです。

大帝はローマ人のもつ「現実的で広く体系的な思考」の資質をすぐれて体現した人物でした。





<公認のままに留め続けた>

カトリック教団内部に「次は国教に」という動きが生じるのは、時の勢い、自然の理です。

だが大帝は生涯、カトリック教会を公認宗教の一つにとどめ置きました。

国教ではキリスト教思想は、「ローマ帝国の一体性に貢献する理念にならない」と洞察したからでしょう。

+++

宗教に限らず、思想理念は、自発的に受け入れる余地を残してはじめて人々の心の内で躍動するものです。

外から受容を強制すれば躍動は止み、人心から理念のスピリットが抜け、外枠だけが残っていきます。

こうして思想は形骸化していくのです。

+++

カトリックの教えも国教として強制されればそうなるでしょう。

さすればその中に組み込まれた皇帝崇拝の教理も市民の心の中で形骸化していくでしょう。

そるとそれは帝国の一体性を支える機能をはたさなくなっていく。

大帝はそういう、人間精神の深淵を洞察していたのでしょう。




<首都を東に移す>

その一方で大帝はもう一つの国家スピリット維持手段をうちました。

再統一した帝国の首都を、ローマ市から東のコンスタンチノープルに移したのです。

従来の首都ローマは、現世快楽主義が蔓延し、諸思想が入り乱れて精神的にも魑魅魍魎の様相をなしていた。

大帝はこの都市で帝国精神を維持するのは無理と洞察したのでしょう。

首都を東に移しました。

+++

けれども西のローマ市はカトリック教会の本拠地です。

そこでは相応になすべき統治業務があって、すべての機能を移転することは出来ませんでした。

+++

その結果、ローマ帝国は事実上の分割統治的な状態になりました。

そして時とともに二つの統治空間は西ローマ帝国と東ローマ帝国と呼ばれるようになりました。

今回は、ここまでにしておきましょう。


(「キリスト教の正しい学び方」   第19回  完)










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Vol.18 市民に「パンとサーカス」を無償提供する快適社会

2016年02月23日 | キリスト教の正しい学び方




みなさん、こんにちわ。

きょうも「キリスト教の正しい学び方」進めて参りましょう。


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ローマ人のパブリック精神、合理精神は、対外的な戦闘力を強くしただけではありませんでした。

この精神は、征服した諸都市を、快適な社会空間に設計する能力をも造り上げました。





<各地に「小ローマ」を建設>

帝国政府は、諸都市に穀物貯蔵所と、円形の大闘技場と市民大浴場を建設しました。

定番のようにどの都市もそう設計した。


その都市原型は、首都ローマです。

地方都市はそれと同じ形式で造られたので「小ローマ」と呼ばれました。





<市民に穀物を無償供給>

ローマ政府は、そこを市民が「食べる心配」なしでくらせる空間にしました。

彼らに穀物を無料で与えたのです。


そのために、今の北アフリカや南フランス地域の穀倉地帯を征服しました。

そこから各都市への道路や海路など輸送網を完備しました。

そして各都市に穀物の貯蔵所をもうけたのです。




<娯楽も無償提供>

加えて政府は、各都市に大闘技場を建造しました。

そしてそこで市民が、剣闘士同志の戦い、や、剣闘士とライオンや牛など動物との戦いをみられるようにもした。

十分に食べさせた上で、娯楽も提供したのです。

+++

さらに観戦が終わったら、身体を温めリラックスできる大浴場も建設した。

市民にとってローマはまさに、至れり尽くせり、の福祉国家だったのです。


+++


「ローマはパンとサーカスを与えた」という言葉は、それをさしています。

いうまでもなくパンは穀物、サーカスは娯楽を意味しています。





<水道設備もあった>

各都市には水道設備も作られました。

水源から水を流してくる水路を、高い橋げたの上に作りました。


今でもローマ市近辺にその名残がみられます。

また、ローマ政府は上水道だけでなく、下水道も造って市民に快適な生活環境を提供しました。




<ポンペイの遺跡>

余談です。

ローマ国における都市の快適さは、遺跡都市ポンペイにもうかがうことができます。

近代になって発掘されるまで、この都市は大噴火による火山灰に埋まったままできました。

だから、当時の都市そのままの姿を見せてくれているわけです。


そこには水道も、喫茶店もあります。

今の都市生活に比べてみても、電気がないだけで、現代都市さながらの快適さを備えています。




<ニームの街>

火山灰でそっくり保存されてはいなくても、古代の「小ローマ」の姿を濃厚に残している都市もあります。

ニームという小都市はその一つで、これは地中海沿岸のイタリアとフランスの国境近くのフランス側にあります。

リゾート都市として知られたフランスのカンヌからローマに向けてクルマで走ると行き着きます。


+++

そこには古代の闘技場もそのまま残っています。

見学者用の入場料を払って上方の観客席に座りますと、当時のローマ市民になったような錯覚にとらわれます。


下方に剣闘士が戦った砂場が見えます。

敗れた剣闘士や剣闘士に刺された動物の血は、この真っ白な砂にさっと飛び散り、染み込んだでしょう。

その時観客の市民は鮮烈な印象を受けたでしょう。

その光景がリアルに想像されます。


市民が暮らした住居地の区画も、闘技場から歩ける位置にあります。

そこに通された道路も昔のままで、今も市民はそこで暮らしています。

少し離れたところには、大浴場や穀物貯蔵所の跡地もあります。


+++

余談の余談ですが、ニームではローマ時代の人ではないか、と思わせる市民もも筆者は見ることができました。


市内のレストランで「ローマ戦士の家族か・・・」と思わせるような四人連れの隣で食事をしました。

ジャイアント馬場のような骨格の夫に、意志の強そうな妻、そして小学生くらいの姉と幼い弟、という4人家族だった。

親も子供も、驚くほど大量に食べていました。


また、外に出ると、ローマ時代の青年のカップルかと思わせる若い男女にも出会いました。

男性は短いパンチパーマのような金髪で、顔つきも体つきも映画に出てくるローマ戦士にそっくりでした。


女性も小柄な金髪の美人でした。

ローマ人(純正ラテン民族)の女性は、小柄なのです。






<「デニム」の発祥地>

もう一つ余談です。

このニームには、耐久力ある綿の布地を織る技術に優れた職人が沢山いました。

彼らのつくる綿織物は、デニムと呼ばれ、今日でいうブランド名になりました。

「デ」はラテン語のdeで、英語のof, fromに当たり、「デニム」は「ニーム産の」という意味になります。


+++

後年米国で、この布地に織り込む糸に、蚊を寄せ付けない草の汁を染み込ませて織った布地が造られました。

後の「ジーンズ」です。

そしてジーンズは、戦後長らく、「デニム」とも呼ばれていました。




<「小ローマ」の都市と米国の地方都市>


話を戻します。

小ローマの街は、今のアメリカの地方都市に似たところが多いです。

どちらも合理的に設計された、市民生活の快適化を主眼にした現実的な街です。


アメリカは初代教会方式の聖句自由吟味活動者が設計して作った国家です。

自由吟味者は虚飾を避けるので、彼らが設計する都市は簡素で合理的になります。

それもあって、アメリカの地方都市は、小ローマの都市に似ているのです。

+++

ただし、都市建設の精神には違いがあります。


米国市民にはまず福音の思想が浸透しています。

住んでいる人間の多くの心に、「永遠の自分のイメージ」が存在している。

市民に先にそういう思想があって、その思想の果実として合理的な地方都市が形成されています。


+++


対して、小ローマ都市建設者の出発点には、合理的で快適な現実生活を実現しようという合理精神が強くありました。

それが華美と優美さ徹底して避けた、質素で現実的で合理的な小ローマを造らせています。





<快適な合理都市は精神に余裕を与える>

小ローマのような都市で、食べることの心配なく快適な生活を送っていると、人間には自分を思いめぐらす余裕が生まれます。

すると、今現在の自分をこえた、「永遠の時の流れの中の自分」にも、だんだんと思いをはせるようになります。

「自分(人間)はどうして存在するか、死後どうなるのか」などを本格的に考えるようになる。

+++

ローマ市民にも、良き行いをし、美しく生きる道徳はありました。

そういう倫理思想はあった。


だが、自分に関する永遠のイメージを与えてくれる思想はありませんでした。

彼らの心には、そうした理念への渇望が生まれました。

それは時と共に加速度的に大きくなっていきました。

+++

そこにキリスト教は入ってきたのです。

キリスト教の教えには、人間の永遠のビジョンを与える言葉(福音)があります。

それはローマ人の渇望感のなかに、砂漠に注がれた水のごとくに、しみこんでいきました。





<東方はぐちゃぐちゃ社会>

その様は、エルサレムから東の方の東方アジア地域と比較してみるとよくわかります。

アジア、特にインドから極東の国、日本に至る古代アジアの地方社会には、小ローマのように合理的に設計された都市空間はありませんでした。

都市といっても、人間が無計画に集まって暮らしているうちに、自然発生的に出来上がる集落でした。

いってみればそれは「ゴチャゴチャ社会」です。

+++

そういう空間では、在物神(モノの中に存在しているとイメージされる神々)が蔓延し、人民は無知・無思考な状態で暮らします。

常時的に貧困と病と苦しみのなかにあります。


とはいえ、そういう生活空間には、人が常時肌でふれあう温かさはあります。

その意味で、孤独感は少ない社会です。


+++


だが、そこでは人民は強者に支配されているのを当然と感じています。

そこには「個人の自由意志のある生活」は成立し得ません。


そういう精神的余裕は、そもそも、経済的豊かさがないと、形成されないのですが、

たとえ物資が豊富でも、生活空間がごちゃごちゃでは駄目です。

合理的に設計された、すっきりした生活空間の中にいないと、人間は日常生活感覚を超えた,永遠の自分を考えるようにはなれないのです。

+++

つまり、東方アジアには、キリスト教の説く、永遠のイメージは、入っていかないのです。

こうしたアジア社会に照らしてみると、ローマ社会が、キリスト教を受け入れるために最適な空間だったことがわかってきます。

すると帝国はそのために準備された、広大な受け皿(土壌)だったようにすら見えてきます。





<聖霊、パウロに「西へ行くように」働きかける>

聖書にはこれに関連する、衝撃的な記述があります。

パウロという人は、キリスト教伝道で、大車輪の活躍をする人です。

その彼が東の方に宣教に向かおうとしたとき、聖霊(創造神の霊)が「西の方に行くように」働きかけます。
(『使徒行伝』16章6~10節)

西の方角とはすなわち、ローマ帝国の社会空間がある方角です。


+++

もしパウロが東南アジアなどに行っていたら、その宣教活動は、泥沼の中で足を取られるようになっていたのではないでしょうか。


パウロ宣教の大成功はローマ帝国でこそ、成し遂げられるのです。






キリスト教が人間に形成する精神構造は、こうした社会空間の特性との対応をみることで、

一層よく理解できそうに思われます。




(「キリスト教の正しい学び方」   第18回  完)










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