こんにちわ。
「キリスト教の正しい学び方」今日も続けて参りましょう。
今回の「認識構造論」は本邦初公開です。
文章が十分に練られているとはまだ言えませんが、以下に示してみます。
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先回、カトリック方式の教会の信徒は小中学生的であると申しました。
対して、聖句自由吟味方式の教会員は学者的であり、教会は学会的だといいました。
学者は、学問研究をする人です。
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では、学問とは何でしょうか?
漢字では「学び問う」と書きます。
要するに、様々なことを学び、かつ、問いかける(質問する)営み、ということでしょう。
英語はどうかとみると、ラーニング(learning)で、これも色々学ぶという意味です。
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だが今日ではそれは一つの限定的な方法による認識行為をさしています。
江戸時代までは、日本の学問は、中国の儒教に沿った学びでした。
「論語」を主とした学びで、その中心は「人間の心の修め方」にありました。
心のあり方は、行動にも繋がりますので、「正しき行為を造ること」が学びの主たる目的でした。
<今の学問は「科学」のこと>
だが、日本は明治維新を契機に、学問を西欧方式に転換しました。
西欧では、科学(サイエンス)という方法での学びをしていました。
科学は人間の営む認識方法の一つです。
それは「認識対象を人間の五感で経験認識出来るものに限定する」という特徴を持っています。
その認識対象が自然現象であれば自然科学となります。
物理学や化学はその代表です。
対象が人間社会の事象であれば社会科学となります。
経済学や法学はその代表例です。
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学問とは今の日本ではそういう科学と同じ意味を持っているのです。
小・中学校などで「学問知識を学ぶ」とは、「科学の認識方法で得られた知識を学ぶ」、という意味です。
<まず科学の認識構造から>
いま述べたように、科学が認識対象にするのは、五感で経験認識できる実在のみです。
科学は五感主義的な姿勢を明確にもっているのです。
だが、このように範囲が限定されていても、その対象である実在は多様性に充ちて混沌としています。
人間はこれをまず感性でそのまま、直感的に受信します。
(感触としては、ハートにドシンと受信します)
(下の図を見てください)
この直感受信した内容もまた混沌としています。
だからそのままでは、理解(筋道だった認識)が出来ません。
<理論模型で理解する>
そこで科学者は、人間に与えられた理性という能力を用いて、それを論理的に認識しようとします。
これを単純な形で見るために、模型を造ります。
子供がジャンボジェット機を理解しようとして、プラモデルを組み立てますよね。
これと同じことを科学者はするのです。
模型は英語ではモデルです。
プラモデルの「モデル」ですね。
これがいわゆる「理論」です。
だからそれは理論モデルともいわれます。
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人はこの模型の眼鏡をかけて、それを通して対象実在を理解しようといたします。
科学の認識方法には、対象を五感経験可能な範囲に限定する、というだけでなく、「それを筋道立てて理解(認識)しよう」という特徴も有ります。
<市場価格は需給を調整>
さてここで、科学における模型〈理論)と対象実在との関係をみておきましょう。
たとえば、経済学(経済科学)には市場に関する次のような模型(理論)があります。
市場の価格には、供給量と需要量との相互関係を調整する機能がある、というのです。
どういうことかといと、たとえば、供給量が足りなくなると、市場価格は上がります。
なぜ?
その財貨が足りくなると、買い手は競ってそれを入手しようします。
そこで、多少高くても手に入れようとする。
売り手はそれを見て、高めの価格を提示します。
買い手はそれを受け入れます。
こうやって、市場価格は上昇するのです。
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ところが価格が上昇するとすると、「ならばオレもその商品を売ってもうけよう」という人が現れてきます。
その結果、供給量は増える。
こういう風に価格は需給量を調整するというわけです。
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もう少し行きましょう。
その「おれも売ろう、おれも売ろう」という、集団の勢いが余って、供給量がオーバーしたとします。
そうなると、価格は下がります。
すると、「それならもう造って売ることや~めた」という人が現れます。
そして、供給量は減る。
こういう風に価格は需給量を両者が一致するように、調整してくれる。
これが市場価格の模型であり理論です。
<理論模型から「はみ出す」事象>
ところが、現実実在は多様です。
この模型に当てはまらない現象も現れるのですね。
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たとえば、最近、石油の原油価格が急低下しましたね。
模型に従えば、供給量は減るはずです。
ところが南米の産油国では、逆に供給がふえるという事態が現れました。
これらの国では原油価格の低下によって、国家の歳入が急減しました。
そこで、もっと原油を売って従来の歳入額をとりもどをうと、原油を増産することになったのです。
これって、理論模型と逆の現象ですね。
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現実実在は多様性に満ちています。
模型から「はみだす事象」も現すのです。
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でも、かといって模型など何の役にも立たない、というわけではない。
南米産油国での現象は、模型があれば、それから「はずれた現象」として、とらえることができます。
つまり、それもまた模型との比較をして、ある程度論理的に理解できることになります。
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模型がなければ、ただ、多様な現象がある、という認識しか出来ません。
それでは意識は混とんとしてしまいます。
模型があればそれによって、やはり筋道だった理解が可能になるのです。
また、そうした現象をも含めて説明できるように、模型を修正しようという方向も出てきます。
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理論模型は単純で大まかなものです。
けれども繰り返しますが、われわれは、これでもって、混沌とした現実実在をある程度筋道だてて認識することができるわけです。
<聖書が対象とする世界の理解の仕方>
以上が科学の認識方法です。
聖書が対象とする世界の認識方法でも、「その型」は同じです。
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もちろん、聖書が対象とするのは、科学が対象とする世界よりも、はるか広大で深遠な世界です。
科学の対象は「五感で認識出来る世界(物質界)」ですが、聖書では霊界も含めた、全存在界ですからね。
だからまた、科学の対象よりもはるかに多様で混沌とした実在世界ではあるのですが、これも型としては科学と同じ方法をとっているのです。
<聖句は第一次理論模型>
聖書の中の言葉、すなわち聖句は、科学の理論模型に対応しています。
こうきいて聖書を開いてみたらビックリでしょうね。
「聖句が模型に当たる」というのに違和感を感じる人は多いでしょうね。
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だが、聖句は言葉で出来ています。
言葉は、混沌とした対象実在そのものではない。
言葉は筋道だった概念でできていて、やはり人が頭の中に描く模型です。
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それを組み合わせて出来ている文章もまた、筋道を持った理論模型です。
聖句は、科学に対比すると模型に相当するものなのです。
これは第一次理論模型として理解しておきましょう。
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ただし、この模型は預言者と呼ばれた超霊感者、・・・こういう特殊な人間によって作られています。
彼らはそれを、幻を見て書いている。
その幻を、万物の創造神からのものと「信じて」書いています。
この点、独特ですが、預言者もやはり人間です。.
その面で言えば、聖句はやはり人間が作った理論模型なのです。
<聖句の理論模型は超複雑>
話を戻します。
けれども、聖句は科学の理論模型のように簡明ですっきりしたものではありません。
この言葉群自体が、まだまだ、多様性にみちている。
(だから牧師さんによって、いろんな解釈が出てきます)
そこでこの聖句を、もう一つ簡素に整理しようという試みが出てきます。
聖書が対象とする実在を筋道立てて認識しようとして、そういう動きが出るのです。
その作業が神学です。
<神学理論は第二次理論模型>
神学(theology)というのは、聖書の言葉(聖句)に内在する論理体系を取り出す作業なのです。
この理論模型ができると、人間の頭は、やっと容易に聖句を理解できるようになります。
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ちなみに、この作業を平たくいったのが、聖書解釈です。
牧師さんは、説教で、この解釈を述べるのです。
解釈は解読ともいいます。
また、出来上がった解釈を教理(creed,または doctrine)ともいいます。
これはいうなれば、第二次理論模型です。
<カトリックは統一教理を供給>
カトリック教会では、この教理を本部で統一教理として造ります。
そしてそれを正統な解釈として、一般教職者や信徒に与えます。
カトリックではそれで終わりです。
<初代方式教会の第二次模型作りは個性的になる>
他方、初代方式の教会では、この作業はもっと進展します。
まず、信徒は神学理論を、個々人の解釈によって心に抱こうとします。
初代教会方式では、それができるように個々の信徒に、解釈の自由を与えているのす。
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実際に自己の解読を得ようと本腰入れて試みると、解釈者個々人は、自分が人生で得た体験情報と照らし合わせながらそれをすることになります。
自分の生活体験とつなげての解釈が、当人の最も納得できる解読になるのです。
彼らはそれを、スモールグループにもちよって相互に吟味しあいます。
それによって個人的なバイアス(偏向)は修正されます。
同時に、彼らは他者の生活体験と思考法を相互に知り合うようにもなっていきます。
そうやって彼らは、自ら神学作業をするわけです。
<旧約をイエスの比喩表現として解釈>
自由吟味者には、さらに先の活動も準備されています。
それは、第二次模型づくりを「イエスを知ろう」という方向に推し進めるという作業です
どういうことかというと・・・・・。
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新約聖書はイエスの伝記などを通して、イエスという方を説明しています。
旧約聖書には、イエスという名は一度も出てきません。
だが、その旧約もまた、イエスを比喩で述べていると解読できる箇所を多く含めています。
イエスにも「旧約聖書は私のことを述べた書物」という主旨の言葉があります。
(ヨハネによる福音書,5章39節)
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「なに?!」ですね。
名さえ現れてないのに、イエスをのべているとはどういうことか。
もし述べているとなればそれは、比喩(たとえ)という方法でもってしているしかないでしょう。
すると聖句解読は、そういうたとえ(比喩)を探求して解読するという作業が主眼になるでしょう。
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これを推し進めてみます。
すると、なんと、そういう解読が可能になる聖句が聖書では見つかり続けるのです。
それだけではない。
従来、何を言っているか不明だった聖句も、イエスのことを述べているという視点から解読すると、パラリと解けてしまうことが起きるのです。
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これは鮮烈な体験です。
こういう経験を続けていくと、解読者には「イエスは、この世に現れる前から、旧約聖書で証言されている」という認識が濃くなってきます。
旧約の最初の著者であるモーセは、イエスより1500年前に現れた預言者(超霊感者)です。
その彼に始まって、彼に続く20人以上の預言者たちが、将来出現するイエスを証言する幻を受けていたことになる。
それに気付くと、イエスに関する認識は、新約聖書によるだけの状態から、一段と深まります。
イエスは単なる新しい教えをした教祖なのではない、と実感できてくるのです。
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そしてここまで進むと、解読者の心には見えない霊界の実態を確かに認識したという確信が、感動と共にわき上がります。
このあたりは、筆者はなぜかわかりません。
けれども、そういう気持ちになる。
だが、なぜかわからないので、経験知識をベースにして理由を説明することは筆者には出来ません。
そこで、ここは聖句での繋がりだけを示しておきましょう。
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聖書にはイエスの「諸君はわたしを通して創造神を知ることができる」という旨の言葉があります。
「知る」とは、霊感出来る、体感できることをいうのでしょう。
万物を創った創造神を霊感できる。
さすればその「意図」も感知できるでしょう。
すると、それまで心にあった被造界の断片的が、あらたなつながりをもって見えてくるのでしょう。
こうして、世界認識はさらに上昇しはじめるのです。
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その状況はテレビ受像器をはじめて創った制作者を知ったのに似ているでしょう。
制作者という人物を知ると、テレビを作るに際しての彼の意図が見えてくる。
すると、様々な部品の間の微妙なつながりが新たに見えてきて、テレビの新しい全体像が浮上してきます。
それに似ていると思われる。
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今少し広くいうと、その「本質」が見え始めたことになる。
聖句自由吟味者の世界探究でいえば、「全世界」の本質です。
これが見え始めるのが「第三段階」です。
なんかこれは、多くの読者には「禅問答のような話」になるかもしれませんね。
<第四段階は「しるし」>
ところがさらに第四の段階もあるのです。
第三次模型の認識が進むと、癒しなどの ”しるし” が現れることがある。
それらは平たくいえば、奇跡ですが、聖書では”しるし”と表現されています。
この言葉には、五感で認知できる証拠、というニュアンスも含まれています。
これは理論模型というより、現象の体験ですね。
だから、第四次理論模型というより、第四段階の認識といったところでしょうか。
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実際のところ、ここまでくる人は、さほど多くはありません。
けれどもこういう人は、いつの時代にも存在してきました。
戦後では、キャサリン・クールマン(故人)、オーラル・ロバーツ(故人)、ベニー・ヒン(現役)らがそれです。
ベニー・ヒンもさすがに歳とってきましたが、すると、今度はジョセファット・カジマという若手が現れました。
前の三人は米国人ですが、カジマはアフリカ(タンザニア)人です。
また、これらの有名どころだけでなく、大小様々な「しるし」が現れる人は、数多く出ています。
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自らに ” しるし ” が現れた人の確信は、揺るぎないものになります。
筆者はそれを観察して知るのみですが、とても深そうです。
それだけではありません。
これを観察するdけでも、聖書に述べられたイエスと創造神への確信は深化します。
<個人の信仰で語っている?>
ところで、こういう話を聞くと、「この筆者は個人的な信仰を交えて書いているのでは?」という印象を抱く人も出るでしょうね。
でも、そうではありません。
筆者は、客観的な、対象に距離を置いたスタンスを保持しながら、これを書いています。
もし信仰を交えて書くのなら、この「しるし」の話はこうなるでしょう。
聖書には、この「しるし」事象を約束したイエスの言葉も、記録されています。
「信じるものには次のしるしが伴います。 すなわち私の名によって悪霊を追い出し・・・・
病人に手を置けば癒されます」 (マルコによる福音書:16章17~18節)
信仰(聖句への信頼)を交えて論じるならば、こうした聖句を根拠にすることになります。
「ほら、イエスのこの約束の言葉が実現したよ・・・」といったごとくにです。
筆者はそういう話し方はしません。
みずからの、観察とわずかながらの体験をふまえて述べているのです。
<聖句自由吟味の進路は深い>
話を戻しましょう。
上記のような段階を進むには、聖句自由吟味の原則に立つことが不可欠です。
自由意志をはたらかせられる環境にないと、こうした探究はできない。
本部から与えられた「正統」教理に、(恐怖心をもって)従っていたのでは、そもそも聖句探究という試みは起きえないのです。
<スモールグループの効力>
話は長くなりましたが、もう一つ、ここでスモールグループの効力を述べておきましょう。
自由吟味を進める際には、個々の解釈を吟味し合うスモールグループ活動は驚異的な効力をもってきます。
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聖句自由吟味者は、まず、みずから聖句に接近します。
その際、先人の成果である神学理論も用いますが、とにかくまずは個人探究です。
彼等は、複数の視角から聖句を照らします。
それがすなわち、吟味なのです。
吟味をすると、聖句は当人の意識の中で立体化してきます。
自由吟味者は、みずからそれを行います。
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だが、人間個々人は、一時点に一つの視点からしか聖句を見ることはできません。
複数の視覚から見るには、一定の時間をおいて一呼吸して、別の視点に立ち直さないといけません。
これは精神力も時間おエネルギーもかかる作業です。
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ところが、数人のグループに入ると、その吟味の効率は飛躍します。
複数の人は、各々独自な視点から見ることが多いからです。
彼らが自らの解読を出し合うと、結果的にほとんど同時に、複数の視点から聖句を吟味することになります。
これによって聖句は参加者個々人の意識の中で、短時間に立体化します。
立体化すると、聖句は活き活きと動き出すのです。
<最適人数は経験則から>
このスモールグループの最適人数には、経験則があります。
それは数人であることが経験上確かめられてきています。
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実際、それ以上多くなると、相互の視点を明確に認識し合うことが難しくなります。
また、それ以下になると、聖句を照らす視点が少なくなります。
初代教会で取られた方式は、最適な方式なのです。
この方式は、今日においても、米国南部の自由吟味教会で実施されています。
<動的宗教の大集団>
以上で初代教会方式の活動説明は一段落です。
しかし、こういう活動を宗教活動というべきでしょうかね。
探求対象は宗教経典(聖書)ですが、メンバーは自らの「知」の深化を目指して自由吟味してますからね。
これはむしろ、学問活動というべきではないでしょうか。
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がともあれ、そういう特異な活動に注力する人々が、ローマ帝国支配下の全欧州に、まず、先行的に、大量に存在したのです。
もし人数を総計すれば、大集団です。
だが、それでもこの集団はベルグソンのいう動的宗教の状態を保った。
静的宗教の教団にはなりませんでした。
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この集団が、スモールグループの連携体だったことが大きかったでしょう。
彼等は、全員が草の根的に地表に張り付いていました。
通常の静的宗教のように、ピラミッド的な管理組織が社会の中でそびえ立つということがなかった。
だから、国家社会の統治者も、この集団を社会安定要素のひとつとして取り込む必要を感じなかったのでしょう。
<水と油>
これはもうカトリック教会とは、多くの点で水と油になるでしょうね。
カトリックは典型的な静的宗教です。
教団はその目立つ体質の故に、帝国政庁より迫害を受けてきました。
たが、その後国家社会に吸引されて公認宗教となりました。
次いで、唯一国教の地位を得た。
国家権力の一部を手中に収めました。
こうして、カトリック教団は、自らのキリスト教方式に、他のすべての宗教活動を統合しようとしていきます。
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この活動は猛烈味を帯びていきます。
教団は、聖句自由吟味活動を赦せませんでした。
この審理内容は、人間集団理として、ここで少し詳細に見ておく必要があります。
<現世対応的な体質>
これまでに示したように、後にカトリック方式となる教会運営の新方式は、聖書を読まない大衆信徒への対処策として考案されました。
当初これを考案した人たちは、初代教会方式を知っています。
だから彼らは、これが当座の現実的対応策の面を持っていることを知っていたでしょう。
その意味での新方式の限界をもわかっていたでしょう。
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だが、この方式を取ったら、集団は猛烈な速度で成長しました。
職業僧侶を神学校で育成する必要に立たされました。
それにつれて、事態は変わっていったと思われます。
<神学生は自由吟味者に敵意を抱いていく>
神学校に入ってくる若者は、教団の唯一教理を正統な真理として学びます。
白紙の状態でそれを学びます。
すると彼らは、これこそが正しい方式だと思い込みます。
特別な洞察力に恵まれた天才を除けば、人間の知性というのは、こんなものです。
それは、かなり自然な成り行きとして進行したでしょう。
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彼らの目には、解釈自由で活動する初代教会方式の人々を、「真理は一つ」を放棄している連中とも映じてきました。
そこで、初代方式の教会を、無政府主義者の集まりであり、その育成機関と認識した。
短絡的な行為ですが、通常の人間の知恵とはそんなものです。
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カトリック方式教会の若者たちは、自由吟味活動者をかなり早期から非難、攻撃し始めています。
読者は意外に思われるでしょうが、世界史の教科書にアウグスチヌスという神学者が大々的に紹介されていますよね。
彼は後に現れるトーマス・アクィナスとならんで大スター扱いです。
だが聖句自由吟味者の残した資料には、かれは、自由吟味教会攻撃の急先鋒者だったと記録されています。
筆者はこれ以後、欧州の中世史に入ります。
そこでは、読者が西欧史の教科書にみることのなかった歴史事実を記していきます。
それは読者を驚かすことになるでしょうが、筆者はそれらを単なる事実の羅列として示すことを避けようと思っています。
そういうものは歴史理解ではなく、単なるレポートです。
現代、そうしたレポート的なものを論文とする風習が一般化してしまっていますが、それは読むものを退屈させます。
筆者はこれらの事実の「理解を」していただくために、二つのキリスト教活動方式についてあらかじめ詳細に、考察したのです。
今回は、ここまでにしましょう。
〈Vol.21 聖句自由吟味方式の認識構造 完)