鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

35.「罪の告白⇒悔改め」しても罪責感は残る

2019年01月16日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 
 
前回、罪に関する究極の知識(真理)を述べた。
イエスはそれが「自分が去った後に送られる聖霊」が悟らせてくれると遺言していった。

その知識が明かされるまでは、人々は罪を一つ一つ告白して悔い改めの祈りをしていた。

それが人々の罪の消去法(罪が許される方法)だった。


 
<全ての戒めが心に留まることはない>

だが、それは暫定的で不完全な方法だ。これでは罪は完全になくなりはしないのだ。

具体的に見てみると、まず、律法における「戒めの数」が多すぎる。
旧約聖書に記されている「戒め」(罪)ごとに条文を作ると、600にも900にもなるという。

そんなに多量な戒めを、すべて意識に留めて暮らすことは、人間にはできない。
だから、告白と言っても、実際には気がついた罪を言い表すだけだ。
それに続く悔い改めも同じだ。

だから、気がつかないで悔い改めの祈りをしていない罪は、多量に残る。

そして、そのことを人は直感的に認識できるから、「自分は罪人」という感覚が残る。
罪責感は消滅しない。
そのことは「自分たちはアブラハムの子孫であって自由人だ」と主張するユダヤ人たちに、イエスが「君たちは罪の奴隷だ」とカマした根拠の一つともなっている。


 
 
<主よ、離れてください!>

つまり「告白⇒悔い改め」をしても人は、イエスに「離れてください」と後ずさったペテロと同質の罪意識の種を持つことになるのだ
前述したその話をもう一度示すと~

~弟子たちが夜通し漁をしても魚が一匹も捕れなかった。
イエスが彼らに「船の右側に網を入れなさい」といった。
それに従うと、二艘の船が沈みそうになるほどに、魚が捕れた。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「これをみたシモン・ペテロはイエスの足もとにひれ伏していった。
『主よ、私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから』」
 (ルカによる福音書、5章 4~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
人間はこういう心情を、その魂(ソウル)に生来もっているのだ。
この時ペテロの内では「イエスは聖」という心情が急上昇している。
さすれば反射的に、自らの「汚れ」の自覚も急上昇する。

その結果、ペテロは強大な「恐れ」を抱いてイエスと距離を置こうとして、後ずさった。
罪責感の種を持つ人間には、これは自然の情なのだ。

だが、こうなったらもう、イエスとの同一化につとめるという意欲は萎えてしまう。
イエスを慕いかつ親密の情を抱くことなどできなくなってしまう。



余談である。

筆者も従来、罪とは逐一表明して悔い改めの祈りをして許してもらう(消される)もの、・・・そういうものだと思っていた。
その反面、正直なところ、「悔い改めたら許される」なんてホンマかいなという気持ちはゼロではなかった。
けれども、その自覚は明確ではなかった。

だが、聖霊によって罪の真理に導き入れられて、それが不完全なものだと明確に自覚できた。
 
真理を悟ってその不完全さが明確に認識できたのだ。

究極の知識(真理)とはありがたいものだ。
それは闇を貫いて事実を知らせてくれる、栄光の光といっていいだろう。

今回は、ここまでにしよう。
 
 
 
 
 
 
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34.聖霊が導き入れる「罪の真理」とは?

2019年01月15日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 
 
前回、罪の知識には[暫定的なもの」と「究極の真理」とがあることをみた。
そして真理は、聖霊が来て導き入れてくれる、とイエスは遺言していった。

今回は、その真理の中身を検討する回だ。

+++

結論から言うと、②「聖霊の導き入れる究極の罪知識」は、罪の完全な消去法を含んでいる。
 
消去は、イエスが身体から流し注いでおかれた血による。
 
これが罪が発生した瞬間に、それを溶かしてしまうのだ。
 
+++
 
イエスは最後の晩餐で葡萄酒の入った杯を掲げてこういっている。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「みなこの杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。
罪を許すため、.多くの人々のために流されるものです。」
 (マタイによる福音書。26章27-28節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
「多くの人々のために罪を許すため」というのだからこの罪は、人間の犯す全ての罪をさしている。
 
自分が(これから)自分の身体から注ぎ出す血は、これを相殺して消去するというのだ。
どうしてそうなるのか?

 

<人間の血とイエスの血>
 
そもそも血とは何か?
 
人間の身体に循環運動をさせるのは「いのちエネルギー」である。
血はそのエネルギーを携えて身体の各部に供給する。
 
だからその供給活動が途絶えたとき、つまり血液循環が衰えたとき、人の身体は死ぬ。
病院で血圧計が急低下すると、医師が「ご臨終です」というのは、それを示している。
 
+++
 
他方、創造神イエスの身体における血は、いのちのエネルギーの運搬液ではない。
いのち(エネルギー)そのものの凝集してなった液体である。
 
この「いのち」は罪を相殺してしまう。
罪は「死のエネルギー」を放射している。
イエスの血(「いのち」凝集体)は、罪のその(死の)エネルギーを相殺する無限の力を持っている。
これが罪という存在を瞬時に消滅させてしまう。
 
 
      
 
<ロゴスが人となった方~愛弟子ヨハネの洞察~>
 
ヨハネ伝の著者ヨハネは、イエスを最も深く理解した弟子だ。
その伝記で、「イエスが最も愛した弟子」と書いているのは、自分のことなのだ。
 
その彼は、「”人の子”イエスはロゴスが身体になった方」との洞察を記している。(ヨハネによる福音書、1章1節)



 
<ロゴスは血をまとっている>
 
「人の子」イエスのからだになるべきロゴスは、いのちの血をまとっている。
御子の身体になったロゴスは、骨肉とともに血も持っている。
 
その血は、注ぎ出されると凝集し、この地上に貯蔵され、いのちエネルギーを無限に放射する。
 
その血は、注ぎ出された後には、人間が律法違反をする前から、すでに待ち受けているのだ。
そして違反によって発生した罪を瞬時に溶解し、消滅さすのだ。
 
イエスが「罪を許すため、.多くの人々のために流されるもの」といったのは、その血なのだ。

 
 
 
<効能を持つのは「血」>
 
 
イエスの血は全ての罪を、発生後瞬時に溶解・消去する。
そういう波動を持っている。
 
それを約束した最後の晩餐での言葉もまた波動である。
 
そのことを明かした量子物理学は、まことに恐るべき物理理論だ。
 
その波動は、受け入れた人には、約束を実現する波動に変化する。
 
かくして、血を信じる人は、罪なき存在とされるのだ。
 
+++
 
一般には、罪を許すのは「イエスの死」とか「十字架死」とか言われてきている。
 
それは間違いではないけれども、Sサイズの身体にXLサイズの下着をあてがうようなところがある。
漠然としている。焦点が絞られていなくて図星ではない。
 
図星は「注ぎ出されたイエスの血」だ。
イエスの血が罪を溶かしてしまうのだ。
 
そしてその血を信ずるものが、即座に「罪なき人」となる。

これが罪の究極の奥義である。
 
 
 
 
<奥義を悟らせるのは聖霊の助け>
 
イエスは、この奥義(真理)は聖霊が悟らせてくれる、と遺言した。
 
前回に掲示した聖句~
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導き入れます」
    (ヨハネによる福音書、16章12節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~は、それを言っている。
 
 
聖霊は創造神と同じく創造霊だ。
 
この霊は創造神の意識波動、真理の意識波動を発している。
 
その波動と共鳴共振することによって、人間は奥義(真理)を悟る。
 
驚くべきは聖霊の波動力だ。

イエス昇天後の地上に住む人間は、聖霊の助けを受けて、真理を悟れるのだ。

正しいと悟れば、人はそれを心に受容し、血の効能を受ける。
 
さすれば罪責感の奴隷となった状態から解放され自由になる。
 
+++
 
重要なところなので繰り返す。

まず聖霊の助けで罪の真理を悟り、罪責感から解放される。
それから、イエスとの同一化に、全身全霊を尽くす。

これによって、イエスの「夢の約束」ステージ(III)への道は開かれるのだ。
 
今回は、ここまでにしよう。




 
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33.旧約律法の「戒めと罪」は暫定的な知識

2019年01月14日 | 鬱を打破する聖書の論理

 


前回、イエスとの同一化をするには、意志の力で全身全霊をあげての愛で愛することが必要と述べた。
今回は、その同一化という精神作業をする際に横たわる、もう一つの大きな障害について考える。
 
障害とは「罪の意識・自責の意識」だ。

これがあったのでは、人は安息の中で手放しでイエスに同化していくことができず、取り除くためには、知識が必要なのだ。

 

<暫定的な教えと究極の真理>
 
 イエスは罪についても多くを教えていった。
だが、それは二重構造になっているのだ。
暫定的な教えと究極の教えとがそれを構成している。

+++

知識には究極でないものと、暫定的なものとがある。
人間の見つけ出す知識は後者であって、科学においてはそれは仮説という語で示されている。
           
科学は人間の行う認識行為だ。
人間は全ての事象を認識できないので、そこで得る知識は暫定的なものであって、それを仮説(仮に設定した学説)という。
人は新しい事象見えてきたとき、その理論(仮説)を修正する。
だが、修正した理論も、また仮説であって、科学ではそれを繰り返す。
 
+++
 
科学でも真理という言葉を使うが、そこでの「真理」は、人間には到達できないが、遠く望んで進む夢の目標、という意味だ。

 
 
<創造神は「究極の知識」を知っている>
 
だが、その視野に創造神が加わってくると、話は変わってくる。
創造神は「究極の知識である真理」をも知っているのだ。

万物を創造した創造神は、全ての事象を知っている。
自分が創ったのだから、全事象が認識範囲なのだ。



<だがイエスは暫定知識も教えた>
 
もちろんイエスもそれを知っている。
だが、知っていながら彼は、暫定的な教えもしているよ。

下記の聖句でイエスはそれをずばり直接言っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしには、諸君に話すことがまだ沢山ありますが、いま諸君(弟子たち)にはそれを耐える力がありません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導き入れます。
    (ヨハネによる福音書、16章12節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


最後の晩餐での言葉だ。
イエスはここで、自分が今話してきたのは、真理ではなく、暫定的な知識だ、といっているのだ。
真理とはもう修正の必要がない「究極の知識」を意味する。
 
+++

彼は人々(弟子たちも含む)に、罪についても語ってきた。
だがそれは暫定的な知識だという。
究極の知識(真理)は、聖霊が来て教えてくれるからね、とここで
いっているのだ。

 
<旧約の「戒め」は不完全で暫定的>

この究極の真理を知るには、まず、従来の罪の知識はどのように暫定的であるかを知る必要がある。
暫定的というのは、不完全な、という意味も含めている。

従来教えられてきた罪とは~
 
① 「律法を守らないこと」だった。

イエスは病人を癒やしたとき「もう罪を犯さないように・・・」といっている。
その罪は実はこれだった。

+++
 
姦淫の現場でとらえられて、イエスの前につき出された女を救った後に語った罪もこれだ。

有名な話だけれど概略を示しておくと~

「石打ちにすべき(して殺す)ではないか」と迫るユダヤ教の僧侶たちにイエスは
「罪なき者から先に石を投げよ!」という。
すると彼らは一人また一人と去って行って、女とイエスだけが残される。
その女にイエスは、
「私もあなたを罪に定めない。もう罪を犯さないように」という。

~この罪も「律法に反する行為」だ。

+++

だがイエスは、他の場面で「律法の戒めは不完全だ」と教えている。
それを示すために彼は「姦淫の罪」をとりあげる。

そしてこれも有名な
 ~「女を見て姦淫の情を抱くのは、行為と同様に罪だ」
~という教えをユダヤ教僧侶たちにカマす。

 この戒めは旧約聖書に記されているが、そこで記されているのは行為に関する戒めだけだ。
だがそれはいわば「表の意味」であって、実はそれは「思い」に関する戒めも含んでいるというのだ。

そしてイエスは「わたしは律法を完全化しにきたのだ」といっている。
つまり、従来の旧約の律法の戒めは不完全なものなのだ。
 
不完全だが、わかりやすいので、暫定的に与えた知識だったのだ。

 
<真理には聖霊が導き入れる>
 
 
では、究極で完全なものとはなにかというと~

② 「イエスを信じないことによるもの」だという。
 
     ~イエスはその真理に弟子たちを「聖霊が来て導き入れる」という。
 
 
ではどうしてこれが完全なのか?

次回にそれに入ろう。




 
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32.愛は意志で創成・強化もできる~自然愛と創成愛~

2019年01月11日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

前回、イエスの「夢の(約束の)言葉」
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~の、(I)から(II)に移行するには、イエスとの同一化が必要であり、同一化を実現する鍵は「イエスを愛すること」だと述べた。

これは一見容易にみえるが、現実はそう簡単ではない。

             

<自然愛と創成愛>

愛には二種類ある。

一つは「心に自然に発生する愛」で、①「自然愛」とでもいうべきものだ。
もう一つは「意志の力で創り出す愛」で、これは②「創成愛」といっていいだろう。

+++

新約聖書でイエスが教えている愛は、ほとんどがこの創成愛である。
 
たとえば、「山上の垂訓」と通称される教えで、イエスは次のように述べている。

 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』といわれたのをあなた方は聞いています。
しかし、わたしはあなた方に言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子供になれるのです」
   (マタイによる福音書、7章43-45節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
「自分の隣人を愛する愛」は自然の情として心に生じるもので、①の自然愛だ。
「だが敵を愛する」というのは、自然発生はしない。
これは意志の力で創生し、増強しようとしてはじめて出来る②創成愛なのだ。
 
ここでイエスが教えている愛も、並大抵の努力では出来るものではない。
それこそ「死ぬ思いでの」決心をせねばならないだろう。
そういう愛を持続する過程で、心を開いて相手に接近することによって、その開いた心を傷つけられることも多々起きる。
それにも耐え続けねばならないのだ。

+++
 
イエスと「同一化」するとは、ズバリ言えば「自分も(ほとんど)イエスになってしまう」ことだ。
そういう愛は、意志の力で創成し、強め、深化させる愛でしかありえない。
 
その実践にはもとより大努力が必要だが、今のわれわれ日本人には、そのタイプの愛に気づくこと自体からして困難になっている。

 


<戦後日本人の習慣的感性>

現代人は、愛とは①の自然愛のことだと、ほとんど思うに至っているのだ。

特にわれわれ戦後日本人は、創成愛などほとんど眼中にない心理状態で暮らしてきているのだ。

敗戦後の日本ではハリウッド映画の恋愛物語に触れる機会が激増した。
また、昭和30年代にはTVが出来て、米国の医師や米国兵士の欧州戦線での働きを描くドラマが日常的に茶の間で見られるようになった。

彼らの行為は人間愛に満ちていた。

そこでの登場人物の愛は自然愛だが、それは概して、戦前の日本人よりも大きく強い。
それには、福音の影響するところが大きいだろうが、ともあれ、登場人物達の行動は見ていて心地いいものだった。
好感が持て、学ぶところも多かった。

それらが創成愛をベールで覆った。日本人の自然愛重視の精神風潮を形成した。
その中で育った、戦後の日本人には、愛を人為的に意志の力で創成することは、カッコわるくて、偽善的でダサいといいう感覚が先立つようになった。

そういう習慣的感性をもってしまっている我々が、強大な愛を意志の力で創成する状況をイメージすること自体が容易ではないのである。

+++

だがイエスとの同一化を志すには、すくなくとも、その言葉の大半を暗記してしまうことが前提となるだろう。
 
そしてそれに乗り出せるのは「イエスの夢の言葉を実現して人を助けたい」という意志、強く激しい実践意志を抱くことによってのみ可能になるだろう。


 
 
<イエスと同一化できる愛>

その愛を示唆するイエスの言葉がある。

 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「『心(heart)を尽くし、思い(soul)を尽くし、知力(mind)を尽くしてあなたの神である主を愛せよ』。
これが第一に大切な戒め(命令)です。
第二は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』です。
これも同様に大切です。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっています。
  (マタイによる福音書、22章37-40節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
これは、律法の専門家がイエスを試そうとして発した質問へのイエスの答えだ。
この学者は「先生、律法の中で大切な戒めはどれですか?」と問うている。

イエスはここで結果的に、イエスと同一化出来る愛はどういう愛かの示唆をもしているのだ。

「心(heart)を尽くし、思い(soul)を尽くし、知力(mind)を尽くす愛」がそれだ。
なぜならここでの「あなたの神」とは創造神であり、イエスもその創造神であるからだ。
 
そしてくりかえすが、そういう愛をイメージでき、かつ、実践できるのは、イエスの夢の言葉を実現して人を助けたい、という強く激しい実践意志を抱くことによってのみだろう。

(筆者もそれに気づいて「エラいテーマに取り組んでしまったなぁ」と改めて思にいたっている。筆者の福音へ取り組み方は、大きく変えられてきている。今までのオレの聖書解読は一体なんだったのだ・・・)
 
+++

余談を一つ。

律法の法文の中には、イエスが上記に述べたような「戒め」はない。
イエスは条文をあげないで、それらが完全に成就するための奥義を示しているのだ。
 
聖句の中の「かかっている」は、「それで全ての成否が左右される」という意味である。
「今日の(野球の)試合の勝敗は、君のピッチングにかかっている」というがごとしだ。
 
これが何故奥義かは次回以降に追求する。

今回はここまでにしておこう。






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31.「恐れ」「愛」「安息」および「同一化」

2019年01月01日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 
 
大晦日ですね。
2018年最後の記事を書きましょう。
 
+++
 
鬱を打破する聖書の論理、を追って平安・安息まで来てしまった。
なんか、主題と離れてきてしまったような観もある。
 
+++

そこでまた、全体像を鳥瞰しよう。

筆者はヨハネ15:7の「夢の(約束の)聖句」を探究した。
聖句はこれだった~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だが、世間を見回してみれば、これを実現しているクリスチャンは希なことがわかる。何故だろう?



<「① ⇒ ②」の移行が成ってない>

ここには(I)、(II) が出来れば(III)はオートマチックに実現する、という論理がある。
 
すると(I)から ⇒(II)への移行に問題がありそうなことがわかる。このあたりを吟味しなければならない。

筆者はそう思って黙想してみた。すると、どうも平安・安息の状態が関与している予感がしてきた。
理由はわからないが、そう感じた。
それでともかく安息・平安を考察してみたのだった。
 
+++

だがこういう考察は、原点から展開していく思考の手がかりになるべきものである。
そこで、改めて原点から考えてみよう。

 
<イエスと同一化した状態>
 

(I)イエスの言葉の中に留まり、住まっていると、どのようにして(II)イエスの言葉が中に住まう状態になるか。

言葉に留まり住まっていると、そのイエスの言葉が一つ一つ、当人の心の内に移行していくのか? それが蓄積して(II)の状態ができていくのか?
 
どうもそういう形の移行にはリアリティーが感じられない。
そもそも(II)の状態とは何か?

それは(I)の段階における「イエスの状態」ではないか?
このときイエスはイエス自身の言葉を内に抱いている。

このイエスの状態に、(I)の段階にある(イエスの言葉の中に住まっている)人間が飛躍・変身すればいいのだ。

そんなことが出来るか? 出来る。
どうやって? 同一化によってだ。
人間にはその能力が与えられていることを、哲学者ベルグソンは発見している。
これは前述した。

(I)の段階にいる人間が、(I)の段階にあるイエスに同一化すればいいのだ。

どうやって? 愛することによってだ。

愛するとは精神的同一化をすることだからだ。

これを全身全霊をもってすればいい。
それによって人は(II)の状態に至ることが出来る。

イエスを全身全霊かけて愛すればいいのだ。

 
 
<父と御子の一体性>
 
実はイエスはこれを父なる創造神との間で実行している。
イエスの~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が聞いていることばは、私のものではなく、私を遣わした父のことばなのです」
 (ヨハネによる福音書、14章24節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~はそれをいっている。

父なる創造神は、当然、自らの言葉を自らの内に持っている。
そしてイエスは、その父と同一化、一体化することによって、そういう父の分身になっている。
だから、自分が語る言葉は、父のことばとなるのだ。
 
その際、イエスは父を全身全霊込めて愛している。

祈るときにもこう祈った~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・
「『私の願いではなく、みこころのとおりにしてください』・・・(中略)・・・いよいよ切に祈られた。
汗が血のしずくのように、地に落ちた」
     (ルカによる福音書、22章42ー4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・

 これは凄い祈りだよ。
全身で愛してなかったら出来ない祈りだ。
愛とは、相手に精神的に同一化しようとする精神活動だからだ。

「創造神を全身全霊あげて愛すること」によって、御子は父に同一化・一体化しているのだ。

その結果、父の言葉がそのまま御子の内に内住した状態になる。父自身の内にその言葉が内住しているように、だ。

だから、「御子が語るときには、その父の言葉を語ることになっている」のだ。
 
  
 
<御子と人間の間でも同じ>

 
御子と人間のあいだにも、その原理があてはまる。
 
人間が(I)から(II)の状態に移行するのも、イエスに同一化し、イエスの分身となることで、可能となる。
その結果として、イエスの言葉が内に住まっていることになる。
 
人間の(II)の状態とは、「イエスと同じになった自分」の状態、イエスの分身となった自分なのだ。
 
さすれば創造神は自分の御子イエスと同じように、その人間を自分の子(神の子)と認識する。
だから(II)の状態(御子の分身の状態)となった人間の願いはかなえる・・・そういう論理だったのだ。

 
 
<同一化には安息が必須>
 
そしてここで平安・安息が浮上する。

(I)の状態にある人間が、イエスとの同一化をはかるという精神作業において、平安・安息が必要になる。
 
なぜなら、人間は「聖なるもの」には、本能的に「恐れ」をいだくからだ。
その一つは、自らに「汚れ」を意識することによる恐れである。

人は聖なるものを認識すると、自らに「汚れ」を意識して、あとずさりするのだ。
 
(余談だが、在物神宗教はこの心理をベースに成立している)


<主よ私から離れてください!>
 
新約聖書にもこんな記録がある。
 
~弟子たちが夜通し漁をしても魚が一匹も捕れなかった。
イエスが彼らに「船の右側に網を入れなさい」といった。
それに従うと、二艘の船が沈みそうになるほどに、魚が捕れた。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「これをみたシモン・ペテロはイエスの足もとにひれ伏していった。
『主よ、私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから』」
 (ルカによる福音書、5章 4~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
人間はこういう心情を、その魂(ソウル)に生来もっているのだ。
この時ペテロの内では「イエスは聖」という心情が急上昇している。

だったら復活して突然目の前に現れたイエスに対してはどうか。

弟子たちはなかなか信じられなかったが、ついにイエスだと認識した時にはどうなるか。
その「聖」なること、生前のイエスより何十倍も強烈だろう。
その聖なる度合いは、魚が捕れた時のペテロの心情なんてものじゃない。
 
弟子たちは、自らの「汚れ」を自覚して、強大な「恐れ」を抱いて距離を置こうとする。

自然の情として後ずさる。
 
 
<まずとにかく安息を>

だが、イエスとしては、これから彼らには、本格的に(II)の状態になってもらわねばならない。
そのためには、恐れを消し去って、復活の自分に距離を置かないで、同一化してもらわねばならない。
分身となって、福音伝道に働いてもらわねばならない。
 
だから、イエスは、復活して現れたとき、なによりもまず「安息(平安)あれ」といったのだ。
「自分に対して恐れのない気持ちにまずなるように」させようとしたのだ。

もう零時をまわって2019年だ。
今回はこれくらいにしておこう。





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30.安息・平安は正確な認識にも必要

2018年12月23日 | 鬱を打破する聖書の論理



心の平安(安息)は正確な認識にも必要である。


<ベルグソンの「時間」認識>
 
哲学者ベルグソンは「時間という実在は存在しない、概念だけのもの」ということを論証した。
 
彼は時間として認識されているものの実体・実在は「持続」のみだという。

彼は人間には直感という認識能力が与えられている、とする。
この能力を純粋に生かして実在を認識すると、そこで受信されるのは「持続」の感覚だという。
時間というのは、その認識内容に、平面幾何学の直線の理念を投影した概念にすぎないと論証した。



<ベルグソンの瞑想>

彼は図書館を主な仕事場としていた。
そこで長時間瞑想している彼の姿を人々はよく見かけたという。

心に安息を形成していたのだ。
深く繊細な感性認識は、心に平安あってのものだからだ。
安息があって初めて、実在の微妙な波動が識別できる。

彼の、この世の実在の的確な認識は『笑い』の心理分析にも見られる。
 



<霊感認識も同じ>

霊的存在に対する霊感認識も同じだ。
霊感とは、直感という認識能力の一部だ。
ここでも精神の平安・安息が、正確な対象認識に必須なのだ。



<量子論で理解すると>

量子論は、存在の根源は波動であることを明かした。
学者は光子という素粒子について実験で確かめた。
それは「認識されることによって」変化する、ということを。

(このあたりは、このブログ内の
を参照されたい)
 
認識者が発する意識波動の影響を受けるからだろう。



<「イエスの言葉が裁く」とは>

光子は波動体の一つだ。
波動体が、ただその存在を認識されるだけでも影響され変化するのならば、それが認識者による受信の状態によっても相応に変化するだろう。
受容されれば相応に、拒否されればまた相応に、変化するだろう。

この知識によって、従来その理由が謎であったイエスの次の言葉も物理学的に理解できる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私を拒み、私の言うことを受け入れない者には、その人を裁くものがある。
私が話した言葉が、終わりの日にその人を裁くのだ」(ヨハネによる福音書、12章58節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

すなわち、イエスが語った言葉は、波動量子群という実体になっている。
それが否定的に認識された場合には、「最後の審判」のときに、その人に有罪の裁きをする意識体に変質する~と解せられる。

ちなみに、肯定的にアクセプトされると、イエスのその言葉の量子群は、認識者の霊を活かす強力な活霊量子群となって働くだろう(つまりその人を「活かす霊」になる)~と解釈できるのだ。

+++

聖句にあるイエスの言葉を、正確にして詳細に認識するにも、心が平静であることが必要となるだろう。

恐れや怒りがあれば、それは強い波動を発する。
それは、対象の波動体を顕著に変質させるだろう。
安息状態が、そうした影響を最小にするのである。

ルカ伝によれば、復活して弟子たちの前に現れたイエスは、自分にそれまでに起きたことを、詳細に説明している。
モーセから初めて、旧約聖書に書かれてきたことが、いかに自分のことを預言しているか、を教えている。

もちろん、教えは、霊的な奥義である。
こうした微妙な説明を把握するにも、こころの安息(平安)は必要であった。
だからイエスは、復活の姿で現れると、まず「安息あれ」といったのである。
イエスを見ても半信半疑で動揺している弟子たちに、まず「心に平安を」といったのだ。


   
 
 
<同一化のためにも>

蛇足ながら、認識哲学的にも、心の安息は正確な実在認識に必要といえる。

ベルグソンが明かしたように、正確な実在認識は、対象に心を寄り添わせ、同一化することで可能になる。
 
人はそれを内省、感触して、実在の正確な認識を得るのである。

量子論的にいうと、同一化によって自分の内にも、対象と同一の波導体が出現することになる。
その同一化が心に実現するのも、恐れや怒りの感情を抱いていて、心が荒れていたらできないだろう。
心を寄り添わせるには精神の平静、安堵が認識者の心に不可欠なのである。




 
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29.peace、平安、安堵、安息

2018年12月17日 | 鬱を打破する聖書の論理


心の平安をイエスはとても重視している。

「自分が(殺されて)去る」と告げたときにも、弟子にまず、平安について入念に語っている。



<諸君に平安を残します>

 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしは、諸君に平安を遺します。
諸君に私の平安を与えます。
わたしが諸君に与えるのは、世が与えるものとは違います。
諸君は心を騒がしてはなりません」
 (ヨハネによる福音書、14章27節)
・・・・・・・・・・・・


この背景は次のようになっている。

イエスと弟子の仕事の骨子は、次の二つだった。

① 天国(御国)について伝える。
② それを「しるしと不思議」(奇跡)で証明する。

これらにつき、弟子はもっぱらイエスに頼りっきりだった。
特に、②はそうだった。

そのイエスが、突然「自分は殺されていなくなるよ」という。
 
実際、まもなくイエスは弟子の目の前でとらえられ、すさまじい拷問を受け、十字架につるされて絶命する。

弟子たちはそれを予告されて、不安や恐れをこえた、ほとんど恐怖に襲われる。

周囲には敵対する人も多い。
これからどうしていったらいいのか。皆目わからない。

これに対してイエスは、上記の聖句を語ったのだった。

 
    
 
<天の平安。地の平安>

しかし、この聖句でイエスが伝えようとしている心理状態を的確に示す日本語はない。
「平安」は役不足なのだが、これをpeaceの訳語として使っている。
これしかないので使っている、というのが実情だ。

なぜなら、イエスの言うピース(平安)には、二種類が想定されている。

「天(天国)の平安」と「地(地上)の平安」だ。
イエスはそのうち前者の「天の平安」を語っている。

それは一つの「意識波動実体」であって、「グレース(無償の愛)に満ちた静謐の空気」とでもいうべきものだ。
だが日本人にはそういう心理状態が伝統的にないので、対応する言葉がない。



<平安>

平安は「平らで安らか」というだけで、抽象的だ。
具体性が乏しく実感につながらない。

平安神宮とか平安高校というのは京都にあるが、日常には使われない。
これはおそらく中国からの輸入語(漢語)だろう。古代京都における言語文化には、漢語を直輸入して貴族階級が使っていたものが多い。これもその一つだろう。
 
だから日本語の平安は、これを感知させるには文句なく役不足なのだ。
(なのに邦訳聖書では、この語をもっぱら使っているので、「平安」巡るあたりで、漠然としてわからなくなる本と、日本人には聖書はなっている)
 
 

<安心>

なんとか手触りを感じさせようとして他の言葉を並べれば、
  安心、安堵、安息といったところか。

安心は、「心」のことだと示しているので、平安よりはいいだろう。
新約聖書には、イエスの「安心して行きなさい」という語の邦訳が一つだったか、ある。

      

<安堵>

安堵は、恐怖が去った後に、どっと来る「安心感」というニュアンスがある。
そういうリアルな感触がある。


<安息>
 
我々の感覚に比較的ぴったりくるのは「安息」だろう。
心の安らかさには、吐く息、吸う息が色濃く関連している。
安らかさがないと息が乱れる。
安らかだと息が静かで平で落ち着いてくる。

「息」にはそういう体感、身体的感覚にも繋がっているので、安息は実感しやすい言葉なのだ。
 
かといって邦訳聖書では平安がすでに常用されている。
そこでこれも無碍に捨てるわけにはいかない。
だがこれからはなるべく、peaceに近い感触を得る必要がある。

そのため「平安」「安息」「安堵」「安心」「平安(安息)」「安息(平安)」といったような語を適時使う必要がある。







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28.「主の祈り」の基盤は平安と安息か

2018年12月10日 | 鬱を打破する聖書の論理

 


本論に戻ろう。
イエスの夢の言葉(約束)にもどって、その解読を続けよう。
 
 
・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
今回は(III)だ。
これは、(I)(II)が十分になれば、オートマチックに成るはずのものだ。
だが、ほとんどの場面で、これが現になっていないことを、われわれは観察してきている。
 
その結果、われわれは従来、この夢の約束は忘れることにしてきた。
 
だが、いま筆者はその境地から脱却せねばならない。
なんとしても、聖書の中にウツ病打破の論理を見出さねばならぬ。

こういう実践姿勢を強く抱いていたら、不思議に、(III)がオートマチックに実現しない理由を探す意欲が湧いてきた。

+++

やってみる。
問題は(I)と(II)以外にない。
そこでこのあたりに再びもどろう。

(I)は「イエスの言葉(ワールド)の中に住まう」だった。
(II)は「そのイエスの言葉が住まった人の意識のなかに住まう」だった。
 
おそらく、この中に、(III)に繋がっていかない原因が潜んでいるはずだ。

これを改めて吟味してみよう。
 
 
<「主の祈り」に核を予感した>

(I)については、筆者は~イエスの言葉(聖句)が極めて多いので~核とする聖句を探した。
そしていわゆる「主の祈り」にその核を予感した。
 
+++
 
イエスは「祈り方」を教える前に次のような趣旨を述べている。
 
~創造神は諸君の求めているものなどすべてわかっている。だから、それらをクドクド祈るな。ただ、これだけ祈れ~と。
そこまで言って教えたのが「主の祈り」だから、ともかくこれはイエスの言葉の中核とみるのが妥当だろう、とした。
 
+++
 
その祈りは「御国(天国)を来たらせてください(地上の私の周りに)」に始まった。
それに続いたのは、実質的に「御国が来れば次の三つが地上に実現します」という宣言だった。
 
・・・すなわち(御国の空間が来れば)~


~御心が天になっているように、地にも実現します。具体的には・・・

~①私たちに日常の糧が与えられます。
~②我らの罪は許され、我らも私たちに罪を犯すものを許せるようになります。
~③我らは試みに会わせられることはなく、すでに悪に誘い込まれているものは悪魔より救い出されます。
 
~だった。
 

+++

先回には、ここまで解読した。
だが、今あらためてみると、この三つにも共通して存在している基盤があるような予感が湧いてくる。
それは「平安」だ。英語でいうpeaceだ。
 
 
 

 
<経済成長による糧と天からの糧>

理由はたとえば①の日常の糧についてみると、こうだ~。

いまわれわれ日本人は、経済成長のおかげで上から解放されたように見える。
だが物質世界に生きているわれわれには、日常の糧が得られない可能性は常にある。

あるとき自分の所得がなくなることもあろう。飢饉も起きうる。
地上の物質世界での供給に頼って生きているわれわれには、日々の糧について不安は尽きない。不安の源はなくならない。
 
 

<「人の子」イエスが見せた「天からの糧」>

ところが、日々の糧が得られなくなったとき、波動が物質化してそれが出現するようになっていたらどうか。

イエスはそれをこの地上で実際に示した。
5,000人分の魚とパンを出現させて示した。

+++
 
量子論的にいうと、天国には創造の(周波数を持った)エネルギー波動(被造されたエネルギーではない)が満ちている。
 
御国(の性質を持った空気)が人の周囲にやってくると、このエネルギーが、波動を物質化する。
こうして、結果的に、望む物質が出現し与えられる。
 
こういう、地上を越えた天の力が、御国が来てくれたら、糧は常時与えられる。
これが「天からの糧」だ。
こういう信頼の中に住まっていたら我々の心理はどうなるか。
いまだかつて体験しなかったような深い安堵と平安に満たされているだろう。



<地上での物質意識による平安>
 
最近話題になっている日産のゴーン元会長の行動も、じつは、この平安の稀薄さで説明できる。
彼は年間何十億もの報酬を得ながら、なぜ、さらにあくなく十億単位のカネを求め続けるのか。

聞くところでは、貧しい者への寄付をしている気配もない。
 
+++

人間は豊かな貴族に生まれても、意識がこの物質世界にある限り、「食べられなくなる」という不安は、ゼロにならない。
そしてその不安は、成人するとともに「人間死んでおしまいかも」という恐れと混合する。
それはさらに他の恐れ(人間関係などでの)とも混合して、渾然一体とした「安息不全」の「恐れ」の意識体になる。



<ゴーン元会長の平安不全>

ゴーンさん生い立ちは貧しかった、という。日々の食べ物に事欠く貧しさだった。
そういうなかで育つと、食べられなくなることへの不安(恐怖心)は一層強くなると推定できる。

+++

だが、その不安は地上の物質的糧で生きる人間には基本的に内在する。
 
ゴーンさんの場合、それが比較的強かったということにすぎない。

+++

その根底的恐怖が、ルノー、日産からの所得が百億単位で蓄積されても、消滅しきらないのだ。

これが昨今のゴーン容疑者の心理を理解する鍵だ。

+++

彼は金銭感覚が飛び抜けて鋭く生まれついていたので、経営実践も天才的なものがあった。

だが同時にその感受性は、彼に、常人を遙かに超えた強さ、深さの「日ごとの糧」への不安をも形成しただろう。

 
 
<究極の平安体験者の涙>

実はそういう心理実体は、天国への信頼から来る完全平安、究極の平安という対極理念を知って、はじめて感知できるものだ。

筆者はこの平安、安堵感を体験した人の証言を一度ならず聞いている。
それは言葉では「もの凄い平安」としか表現できない。

むしろ、証言する人の姿の方が、それをよく表現している。
彼らはその静謐と愛に満ちた平安の体験を思い出して感動し、涙して語る
ついでながら、筆者も、その平安を一瞬体験したことがある。

+++

ともあれ、この平安を知った分析者には、ゴーンさんの平安の稀薄さが識別できる。

平安、安息の話はもう少し続けよう。





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27. (臨時版3)「異端!」は正統解読あって初めて言えること

2018年12月01日 | 鬱を打破する聖書の論理


<カトリックの反動革命>
 
前回、イエスの弟子たちが始めた初代教会は「人を律法の養育の下から解放した」ことを示した。
 
その状態でキリスト教会は活動を続けたが、1世紀余り後に、一つの教理を正統として活動を統一する方式の教会が現れた。これが後のカトリック教会である。



<大衆を大量に扱えるシステム>
 
この方式は、大衆を大量に収容し組織化するのに適していた。
また、指導者をプロの僧侶として養成し、これも階層的に組織化するに適していた。
 
カトリック教会は急速に大規模化した。その勢いで、大ローマ帝国の唯一国教の地位を獲得した。



<自教団の方式を強制>

すると、彼らは国家権力を利して、欧州の全人民に自分たちの活動方式を採用するよう強制した。
 
国教会となっていたカトリック教団、は初代教会以来の自由吟味方式で活動する人々をも例外としなかった。従わない彼らに苛烈な攻撃を加えた。近世になってこの母体から出現したプロテスタント教会も同じ原理で動いた。
 
両教会はこぞって、自由吟味教会の情報を封殺したキリスト教史を流布し続けた。その結果、キリスト教活動のほとんどは、再び養育係の下に引き戻されることになった。その状態は現在も続いている。

 
<結局反動革命を起こした>

若干余談になるが、筆者はカトリック教団を一面的に批判しているのではない。
新方式の指導者にも、歴史上、しかたないところもあったのだ。
 
最初に使徒たちの所に集まったのは、聖書を読む知識人たちであった。
 
1世紀後に教会にやってきた大量の人々は、そのほとんどが聖書を読まない大衆だった。カトリック指導者たちも、養育係の下でのようにして対応するしかなかったかも知れない。
 
だが、カトリック教団が手にした権力は強大すぎた。
彼らは結果的に、初代教会で芽生えた自由吟味活動の流れを、逆流させてしまった。
 

『バプテスト自由吟味者』を出した動機>
 
筆者は、以上のようなキリスト教活動の歴史、ひいては世界人類の思想的全体像を示しておきたくて、『バプテスト自由吟味者』を出版した。
もとより現状では、一般の人々にこんな小冊子が受容されることはない。売れない本なので筆者に印税は全く入らないし、出版主(桐生さん)も赤字のままだ。でも、この情報は人類に重要きわまりないと思って、出版した。

 
 
 
<黒を知って初めて白を自覚>
 
われわれは白を、対極の黒があるから、明確に認識できる。なかったらただ漠然と「明るい」のみだ。世の中に男性がいることによって、女性は自分が女であることを認知できる。おとこがいなかったら、ただ「人間」として認知するだけだ。
 
同様に自由吟味方式を知って、はじめて、教理統一方式を明確に認識できる。
 
自由吟味方式の基底にある「人間は真理に到達できない」というスタンスを知って、はじめて、教理統一方式の基底にある「人間は真理に到達できる」という思想を認知する。
 
そのために、自由吟味方式のなんたるかを人々に知ってもらうことを切望して上記の小冊子を出した。
これは「人間はだれも聖句の絶対正統解釈には至れない」という示唆も明確に与える本でもある。

 
<安易な「異端!」呼ばわり>
 
この気付きは重要だ。
それを悟れば、人はもう他者を「異端!」と攻撃することがなくなる。自然になくなっていく。
なぜなら、「異端というのは絶対の正統があって初めて言えること」だからだ。
 
+++
 
その際、攻撃するものが正統として与えられているのは、論理上、教団の教理だ。
ところがその実、彼らは教理書など読んでない。読んでもわからないし。その状態で他者を「異端!」と呼ばわっている。なんと愚かなことか。
 
そのことに目覚めれば、クリスチャンが、聖句を手がかりとする他者の世界探究を「異端!」と呼ぶこともなくなる。まるで何かに操られているかのように、他者を攻撃し、否定の力を及ぼすこともなくなる。
 
 
          

<創造神の意図>
 
聖書の世界観では、創造神は人間を存在せしめ、生き続けさせる。その意図に沿うのが人間のあるべき姿、となる。(創造神が決めたのだから)
 
その人間が、自らの置かれた世界を知ろうとする知的ないとなみの道、・・・これに言葉で手がかりをちりばめているのが聖書だ。
 
人はこの道をともに進めば、喜びがえられ、さらに知識を得るために聖句を自由吟味する小グループで助け合える。
 
その姿が、米国サザンバプテスト地域に活き活きと息づいていた。これが創造神の意図に十全に沿った姿だった。

 

<「悪しきもの」のけしかけ>
 
しかるに、大半の人間は他者の世界探究に否定の力を与える。攻撃する。繰り返すが、まるで何かに操られているかの如くに、攻撃する。
あたかも自分が絶対正統な聖書理解を得ているかのように欺されて、他者の世界探索を「異端!」と攻撃する。
 
+++
 
愚かなことだが、「何かに操られているかのように」には聖書的根拠がある。
 
イエスが教えた「祈り方(いわゆる“主の祈り”)」の中の「我らを悪しきものよりお守りください」の「悪しきもの」が、人間をこの愚かさにけしかける存在なのだ。
 
これに欺されないことがいかに必要なことか。
これに乗せられていたら、人間は他者を「異端!」と攻撃し、否定の力を及ぼす。
否定の力、これすなわち「鬱のタネ」だ。情けないことに、現状では、信仰者が互いにそれを植え付けあっているのだ。
また、他者からの「異端!」という攻撃を恐れることによって、自らの内に「ウツの種」を植つけている。
まさに、「鬱の奴隷」だ。
 
この源泉が、「人間は究極の真理にいたれる。そういう賢人がいるんだよ」という思想だ。これが人間を相互にウツを与えあうようにだまし、誘導する。
繰り返すが、これに乗せられている姿の、なんと愚かなことか。
人間は、そのことに、早く、早く気付くべきだ。
 
それを悟らせてくれるほとんど唯一の教材がバイブルだ。それを自由吟味すると実情が悟られる。これを活かせば聖書は創造神が人間に与えている宝となるのだ。
 
+++
 
これから筆者は本論に戻る。
イエスの夢の言葉の(III)の解読に入る。
その際、読者が筆者が上記のごとき事実認識にたって、思考していることを知って欲しい。
そして望むらくは、読者もまた自由に、恐れなしで、お付き合いくださることを願う。

 

 

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26.(臨時版2)養育係の下から成人の扱いに

2018年11月28日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 

聖書の世界観の中にも、教えが絶対の真理として与えられる時期がある。旧約聖書の時代がそれだ。
 
この時代、人々はモーセを通してエホバ神から「律法」を与えられた。それを代表的に示すのが「十戒」だ。
 
ちなみに、律法は言葉で書かれている。
ことばは概念で出来ている。概念は思考の枠組(外枠)を与える。
たとえば「石」という概念は「土が固まって出来た固くつぶつぶの物体」という外枠であるが如しだ。

だがこの枠組(概念)に入る実在は多種多様である。ちいさなもの、大きなもの、丸いもの、いびつなもの、白いもの、黒いもの、色々ある。
言葉が示すその内のどれかを、見定めようとする作業が解釈だ。
解釈されてできる論理体系が教理だ。
解釈は様々になされるので、教理も様々となる。
 
律法も言葉で書かれているからそういう解釈仕事はあるが、旧約時代にはそれは律法学者という「賢人」の仕事だった。
一般人は彼らの結論を絶対の真理として受け入れ、従う・・・それが旧約時代だった。
 
+++
 
人間が成長していくには、そういう時期も必要なのだろう。
個人でみても、われわれが幼い子どもに規律(ディシプリン:discipline)を教える際、それを絶対の真理として教える。
こうして幼子はまず世の中には秩序(order)があることを学ぶ。
 
 
<イエス意識革命を起こす>
 
だが、新約聖書の時代は異なってくる。イエスが「人の子」として現れて、聖句(律法)にあっと驚く解釈を示したのだ。
きわめつけはこれだろう。
 
・・・・・・・・・・・
「(旧約)聖書はわたし(イエス)のことを述べたものなのだ」
(ヨハネによる福音書、5章39節)
・・・・・・・・・・・

 
聞いていたユダヤ教の高僧もビックリ。
だがイエスはそれを口で言っただけでない。超自然事象をもそれに伴わせた。いわゆる奇跡だ。
奇跡は人々の心に「それを起こす方は預言者(超霊能者)であるに違いない」との思いももたらす。
これをみた人々の多くがイエスの言葉を信じた。
 
 
 
<弟子の解読にも超自然事象が>
 
とはいえ、イエスは特別なスーパースターだった。だからその権能が及ぶ範囲のイメージは限られていた。
ところがイエスが十字架死して復活し、天に昇っていなくなってから、弟子(使徒)たちにもその不思議が現れた。
それをみて心を開かれた人々に、使徒ペテロたちは旧約聖書の新解釈をかませた。
 
参集者は一般の人間にもそうした新解読と奇跡が可能なことに驚いた。目からうろことなった彼らはさらなる新解釈を求めて使徒たちのもとにとどまり、初代教会が一気に出来た。
この奇跡が起きた初日だけでも、参集者は3千人を数えたという。
 
 
 <スモールグループで自由吟味>
 
使徒たちは参集者を数人毎の小グループに分けて、各々に自由吟味活動をさせた。
メンバー相互が同意共有できる解釈も次々に現れた。
教会の一体性も、自発的に出来ていった。
 
こうして初代教会の活動方式が成立した。
この方式は聖書を読む人々を、成人した、自由精神を持った大人として扱うものだった。
 
 
 
<「旧約時代の律法は養育係」とパウロ>
 
これと同様な観点から、パウロは「旧約時代の律法は養育係だった」といっている。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・
「フェイス(御子イエスと考えていい)が現れる以前には、わたしたちは律法の監督下に置かれ閉じ込められていました・・・・(中略)・・・律法は私たちをキリストへと導くための養育係となりました・・・しかしフェイスが現れた以上、わたしたちはもはや養育係の下にはいません」
(ガラテヤ人への手紙、3章24-5節)
・・・・・・・・・・・・・・
 
 
これはすなわち、人間が幼児期を卒業して、言葉を自由解釈する、精神的な自由人になる道が開かれたことでもあるのだ。

今回はここまでにしよう。


(完)





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25.(臨時版)人間は究極の真理に到達できない

2018年11月25日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 

前回までに、イエスが遺した夢の言葉~
 
・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~のうちの、(I)と(II)を解読した。
 
ここで臨時版を差し挟もう。

「うつを打破する聖書の論理」を追うと言いながら、筆者は途中の聖句解読に多くのエネルギーを割いてきている。
その解読は、読者がいままで聞いたことのないであろう解読だ。
 
ここまでくると、読者は途方に暮れた気持ちになるのではないだろうか。
こういう話に、読むものは一体どう対処したらいいのだ。そもそも、この解読は究極に正しい理屈、すなわち、真理になっているのか?~と。
 
そういう疑問はこれまでもあったろうが、前回あたりまで来るとピークに達したのではないだろうか。
 
 
 
 
<人間は究極の真理には到達できない>
 
そこで筆者は先に答えておこう。
 
「この解読は真理か」への筆者の答えを結論から述べよう。
「真理ではない」~と。
 
筆者だけではない。誰の解釈も真理ではない
 
また、聖書解読だけではない。
 
一般にすべての知識に於いて、人間がその知性・霊性を尽くしても、その短い生涯の内に究極の真理に到達することはできない。
 
(科学はすでにその悟りに達している。だからその発見をみな仮説~仮に設定した理論~というのだ)
 
 
 
 
 
<体験で悟るのみ>
 
だがそれを論理的に証明することは出来ない。
真理に到達していないものが、それに到達できないなどと、どうやって証明できようか。
 
人間が出来る唯一は、そういう体験を通して体得することだけだ。そしてその体験をさせてくれる材料は、筆者の知るところでは聖書のみである。
 
聖書は教材でもあるのだ。
 
この書物の解読を通して、そこにあるであろう究極の解読(真理)を目指して解読を続ける。すると「これだ!」思っても、時がたつとまた別の筋道が見えてくる。
この体験を続けると、人は「人間は究極の真理には到達できないのではないか、少なくともその生涯の内には」と実感する。こういう体験を通して得る悟りが、「人は真理に到達できない」ことの根拠らしきものとなる。
 
 
 
 
 
<極限の広さ、長さ、深さを持った世界観>
 
おそらく聖書はその悟りを得るための最適な教材である。そこに述べられている世界が、空間的広さ、時間的広がりにおいて、比類なきものを持っているからだろう。どちらも無限大の広がりを持っているのだ。
 
また、そこに登場する存在も、目に見えるもの(物質)に加えて「見えないもの(霊)」によってもなっている。
いわば認識対象が重層構造になっている。
 
そういう世界に登場する諸要素が、みな、繋がりを持っている。
さらに、それらの手がかりになるべき論述に、比喩表現が多い。
 
人間はそのすべてを100年足らずの生涯の内に見通すことは出来ない。実際にはその時々に、その部分部分での繋がりをみるだけである。そして、その繋がりも、より広大な視野からみると、また別の繋がり方を見せてくるのだ。
 
だから人間は、その書物の解読努力を通して、人間の解読力の限界を知ることができるのだ。生涯では究極の解読(真理)至れないことを体得できる。筆者はこういう書物を与えられていることを、幸いとすべきと思っている。
 
 
 
<初代教会は体得していた>
 
この悟りに達していた最初の人々は、初代教会のメンバーたちだった。
この教会では、指導者である使徒たち自身が、自分の解読は不十分だと悟りきっていた。「(ピリポよ)まだわかっていないのか」といったような指摘を、世を去る直前のイエスに連発されていたのだから。究極の解読に達しているなどと思ってる弟子は、ひとりもいなかった。

その状態で彼らは指導者になって教会員を指導していったのだ。だから初代教会全体が「自分たちの解読は真理以前のもの」という認識を基礎に持っていたのだ。

    
 
<だから自由解釈させた>
 
だから、弟子たちは、新参者たちに小グループを造らせ、そこで自由に聖句吟味をさせえたのだ。
もちろん、彼らが正しいとして共有している解読文もある。イエスに関する聖書(旧訳聖書)預言などはそうだった。だが、少し細部に入ったらもう、弟子たちの誰かが「これが究極の解読だ」ということはなかった。

その結果、個人の聖句解釈自由を当然の前提として、教会活動はなされていった。
そういう状態が100年間余り続いた。それでもって初代教会は、爆発的な成長をした。
 
 
 
 
<活動原理の大転換>
 
以後のキリスト教活動を鳥瞰してみる。
カトリック教団がまず、この活動原理をぶち壊している。
 
彼らは教団の指導層僧侶が至った結論を公会議で承認すると、それを究極の真理解読だとした。それを信徒に通達して教会を運営した。
この生き方を教理統一主義という。
一つの教理(解釈体系)を真理とし、それでもって教会活動を統一する主義、という意味だ。
 
+++
 
彼らは、統一教理に沿わない解読はことごとく異端として罰した。
中世には、異端審問裁判所まで造って、容疑者を裁判にかけ、多くを火刑に処した。
 
地動説を基盤にした世界観を述べたガリレオも、これにかけられ有罪とされた。
彼は火あぶりにはされなかったが、以後の生涯を、一家屋の中での軟禁状態で送っている。
 
 
 
<プロテスタントも教理主義>
 
ルター、カルバンの「宗教改革」で始まった、いわゆる「プロテスタント」教会も、教理統一方式の教会だ。
彼らはカトリック教会の教皇(法王)という存在など聖書に記されてないと、従来のカトリックを批判し、教皇抜きの新教会を開始した。
だが「究極の聖書解読(真理)を人間は出来ない」という悟りには至れなかった。
プロテスタント教会もカトリックと同じ教理統一方式のままで活動してきている。
 
+++
 
このプロテスタント教会から、色んな分派教団が出てきている。だからそれらも当然みな教理統一方式の教会となる。これとカトリック教会を加えた勢力は、現在世界では文句なしの多数派となっている。
世界のキリスト教活動の大半は教理統一方式によるものと、現代の人類世界はなっているのだから、世界でクリスチャンと称されている人々も、ほとんどが「究極の真理に人間は至れる」と~漠然と~思っている人間という現状だ。

そしてキリスト教界は世界最大の宗教勢力となっていて、その認識観は人類一般の気風をも左右している。
その結果、現在人類の大半は「誰か偉い人たちが真理を知っている」という気分で生きているのだ。
 
 
 
<初代教会直系の人々>
 
 
そのなかで、「人間は究極の真理には至れない」という悟りをベースにしている教団は、使徒行伝時代の初代教会直系の教会だけだ。
これが聖句主義、バイブリシズムベースの教会で、現在のその代表がバプテスト教団とメノナイト教団だ。
前者は米国南部のサザンバプテスト地域を本拠地としている。
 
彼らはカトリック、プロテスタントの両教会からの、迫害を受けながら存続してきた。
とくにバプテスト自由吟味者へのカトリック教会からの1,200年にわたる苛烈な迫害は、筆舌に尽くしがたいものがある。
 
後者、メノナイト教会は米国北西部のカナダと国境を接する諸州を本拠地としている。
 
+++
 
そういうわけだから、そもそもこうしたキリスト教活動鳥瞰図を心に描けている人間が非常に少ない。その歴史と鳥瞰図を筆者鹿嶋は『バプテスト自由吟味者』で、本邦で初めて具体的に明かした。
だがこれは小さな文字通りの小冊子だ。日本人一般がこの冊子で示した事実を悟るには、あと、50年くらいかかるだろうと思いつつ、鹿嶋はこれを出版した。
 
 
 
<サザンバプテスト地区に暮らして>
 
冊子が示唆している事実は、驚く程に悟りにくいのだ。
筆者自身も、日本にいてこの事柄を文字で読んでも、なかなかわからなかった。
 
+++

この方式をサザンではバイブリシズム(聖句主義と筆者は訳した)といっている。筆者はこの地域に1年間住んで、聖句自由吟味主義で活動している教会に参加させてもらった。
日曜日に夕拝もしている教会があって、三つの教会に掛け持ちで出入りさせてもらった。
スモールグループにも加わり、礼拝後の交わりもともに楽しんだ。それを通して、聖句自由吟味活動が彼らをいかに自由にし、活き活きさせているか、も観察できた。
 
こうした体験を積み重ねないと、バイブリシズム教会の全体像、全体的雰囲気はなかなかキャッチできない。
 

<バイブリシズムの真理観>
 
筆者は折を見て、メンバーに尋ねてみた~。
 
「あなた方は聖書に世界の真理はあると言っている。それでいて、全員に共通した究極の真理は人間にはえられない、としてやっている。絶対と確信する真理なしで、確信ある生活、確信ある人生をどうやって送るのだ?」と。
 
彼らは応えた~。
 
「この書物にある究極的な真理そのものには人は至れない。だが、聖句を個々人が吟味し解読したものが、当人にとっての(その時点での)真理だ」
 
筆者はさらに問うた~。
 
「そんな相対的なものは真理とはいえない、という批判にはどう応えるのか?」
 
彼らは言った~。
 
「有限な人生を日々生きる人間個々人にとって、それ以上に頼れる知識が他にあるとは思えない。実はみな~バイブリシストでなくても~漠然ながらそうやって生きている。われわれはそれを漠然とでなく、聖句を吟味しながら考え、日々の解読をベースに生きているだけのことだ」

 
   
 
<ウイリアムジェイムズの真理観>
 
余談だが、それを聞いたとき筆者の目の前に立ちはだかっていた「ウイリアムジェイムズの知識観」に対するベールがパラリと落ちた。
筆者の本業はマーケティングと言われる分野で、当時そこではCI(コーポレートアイデンティティ)が研究課題の一つとなっていた。筆者はその最高の手がかり事例として「アメリカ国家のアイデンティティ構造」に焦点を定めた。
 
それにはウイリアムジェイムズのプラグマティズム認識論がベースとして存在しているだろうことは、他の識者も指摘していたが、その内容が不明だった。
 
情報を集める内に、サザンバプテストのキリスト教活動がその有力手がかりとして浮上してきた。そこでそれを明かすことを本業上のゴールとしての、米国南部での研究滞在であった。
 
+++
 
そして教会員の上記の言葉を聞いた時、ジェイムズのプラグマティズム哲学の種はこれだったと合点できた。ジェイムズはそのタネを見せないままで認識哲学を述べていた。だからわからなかったということが、わかったのだ。
 
 
 
<自由人か恐怖の奴隷か>
 
 
はなしをもどす。
「人間はその短い生涯の内には、究極の真理には到達できない」こと、それを悟っているかどうかは、人の生涯を大きく分ける。
 
なによりもまず、人が(精神的)自由人になるか、あるいは恐怖の奴隷になるかが、これでもって分かれる。
 
「人間が究極の知識に至れるのでは・・・」という期待は、それが漠然としたものであっても、恐怖をもたらす。
「真理に至っている賢人の知識」に自分の知識とは合ってないのではないか、という恐れだ。
この思いが、一般人の心理に常時伴う。
 
聖書解釈においてもそうだ。

自分の解釈は間違いではないか・・、その不安がもたらす恐怖である。
事実は正解に至っている人などいない。なのに、「自分の聖書解釈はそれに至っていないのでは」という思いが生まれる。そしてその思いは常時、「見えない幽霊」となって人間の心に恐怖を生み続けるのだ。
 
+++
 
日本では、クリスチャンといえども、その大半が、恐怖を抱きながら活動している。
 
恐れは人の精神を萎縮させ、本来与えられている資質の発露を妨害する。
 
これは民族の行く末を左右する、重大な病なので、次回にもう少し論及しよう。





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24. 「人が言葉に住まい、言葉が人に住まう」とは?

2018年11月21日 | 鬱を打破する聖書の論理

 
「(Ⅰ)「人がイエスの言葉の中に住まう状態を続けていると、(II)イエスの言葉が人の内にも現れ住まうようになっていく」~前回、この仕組みを示した。

そういう資質が人間には備えられていることを、哲学者ベルグソンは認識論的に明かしたのであった。
このあたりは、創造神が不思議なわざ(奇跡)としてなされるのではなく、自然になるべくしてなる事象だと明かしていることになるのだ。 
 

 
<二つの状態は併存しうる>

とはいえ上記(I)の状態と(II)の状態とは併存するものだろうか?
あるいは、前者の状態が、後者の状態に移行するのだろうか?
聖句ではどうなっているのだろうか?

今回はそれを考えよう。
結論から言うと、二つの状況は同時に成立する、というのが聖書の思想である。
それを示すイエスの言葉は、聖書に繰り返し、繰り返し出てくる。



<併存を示唆する聖句たち>

まず、併存状態がイエスと父なる創造神のあいだに成立していることを示す聖句から~。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「それは、父(創造神)が私(御子イエス)におられ、わたしが父にいることを、あなた方が悟り、また知るためです」
(ヨハネによる福音書、11章38節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

これもそうである~。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしが父におり、父が私におられると私が言うのを信じなさい」
(ヨハネによる福音書、14章11節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・

次の聖句は、御子イエスと弟子たちとの間にも成立していることを示している~。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「その日には、わたしが父におり、あなた方が私におり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります」
(ヨハネによる福音書、14章20節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして次の聖句は、父なる創造神と御子イエスと、その言葉が内に住まうようになった人々との間にも成立することを示している~。

 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「それは、父よ、あなたが私におられ、私があなたにいるように、・・・・・彼ら(弟子の伝道でイエスの言葉の内に住まうようになった人々)もまた私たちにおるようになるためです。・・・・私は彼らにおり・・・」
(ヨハネによる福音書、17章21-23節)
・・・・・・・・・・・・・・
 

 
 
<量子物理学の恩恵>

物質的な世界では、BがAのうちにあって、同時に、AがBのうちにある~というような事象は起きない。AはBより大きいままだからだ。
小さい方のBはAのうちには入れない。

これは量子力学の存在論によって初めて理解できることだ。それは存在の根源が振動(波動)であることを明かした。
すると、御子イエスも意識をもった波動体であり、その言葉もまた意識波動体となる。

われわれは、波動体は伸縮するとイメージできる。だから、BがAのうちにいて、かつ、Aを内に含むことも考えられる。両者が重なった状態にある、と言ってもいいかもしれない。

 
 
<物理学的理解は大切>

物理学的に理解できるというのは、五感経験ワールドに生きるわれわれには大切なことである。
物理学的に理解できないものを心に受け入れるのは困難が多いのだ。またこの状況は、聖書で言う「つまづく」ことの一因になる。

かといって「信仰が足りない!」とボクシ先生に叱られたりして、無理にのみこんだら、その言葉は「まじない」と同じになってしまう。

理解できるようにイメージできるというのは、大切なことなのだ。

量子物理学が、聖句解読に与えてくれる恩恵には決定的にして画期的なものであった。
これによって、「(Ⅰ)「人がイエスの言葉の中に住まう状態と、(II)イエスの言葉が人の内にも現れ住まう状態」とは同時成立、併存するとの理解もまたもたらされたのだ。

今回はここまでにしておこう。




 
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23.イエスの意識波動体が住まっている者の内にも出現

2018年11月19日 | 鬱を打破する聖書の論理


鳥瞰しよう。
筆者は、ヨハネ15:7を、「人間は永続する」という聖書の思想を証拠する夢の方法として解読し始めた。

 
とはいえ思想は「口だけなら何とでも言える」と受け取られる面を通常持っている。

だがそれに超自然的な事象が伴うと、人はそれをまことだと思う。
その「しるしと不思議」を現す方法として、イエスが教えていった言葉が下記であった。
   
・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

筆者は「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり」の部分を解読するため、まずイエスの言葉群の中で、イエスが教えた「祈り方」に着目した。
 
そして「御国が来たら実現する」とイエスが教えた事態の意味を解読してきた。事態は下記の三つであった。

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(御国の空間が来れば)
~①私たちに日常の糧が与えられます。
~②我らの罪は許され、我らも私たちに罪を犯すものを許せるようになります。
~③我らは悪の試みに会わせられることはなく、すでに悪に誘い込まれているものは悪魔より救い出されます。
(マタイによる福音書、6章9-13節の真意)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 
聖句は「知的」理解がなされなかったら、まじないと変わらぬものとなる。
筆者はそのために知的解読を試みた。そして前回までにこの三つの事態についての~筆者の当座の~解読を終えたのであった。
 
 
 
<ベルグソンの認識哲学>
 
今回はイエスの夢の言葉のうちの「(II)わたしの言葉が諸君の内に留まる」の解読に入る。
 
結論から言うと、この事象はイエスの意識波動群(言葉群)の中に~信頼を持って~住まわり続けていれば、実現する。

人間にはそういう心的資質が与えられている。
それを認識論的に明かしたのは20世紀フランスの哲学者ベルグソンであった。
 
+++
 
彼は、認識対象の実在そのものを認識するには、それに心を寄り添わせた状態で待つことが必要だと述べた。
この状態を続けていると時とともに、認識者の心の内に、対象実在と共鳴する波動体ができていく。同一性を持った実在像が出来上がっていく~と。
 
認識者は出来上がったそれを内省自覚~純粋直感によって~対象実在そのものを認識できる。
ベルグソンはそれこそが、実在そのものを認識する手法だと明かしたのであった。
 
+++
 
なにやら「花を思えば花が見え、月を思えば月がくっきりと見えるようになる」という禅の達人の境地の話を連想させられる。
実際、ベルグソンの認識論には、禅の認識論に共通したところが少なからずある。

 
 
<量子論的に言うと>
 
これを量子物理学的に言うと、こうなるだろう。
 
言葉群は意識波動体でもあり、波動体はそれ特有の波動を発している。
その波形も周波数もそれ特有のものである。
 
そして、認識者の意識波動体がこの中に住まっていると、時とともにその波動に共鳴する意識波動体が、認識者の意識体の中に徐々に形成されてくる。
それは対象と同一性を持った実在だ。
認識者は、自らのうちにできたその意識体の波動を感知することでもって、認識対象の実在が認識出来るのだ~と。

 
 
<同一意識体が住まう者の意識内に>
 
われわれがこの(II)の聖句を理解するのに助けになるのは、そのうちの「認識対象と同一の意識波動体が認識者の内の出来ていく」という部分である。
 
この「対象」は(II)のイエスの言葉群が形成している意識波動体であってもいい。そう読み替えることも出来るのだ。
すると、その中に住まっている状態は、これに共感し同化するための時を維持している状態に相当する。
 
さすれば、その結果として、住まっている者の意識波動体の内にも、イエスの言葉群、イエスの意識波動体が形成されていく、となるだろう。
 
これが「(II)わたしの言葉が諸君の内に留まる」の意味だったのだ。


 
<他の聖句理解にも援用できる>
 
そしてこれはまた~
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたがたのからだは、あなたがたの内に住まわれる、創造神から受けた聖霊の宮であり・・・」
(コリント人への第一の手紙、6章19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~の意味をも明かしてくれる。
手紙の著者パウロはここで、「イエスの言葉群が形成するイエスの意識波動が、そのなかに住まった者の内に形成された状態」を言っているのだ。
 
+++
  
さらに、次のイエスの言葉も、上記の解読を援用して意味理解が可能になる。
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたがたの律法に、『私は言った、あなた方は神である』と書いてあるではありませんか。もし、創造神の言葉を受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから・・・」
(ヨハネによる福音書、10章34-5節)
・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
創造神イエスの言葉群についてもそれが人の内に形成されたら、その人は神と呼ばれてもいい、とこの聖句は言っているのである。
 
今回はここまでにしておこう。






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22.悪魔の仕掛けにあうことなくなり、掛かっている者も救い出される

2018年11月16日 | 鬱を打破する聖書の論理

イエスはその「祈り方」で「御国が来ればこうなる」と教えた。
その内容は三つであったが、もう一度掲示しよう。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(御国の空間が来れば)
~①私たちに日常の糧が与えられます。
~②我らの罪は許され、我らも私たちに罪を犯すものを許せるようになります。
~③我らは悪の試みに会わせられることはなく、すでに悪に誘い込まれているものは悪魔より救い出されます。
 
(マタイによる福音書、6章9-13節の真意)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 

今回はその第③番目である。
ここでは悪魔という「見えない存在」が出てくる。
 
聖書で言う悪魔は、日本人には理解が難しい。
その常識範囲の外にある存在イメージだからである。
・・・・・
日本人の心には人間の性善説が伝統的に根付いている。
どんな悪人にも善の値がある、という思想だ。



<人間愛の作家、山本周五郎>

山本周五郎の小説が「人間愛の詩(うた)」と称されたのも、人に根付く性善を慈しみの心で描いた作品が多かったからである。
その代表作『深川安楽亭』は江戸時代の話だ。ある屋敷の裏で「荷抜け(ご禁制の商品取引)」をしている、生まれつきの極悪非道とみられていた連中が囲われている。彼らは必要に応じて、簡単に人を殺す。

そこに多額のカネを返済せねば結婚できなくなった無力な若い男女が、小鳥のように舞い込んでくる。
何故かこれを哀れんだ連中は、危険がいっぱいの荷抜けを試み、お金を造って二人に与えるが、自分たちは捕方に発見されて死んでいく。
このようにして、命を捨てていく人間の姿を周五郎は感動的に描いている。
(名作『さぶ』にも、その種の「悪人」が挿入されている)
 
 
 
<真っ黒黒な存在>

だが、悪魔にはそんな意識はいっせつない。
彼らはただ、人間を苦しめ殺すのが楽しいだけ、という真っ黒黒の存在だ。

彼も配下の悪霊も、物理的な力はもっていない。
人間に意識波動を送って、その意識と行動を方向付ける。

こういう行動には、性善説人間観では説明できないものがある。
認識の範囲に入らないものがあるのだ。


<無力な子どもを何故殺すか>

性善説では認識できない事例は現実に多い。

幼子は無力だ。それを情け容赦なく虐待し、死にも至らせる実の親が出る。
ニュースを聞くだけで胸が潰れる。このどこに性善があるのか。

幼子を誘拐し、人身売買し、あるいは、殺してその臓器を闇市場でビジネスとして販売する人間がいる。
どこに性善があるのか。



<人類を二分して殺し合わせる>

もっと広域的な事例を言えば、第一次大戦だ。

そこでは欧州を中心として、歴史上初めて人類が二手に分かれて殺し合った。
その際、機関銃や毒ガスなどが開発され、開戦後の5ヶ月で前線での死者が合計100万人に達したという。
彼らはほとんどは、敵方に遭遇する前に、機関銃で無残に殺された。
(塹壕が考案されるのはその後)

こんな事件など、性善説の人間観では妥当な認識はできない。

(性善説人間観をベースとする日本軍指導層には、極悪非道の近代兵器を使う時代の軍人を統治する能力がごく自然に不足する。戦後の憲法九条は、GHQなど戦後指導者が、日本民族に統治能力が本性的に不足しているという洞察が背景になっているのだ)


<レーガン「悪の帝国」との呼称>

その真っ黒黒の存在が、見えない影響者として配下に悪霊たちを従えて地上に存在している。
この世(宇宙)にはそういう悪の王国が併存している。

ベルリンの壁崩壊前のソ連をレーガン米大統領が「悪の帝国(Evil Empire)」呼んだのも、そのイメージを踏まえた事実認識による。

これが聖書の世界観だ。そしてその悪が人間界に惨劇・悲劇を引き起こすと聖書はみる。



<御国は地上の「世」の上位にある>

だが、「御国が来れば」その悪魔の王国(政府)はこの地上に併存できなくなる。イエスの「③」はそれを言っている。

その論理構造はこうなっている~

天国(御国)は創造神が王として統治する、創造神の王国だ。そこには創造神の政府がある。

これはこの地上(宇宙)の世界の上位にある。
この上位の性質を持った空間が来れば、悪魔とその配下の悪霊たち(の王国)は、そこに併存できない。
二つの王国が併存することはないので、存在する権威を失うのだ。

それが「我らは悪の試みに会わせられることはなく」の意味だ。

 
<すでに誘い込まれていたものは>

それに続く「すでに悪に誘い込まれているものは悪魔より救い出されます」は、こうだ~。

御国が来たときに、すでに悪魔の罠にかかっている人間もいる。
天国空間が来ても、存在する権威が亡くなっても、まだ、とりついた犠牲者にしがみついている悪霊もいる。

これらは壁に留まっているハエのように、とりついている。
だが、すでに留まる権利はなくなっているのだから、「出ていけ!」と命じれば、ハエが逃げ去るようにして出ていく。

~以上が③の解読だ。
だからイエスは「くだくだ言ってないで、御国を来たらせてください、とのみ祈れ」と教えたのだ。

 
 
<御国が来たというしるし>

なお、この③は「御国が来ているかどうかを」示す手がかりをも示している。
イエスの次の言葉がそれを言っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしが創造神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう創造神の国はあなたがたのところに来ているのです」
マタイによる福音書、12章28節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

悪霊が追い出されたら、それは御国が来ている証拠なのだ。

今回はここまでにしよう。



 


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21.負債も債権も帳消しされるようになる

2018年11月14日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回、日々の糧が「与えられる」は「不足分が加えられる」と解読するのが正しいと言った。

 
<焦点は心の安息に>
 
「これでもか、という程に沢山」ではないのは何故だろうか。
 
イエスは人間の地上の生活においては「心の平安・安息」に焦点を置いているからである。
 
不足分が常に補填されるならば、倉に糧をため込む必要が全くない。
そもそも糧が倉にふんだんになっても、もっともっとという貪欲が人の心に常駐するのは何故か。
心底に「食べられなくなって飢えるかも知れない」という恐れがあるからだ。
だから、いくら持っても貪欲の心は続く。

(余談:稲盛経営哲学はこの貪欲の心を処理する必要と方法を説いている)
 
+++
 
だが、食えなくなる事態が全くなくなったら、もう糧は日々満たされたら十分となる。
それが御国が来れば実現するとなれば、もうため込む必要は全くなくなる。
その結果、糧については完全な安息が得られるのだ。
 
+++

イエスはかく、安息を重視していた。
 
だから、「自分は十字架で殺されてしばらくいなくなるよ」と弟子たちに告げた時にも、動転する彼らに~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私は、諸君に平安(安息)を残します。・・・(中略)・・・諸君は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」
  (ヨハネによる福音書、14章27節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~といった。
 
 
 
<②は借金、貸金の話だ>
 
今回は、このことを心に留めて、「御国がくればこうなる」の第二番目に移ろう。
 
筆者は先回、その邦訳文を「②罪が許され、他者の罪をも許せるようになる」と述べた。
 
だが、この邦訳にはもっと適切な文がある~。
 
「②負債(借金)が帳消しされてなくなり、かつ、他者への債権(貸金)も帳消ししてあげられるようになる」がそれだ。
 
+++
 
この部分の英文は~、
 
・・・・・・・・
And forgive our debts, as we also have forgiven our debtors.
・・・・・・・・
 
~となっている。
 
debutという語の意味は、ほとんどもっぱら債務・負債である。
他の意味は、派生したものだ。
 
「恩義」もそのひとつだ。
これは、「金を借りたこと」から「何かしてもらったこと」を拡大連想してできた派生語だ。
 
「罪」もこれと同様に、神学で考案された派生語である。
 
つまり、「負債(借金)を赦す」という言葉の意味はよくわからなかった。
だがここで動詞がforgive(赦す)とある。
「赦す」となればまず、犯罪gilt)が想起される。
そして犯罪は聖書にある罪(sin)を連想させる。
そこで、このdebtsは「罪」だろうとした。
(英文聖書にも、sinと英訳したものがある)
 
そんなところだろうが、もしここで負債で意味が通るのなら、ここは素直に本来の意味でもって解するべきなのだ。

 
             
 
<カネの貸し借りは人の安息を壊す>
 
地上の人間の心の安息に焦点を当てれば、②の文は「負債」で明確に意味を持つ。
 
借金が人の心の安息を奪う度合いは甚だしい。
借金していると、期限までに返せなくて取り立てられるのではという恐怖が常時心につきまとう。
 
利子が付いていたらなおさらだ。
日々返済すべき金額(元利合計)は増えていくのだから。
 
現代のサラ金などはこれがバカ高くて、うなぎ登りに増えていく。
これは恐怖だ。
 
恐怖で安息を破壊されると、人は正常な思考、判断が出来なくなる。だからどんどん窮地に追い込まれていく。
 
これは人間に対する根底的な悪だ。
 
 
<御国の波動が来ると>
 
だが御国が来れば、その波動は借金・貸し金なる存在を無くしてしまう。
 
貸主が貸金を帳消しすると、その分は波動が物質化して出現した貨幣によって補填される。
だから、貸主は気楽に貸金を帳消し出来、返済義務から解放されて借主は安息を取り戻せる。
 
その意味で②の部分の邦訳文は「負債(借金)が帳消しされてなくなり」がより妥当となる。
 
 
 
<貸した側も安息を失う>
 
金を貸すことも、心の安息を失う。
そもそも、貸してくれと言うのは、金がないから言うわけで、返してくれなくなる恐れは常にあるのだ。



綾小路きみまろ>

綾小路きみまろという芸人さんがいる。
苦労時代の長かった人で、その間、交わった人も沢山いる。
彼らの内で金銭的にうまくいっていない人に「お金を貸してくれ」と言ってくる人が一人ならずいるそうである。

これに対して、きみまろさんはいつも30万円入れた現金封筒を準備している。それを渡してこういうそうだ~。

「このお金は返さなくていいからね。そして金のこと言ってくるのはこれ限りにしてね」~と。本にそう書いていた。

何度も来ないように、という思いもあるだろう。これでもって依存心を切り捨てて立ち上がるようにとの思いやりあるだろう。
が同時に、貸した金を思うことによる安息の破壊、それによる話芸への障害を避けようとする意図もあるだろう。

+++

だけど、何度も30万というのもまた、苦痛が全くないことはないよ。
ところが御国が来たら全然苦痛でなくなる。その分が毎回補填されるのならばそれを帳消しにしてあげたるのは楽なことだ。
そして心は平安・安息となるのだ
だから御国がくれば、すべての貸主は帳消しにしてあげることになる。

 
 
つまり、こうして、その地上空間では借金も貸し金もなくなるのだ。
金銭的に、すべての人が安息の中で暮らせるようになる。
御国が来て覆い重なった地上空間ではそうなる。
 
②のdebtはそのまま「債務」でいいのだ。
 
このようにしてイエスは「くだくだ祈るな。御国を来たらせてくださいとだけ祈れ」と教えたのであった。



 

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