鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

20.御国の力が地に及ぶ範囲

2018年11月12日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回、人間に日々の糧を与える「地上の方法」と「御国(天国)の方法」を述べた。
今回は、御国の方法が地上に及ぶ範囲を吟味しようと思う。

(重箱の隅をつつくような理屈話と思うかも知れないが、これは大事なところだ)
 
 

<天の力が地のすべてに?>

「地に天国が来た」というと、われわれは直感的に「天国の力が地のすべてに及ぶ」と思いがちだ。

だが、「地上の糧の不足分が満たされる」という解読も成り立つ。

+++

そこで聖句を吟味すると、後者が正しそうなことが見えてくる。

~ここでイエスは「食べものや着るものを心配するな。創造神は与えてくださる」との旨をのべる。
それは邦訳聖書(新改訳など)ではこのようになっている。

・・・・・・・・・・
「創造神の国(天国)をまず第一に求めなさい。そうすればこれらのものはすべて与えられます」
   (マタイによる福音書、6章33節)
・・・・・・・・・・
 
「ルカ伝」12章22節以降にもイエスの同様な言葉が収録されている)

まあ、ざっくり言えばそれもいいだろうが、邦訳文のこの「与えられます」は英文聖書ではwill be given でなく will be added となっている。

・・・・・・・・・・・・・
“Seek first HIs kingdom and His righteousnesuu, and all these things will be added to you"
・・・・・・・・・・・・・

よく見よう。addに「与える」という意味はないよ。それはほとんどもっぱら「加える、付け加える」だ。



<いい加減な邦訳文>

では、何を付け加えるかというと、それは英文聖書でも明言していなくて、these things となっている。だが、その「これら」は直前の文脈からすると「食べものや着るもの」しか思い当たらない。

つまり、日ごとの糧は、アッドされる、つまり、「付け加えられる」のだ、御国が来ると。

では、何が付け加えられるかというと、それは今ある糧が必要に充たない分(我慢している分)しか考えられない。

+++

つまり、地上の方法ですでに得ているもののうち、欠けている部分が充填されるのだ。

たとえていえば、米びつに米はあるが、それは満ち足りる程食するには足りない。するとその不足分が補填される、というがごとしだ。
同様に、冷蔵庫の野菜室でも野菜が増え、チルドルームに肉や魚が増えているだろう。

あるいは、それを買うだけの貨幣収入が、何故か増えた、ということもあろう。
英文にも漠然としたところはあるが、邦訳文が~厳しく言えば~いい加減なのだ。


    
 
<日ごとの糧は地上だけのもの>
 
 
われわれは、「天国が来た」というとそこは「(死後に救いを受けて入る)天国のような状態になる」と考えがちだ。
(そう言わないと「信仰が足りない!」と叱る牧師さんもいるし)

だが、御国の実在と地上の現実世界とは、地上では二者択一の関係にはない。
御国がきても、地上の方法がまるごと代替されることはない。

物理学的イメージでいうと、地上の実在の上に天国の波動空間が覆い重なる、という感じだ。
そしてその力が地上の「欠けている部分」に及ぶ、というイメージだ。
 
+++
 
考えてみよう。
天国に行くときは、人間(の例)は肉体を抜け出ているんだよ。だから、人は肉体を養わなくていい。
 
肉体がなければ、「祈り方」でいう日ごとの糧(食糧)は無用だ。
つまり(御国が来れば)「日常の糧は与えられます」は地上にいる人間だけに対してなされることなのだ。
 
地上に来た御国の波動空間と、天国そのものとが同じだとするのは、純朴すぎるのだ。

 
 

<聖書を読む意味が半減>

両者を混同しないのは、非常に大事なことだから、繰り返し述べておく。
 
人間は御国が来るまでは、100%地上の方法でもって糧を得て生きてきている。
糧が必要に100%充たなくても我慢して暮らしている。
 
そこに御国が来ると、その不足分が出現して与えられる、
 
具体的には、米びつに不足分の米が出現していたり、冷蔵庫の野菜室に野菜が増えていたり、チルドルームの肉や魚が増えていたりする。こういう解読が正解だ。
 
イエスの~

「まず、創造神の国と義を求めなさい。そうすればそれらのもの(日ごとの糧の欠けた部分を埋める分)は加えられます」
 
~はそれをいっている。
 
この聖句が不足分の補填を意味していることが、いままでのところ気付かれていない。ただ漠然と「与えられる」と解されている。
 
それが邦訳文に現れている。
だが、そうすると、「まさか・・・、現にそんなことどこでも起きてないよ・・・」となって、この聖句はスキップされ、無視され、放念される

それではいかん。
こんな風に、御子イエスの言葉をスキップしたら、聖書を読む意味は半減してしまうのだ。





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19.日々の糧を得る~地上の方法と御国の方法~

2018年11月09日 | 鬱を打破する聖書の論理

「御国が来れば、御心が天になるように地にもなされます」の具体的中身の第一声は「(御国が来れば)日常の糧は与えられます」
~だった。
今回はこれを吟味しよう。

われわれ人間は地上にいる間は肉体を持っているので、それに日々糧(食べ物)を与えねばならない。
もちろん、衣食住といって、衣料も住み家も必要だ。ここで糧はそれらを総称しているとみていいだろう。

+++

そして、それをうる方法は地上の「この世」でのものと、「御国」のなす方法とで異なっている。




<「経済学の父」アダムスミス>
 
「世の方法」は、自然物に働きかけて、もの(財貨)を生産する方法だ。
 
古代、中世を通して、人々の生産効率は低く、人類は貧しかった。
近世になって「経済学の父」アダム・スミスは、生産効率を急速に高める方法を見つけ出した。
 
社会に分業を行き渡らせる、というのがそれだった。
 
 
 
 
<鍵は分業にある!>
 
分業とは、生産の作業を細かく要素(部分)に分けて、人々が割り当てられた作業に専念することだ。
 
分業が広がると、個々の生産作業は単純化する。
たとえば、釘を造るという活動には~、
 
「仕入れた針金を伸ばし」「短く切り」「一方の端をたたいて頭を造る」「他方の端をヤスリで削って先を造る」「火入れと水による冷却によってヤキを入れる」

~などの作業が含まれる。
中世までは、この一連の作業を一人の職人がすべてやっていた。
 
+++
 
だが近世になると、人々を工場に集め、各々の作業を各人に専門的に担当させるという方式が現れた。
スミスはこの方式を社会全体に普及させることをすすめた。
 
この方式を採ると、生産効率は急上昇する。
個々人の作業は単純化し、それを繰り返すと熟練して技能が上がる。




<生産が機械化される>
 
さらに、単純化した作業部分は、機械に置き換えやすくなる。
それを水車などの動力につなぐと、生産は自動化し、生産量は飛躍する。
 
スミスはこの方式が社会に広がることが、人民富裕化の鍵だとみた。
 
+++
 
こういうことが、様々な生産分野で起きたのが、産業革命だ。
 
それが進展して今の人類は、歴史上かつてなかった物的富裕を享受している。
 
 
 
 
<五千人の糧を造る>
 
御国がやってきて地上でなす方法は、スミスとは全く別である。

存在の源である波動を、物質に様態変えさせる、というものだ。

この事例は、新約聖書に記録されている。イエスが「魚とパン」を次々に出現させた状況に見ることが出来る。それはマタイ伝にも下記のように記されている。
 
・・・・・・・・・・・・・・
「イエスは言われた『あの人たちに何か食べるものをあげなさい』
しかし弟子たちはイエスに言った『ここにはパンが五つと魚が二匹よりほかありません』
 
するとイエスは言われた『それをここに持ってきなさい』
そしてイエスは、群衆に命じて草の上に座らせ、五つのパンと二匹の魚をとり、天を見上げてそれらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
 
人々はみな、食べて満腹した。
そして、パン切れの余りを取り集めると、12のかごにいっぱいになった。
食べたものは、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった」
      (マタイによる福音書、14章16-21節)
・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
量子物理学は、この事態を物理的現象として理解させてくれる。 
 
この物理学はすべての存在の元は波動であることを明かした。
その波動が凝集した部分が粒子となり、粒子は組み合わさって物質を形成する。
 
イエスが行ったのはこれだったのだ。ちなみに『創世記』冒頭に期されている「創造」のわざも同様にして理解できる。
 
 
        
 
<資源がなくならない方法>
 
アダム・スミス流の「この地上の方法」も画期的だった。だがこちらでは天然資源が細って行くにつれて、生産物も細っていく。
 
対して、御国がやってきてなす方法では、資源は無限だ。波動だからだ。波動は創造神から全被造界に際限なく放射され続けていてる。


 
<関連するイエスの言葉>

「パンと魚」の出来事の際には、イエスの事件に関連した言葉も記録されている。

上記「マタイ伝」では~

・「あの人たちに何か食べるものをあげなさい」

・「それ(五つのパンと二匹の魚)をここに持ってきなさい」

~がある。

同じ出来事を記録した「ヨハネ伝」には~

・「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」(ヨハネ、6:5)
 
・「人々を座らせなさい」(ヨハネ、6:10)
 
・「余ったパン切れを、一つも無駄に捨てないように集めなさい」(ヨハネ、6:12)

事件に関連した言葉は記憶しやすい。これも人の意識波動体が住まうべき「イエスの言葉群」のなかに入れておくのがいいだろう。




 
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18.イエスの言葉群の中核は「御国」についての教え

2018年11月07日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回、臨時で「信じる」の意識波動的な意味を考えた。
「イエスの意識波動体の中に住まう」という考えが出てきたついでに~先のために~考察した。寄り道したが大丈夫、ゴールは「鬱心理を打破する聖書の論理と力」においている。これを焦点としての遠望は保っている。
後のための先取り的な仕事だった。本論に戻って、イエスの夢の言葉の解読を続けよう。

+++

今回は~、
 
・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~のうちの「わたしの言葉」だ。

前々回に、(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり」の内の「留まる」の意味を解読した。
それは、イエスの言葉が形成する意識波動体のなかに、自分の意識波動体が「住まう」ことであった。
 
だが、その住まうお家である「イエスの言葉」が具体的に何であるかのイメージがないと、聖句の意味は明確化しない。
今回はそれを解読する。
 
 
 
<言葉は「言葉群」>
 
それにつけ、ここでまず上記の夢の聖句の邦訳文に、若干修正を加える。
筆者が踏まえる英文聖書は、New American Standard Bibleだ。
これは米国内で、最もギリシャ語の原文に即していて、かつ、英文が平明と定評あるベストセラー聖書だ。
 
この聖書を見ると、上記邦訳文の「言葉」は“words”と複数になっている。このニュアンスをも含めて日本語にするとこの語は「言葉群」とでもいうべきだろう。人間(諸君)が超自然事象を得るために住まうべく家は、より正確には「イエスの言葉群」だった。

 
  
 
<言葉群の中核は「天国についての教え」>
 
けれども、ではその「(イエスの)言葉群」とは何か?といわれると、少々困る。
イエスは沢山の言葉を述べている。そのすべてをいきなり相手にしたら収拾が付かなくなる。
やはりまず、中核になる言葉から吟味していくべきだ。
そしてそれは「天国(の性質を持った空間)に関する教え」である。世にイエスの教えの中心は福音(よき知らせ)というが、そのよき知らせは具体的には「天国(という空間)に関する知らせ」なのだ。

+++
 
そのことは、四福音書の最初の書物「マタイによる福音書」に如実に現れている。ここでイエスは「天の御国が近づいた」と宣言して教えを始めている。以後、その天国の説明を中心に、イエスの説教は延々と展開していく。
いわゆる「山上の垂訓」と呼ばれるようになっている説教も、みな「天の御国」に関する教えだ。
 
だから、マタイ伝では~特に前半に~「天国」の語が繰り返し繰り返し出てくる。もういやというほど、数えたことはないが20回は優に超えているだろう。
このようにしてイエスは天の御国の特性をまず集中的に説明する。
中核は天国に関する教えなのだ。


 
<天国空間が来たら「こうなる」ぞ>
 
そして、その説教のなかでも特にイエスが「天国が来たらこうなる」とズバリ述べた言葉がある。これが中核中の中核だろう。まず吟味すべきは、その言葉だ。
具体的にはそれは、後に人々が「主の祈り(the Lord's Prayer)」とのニックネームをつけた聖句だ。そしてこれが結構くせ者なのだ。だが避けて通れない。
なにはともあれ、この一般的訳文を口語文で示そう。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天にまします我らの父よ。
御名があがめられますように。
御国を来たらせてください。
 
御心の天になるように、地にもなさせてください。
私たちに日常の糧を与えてください。
我々に罪を犯すものを我らが許すように、我らの罪をも許してください。
 
我らを試みに会わせず、悪より救い出してください。
天国と力と栄光はとこしえにあなた様のものだからです。
 
(マタイによる福音書、6章9-13節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 
 
 
これは文字通りに見ると、「お願い」の祈りだ。なのに筆者はいまさっき、これが「天国(の性質を持った空間)が来たらこうなる」と示す言葉、宣言する言葉といった。どうしてそんなこと筆者は言うのか。これについては、若干込み入った解読を示さねばならない。

 
<「主の祈り」の名は付けすぎ>
 
筆者は考える。まずこの聖句につけられたニックネームは放念すべきだ、と。
この「主の祈り」という呼称は、語呂がいいからそう付けたのだろうが、いわゆる「付けすぎ」だ。それはほとんど間違いと言える程に不適切で、妥当な解釈の阻害要因になっている。
これをみたら当初ほとんどの人は、主(イエス)が父なる創造神に祈った言葉と予感するだろう。だが、中身は全然違うのだ。
 
+++
 
これは「諸君の祈りはこうすべきだよ」と「人々にイエスが教えた祈り方」なのだ。これを教える時の状況はこうなっている~。
 
人々は「自分たちは創造神にどう祈ったらいいか」とイエスに尋ねている。
対してイエスは~
 「長々と祈るな。全知の創造神は、諸君が求めていることなど、すべてわかっている。ただ、短くこう祈れ」といって教えている。
そういう、人間に、いってみれば「お前ら、祈るんならこう祈れ」といって発した言葉なのだ。
ゆえにまずそれを知って、誤解を誘うネーミングを放念すべきである。
 
 
 
<お前ら祈るんならこう祈れ>

第二にこれも知らねばならない。
 
上記邦訳文の一つ一つのフレーズの各々は、文字の上では父なる創造神に祈り求めている「願いのことば」になっている。
 
だが、イエスがここで究極的に教えようとしている真意はそうではない。
「天にまします我らの父よ、御国を来たらせたまえ」につづくフレーズの真意は、祈念ではなく宣言だ。
天国の空間(空気、オーラといってもいい)がやってきたら、それは地上の現実に覆い重なって、御国の性質が実現されていく、という宣言なのだ。
 
それを明示するために、まずとにかくそのように訳文を変えてみよう。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天にまします我らの父よ。
御名があがめられますように。
御国を来たらせてください。
 
(御国の空間が来れば)
~御心が天になっているように、地にも実現します。
~①私たちに日常の糧が与えられます。
~②我らの罪は許され、我らも私たちに罪を犯すものを許せるようになります。
~③我らは試みに会わせられることはなく、すでに悪に誘い込まれているものは悪魔より救い出されます。
 
天の王国とその力と栄光(パワーも含めた天国空間の波動)は、とこしえにあなた様のものだからそうなるのです。
 
(マタイによる福音書、6章9-13節の真意)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
 ~後の議論がわかりやすくなるために、筆者が①②③と番号を打っている~ 
 
イエスが教えようとした究極的な内容はこれだ。
 
だが、これを語った時点ではまだそれをそのままいうことはできなかった。
イエスがいわゆる「山上の垂訓」でこの「祈り方」を教えたのは、イエスが宣教を開始したばかりの出発時点で、ほとんど第一講なのだ。

+++

この後、イエスは十字架死して罪の代償を作り、復活して天に昇って、聖霊を送る。その聖霊が「天国の力」を超自然的事象でもって証拠する。
 
だがこの説教の時点でイエスは、自分が十字架死して人間の罪の代償を作るという予告もしていない。そういうタイミングで、究極の真意を言っても聴衆は理解できない。
そこで「祈り方」の全フレーズを「お願い」の言葉としてまずは飲み込みやすく教えたのだ。

+++

鹿嶋の深読みとの嘲笑があっても筆者はそう解読する。
「祈り方」の奥義は「天国はこういうところ」という教えであり宣言だと解読する。
 
次回には、その宣言の内容をさらに具体的に追ってみよう。







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17.「信じる」は「意識波動体の内に住まう」こと

2018年11月05日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回の最後に筆者は「波動体は波動体の「内に住まう」ことが出来るから、もうぴったりだ」といった。

このことはイエスの次の言葉の意味を明かしてくれる。(筆者には「ようやっと」わかった、という実感がある)


<父が私におられ・・・>


・・・・・・・・・・・・・
「たとえわたしの言うことが信じられなくても、わざ(イエスの行うしるしと不思議)を信用しなさい。それは、父が私(のなか)におられ、わたしが父(の中)にいることを諸君が悟り、また知るため(のもの)です」
(ヨハネによる福音書、10章38節)
・・・・・・・・・・・・・


括弧がいっぱい付いた聖句になったが、まあ、いいだろう。
このなかの「父が私(のなか)におられ、わたしが父(の中)にいる」がず~と筆者はわからなかった。
だが~量子力学思想のおかげで~いまはこう解読することができる~。

創造神もイエスもその本質は波動体だ。意識を持った意識波動体だ。波動体は波動体の中に住まうことが出来るので、「父なる創造神は御子イエスのなかにいる」ことができ、また、御子も「父の中にいる」ことができるのだ。

(ちなみに、創造神の波動体は、いのちエネルギーを自ら放射する波動体だ。そのエネルギーでもって被造の波動を造り、それを物質に変化させたりする。これが被造物の創造である。・・・そういうイメージだ)



<感覚がつかめない言葉>

さて、今回はこれに関連して聖書のキーワード「信じる」の意味をも明かしておこう。聖書に於いてはこの語は「キーワード中のキーワード」だ。

ところがこの語はよくわからないのだ。これは中国語から借用したらしい語だからだ。

われわれが言葉を感覚的にも理解しようとするには、その語が日本人の生活の中で出来上がってきた過程を追ってみることが必要だ。
だが、「信じる」はそういう出来方をしていないので、われわれにはその感覚がつかめない。いってみればその意味は扁平なままだ。

 

<やっとわかった難解用語>

だが、その意味は前回の考察が示してくれる。「意識波動体が意識波動体の中に浸って住まうこと」がそれだ。職人をめざす弟子が、親方の意識世界に浸り住まう事態・・・これが「信じる」の中身だ。

筆者は以後、このニュアンスで「信じる」を読んでいく。
もし読者がこの方法をフォローされるならば、聖書が一段とハッキリ見えて来るであろう。



 
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16.親方の意識世界に「住まって」弟子になる

2018年11月04日 | 鬱を打破する聖書の論理

イエスの夢の言葉の解読を続けよう。
今回は~、

・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~のうちの「ことばに留まる」だ。

イエスのことばは意識波動体だった。
では、「その中に(中に、となるわけは前回説明した)留まる」の留まるとはどういうことか?

これについてはありがたい手がかりがある。イエスはこれと重なる教えを、すでに別のところでしている。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君がわたしのことばに留まるなら、諸君は本当に私の弟子です」
(ヨハネによる福音書、8章31節)
・・・・・・・・・・・・・・・・

~がそれだ。ここでは、弟子という言葉が出ている。



<徒弟制度>

弟子とは本来徒弟制度で使う言葉だ。
徒弟制度とは、知識とわざを学ぶ方式で、これは学校の教室で学ぶ方法と違う。

徒弟制度の典型は、一人の師匠(親方)の家に住み込んで師匠の、おもに「わざ」~そこには知識も込められている~を学ぶものだ。
そこでは弟子は師匠を「模倣する」ことに徹する。


<完全模倣は同一化の手段>

模倣とは「同一化」だ。師匠に同化してしまうのだ。

人間は肉体的には他者と同じになることは出来ないが、精神的(意識波動的)には、同じになることが出来る。

その代表例は、母親が幼い我が子になす同一化だ。
その子が医者に注射されて泣くとき、母親は自分の身体のその部分にもチクリとした痛みを感じることがあるという。

+++

徒弟制度において師匠を模倣することは、そうした同一化をしていくことだ。
そしてこれを深めていくのは、師匠の家に住み込まないと難しい。「弟子入り」というのはそういう意味も持っている。

+++

これがいわゆる修行期間だ。そのあいだに弟子が学んだことに自分の個性を付け加えたりしようものなら、(大工の場合は)親方は金槌でぶん殴る。

親方のわざが、同一化によって自分に乗り移ってくるには、一定期間模倣に徹していることが必要なのだ。それまでは自分の個性を出すのは「待て」というのだ。



<そして「のれんわけ」の時が>

そして同一化がなると、師匠は弟子を独立させる。いわゆる「のれん分け」だ。そうなったら、弟子は乗り移った親方のわざに自分の個性を加えて、総合的に展開する。

人間の本性は「わがまま」だ。修行期間に発露を禁じられていても、人の個性は簡単には消滅しないものなのだ。

 
 
 
<「留まる」より「住まう」が適切)

イエスの「わたしのことばに留まる」は以上のような内容を持っている。
その意味を込めて「わたしの弟子になる」といっているのだ。

そしてその内容を的確に示すには、日本語の「~に留まる」を「~に住まう」に替えた方がいい。
修行期間には親方の意識波動世界の中に、もうすっぽりと「住まってしまう」のだ。

実際ここで「留まる」と邦訳されているもとの英語はアバイド(abide)だ。
これは本来「住まう」という意味である。
 
ここは「諸君の意識波動体がわたしの意識波動体の内に住まうなら」と解しておこう。

波動体は波動体の「内に住まう」ことが出来るから、もうぴったりだ。

これで「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり」が解読できた。

今回はここまでにしておこう。



 
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15.「私(イエス)の言葉に留まる」とは?

2018年11月03日 | 鬱を打破する聖書の論理


<人間は意識波動体>
 
 さあ、ヨハネの記録したイエスの夢の言葉の解読に入ろう。

・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
~後の解説のために、各フレーズに筆者が番号を付けている~

 
まず、(I)「諸君がわたしのことばに留まり」から始めよう。
 
「諸君」とは弟子たちのことだ。
だが、量子力学ベースでは、彼らも含めて人間は意識波動体となる。
 
 
 
<言葉も意識波動体>
 
「わたし(イエス)の言葉」はどうか。
これもまた、意識波動体である。

言葉が波動体であることは、量子論以前より物理学的に多分に認識されてきている。
言葉を表現する音声は波動となって伝わっていく。

量子論ではさらに、印刷された文字もその印刷媒体から波動を発していることになる。

加えて、それを構成する意志も感情も量子論では波動であり、それは波として伝わっていく。
それらを総合して言えば、「言葉は意識波動体」ということになる。

イエスの言葉も同じだ。
だから(I)「諸君がわたしのことばに留まり」は、「弟子たちの意識波動体がイエスの言葉が構成する意識波動体に留まり」となる。



<"in" My Word>

ここで注意すべきことがある。
この「意識波動体に留まり」は正確には「「意識波動体『のなか』に留まり」だ。英語では "in" My Wordとなっている。

だが、その意味が邦訳者にはわからなかった。弟子たちを「物質的な身体を持った人間」とうけとったので、「身体が言葉のなかに留まる」などは想像できなかった。
そこでもう"in"を省いて邦訳文を造ったのだ。



<ニコデモも物的身体をイメージした>

こういう事態は福音書のなかにも現れている。「ヨハネ伝」3章だ。
ここにニコデモというユダヤ教の高僧が登場する。彼はイエスの天国に関する説教にわからないところがあって、密かに質問に来る。

(彼はイエスの教えを受け入れつつあったが、それを知られると所属教団から迫害されるので闇に紛れて教えを乞いに来たのだ)

イエスは彼に「天国(天の創造神王国)は、新しく生まれないと見られない」という。

+++

するとニコデモは「もう一度母の胎内に入らないと新しく生まれるなんてできないのですが」という。

イエスはここで霊(という意識波動体)のことをいっている。
対してニコデモは文字通りの物理的肉体しかイメージできないでいる。

このニコデモと同じ状況に、聖書邦訳者はいる。だから「(言葉)のなかに」とはどうしても訳せなかったのである。

+++

だが、ここでは言葉が意識波動体であり、弟子たちもまた量子論的にはその本質は意識波動体である。そして「波動体が波動体のなかに留まる」ことはあり得る。

「諸君(という意識波動体)がわたしのことば(という意識波動体)のなかに留まる」という事態は物理学的にもありうるのだ。

今回はここまでにしておこう。



 
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14.「言葉への信頼感」が「しるし」で飛躍

2018年11月02日 | 鬱を打破する聖書の論理
 
 
前回、聖書の持つ「人間は永続する」」という思想を形成する聖句群が、自価意識を根底から崩す無常観を和らげると述べた。
今回から、その効果をさらに飛躍させる要素である超自然的事象~奇跡~について考えていこう。
 
 
 
<漠然とした意識を言葉で明確化>

聖書が与える人間永続感を、要約しておこう。
聖書は人類に「永遠」といいう概念を導入している。
人間は「ず-と続く」といった意識を漠然とした気分として抱くこともある。
だが、聖書は「人間は永続する」という思想をはじめて言葉として明確に示したのだ。
  
+++
 
具体的には、聖書は人間には霊があると教える。
そして霊は死後も永続する、と教える。
その思想は世界観の中で論理的に示されている。
それを示す言葉(聖句)に繰り返し触れていると無常観は和らげられていく。
 
 
<セルフバリュー感も供給する>
  
永続感に加えて聖書はまた、「人間は存在価値ある」という思想もふんだんに提示している。
それを全知である創造神からの言葉として、発信する。
これは人の自価意識に直接プラスに働きかける。
 

<「パンのみで生きるにあらず」とは?>
 
このことはイエスの有名な言葉「人はパンのみにて生くるものに非ず」の意味をもシャープに浮上させてくれる。
 
荒野(あらの)で断食中のイエスを悪魔は誘いをかける。
 
「あなたが創造神の子なら、この石がパンになるように明示なさいよ」             」
 
これに対してイエスは「人はパンのみによって生きるのでなく、創造神の言葉をも食べて生きる」と応じて誘惑を退ける。(マタイによる福音書、4章1~4節)

+++
  
この意味は従来、漠然と理解されている。
「神様の言葉に導かれて生きるのだよ」といったように。
 
だが、より詳細には「創造神の言葉は人に自価意識を与える。これを吸収して自価意識を保つことによって、人は生きられるのだよ」と筆者は解する。

 
<創造神の子が永続の言葉を証拠づける>

けれども言葉というのは人間が自由に操れるものでもある。
我々は自分の魂の経験から、それを知っている。
それが、聖書の言葉についても「口だけなら何でも言えるサ」という意識を大きく心に存在させ続ける。
だが、これに対処する方法をも聖書~新約聖書~は提供している
 
新約聖書では、創造神のひとり子イエスが出てくる。
彼は「人間は永続する」という教えを、人の姿をとって地上にきて明確に宣べる。
また「諸君(人間)は存在価値ある」という思想を、行為でふんだんに示す。
 
+++
 
イエスはまた自分の行為はすべて「父なる創造神の御旨」と一致している、という。(ヨハネ、5:19)

つまり、創造神ご自身も人間を存在価値あるものとしておられる、というのだ。
  
+++
 
これらの言葉は、相応の影響力を持ってうつ心理を和らげる。
だが、言葉にはまた相応の限界もある。
人間観を言う宗教教義は、世の中に沢山あって、みなそれぞれもっともらしい教えを展開している。我々はそれを五感経験で知っている。
だから前述の「人は口だけでなら何とでも言えるサ」という思いも抱く。
 
けれどもこれに対して、イエスは自らの教えが事実であることを奇跡〔しるしと不思議)で根拠づけるのだ。

 
<奇跡の心理効果>
 
奇跡というのは、強烈な心理効果を持っている。
「人間、死んでおしまいでない。あなたを創造神は存在価値あるものとしておられるのだ」といった言葉に、奇跡が伴ったらどうなるか。
その宣言に人間の抱く信頼感は急増する。

宣言の中身を目に見えるようにしてあげるのではない。ただ、超自然的な事象をあらわす。それで否定感情が劇的に粉砕される。人間の心理はそういうふうにつくられていようだ。
 
 
 
<奇跡を表す方法もいい遺していく>
 
また、イエスは自ら奇跡を現しただけではない。信じる者すべてがしるしを現す方法もいい遺していった。
これが実現されるところでは、この世の人々の永続確信も飛躍するだろう。
実際に実現可能性があるなら、これは人類への夢のプレゼントだ。

 +++
 
 イエスはその方法を「ヨハネ伝」の中で、ずばり結論的に宣言している。
 
・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
~後の解説のために、各フレーズに筆者が番号を付けている~
 
この聖句は。単に「ことば」を証明するという効果を超えたものを持っている。

この方法自体が、直接うつを打破する用具ともなりうるのだ。
だって、求めるものをなんでもあたえる、というのだから。
「なんでも」は「鬱が晴れた爽快な心理状態」も、含むはずだから。
 

とはいえ、この夢のような言葉は、そのままでは使えない。
これは結論的な宣言なので抽象度が高い。
意味の解読が必要だ。それがないと、聖句はたんなる「おまじない」の言葉と人の心の内ではなってしまう。

説明は聖書に触れてきてない人には難しいと思うが、吟味するしかない。
筆者も大胆にやるしかない。
 
次回からそれに突入するよ。
 
もう、やらないことには、日本もあなたも「どうせ死んでおしまい」の意識にさいなまれ続けるのみだからね。
 
だがこの方法が理解できたら、人生変わるからね!
自分の人生だけでなく、他の人々の人生も助けることができるからね。
では、いざ~。





 
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13.人間の永続を聖書の世界観の中で

2018年10月29日 | 鬱を打破する聖書の論理

聖書の思想の中で、うつ心理対策のため直接的な効力を持つのは「人間は永続する」という思想だ。
永続するから、それに付与する価値意識も永続的に考えることができる。
 
だが、これを示す聖句は単独ではインパクトが弱い。
これは聖書の持つ世界観の中に位置づけられると、より総合的で安定的な心理効果を発揮する。
 
 
<聖書の世界観>
 
聖書の世界観では、世界は万物の創造神によって創造されている、となっている。
これは我々が五感で認知する五感経験ベースの世界観とは180度異なる対極的なものだ。
我々の経験的世界観では、世界は「ただ存在している」ものである。
世界の説明は、そこから始まる。
 
+++

対して、聖書の世界観では、まず、万物の創造神がいる。
そして我々が五感で「ただ存在している」とみる世界は、聖書の世界観では被造物の世界となる。
「被造界」だ。

+++
 
創造神は時間的無限者、すなわち永続者だ。
空間的にも無限者で、世界はその懐のなかにある。
(論理的にもそうしかならないことによって、人類に「無限大」の理念が投げ込まれた)
 
+++
 
またこの世においてもそうだが、創った側は創られた側より絶対的に上位にある。
被造界は創造神の意志と計画の中で、つまるところは動いている。


<世界観の中の人間観>
  
人間は被造物の一つだ。

肉体の中に霊という意識体が入っているようにして創られている。
そして、肉体は死んでも霊はそこを抜け出て永続する。
将来、宇宙が消滅するときには、霊は身体となって復活する。

そして創造神の言葉を受容している霊は、天の創造神の王国(天国)に入れられて永続する。
需要を拒絶した霊は、火の湖に入って永続する。

いずれにせよ、永続する。
 
 +++
 
「人間は(肉体が)死んでも消滅しない」という人間観はそういう世界観の中にある。
そして繰り返しになるが、その存在に付与されている価値も、強制的に消滅させられることはない。
 
この思想は、生来のままの人の心の底に常駐する慢性的鬱気分を打破する力を持っている。
 
このように世界観を知り、それを五感経験的世界観と意識の中に併存させるのが、うつ心理打破政策の第一歩だ。
 
     
 
<見えない世界を100%知ることはできない>
 
この際、心に言い聞かせるべきは、「聖書の世界観が100%正しいとわかる」と思い込まないことだ。
見えない要素(神はその代表)を含む世界観を、100%正しいと認識することなど、人間にはできない。
 
できないことをしかと自覚しないと、「神様のいうことだから100%信じないと」という義務感がやってくる。すると100%信じたという誤認(聖書で言う偽善はこの意味)に陥っていく。
誤認に陥ると、自分の心を内省して、100%でないことを感触して罪悪感と恐怖を抱く。
いいことなど一つもない。
 
+++
 
悪いことはまだある。
「100%正しいとわかる」と誤認すると、五感的世界観は全く正しくない、正しさゼロパーセントとなってしまう。
そう思うと、二つの世界観が、どちらを選ぶか、という二者択一に心の中でなってしまう。

すると、聖書の世界観を併存させることができなくなる。
 
 
<確率の感覚で>
 
「五割くらい、あるいは、六割くらい正しい感じがする」でいい。
できることをすればいいのだ。
それでも併存させていると、聖書の世界観を示す聖句が効力を発する。

聖句は言葉であり、言葉は、その波動でもって影響力を発する。
 
「人間は永続する」と述べる言葉が、無常観を和らげていく。
聖書の世界観を五感世界観と併存させていること、これがうつ心理打破の第一歩だ。






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12.「永遠のいのち」は不明なままで

2018年10月28日 | 鬱を打破する聖書の論理
 
「いのちエネルギー」については、筆者は思い起こすことがある。
 
かつて聖書解読をはじめて以来、「いのち」という言葉の意味がなかなか感知できなかった。

聖書の全体像が漠然と浮上してきたとき、これは物理学の「エネルギー」のような概念ではないかなあ、という思いも漠然と浮かんだ。

それで筆者はとにかくこれを「いのちエネルギー」と読み替えて、聖書解読を進めた。
その結果を『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書)に記した。

 
<みんなわかってなかったんだ>

出版後、ある牧師さんからお言葉をいただいた。
~鹿嶋さんの本の「いのち」の解釈で、説教が助かっている、という会話が牧師たちの間でなされていますよ、と。

これを聞いて筆者はやはり「いのち」の語はみんなわからなかったんだ、と確認した。

その状態で、現在まで来ていたが、ではそのエネルギーとは何なのか、漠然としたままだった。

+++

それが今、そのエネルギーを「生きよう」という方向性を持った波動(の凝集体)とすることで、一歩前進した。これが「いのちエネルギー」の内容だと、筆者は察した。

同時に、その逆の方向を持った波動の凝集体を、「死のエネルギー」と定義づけられて、視野も広がった。

 
<「永遠のいのち」はまだわからん>

しかし、まだ不明な語もある。
「永遠のいのち」だ。これもまた聖書の大きなキーワードなのだが、その意味が筆者にはつかめていない。
 
「いのちエネルギー」に、永遠なものとそうでないものがあるのか。これと「死のエネルギー」との関係はどうなのか?
(そのうち、またわかってくるだろう、と思いながらやっている)
 
+++
 
こうした疑問を抱きながらも、ともかく、うつ心理の構造を定義できた。
以後、これを踏まえて、聖書によるうつ心理対策を考えていくことにしよう。
 
 
 
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11.「いのちエネルギー」と「死のエネルギー」

2018年10月28日 | 鬱を打破する聖書の論理

 
波動ベースで考えると、人間もまた波動体となる。
それは意識を持っているので、意識波動体ということもできる。

ここでもう一つ、「その波動体のおのおのは一定のエネルギーを内包している」とイメージしよう。

+++

加えて、エネルギーにも、もう一つイメージを付け加えよう。

エネルギーとして凝集している波動は、同一の方向を持っている、と。
またこれは度合いで考えることもできる。つまり凝集した波動はその方向の同一性が高いほどエネルギーは強くなり、低いほどエネルギーはその分弱まる、~と。



さてこうしておいて人間を考える。
人間という意識体は、生来、「生きよう」という志向を持つように創られている。

赤ん坊の口と鼻を塞いでみると、激しく頭を左右に振って呼吸しようとする。
この事実は、人間という意識体は「生きよう」という志向を持っていることを示している。

+++

そこでもう一つ、イメージを追加しよう。
この志向を形成しているのは、意識体が内包しているエネルギーだとイメージしよう。

このエネルギー(力)は、「生きようという方向」をもった波動でできている、とする。

 
 
 
<肉体・魂・霊>

さてそこに前述した聖書の人間構造論を導入しよう。
そこでは、人間はボディ(肉体)、マインド(魂:ソウルともいう)、スピリッツの三つの要素でなっていた。

つまり、人間はこの三つがともに「生きよう」という志向をもった状態で生まれてきているという理解になる。

+++

だがそれはこれは人間を総体的に捉えた認識だ。
そこに、「人間には自由意志が与えられている」という聖書の基本思想も導入すると、理解は変わってくる。

聖書には一貫して、「人間には~天使もそうだが~自由意志をもつように創造神は創造している」という思想がある。
また、そう創った以上、創造神は人間の自由意志には決して立ち入らない。聖書には一貫してその鉄則が貫徹している。

だがこれを上記の三要素の情報に照らしてみると、そのうち自由意志の働きを創るのはマインド(魂:ソウル)となる。
なぜなら、意志とは霊情報系と脳神経系との協働領域で働くものだが、その協働領域とはすなわち魂の領域だからだ。

(このことを見るために、前回の「フロイト精神図に擬した聖書の精神図式」をもう一度掲載しておこう)



       

「いのちエネルギー」と「死のエネルギー」>

この想定によって、筆者はうつ心理の構造を次のように把握できてきた。

すなわち~、
人は生来自然なままでは「生きよう、生存しよう」という意識を持つ。
より詳細にはその肉体、魂、霊は基本的に「生きよう」という意識を持つ。

ところが魂は、与えられた自由意志力によって、その反対方向の意識をもつくることができる。
具体的には、「どうせ死んで消滅するのだから生きるに値しない」という意識も持つことができる。

意識とは意識体でもあるから、そういう意識体を魂は自らの内に創ることができる。

そして、その意識体は、「生きよう」とは逆の志向を持ったエネルギー(波動体)を放射していることになる。
「生きよう」とは逆方向のエネルギーとは、「死のエネルギー」と命名できる。

そしてこの命名をうると、同時に「生きよう」という方向性を持ったエネルギーに対して「いのちのエネルギー」という名を与えることができる。短く呼んで「いのちエネルギー」だ。
 
 

<「死のエネルギー」による「いのちエネルギー」の相殺>

このイメージを得て、筆者はうつ心理の構造の感触をえた。

つまり、魂に形成される「生きる価値などないよ」という意識は、そのうちに「死のエネルギー」を含んでいる。
このエネルギーが霊に生来ある「生きよう」という「いのちのエネルギー」に衝突し、それを相殺するのだ。
その結果、霊にある「いのちのエネルギー」は希薄化、弱体化する。

さらに強くなって「いのちエネルギー」を相殺して余りが生じることもある。

この状況が、心底(霊)のうちで鉛のような感覚を生むのではないか。

これが鬱の実体ではないのか、と。

+++

「いのちのエネルギー」については、まだ、追記したいことがある。
だが、それは次回に回そう。

 
 
 
 
 
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10.波動ベースで世界を体系的にイメージする

2018年10月27日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

存在の根源を波動だとする量子論(力学)の思想は、世界を体系的にイメージする助けになる。

筆者は次のようにイメージする~。

① 世界は波動で満ちている。

② その波動が一定レベルで凝集したものがエネルギーになっている。    

③ さらに凝集度が増した波動は、物質になっている。

+++

聖書の世界観では、万物の創造神も世界を構成している。

この存在も次のようにイメージできる。

すなわち、その方は無限大の広がりを持った波動体(意識を持った)であり、かつ自ら波動を放射する能力を持った存在だと。
その放射された波動は被造の波動であり、それがあまねく被造界に行き渡っている~と。

そして、その一部が凝集してエネルギーとなり、さらに凝集度が増したものが物資になっている~と。

この世界イメージをもとに、筆者は以後、聖書の論理によってうつ心理を打破する方法を考究していこうと思う。



 
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9.量子物理学の思想を援用する

2018年10月26日 | 鬱を打破する聖書の論理


これから、聖書の知識を活かした鬱心理の実体把握とその治療法に向かいたいが、その前にすべきことがある。
聖書の中の言葉(聖句)は、マニュアルのような順を追った説明になっていないので、そのままでは使い物にならない。使用するには、知的に理解することが必要だ。

理解できない言葉は、そのままでは「おまじない」にしかならない。
理性的に理解できないままで、「そこは信仰です!」「信じなさい!」といったり「信仰が足りない!」と叱りつけたりしても、信徒の意識の中では聖句はおまじないのままなのだ。

+++
 
知的な理解は、科学理論を援用することで可能になる。とりわけ役立つのは物理学知識だ。
難解聖句「いのち」を筆者はこれまでに物理学における「エネルギーのような概念」と霊感し、それを「いのちエネルギー」と言い換えたのもその例だ。


<存在の根源は波動>
  
最新の物理学理論である量子力学(量子論)は特に役に立つ。
この思想は独特の存在論を含めている。
それ以前の物理学では、物質は究極的には「粒子」(つぶつぶのもの)によってなっている~と考えていた。
 
具体的には~

従来、物質を構成するものとして原子が発見されていた。
次に、原子は陽子や中性子や電子でなっていることもわかった。
そこでこれらが究極の構成要素と考えられ、素粒子と呼ばれた。
素「粒子」だからつぶつぶの物質だ。
ニュートン物理学のニュートンも、アインシュタイン物理学のアインシュタインもそう考えてきた。

+++

ところが、後に量子物理学者と呼ばれるようになる人々は、素粒子の一つである電子(でんし)についてある実験~「二重スリット実験」と呼ばれる~をした。
そしてそれは粒子でもあり、波動でもあることを発見した。
 
このあたりの知識は下記の動画(主に前半)にゆだねる。ちょっと難しいが、見てほしい。


これを先に見た方がいいかな。


+++

とはいえ「~でもあり、~でもある」というのは解りづらい。
両者の関係は、次のように理解したらいい。
すなわち、根源は波動(振動:バイブレーション)の方であって、てその波動の海の中に、振動が凝集する領域もある~と。
それが(つぶつぶの塊)と感じられ、粒子と認識されてきただろう~と。
(上記の動画で「波束(波束:波動の束)」といっているのはこの考えに近い)

その振動(波動)の海に量子(クオンタム:quantum)との名が付けられたのである。
これが量子という物質の風景だ。


 

<言葉の波動が物質に影響・・>

量子力学の思想は「見えない世界のことがら」についての物理学的に理解可能な領域を大幅に広げてくれる。
たとえば、聖書には「イエスの言葉が病人の身体を変化させた」との旨の記述が繰り返し現れている。
イエスが「歩け」と言葉を発すると脚萎えが歩き出す。
「目よ開け」というと、盲目者が見えるようになる。

これなど従来牧師さんや神学者たちは「イエス様の不思議な力によりま~す。信仰で受け止めなさ~い」などと教えてきた。
こういう風に理由もなく「信じなさい!」とやってきたわけだ。

+++

ところが脚や眼球を構成する物質の根源が波動だとなれば、物理学的に理解できてしまう。
言葉が波動であることは前からわかっていた。それは人の意識を信号にして伝える波動なのだ。
そしてイエスの発した言葉の波動は、被造物をそれに従わせる力を持った「創造神の強烈な波動」となる。

これが、脚や眼球の根源的な構成物である波動に影響したことになり。影響を受けて、脚の筋肉や眼球を構成していた波動が変化し、肉体組織が再創造された~こういう理解が可能になるのだ。
 
 
<エネルギーの実体も波動>

量子力学は、エネルギー(力)の理解も明確化してくれる。
従来、エネルギー(力)は存在するとは認識されていたが、その中身が不明だった。

ニュートンは、宇宙には重力、磁力という二つの力があることを見出したが、力の中身については何も言わなかった。

アインシュタインも、重力は空間のゆがみから生じるとはいったが、その力の中身がどういう実体かは言わなかった。
また彼はその実体が不明な状況のままで、「エネルギーと物質は相互転換しあう関係にある」とみた。
そして両者の間の量的関係を明かした。
E=MC2 (2はCの自乗をしめすため、本来Cの右上に小さく書かれるべきもの)がそれだ。
 
核爆弾の製造・実験の成功によってその妥当性は証明された。
だが、エネルギーの実体は依然として不明なままだった。

+++

だが量子論の思想を援用して、「エネルギーの実体は波動」だと考えたらどうか。
すると世界が本質的に量子でできているのなら、その世界では波動(エネルギー)は凝集して物質となり、物質は分解してエネルギー(波動)となる。つまり両者は相互に転換し合う状態にある。

アインシュタインの見出した関係は、あえてエネルギー「法則」などというまでもなく、量子論ではごく当たり前の事象として理解できるのだ。
 

「エネルギーの実体は波動」の考えの説明力も含めて、筆者は量子論の考えは、それ自体実在にほぼそのまま妥当する究極の命題でなっているのではないかと思っている。つまり、存在の根源を粒子とする理論仮説のような、比喩的な側面がほとんどない真理群だと思うだ。

以後、この思想をベースにして考究を進めよう。






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8.「見えない世界」は五分五分から

2018年10月24日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回、人間が生来もっている無常観が、自己の永続意識を削いでいることを述べた。その意識が自価意識を希薄化させ、心底に鬱心理を常駐させていることを明かした。

これは人間の宿命にみえる。無常観は人間には打破できない、どうにもならないものにみえる。
 
だが、これに真っ向から対立する人間観を持った書物がある。それが聖書であって、これは「人間は永続する」という思想を一貫して明確にもっている。この人間思想を心に併存させれば、それはその分無常観を相殺してくれるように見える。



<信仰に知性を!>
 
いまからその話に入る。だがこの話は初めて聞くものには~特に日本人には~受け付けがたい。
聖書と聞くと「これを宗教の本だ」とまず受けとめるからである。
多くの人は、これは神様について本だから100%信じなければ罰せられる、と反射的に思ってしまう。
 
+++
 
だが、神様は見えない存在だ。見えない世界のことを100%認識することなど、人間にはできない。
できないのに信じねばならないと思うものだから、恐怖がやってくる。
 
神様が特有の行動を促す本だと予感してしまうのも、恐怖を呼ぶ。期待に応えないと罰せられる、という思いが恐怖を呼び起こす。
そういう心理で話を聞いていたのでは、実際上、腰が引けてまともについてこられない。
 
+++
 
こうならないためには、聖書はまず理性を働かせて読むべき本だと思うことだ。
宗教だからと言って、「理性を働かせないでただひたすら信じるもの」だと前提しないこと。
初代キリスト教の大伝道者パウロも、「信仰に知性を」と強調している。
 
 
<「まずは五分五分」が合理的>

 
理性は「見えない世界のことの真偽は、まずは五分五分」とみる。
神とは「見えない影響者」だが、この存否についてもそうだ。
 
 +++
 
現代日本は「神?そんなもの存在しないよ、笑わせるな!」というのが、かっこいい、クール(理知的)だとの通念で今日まで来ている。知識人と称せられるセンセイがたも、マスコミの論調もそうした長い流行の中にある。口に出さない人も、無神論的姿勢を物事を考える際の暗黙の前提としている。

だけどそれは感情的なんだよ。見えないものが存在しないなんて、どうして断言できるのよ。だって見えないだけで存在してる可能性もあるのだよ。もちろん存在してない可能性もそれと同じくらいある。だから五分五分なんだよ、合理的には。

それが現実実在に即していると筆者は認識してるので、ある教会を訪問して信仰確認(告白ともいう)をさせられたとき「そうですね。ロクヨンくらいでしょうか、いまナナサンに向かってるという感じです」といった。叱られたね、牧師さんに。「そんな不信仰でどうしますか!」と。だが鹿嶋春平太チャーチの読者はその姿勢でフォローしてくださることを期待する。



余談だが、そういう教育受けてるもんだから、信徒さんはみな「100%信じてます!」という姿勢をとる。だけど、そんなこともともと出来ないもんだから苦しくなる。で、それから逃れるために反動で対極に飛んでいって「もう100%信じられない、無神論に転向した」という人も出る。教会に通っていた人が、ある日突然行かなくなる、というのは大体これだ。

筆者が牧師なら、「各々五分五分からスタートして、各自のペースで比率を上げることを勧めます」とメッセージ(説教)するね。そしてその代わりにと言っていいかどうかはわからないが、説教の冒頭と終わりにこういう言葉を投げかけるね。冒頭には「こんにちわ、人間死んで終わりじゃないからね」、終わりには「では皆さん、人間死んで終わりじゃないからね、また来週、さようなら」と。

 
 
 

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7.無常観は自価意識を削ぐ

2018年10月23日 | 鬱を打破する聖書の論理

 
前回、躁気分、鬱気分の分かれ目には自価意識(セルフバリュー意識)が決定要因として横たわっていそうだという仮説を示した。自価意識とは「自分は存在する価値あり」という意識だ。この価値という概念には注目すべき特性がある。

価値というものは手に取って眺めたり食べたりできるものではない。これは何かに対して抱く「大切、意味ある」といった感情を理念化したものだ。それをものにくっついている「重り」のようなものをイメージし、それに投影させ比喩的に示した理念(概念)だ。

重りのように物的に比喩した概念をつくると、我々はそれを数量的に考えることも出来るようになる。10の価値、100の価値、億の価値といったごとくにだ。


さらに数学のマイナスの概念を適用することも出来る。するとそれを「大切な」の反対の「存在しない方がいい」という意味にも使えるようになる。たとえば「ヒトラーは生まれてこない方がよかった」という感情を持っている人は多いようだが、この場合、彼の存在価値を「負の値で」考えることも出来るようになる。「彼の価値はマイナスだ」というが如くに。

このようにして単に「存在が好ましい」という感情だけでなく、より広く、存在に関する「好悪の感情」をも価値という概念は示すことが出来る。

ただしこの便利な言葉には、援用に際して留意すべきこともある。実体は好悪の感情であることを心に保ちつつ用いることがそれだ。それを放念すると、価値の思考は空転に流れてしまう。

 

<土台が消えれば価値も消滅>
 
さて、この価値に関して重要なことがある。この感情は何らかの存在物に対して抱かれるものだ。つまり価値という意識は、存在するものの感覚に付与されるものだ。従って、付与している土台が消滅すれば自動的に消滅する。そういう宿命を持っている。

前回述べた二代目企業オウナーについていえばこうだ。社長継承を予定された彼が、自由市場経済を理想としているならば、彼は将来の自分を価値ある人物として想い描くことが出来るだろう。他者にも「自分はこんなに価値ある人間になる」と標榜することができるだろう。

ところが誰か意地悪な人物が「でもどうせ死んでおしまいでしょ」という言葉を投げかけたらどうなるか。オウナー予定者は二の句が継げられなくなるだろう。

このことは、存在が消滅したら価値も消滅する、ということを明確に示している。論理的にはそうとしかならないから、彼はギャフンとなるのだ。


 
<五感認識は無常観をもたらす>
 
そして、この自己存在はいずれ消滅するという意識は、通常人の心に強固に存在する。
なぜなら、人間は五感でしかモノを認識できない状態で生きてきているので、自己の存在も目に見える肉体をベースにして考える。そして人は物心ついたときから、祖父母や近隣の人などが死んでいなくなり二度と現れないことを、繰り返し経験認識してきている。

その結果、「人はいずれ死んでいなくなるもの」という知識は強固になっているのだ。生来のままでは人の意識はそこから容易に逃れられない状況にある。

 
 
 
<諸君は「死の奴隷」なのだよ>
 
それでいて、人は、消滅しないセルフバリュー意識を持ちたいと切望している。だからベースとしての自己存在の永続を、同時に本能的に願望してもいるのだ。

だが生来のままなら、人間は死んでおしまいと思わざるを得ない。
永続意識を願うが、現実にはそれは希薄なものにしかなりえない。

この状態を聖書は「死の奴隷」といっている。イエスの言葉だ。人が必然的に「死の恐怖」に繋がれて生きるざるを得くなっている実情を彼はズバリ指摘しているのだ。
 

 
 
<鬱の苦痛を遠ざけたくて>

つまり人は生来のままなら~永続意識希薄感の故に~セルフバリュー意識欠乏症、すなわちうつ心理に陥っていくようになっているのだ。
そうしたなかで人は賭け事や刹那的快楽に没頭して鬱心理を忘れ去ろうとする。スポーツ応援似感動やタレントのファンクラブにおける熱狂のなか~多くは無自覚のうちに~鬱の苦しみを遠ざけようとする。

あるいは、社会的価値や自己目標(いわゆる「夢!」)に自分を関係づけて「かりそめの」セルフバリュー感を得て生きようとする。

   
 
<民族主義もセルフバリュー渇望から>

社会的価値とは自分を含む人間集団、家族、所属学校、所属企業、民族、民族国家、人類社会などに感じる価値である。
たとえば日本という国に価値を認め、自分をその国民として価値を分与し、はかない誇りを抱く。

そしてにこの「価値ある民族国家の一員」という自覚は、その意識を初めて抱くものには強烈なセルフバリュー感を提供する。それ故にまたこの心理は、依存症(中毒)を引き起こしやすい。一旦、大衆にこれが広がると、国は民族主義的熱狂に驀進することになる。
 
+++
 
するとこれを利用して政治権力を握ろうとしたり、既存の統率力を強固にしようとする人間が現れる。
権力維持、強化手段には他民族との戦争をするのがすぐれて有効だ。永続意識飢餓感は、こうした好戦的空気を民族国家に造成したりもする。第二次大戦以前の列強先進国の侵略戦争はこの熱狂が形をとった事象に過ぎない。

個人ベースで見ると、現在庶民に急上昇している借金地獄もこれを遠因とするところが大きい。庶民はセルフバリュー希薄感を忘れるために、小銭を借りて余計なものを買う心理状態に引き込まれやすい。
小銭借金が積み重なっての返済地獄は、日本にはとても顕著である。「死の奴隷」心理がもたらす深遠な悲劇は、他にも広範囲に及んでいる。おいおい述べていく。


<無常意識の深い風土>

ちなみに島国日本では、無常観の気風が優れて深い。異民族に征服され蹂躙される歴史を持たずに済んできているからだろう。比較的しみじみと「人の行く末」を思い味わうことが出来てきたからだろう。

だがそれは、まあ、ちょっとした特徴であって「人は死んでおしまい」という意識は人類に普遍的なものである。





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6.自価意識とセルフバリュー

2018年10月22日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

日常的常識感覚で鬱心理をもう少し追ってみよう。身近な事例を追体験をしながら考えてみよう。
 
 
<子に死なれるのが一番辛い>
 
昔のことだが筆者は実母の死を目の前にしたとき、気が遠くなって倒れた。以後世に言う「喪失感」が長いこと心に留まった。それは紛れもなく深い鬱でもあった。

倒れた私を介抱してくれた叔母がささやいた。「しっかりしなさい、母親の死は悲しいが、自分の子に死なれたらもっと辛いからね」
叔母は、ある日突然、成人していた長男を事故でなくしていた。筆者は、母の死よりもっと辛いことが起きうるのかと、人生が怖くなった。
 
実母は生前、十代半ばのいとしい娘を病で亡くしていた。筆者の少年時代に、その時の苦しみを話してくれていた。飲食物が飲み込めなくなった。意志の力でやっと飲み込んで食道に入った、といっていた。

食欲は人間の基底欲求だ。その発露さえも押さえ込んでしまうような苦しみはどうして生じるか。筆者はその構造を次のように追体験した。

 

人は我が子を深く愛するように造られている。その愛は従来体験してきたいかなる愛よりも深い。
親はその子に尽くすことが自分の最高に価値ある行為だという心理に自然になっていく。その子によって、自分の存在価値のほとんどが得られている心理状態になる。

ところがその子が死ぬと、その価値の源が突然消失する。その時、親は自らの存在価値意識を一気に失ってしまう。それが「生きよう」という肉体の本能をも希薄化させ、食物を飲み込むことも出来なくさせるのではないか。

これは人間の抱く鬱心理の極ではないか。筆者の心に、こんな仮説が浮上した。鬱心理を生成させる主要因は「自己の存在価値意識の消失」にあるようだ、と。

 
 
<二代目オウナーの苦しみ>

関連して、こんな事例も思い出した。
筆者の大学時代の親友に起きたことだ。彼は企業オウナーの息子で、父が早世していた。母親を始め親族は、彼が早く卒業して後継社長になることを待ち望んでいた。

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だが、ゼミナールでマルクス経済学専攻の指導教授を選び、共産主義社会を理想とする理念を抱いていった。

経済社会理念に自由市場社会(資本主義社会)理念と、共産社会理念がある。
自由市場主義の社会理念では、オウナー経営者は自己の富を増すだけの存在ではない。個人財産を投下するというリスクを冒し、世の中に富を増産し、雇用を増す存在と理解される。そういう理念は彼の存在価値イメージを高める。

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ところが、マルクスの思想では共産主義社会がユートピアとなる。そしてこの社会観では自由市場社会における企業オウナーは労働者の生産する労働価値を搾取する資本家となる。彼は今の自分を、将来の悪徳資本家と意識していった。
この意識は、彼の自己存在価値イメージを破壊し続けた。彼は虚無感に陥り苦んだ。まぎれもなくこれも鬱心理であった。

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彼は良家育ちの純真な青年だった。筆者は彼と旅行して夜通し語り合い、その苦しみに寄り添ったことがある。「子どもの頃に動物学者になりたかったんヤ・・・」とポツンと言っていたのを思い出す。

彼はこの社会理念問題を完全解決しないままで、関西にあった親の会社を継承した。「資本家になって儲けるんヤ」と冗談交じりに開き直って経営活動に入った。
そうした内部対立を含んだままの意識状態が彼の寿命を縮めたように思えてならない。彼は60代早々に病死した。

 
 
<躁鬱をわける自価意識>
 
こうした体験を踏まえ、かつ現実の諸相を追体験することを通して、筆者の心に躁と鬱を分ける根底的な要因が浮上してきた。「自分が存在価値あるという意識」がそれだ。短く言えば自価(じか)意識だ。

人はこの意識に満ちていることで爽快な心理状態になるのではないか。反対にそれが希薄化したり消失したりすると鬱状態に陥るのではないか。

筆者はこの認識を親しい人々に口頭で述べてみた。彼らは「図星」との賛同をくれた。
同時に一人の友人が「自価意識(じかいしき)」の名は、意味内容が認知しづらくインパクトが弱い、との見解もくれた。
セルフバリュー意識という日本語英語でいった方がわかりやすいぞ、との助言もくれた。
 
筆者は納得したが、自価意識という漢字もある程度意味がわかってくると、相応の効用を持ちそうだ。
そこでこの語も交えながら用いることにした。セルフバリュー意識の語は長いから、セルフバリューだけでそれを示すことにした。


 

 

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