前回、人間に日々の糧を与える「地上の方法」と「御国(天国)の方法」を述べた。
今回は、御国の方法が地上に及ぶ範囲を吟味しようと思う。
(重箱の隅をつつくような理屈話と思うかも知れないが、これは大事なところだ)

<天の力が地のすべてに?>
「地に天国が来た」というと、われわれは直感的に「天国の力が地のすべてに及ぶ」と思いがちだ。
だが、「地上の糧の不足分が満たされる」という解読も成り立つ。
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そこで聖句を吟味すると、後者が正しそうなことが見えてくる。
~ここでイエスは「食べものや着るものを心配するな。創造神は与えてくださる」との旨をのべる。
それは邦訳聖書(新改訳など)ではこのようになっている。

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「創造神の国(天国)をまず第一に求めなさい。そうすればこれらのものはすべて与えられます」
(マタイによる福音書、6章33節)
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(「ルカ伝」12章22節以降にもイエスの同様な言葉が収録されている)
まあ、ざっくり言えばそれもいいだろうが、邦訳文のこの「与えられます」は英文聖書ではwill be given でなく will be added となっている。

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“Seek first HIs kingdom and His righteousnesuu, and all these things will be added to you"
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よく見よう。addに「与える」という意味はないよ。それはほとんどもっぱら「加える、付け加える」だ。

<いい加減な邦訳文>
では、何を付け加えるかというと、それは英文聖書でも明言していなくて、these things となっている。だが、その「これら」は直前の文脈からすると「食べものや着るもの」しか思い当たらない。
つまり、日ごとの糧は、アッドされる、つまり、「付け加えられる」のだ、御国が来ると。
では、何が付け加えられるかというと、それは今ある糧が必要に充たない分(我慢している分)しか考えられない。
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つまり、地上の方法ですでに得ているもののうち、欠けている部分が充填されるのだ。
たとえていえば、米びつに米はあるが、それは満ち足りる程食するには足りない。するとその不足分が補填される、というがごとしだ。
同様に、冷蔵庫の野菜室でも野菜が増え、チルドルームに肉や魚が増えているだろう。
あるいは、それを買うだけの貨幣収入が、何故か増えた、ということもあろう。
英文にも漠然としたところはあるが、邦訳文が~厳しく言えば~いい加減なのだ。


<日ごとの糧は地上だけのもの>
われわれは、「天国が来た」というとそこは「(死後に救いを受けて入る)天国のような状態になる」と考えがちだ。
(そう言わないと「信仰が足りない!」と叱る牧師さんもいるし)
だが、御国の実在と地上の現実世界とは、地上では二者択一の関係にはない。
御国がきても、地上の方法がまるごと代替されることはない。
物理学的イメージでいうと、地上の実在の上に天国の波動空間が覆い重なる、という感じだ。
そしてその力が地上の「欠けている部分」に及ぶ、というイメージだ。
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考えてみよう。
天国に行くときは、人間(の例)は肉体を抜け出ているんだよ。だから、人は肉体を養わなくていい。
肉体がなければ、「祈り方」でいう日ごとの糧(食糧)は無用だ。
つまり(御国が来れば)「日常の糧は与えられます」は地上にいる人間だけに対してなされることなのだ。
地上に来た御国の波動空間と、天国そのものとが同じだとするのは、純朴すぎるのだ。

<聖書を読む意味が半減>
両者を混同しないのは、非常に大事なことだから、繰り返し述べておく。
人間は御国が来るまでは、100%地上の方法でもって糧を得て生きてきている。
糧が必要に100%充たなくても我慢して暮らしている。
そこに御国が来ると、その不足分が出現して与えられる、
具体的には、米びつに不足分の米が出現していたり、冷蔵庫の野菜室に野菜が増えていたり、チルドルームの肉や魚が増えていたりする。こういう解読が正解だ。
イエスの~
「まず、創造神の国と義を求めなさい。そうすればそれらのもの(日ごとの糧の欠けた部分を埋める分)は加えられます」
~はそれをいっている。
この聖句が不足分の補填を意味していることが、いままでのところ気付かれていない。ただ漠然と「与えられる」と解されている。
それが邦訳文に現れている。
だが、そうすると、「まさか・・・、現にそんなことどこでも起きてないよ・・・」となって、この聖句はスキップされ、無視され、放念される
。
それではいかん。
こんな風に、御子イエスの言葉をスキップしたら、聖書を読む意味は半減してしまうのだ。
