鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

5.躁と鬱および人間の気質

2018年10月21日 | 鬱を打破する聖書の論理
 
 
 
躁病、うつ病、躁鬱病>

人の気分は躁状態と鬱状態の二つに大別できるという。筆者自らの心を内省してみても、他者を追体験してもそれは事実と納得できる。そしてこれを展開した知識がすでに先駆者によって造られている。

曰く~
前者は内的な対立状態のない、いわゆる気分爽快な心理状態である。
後者は心が抑圧された感じで重々しく、心が塞いで気分が晴れやかでない。
 
+++ 
 
いわゆる心の健康な人は、この躁と鬱の二つの心理状態を適度に循環する。
だが、強い躁状態だけが単独で続くことがある。これが躁病(manic-psychosis)で、発病中は非常に気分爽快・多弁・他動となる。

筆者は看護師学校の学生からこんな話を聞いたことがある。精神病院へ実地見学にいったとき、躁病のおばあさんに話しかけられた。「あなた可愛いわね、気に入った。貯金通帳の番号教えて。一億円振り込んであげる」と。躁病はつねに爽快な夢のなかにいる。

+++

うつ病(depressive psychosiu) はその逆で、深い鬱状態が持続する。
人は本能的に爽快な気分を求めるのだが、意志を働かせても気分を躁転させられない。これがうつ病である。

+++

躁と鬱が循環はするが、その振幅が極度なケースがある。
これが躁鬱病(manic-depressive psychosis)である。
 
躁鬱病については、筆者はある知人から父親についての事例を聞いたことがある。鬱から躁に転じると、もの凄い買い物をするそうだ。一流デパートに行って高価なものをどんどん買う。後の支払いなど考えない。家族は大騒動。
 
それが終わると深い鬱に転じる。こうした循環が続くのだが、そのうち両者の状態がもの凄く深くなった。鬱の苦しみのために父親はついに自死した。
 
 
<作家に自死が多いのは>

筆者は鬱状態には相応の効用もあると認識している。
我々が五感で認知する現実には対立・矛盾を内包するものが多い。それをありのままに認識し受け入れるのは鬱心理によって可能になる。
 
作家はそうした現実を認識して人間を洞察し、描く。彼らの認識は一見ロマンチックに見えるものでも、その裏側には強いリアリズム、ニヒリズムが背中合わせになっている。

彼らは苦しみながら描いているのだ。そしてこうした精神作業を職業的に続けると、鬱への心的耐性も訓練されるが、同時に、鬱の深みに沈む度合いも深まっていく。深度の深い鬱心理が習性化し、作業中だけでなく日常にも自律的に勃発するようになると、苦痛に耐えきれず自ら命を絶とうとすることにもなる。
 
これには芥川龍之介、太宰治、有馬頼義(よりちか:直木賞作家)等々が連想される。山本周五郎は自死を図りはしなかったが、一つの作品が完了すると、編集者などを呼んでどんちゃん騒ぎの何日かを送ったという。執筆中に続けた鬱心理を躁転させようとし、それがなると次の作品に取りかかったのだろう。

 
 
<躁気質と鬱気質>
 
一般人も、躁気質の人と鬱気質の人とに分けられる、と筆者は思う。
前者は躁心理を強く好み、そういう場が大好きだ。それは鬱心理にとても弱いことにも起因する。ちょっと鬱気分になると、すぐ、人を呼んでワイワイやろうとする。

その人の顔つきは概して、目鼻口などの造作が丸っこい。肌も全体がふわふわしている感じなことが多い。昔いた大橋巨泉というテレビタレントはその代表だ。

物語の登場人物では、これも旧いが獅子文六の小説『大番』のギューちゃんなどもそれか。彼らはものごとをあまりり深くは考えない。躁心理は「楽しい、楽しい」であって、この状態では深い認識は出来ないから当然である。

対して鬱気質の人は、鬱心理への耐性が比較的強い。また、それ故もあろうが、この心理状態で事物を深く認識するのが好きだ。

顔つきは細面で長細い人が多い。前述の芥川や、堀田善衛(作家:『広場の孤独』で芥川賞)などその典型だ。宗教改革者カルバンもそうで、肖像画を見ると、キュウリのように細長い顔している。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4.マックス・ウェーバーの追体験手法

2018年10月20日 | 鬱を打破する聖書の論理

 
<自己の内的感覚がベース>
 

前回のフロイトの精神図式は、彼が脳神経系だけでなく、意識体をも視野に入れて人間心理を見ていることを示していた。そして彼は後者の「意識」に主眼を置いて心の問題を明かそうとしていく。

ではフロイトや聖書の精神理論を適用すれば、鬱心理の問題も明かされるかというとそうはいかない。理論というのはモデル(模型)ともいうのだが、これは対象のある局面を拡大してみるのに役立つメガネのようなものだ。

理論モデルを的確に使うには、それを人間心理の全体像のなかに位置づけていなければならない。そしてこの全体像をわれわれは自分の意識を内省することによって、漠然ながらも感知している。

我々は普段日常生活のなかで、そういう認識作業をやっている。その時々に自分の心を内省し、感触する。それらを一般化して、人間心理に関する種々の一般知識を得ている。全体像もまたそうやって得ている。

他者の心を知るときにも、自己の内的世界を基盤にしている。我々はそれを自分の心の場に投影させて、「自分だったらどう感じるだろうか」と思案する。自分を内省してえていた知識を手がかりにしながら推察する。
心理認識に於いては、自己の内的世界が最も確実な、第一次的な経験素材になるのだ。

鬱心理の解明に、フロイト理論を使うときにも同様だ。
理論を使うにはまず理解せねばならないが、その理解を得る場合にも、彼の言わんとしていることを自己の内的経験知識の場に持ち込むことになる。そうして自己の内にある人間知識と照応させつつそれを行うしかない。

実際のところフロイトも聖書もその理論は深淵だ。だが、自己知識がたとえ十分でなくても、それと照応させているという自覚は心に保ち続ける必要がある。その自覚を放念すると、理論を援用しているうちに、心理に関する思考は他者の造ったその理論に流されていってしまう。すると以後、表皮的で上っ面で言葉を転がすだけの運動に、思考はなってしまう。
 
 

<追体験の手法>
 

とはいえ、フロイト理論と照応させられる程に、自分の内的心理知識を洗練させていくのは容易ではない。これをなんの助けもなく各々白紙からやれ、といわれたら我々は途方に暮れる。

だが幸いなことに、その手引きを遺しておいてくれた社会経済学者がいる。マルクスと並ぶ社会科学の大物、マックス・ウェーバーがその人で、彼はほとんどストレートな内的経験感覚だけでもって人類の歴史を把握し分析した。
 
 
彼はその方法に追体験(ついたいけん)という名を付けた。歴史事象を、それに関与する人間の心理を追体験し動機の意味理解をすることによって、認識することを試みた。
そしてその手法の有用性を多大な成果でもって示した。『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』『古代文化没落論』『職業としての政治』をはじめとする諸作は読むものを圧倒するが、同時に、追体験作業の素晴らしい練習帳になってくれている。


 
<誰もが日常していること>
 
学問業績のなかで言われるといかめしいが、ウェーバーの追体験は我々生身の人間が日頃生活の中でしている心的作業だ。

我々は悲しむ人に同情するとき、その人の心に自分の心を寄り添わせて、その心理に共鳴・同化してわかろうとする。類似の内的経験をもった共鳴箱が自分の心にもあることを期待して、共鳴するのを待つ。

共鳴・同化がなったと察知すると、それを内省感触して、相手の悲しみを知る。それを日常用語で言うと「同情(情を同じくする)」となるが、追体験とはそれと同じ原理の作業である。
 
ウェーバーは、この手法を過去の歴史上の人物の心理認識に適用した。登場人物をめぐる背景の情報を収集し、自らがその中の主人公とイメージする。
彼は「シーザーを理解するのにシーザーになる必要はない」との名言を遺している。ローマ史を認識する際、ジュリアス・シーザーになったとイメージし瞑想すればよいとする。時とともに共感・同化がなっていき、その人と近似的な心理が自分の内に生成する。これを内省・感知して歴史は理解できる。彼はこの方法でウェーバー歴史学を確立した。

ウェーバーが残してくれた業績は、我々の歴史認識、人間認識の貴重な練習帳になっている。
 
 
 

<歴史小説家もやってること>
 
ウェーバーが彼の「理解の社会学」を造り上げた追体験という手法は、実は歴史小説家が常用している方法でもある。司馬遼太郎も坂本龍馬をめぐる歴史情報を収集し、そのイメージ中に自分をおいて、龍馬の心理を描いた。

歴史事象を超えて「創作した」環境情報の中における人物の心理認識も同じだ。藤沢周平も山本周五郎も、時代小説を描くに想像上の藩をイメージし、そのなかに想像上の登場人物をおいた。そして追体験手法でその心理認識をし、彼らの行動を描いた。

彼らの深い追体験に案内されて、読者は人間心情を学び、人の意志を学び、それを味わい楽しんだ。多くの人が代金を支払って、映画化された作品を見に劇場に足を運んだ。TVスポンサーはまた費用をかけて彼らの小説をドラマ化し放映した。
 
 
 
<まず追体験手法で>
 
 
鬱心理の構造をさぐるにも、まずは日常的な追体験感覚で考察に入るべきだ。誰かが造った理論を援用するにも、まずそういう準備作業があるのが好ましい。

また援用している間にも、常時、日常的「常識感覚」と照応させているべきだ。

次回には追体験的常識感覚によって、鬱心理を鳥瞰図・全体観の中に位置づけてみよう。



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3.フロイトと聖書の人間精神図式

2018年10月19日 | 鬱を打破する聖書の論理



<フロイトの精神図式>

現場経験の機会をもたないとわかり難いことなのだが、学問科学を生業にするものの世界(学界)では、洞察力の凡庸な人が圧倒的に多い。精神科学領域でも例外ではないのだがん」なかには洞察力を持った学者もいた。その20世紀での代表はフロイトだ。

彼は~凡庸者向けに~科学の体裁をとりながら、実質的に意識体(聖書では霊)を含めた心理理論を展開している。つまり、聖書における「霊」と実質的に重なる「意識」の概念〔潜在意識)を自らの心理図式に含めているのだ。
 



 
 
色々描かれているが、ここでは図の中の「知覚-意識」と「前意識的」と「無意識的」の三つだけを理解すればいい。
 
後者の二つは、要するに意識体だ。
 
それが二つの領域に分けられている。
「前意識的」(領域)とは、今日いう「顕在意識」領域だ。
「無意識的」(領域)とは「潜在意識」領域だ。
 
そして上部の「知覚-意識」は脳神経系をいっている。
神経系は、「顕在意識領域」には進入していて、その意識状態を受信して頭脳に伝達する。
だから脳にとってその意識は自覚可能(顕在的)なのだ。
 
だが、下方の「潜在意識領域」にまでには神経系は伸びておらず、その状態を受信できない。
脳はそれを自覚できないので、これは潜在意識といったほうがわかりやすい。だから時に流れの中で人々は自然に躁呼ぶようになった。
 
がとにかく彼は、人間の心理は、こういう意識体を含んでいる、と洞察していた。
 
 
 
 
 
<聖書の精神図式>
 
フロイトの示すこの意識体は、聖書の「魂と霊」にそっくり対応している。
聖書は人間の構造を~
    ボディ〔肉体)、マインド〔魂)、スピリッツ〔霊)
 ~の三要素でとらえている。(脳神経系は肉体のもつ器官に含まれる。それは脳と魂の活動を連結している)

このようにフロイトは、もともと知っていた聖書の思想を援用したのではないかと思える程だ。だからわれわれはこのフロイト図式を援用して、霊を明示した心理理論を造ることも出来る。鹿嶋の造った図を示そう。
 
 
 
 
 
ここでの「脳神経情報系」はフロイトの「知覚-意識」に対応している。「顕在意識」と「潜在意識」は彼の「前意識的」と「無意識的」にそっくり対応している。
 
なのに、「フロイト!」というと平伏し、聖書というと「ふん、宗教か!」と受け付けないのは、そのまま当人の愚かさを表明している。
 

 
 
<PCの情報処理構造に共通>
  
聖書の示唆する人間精神構造はパソコンの情報処理構造と共通した面を持っている。
PCでは、ハードディスクに情報を収納保存する。
情報の一部をRAM(ランダムアクセスメモリー:いわゆる「ラム」)に呼び出し、これをモニターが可視的にする。
人はこれを見て、キーボードで操作(作業)を加え、結果をHDに上書き保存する。
 
 
 
<霊はハードディスクのようなもの>
 
聖書の霊はハードディスクに相当する。
そこには、人間のもつ心理内容の情報が蓄積、保存されている。
 
魂は多くの作業をする。
霊(HD)から呼び出した情報を自覚受信し、これを頭脳で理解し、それに操作を加え、修正する。
そして修正された情報をふたたび霊に保存する。
(この作業の際に、感情、論理、意志が働く)
 
魂のこの機能にはPCの多くの器官が対応する。
霊から取り出した情報の場にはRAM(ランダムアクセスメモリー)が、それを自覚するのはモニターが、そしてその情報に操作を加えるのはキーボードやマウスなどが対応している。
 
 
<霊の持つ深遠な機能>

ただし聖書が示唆する霊は、PCのハードディスクを超えた働きも持っている。
例えば霊は魂の働きにも、意識の根底からの影響を与え続けている。

霊はまたそれ自体が意識体であり、かつ人の全意識の本体である。

さらに霊は、創造神から放射される「いのちエネルギー」(後に説明する)を吸収保存する、いわば充電式乾電池のような役割もする。

また霊は、肉体が循環運動をやめると(死ぬと)、それを抜け出して永続する。
そして、霊が肉体に戻ると肉体は生き返る。

霊にはこうした局面もあるが、ここではまずハードディスクと共通した働きの局面を示したのである。



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2.意識体の病なのに

2018年10月17日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 

別稿でも示したように、精神医学では鬱を脳神経系の領域のみで考え、これに西洋医薬品で対処している。
 
方法は二つで~、
① 霊の意識状態を受信する脳神経系を薬で鈍化させるもの。
    
② 向精神薬で神経を一時的に興奮させ、躁状態に向かわせるもの。
              ~となっている。
ところが①は、鬱という拷問のような心理の受信を、伝達神経を鈍化させて、ごまかすだけのものだ。
②は、依存症、中毒に直結している。ヒロポンなどと同じだからだ。
 
こういう処方は、長期的に効力がないだけでなく、危険極まりない。だが、患者は医者を信頼しないわけにいかない。戦後の日本人は無自覚な科学盲信者になってしまっている。
その結果、この方法に依存して、どんどん精神病患者になっていく。
 
鬱心理が生じる領域は神経系ではなく、聖書が「霊」と呼ぶ意識体でありそうだ。神経系はこの意識体の状態を受信して脳に送るネットワークに過ぎない可能性が大きい。
 
ところが精神医学者たちは、浅薄な科学主義に陥っていて「見えない存在」を考慮の外に置く。
 
 
 
<浅薄科学に咲いたあだ花~行動主義心理学~>
 
物理学に基礎科学があって、それを応用する応用科学が存在するように、心理学でもこういう二分野が存在する。基礎科学は心理学理論であって、その応用科学が臨床精神医学だ。
 
ところがこの心理学理論の大勢が、浅薄な科学主義に陥っている。それを絵のように現しているのが、20世紀初頭に流行った行動主義心理学だ。
 
ジョン・ワトソンという人が提唱したこの心理学は、科学だから認識対象は「五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)認知が可能」なものでなければならず、意識(心)などという見えない対象をそのまま扱ってはならない、とする。また扱わなくても人の心理は把握できると考える。

そして、意識はブラックボックス(見えない暗箱)において見ないでおく。その上で人間の行動はこの暗箱にインプットされる「刺激」とそこから結果として表れる「行動」との相関関係を見たらわかる、とした。この考えで、条件反射(犬に餌を与えるとき鐘を鳴らすことを繰り返していると、鐘を鳴らすだけで胃液が出るようになるなどの現象)の研究などをしてきた。そうやって心の動きを認識外に置いた心理学が学界で流行した。
 
+++
 
この方法は、もっともらしいが、致命的な間違いを犯している。

科学というのはルネッサンス期に出た一つの認識の手法で、それは人間が五感で認知できるものに対象を限定して認識しようという、五感主義を基本原理としている。

それまで欧州人の意識を支配してきたのはカトリック教団の世界認識手法だった。教団の高僧たちや法王は霊感が働くので、創造神の真理を知っている、と自らを信じていた。こうやって「天は地上の上を廻っている」といった天動説を強硬に守って、地動説を唱えたガリレオを罰した。

ところが近代になると地動説の方が正しいことがわかってきた。それにつれてカトリック教団のように、五感で確かめられない事柄を含めて世界を認識するのはもうやめようという人々が出た。その彼らが始めたのが科学という認識手法だった。
 
だが、五感主義というのは端的な表現であって、その真意は「人間が経験認知できる要素に説明要因を限定する」というものである。そして人には五感経験以外にも経験認知できることがある。それは自分の心の内部を感触して得られる「内的経験」だ。
 
 
 
ところがワトソンは「経験的なもの」とは五感的なもの、すなわち「物的なもの」だと短絡した。彼は単純にも、内的な心の経験を見逃して行動主義心理学をつくった。そして、これが学界で流行してしまった。その結果、「心」を扱わない心理学の思想が学界で主流になってしまったのだ。
  
現代精神医学は、この心理学の影響下にありながら迷走している。
だが、そのことを指摘しているだけではもう足りない。
この迷走は日本民族のためにも、もう放置しておかれないのだ。
人間意識の構造に正面から取り組まねばならないのだ。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1.誰も手がけてない課題

2018年10月14日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 

長いことこの「鹿嶋春平太チャーチ」の更新が滞ってきた。怠けていたわけではない。あるテーマ、誰も手がけていない課題に取り組み、見えてきたものを文章にする試みを続けてきた。

だが、出来たと思うとまもなく不備がみつかり、またやり直すことを繰り返しなかなかゴールに至れない。そこでもう、完成してから連載を始めるのを諦めることにした。冒頭から出来たものをアップすることにした。

題名は『鬱を打破する聖書の論理』。鬱心理については、これまでも書いてきた。これまでの文章と重複するところも出るかも知れない。途中でまた不備が見つかったり、掲載に値するものが無くなって、更新停止になるかも知れない。が、とにかく始めることにした。



<加藤和彦の死>
 
年配の人ならフォーククルセダーズというフォークソングのグループを覚えているだろう。「帰ってきた酔っ払い」が大ヒットし、加藤和彦、北山修、はしだのりひこ、の三人で1年間テレビなどマスメディアに出ずっぱりだった。しかも一年たったらさっさと解散し、その後の音楽グループ解散の走りとなった。

その後、はしだは「はしだのりひことシューベルツ」という新グループを結成して歌手を続けた。北山は京都府立医大の学生にもどり、大学院卒業後精神科のクリニックを東京青山で開業したが、あるとき九州大学にスカウトされて医学部の教育研究者になった。加藤は作曲を中心とした仕事を続けた。

そうしているうちに加藤はトヨタ自動車のコロナという車のCMに出演することになった。CMは、彼をメインキャラクターとして合計五人が登場するもので、他のメンバーは松山猛(エッセイスト)、秋山育(イラストレーター)、ジミー・ネルソン(雑誌編集者)それに筆者(肥田日出生・・・本名)であった。

クルマのブランドは、新モデルで4年間続け、4年たつとモデルチェンジしてまた新しいモデルに衣替えするというサイクルで展開する。そんなわけで、筆者は加藤とも4年間仕事での付き合いが続き、それを契機にときたま交信する知り合いになった。

奥さんはヒットメーカー作詞家の安井かずみで、彼は彼女の書いた詞に曲を付けたり、ミュージカルや歌舞伎の作曲をしたりしていた。才能豊かで、振る舞いも軽やか、世の中スイスイと楽しんで生きていくと行った感の、人もうらやむ壮年者だった。

その彼が後にうつ病で苦しみ始めた。九大の精神科教授になっていた北山も、彼を救うことが出来なかった。加藤は自死した。筆者は衝撃を受け、鬱という心理がもたらす苦しみに得体の知れないものを感じ、以来それを考え続けた。
 
そして最近また、近しい人がうつ病によるって自死するという悲劇に遭遇した。ここに至って、筆者は鬱心理に関して考究してきたものを文字にせねば、という強い衝動に駆られた。
 
+++
 
うつ病に関しては、根本的な誤解が医学界に蔓延している。
精神医学者は科学の認識論を表皮的にうけとって、鬱心理の真因を見逃している。
見逃しているだけでなく、的外れな薬剤治療を施すことによって、多くの人をその犠牲にしている。
 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする