
『稲盛「哲学」と聖書の思想』は、前回で一旦のおしまいですが、ひとつ補論をしておいたほうがいいことに気づきました。
これまでの話から、稲盛さんは聖書の思想にかなり近い思想をお持ちであることがわかってきました。
だが、これは稲盛哲学の側から寄せていった場合の印象です。
逆に、聖書の立場から考えを進めてみると、次のことが浮上するように思います。

<「救い」には「名」がいる>
それは聖書の教えの究極のテーマである「救い」と稲盛思想との関係です。
「救い」とは、最後の審判の時、人の霊がもつ「罪」が無いものと見なされて(許されて)、
天の創主王国に入れる資格を得ることをいいます。
この資格を得るという意味での「救い」を受ける条件として、
聖書には次の聖句があります。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、わたしがちが救われるべき名としては、
どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒行伝、4章12節)
この御名とはイエスという「名」のことです。
思想・哲学として、論理として、聖書に近いものを抱いていても、
イエスという「名」のもつ力への信頼がないと、詰まるところは「救い」は
得られないよ~~と、この聖句はいっています。

<多くの信徒は聖句への「信頼」によって>
聖書のメッセージには、イエスの「名」とその力に関する深い論理が
込められています。
それを知るには「そもそも「名」とはいかなるものか」から認識論的に
理解していかねばなりません。
そういう理解に至っているクリスチャンは、決して多くはありません。
だが、多くの人はそこはもう聖句を「信頼」しよう、ということで
イエスの名を抱きます。
それで救いは得られるのです。
稲盛哲学には、創造主が存在するという確信はあります。
稲盛さんのいわれる「神様」は、いわゆる八百万の神々ではなく、宇宙万物を創った創造主です。
しかも、その神様に毎朝語りかけておられます。
朝起きて鏡の前に立つと、昨日一日神様の道(天の道)に反したことがないか、と振り返られるそうです。
傲慢な思いや行為はなかったか、利他の心を失うときはなかったか、などと。
そして、思い当たると「神様ごめんなさい」と口にされるという。
この少年のような素直さにも驚嘆しますが、このようにして毎朝創造主を意識に昇らせることについてみれば、
並のクリスチャン以上、と思うほかありません。
そのような稲盛さんですが、イエスの「名」にかんする認識はといえば、それはありません。
ですから聖書における「救い」というゴールに至っておられるかどうか、ということになれば、
“聖書の論理では”到達してはおられないということになるでしょう。

<反発心があるからではない>
けれども、それは稲盛さんの意識に、聖書思想に対する反発心がある
からではないと鹿嶋は思います。
逆に、この思想を無理なく受け入れられる精神状態をお持ちだと、
鹿嶋は確信しています。
現状の理由は次のところにあるだけ、と思います。
すなわち、稲盛さんは若い日から経営の現場で多くの問題を解決せねば
ならない立場にたち続けられたこと。そしていまも、後進の指導を含めてそれに集中しておられることが一つです。
もう一つは、イエスの名を含む聖書の論理を、忙しい中でも読んで
理解できる簡明な解説書がないことでしょう。
そうした壁が取り払われたならば、稲盛さんは、他の有名人たちと違って、
聖書の思想をスムースに受容されると思います。
そして、それは現状の稲盛哲学と組み合わさって、さらに広大なスケールの
経営実践の知恵にも結実していくと確信しています。
