
ヨハネ伝の14章から17章までのところは、ヨハネ伝のエッセンスです。
イエスが十字架刑にかかって弟子たちの眼前から一旦姿を消すにあたって、
教えの神髄を、もはや“たとえ”を使うこともなく
イエスが言い残す言葉で埋められています。
これを記録するのは側近のヨハネだけにできたことです。
この『ヨハネ伝』を「聖書の中の聖書」という人々が、
後世に出現するのはそれによるのです。

この話は、あまりに深いです。
これを理解するには、背景知識がいります。
それはこのヨハネ伝6章63節に込められています。
本日はそのため、これを対象聖句として復活させ、
そこに込められた奥義を探求してみることにしましょう。
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=聖句=


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「言葉が霊である」とは、どういうことでしょうか。
これを人間の認識構造から考えてみましょう。
俳句を例に出してみます。

我々日本人は俳句という芸術をもっています。いまその一作品~
「寒鯉や、少し離れて、父と母」
~について考えましょう。
俳句は5・7・5の音節からなる短い言葉によってできています。
この言葉は、読むものに信号を発信します。
その言葉を受信して、読者である我々の内には
まず一定のイメージ(意識)の断片群ができます。
(イメージというのは言葉にて表すことのできるものです。
ですからそれは断片になります)
これら断片を言葉で表しますと
「寒鯉」と「父と母」と「少し離れたところにいる」という
イメージ断片の3つです。
この一群はセットになって、読者の心に直接一定の意識を形成します。
(以下、イメージ断片のセットを「イメージセットと」、呼びます)
だが、読者の内に出来上がる意識はそれだけではないようです。
読者の心の内には時として
~~この一群のイメージ要素を契機として、
寒鯉のゆっくりと泳いでいる池、周囲の木々、池の周囲にたたずむ両親、
少し離れてみると知らないうちに年老いていた作者の両親、
これからいつまで共にこの世におられるだろうかという愛惜感
~~などを含む、全体的実体感を感覚します。
この実体感覚は、あたかもイメージセットに囲まれた内側に
心の底の方から浮上するかのごとくに生成してきます。

<視覚的に>
この意識構造を、今少し視覚的に表現してみましょう。
左手に握り拳をつくって下から上に突き上げるようにしてください。
次に、右手を半開きにし、上から左手の拳を握るようにしてかぶせてください。
帽子のようにかぶせるわけです。
この右手指の節々や指の先に、イメージ断片が配置されていると
視覚的に想像します。
これがイメージセットです。
次いで、左手の拳を右手の帽子から外して、下方におろしてください。
この時の右手の状態が、意識にイメージセットはあるが、
全体的な実体感覚は無い状況を示しています。
次に左手の握り拳を徐々に右手でつくった帽子の内側に向けて
あげていってください。
これが実体感覚が心に徐々に浮上する状態です。
そして、ついに、左の拳が右手の帽子の中に入ります。
これが実体感覚が心に生成した状況です。

俳句というのは、こうして生成する「握り拳」のような実体感覚を
基盤にしてなっている芸術と思われます。
認識論的にはそうですが、日本人は認識論などの理屈は意識しなくても、
昔から生活の中で実践としてそれをしてきているのですね。
この実体感覚は意識の深奥で心に浸み入ります。
私たちはこれによって奥深いものに同化した時に感じられる快い充実感を得ます。
この感覚は深い満足感を生みます。
そのために我々は俳句というジャンルの活動を愛好し、
芸術として容認しているのです。
哲学者ベルグソンは、この実体感は雰囲気としてしか
感得されないものであるが、それこそが実在の認識なのだ、
と述べています。
(ついでにいいますと、いわゆる洞察力・インサイトというのは
この実体感覚を心に生成させる能力のことです)

<物的実体は眼前になくとも>
さてここで、作者と読者のと意識状態の関係を考えてみましょう。
作者の方では、まずこの実体感覚の契機になる物的実体が、
先に眼前にあります。そして実体感覚がわき上がる。
次に、それを言葉というイメージ断片に定着させています。
俳句という芸術は、5・7・5という少ない音節の言葉しか許しません。
作者は、頭脳に浮かんだイメージ断片の中から、選び抜いて
「寒鯉」「少し離れて」「父と母」という三つを残しています。
それらの順序を決めて俳句の形式に納めて創作は完了します。

読者の方ではどうでしょうか。
読者にはこの俳句の作者が目の前にしている物的実体はありません。
まず、作者が提示する言葉が形成するイメージ断片のセットが
脳内に形成されます。
次にそれを契機にして、実体感覚が意識に生成するのです。
生成する実体感覚は、作者のものと全く同一ということはありません。
だが、近似的なものは生成する。人間の精神はそういう風に造られています。
だから、他者の心を追体験してその「動機を意味理解する」ということが
人間にはできるのです。

言葉によるイメージ断片のセットさえあれば、
それを契機にして作者と近似的な実体感覚が生成する。
これを言い換えれば、物的実体に直面しなくても
~言葉によるイメージセットからであっても~
実体を目の前にしたのと同質のリアリティ感覚で
人の心には、実体感覚は生成する、ということです。
そしてそれは単なる光景でもなく、妄想でもありません。
この意識は時として物的実体の光景を目の前にする時以上に
臨場感と重さをもちえます。
禅問答を連想する人もいましょうが、
人はこうした認識能力を与えられているのです。
人間の想像力というのは、そこまでの力を持っているのです。
(なお、この想像の力を明示したのは哲学者コリン・ウィルソンです。
かれは心理学者マスローの有名な「至高体験」という心理状態を探求していて
そのことを見出しました。
マスロー自身もウイルソンの発見を認めています。
また、人間のこういう認識構造を、哲学の認識論として示したのは
哲学者・ベルグソンです。
かれは物的実体が眼前にあるかないかをあえて区別することなく、
雰囲気としての実体感覚を論じていますが、鹿嶋がいま述べた想像力を
当然の前提として論を進めています)

イエスは、自らの言葉を契機として、
そういう実体感覚が弟子たちの心の内に浮上することを期待して
本日の聖句を述べているのです。
その実体感覚をイエスは「霊」といっています。
この言葉と実体感覚との関係、そしてこの感覚と霊との関係については、
もう少し考えることがあります。
だが、長くなりますので次回にしましょう。
