聖書活動の究極の目的は、永続者である「父・子・聖霊」(イエス)を感じられるようになることでした。
これを確信させるもう一つの事例を今回はご紹介しましょう。
「ありがとうおじさん」がそれです。
聖句は今回も同じです。
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=聖句=
「わたしの言葉は霊であり、またいのちです」(ヨハネによる福音書、6章63節)
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滋賀県の山の中に「ありがとうおじさん」と呼ばれる人が住んでいます。
最近、この方のお話の録音を聞く機会がありました。
この方は、神様に「ありがとうございます」と何遍も繰り返して生きている方です。
一日に10万回繰り返すといいます。
そうしていたら、睡眠時間は3時間ほどで十分だ。
食事も、一食で十分だ、といいます。
そして残りの時間は、ただ「ありがとうございます」を繰り返して生きているのです。
聞くところでは~~
そういうおじさんの滋賀県の山中の住居を訪問し、共にありがとうをとなえて、
がん細胞が消滅した人がたくさんいる、ということです。
重病で臨終近い人に、ありがとおじさんの写真を持って行ってみせたら、
回復し今は元気という人もいる、という。
そうしたはなしがだんだんと伝わって、山中の小屋に人が来るようになった。
そこで午後の1時間ほど、訪問者との問答に割くようになっている。
でも、あとは「ありがとうございます」を唱えている。
おじさん自身も、ありがとうを唱えているときが一番楽しいということです。
おじさんは「ありがとうございます」という対象のかみさまは、
天照大神(あまてらすおおみかみ)だといいます。
この神様は、無限者で、万物を創造された方で、全知全能で人間の幸せを願う方だという。
この方に意識を向けて、「ありがとうございます」というのが人間の究極の知恵だというのです。
なぜか?
ありがとうを唱えていると「この神様が感じられて」くる。
これが肝要だ。言葉ではない、感じることが神様と交わることであって、これがゴールだというのです。
なぜか?
神様は、人間に与えよう、与えようとなさる方だ。
そしてその人に何が必要かを、一番よく知っている方だ。
そのひと以上に知っている。
だからその人が、自分に必要なものを「自分の頭で考えて」見出すよりも、神様の判断の方が正確だ。
自分で考えたことを願うよりも、「ありがとうございます」といっていた方が正確だ。
また、そのほうが「しんどく」なくて楽でもある。
努力して考え出したい人は、そうするのもいいだろう。
だが、自分は楽な方がいいから、ただ「ありがとうございます」を
唱えるだけでいくんだ、といいます。
おじさんは「いろいろ言葉で考える」ということはよくない、といいます。
その言葉に人間はとらわれていくからだ。
ただ「ありがとうございます」といっているのが一番いい。
大切なことは、神様に「ついて考える」ことではなく、「感じること」だという。
その感じられるようになるには「ありがとうございます」を唱えているのが
一番有効な方法だ~というのです。
<聖書との関係>
ありがとうおじさんと聖書との関係を考えてみましょう。
聖書では、信頼(信仰)は「聞くこと」から始めよといいますよね。
聞くのは言葉です。
対して、ありがとうおじさんは、言葉は邪魔になるからパスしてただ
「ありがとうございます」を何万回も唱えよ、といいます。
これは完全に相反する教えのようにも見えます。
だが、実際にはそうではないのです。
聖書でも究極のゴールは、無限なるゴッドを「感じる」ところにあるのです。
ただ、そこにいたるに「ゴッドについての言葉を聞くことから始めて」それを経て至れといいます。
<言葉を経由する利点と欠点>
聖書のプロセスはどういう利点・欠点をもたらすかを考えてみましょう。
利点は、一旦ゴッドを感じられるにいたったら、その状態が持続力を持つことです。
言葉は組み合わさって理屈(理論)を造ります。
理論は人の意識に枠組みを与えます。
そしてこの枠組みは、意識が発散し蒸発していくのを防止する働きを持ちます。
欠点はどうか?
そうした言葉が、ゴッドを感知するのに障害になる面をももっているということです。
人間は、感じられるようになる前に、考えのなかで堂々巡りする性向を持っています。
考えるとは、さらに言葉を追加していくことです。
すると、その言葉を追っている内に、人は究極のゴールであるゴッドの感知を
意識から放念してしまう迷路にも入って行きうる。
よほどゴールを自分に言い聞かせていないと、そうなりやすいのです。
このようにして、言葉はゴッド感受の障害になりえます。
そういう危険を避ける一つの方法は、もう、言葉などを通さないでやるやりかたです。
そして直接ゴッド感知の感性を開こうとするのです。
そのもっとも効率のいい方法が、「ありがとうございます」を唱え続けることだ
~~これがありがとうおじさんの発見だったのです。
(キリスト教派の「クェーカー」も言葉をバイパスするという点では
類似の認識論を採っています)
<日本人に適合するのは>
ありがとうおじさんの方法は、最近多くの日本人に歓迎されるようになってきています。
それが日本人の心理に適合するからでしょう。
どうして適合するのでしょうか?
日本には歴史的に、ゴッドに関して「言葉で適切に説明する教典、納得できるように説明する資料」が無かったからではないでしょうか。
ないから、直にゴッドを感知しようという行為にいく~~これは自然な心情ではないでしょうか。
ここに聖書民族との大きな状況の違いがあります。
聖書のある民族は、子供の頃から、ゴッドに関する言葉を学びます。
キリスト教圏では、教会の日曜学校で子供たちはその言葉に自然に触れ、学び慣れていきます。
そして、それを解して、ゴッドを感受する姿勢も学びます。
かくして「聞くことから始めて」ゴッド感受にいたる手法に、自然に慣れていくのです。
日本人はそういう方法に慣れていません。
だから、言葉が出てくると、その理屈の中にとらわれていきます。
ゴッド感知というゴールを放念してしまう傾向が大きいです。
だから、ありがとうおじさんの方法が適合するようになるのですね。
<天神大神とするのも>
ありがとうおじさんは、神様は「天神大神だ」と称しています。
その名の方が日本人の心情に抵抗が少ない。
これも、日本人の慣れとつながっています。
だがおじさんは、天神大神と称しておいて、「この神様はすべてを創造した方。
無限者。全知全能者。宇宙の究極の統治者。人間の幸せを切望する方」
~~等々といいます。
これ、聖書のゴッドと同じであります。
天神大神は、元来はそういう概念の方ではありません。
いってみれば、太陽の擬人化された方で、女神ですよ。
ところが、ありがとうおじさんにおいては、ほとんど聖書のゴッドそのものになっています。
おじさんは、密かに聖書を読んだのでしょうか。
あるいは、万物の創造主を感受する気質をもって生まれてこられたのでしょうか。
ありがとうを唱えている内に、そういう方がいることを悟っていかれたのでしょうか。
鹿嶋にはそれはわかりません。
でも、ありがとうおじさんのしておられることは、実質、聖書のゴッドを
感受することに他ならないのです。
ありがとうおじさんには、癒しの力も現れて、以前には病の癒しもしていたという。
だが結局、癒してあげてもだめだ、とわかったそうです。
その人の意識が「ありがとう」にならないと、また、病気になってやってくる。
そこで、いまは「ありがとうございます」を繰り返すことだけを教えているそうです。
自らを神様と共鳴させ、病気にならない心身にすることを訪問者に教えている、
といいます。
<日本人の聖書感得に応用できないか>
ありがとうおじさんを聖書の論理の中に位置づけてみます。
するとおじさんは、「こういう方法で、聖書の言葉が真理であることを証明している」、
と解することもできそうです。
この方法を、日本人の聖書信頼に役立てることはできないでしょうか。
たとえば「父・子・聖霊様ありがとうございます」と繰り返します。
一日1万回繰り返します。
これは日本のキリスト者が迷路で堂々巡りしないために、有効な方法とならないかな。
サントリー創業者の鳥井信治郎さんなら、「やってみなはれ、やってみなわからしまへんで」というところか。
皆さん、どう思われますか?