(写真はスイス、ジュネーブの「カルヴァン通り」の標識。
宗教改革運動の拠点・ジュネーブ教会にカルヴァンはこの道路を歩いて通った)
鹿嶋春平太です。
皆さん、梅雨の季節の中でも、元気にしておられますか?
力に充たされて生きましょう。これから活躍するイエスの弟子たちのように。
本日も同じ「最後の晩餐の場面」ですが、少し先に進みます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「わたしはあなた方を孤児のようにはしません。(私は去って行きますが)、
またあなた方のところに帰ってきます。
しばらくしたら、世は私を見なくなります。
だが、諸君は私を見ます。
そして、私が生きている(と知る)が故に、諸君も生きるでしょう」
(14章18~9節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
14章の18節、19節では、イエスは自らの十字架死と復活を預言しています。
18節では、復活をそのものズバリで預言しています。
「わたしはあなた方を孤児のようにはしません。
(私は去って行きますが)、またあなた方のところに帰ってきます」(14章18節)
今、私たちには新約聖書があります。だから、それが具体的に何を指しているかわかります。
しかし、弟子たちには、この時点では、何を指していっているか、
よくわからなかったのではないでしょうか。「先生、何言ってるの?」と。
<難解なところは優しく繰り返す>
イエスには、それは承知なのでしょう。
次いで、イエスは同じ内容のことを繰り返します。
「しばらくしたら、世は私を見なくなります。だが、諸君は私を見ます」(19節)。
18節と19節とはいってることの中身は同じです。
だが18節では、イエスは「自分の視点から」自分の十字架死と復活を
述べています。ですけど、弟子たちにはぴんと来ません。
それを承知のイエスは、こんどは同じことを聞き手である弟子たちの視点から
表現してあげている。これが19節です。
この優しさ、入念さには春平太は感銘を受けます。
なかなかこういう風に人を教えることは出来ないと、体験上思うものですから。
<私が生きてると知ったら生きられるからね・・>
次いでイエスはいっています。
「そして、私が生きている(と知る)が故に、諸君も生きるでしょう」(19節)
その前の「世は私を見なくなります」の「世」は、先回の「聖書の空間理念図」
で示しましたところの「天に対する世」です。これはもう「この世的に」考えます。
「彼はたしかに十字架上で息絶えた。みんなそれを見ている。
念のために、兵士がイエスの脇腹を槍で刺したではないか。間違いなく死んでいた。
彼が復活して現れたって? 冗談じゃない、単なる幻を見たのでしょう。
そういう現象はまま現れるものだよ・・・」と。
「世」の人間からすると、どうであろうと「イエスは死んでもういない」ということになるのですね。
しかし弟子たちにはイエスは告げていきます。諸君はそれが間違いなく「復活した私だ」と認知するだろう、と。
なぜなら、弟子たちは、前もってそういうことが起きると聞いているのだから。
「ああ、あのとき言われていたことが起きているのだ」と。
(そのためにイエスはいま、前もっての予告をしているのですね)
するとどうなるか?
弟子たちは、「イエスは生きておられるんだ!」と、体験上知ります。
人は体験したら確信します。その結果、イエスが今も生きておられるから、
自分たちもイエスが地上にいたときと同じように生きていい、
生きるべきだと、思うことが出来るようになる、というのです。
そういうことを、まもなく拷問を受けるということがわかっている状況で、
イエスは静かに愛情込めてインストラクションしています。
驚くべきことではないでしょうか。
感動的でないでしょうか。
実際イエスは復活して、弟子たちの肉眼に見えるようにして現れます。
こうしたことを通して弟子たちの心の内には時と共に、
イエスが教えていったこと全体への確信も生まれていきます。
だから、それらを証言しつつ宣べ伝えることになるのですね。
こうしたことを聖書で読める状況にある、現代の信頼者たちもまた
「イエスは永続者であって、今も生きている」という確信を持つことが出来ます。
単に、「あのとき復活した」というだけではなくですね。
ならば、現代の信頼者たちもみな、
「イエスが生きているから、自分たちも生きよう」という元気を得ることが出来るでしょう。
肉体を持って生きるこの世での人生には、苦難が多いです。
だが、最低線のところでこの「イエスが生きているのだから・・」という元気を得られるという。
信頼者にとってこれはありがたいことではないでしょうか。
宗教改革運動の拠点・ジュネーブ教会にカルヴァンはこの道路を歩いて通った)
鹿嶋春平太です。
皆さん、梅雨の季節の中でも、元気にしておられますか?
力に充たされて生きましょう。これから活躍するイエスの弟子たちのように。
本日も同じ「最後の晩餐の場面」ですが、少し先に進みます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「わたしはあなた方を孤児のようにはしません。(私は去って行きますが)、
またあなた方のところに帰ってきます。
しばらくしたら、世は私を見なくなります。
だが、諸君は私を見ます。
そして、私が生きている(と知る)が故に、諸君も生きるでしょう」
(14章18~9節)
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14章の18節、19節では、イエスは自らの十字架死と復活を預言しています。
18節では、復活をそのものズバリで預言しています。
「わたしはあなた方を孤児のようにはしません。
(私は去って行きますが)、またあなた方のところに帰ってきます」(14章18節)
今、私たちには新約聖書があります。だから、それが具体的に何を指しているかわかります。
しかし、弟子たちには、この時点では、何を指していっているか、
よくわからなかったのではないでしょうか。「先生、何言ってるの?」と。
<難解なところは優しく繰り返す>
イエスには、それは承知なのでしょう。
次いで、イエスは同じ内容のことを繰り返します。
「しばらくしたら、世は私を見なくなります。だが、諸君は私を見ます」(19節)。
18節と19節とはいってることの中身は同じです。
だが18節では、イエスは「自分の視点から」自分の十字架死と復活を
述べています。ですけど、弟子たちにはぴんと来ません。
それを承知のイエスは、こんどは同じことを聞き手である弟子たちの視点から
表現してあげている。これが19節です。
この優しさ、入念さには春平太は感銘を受けます。
なかなかこういう風に人を教えることは出来ないと、体験上思うものですから。
<私が生きてると知ったら生きられるからね・・>
次いでイエスはいっています。
「そして、私が生きている(と知る)が故に、諸君も生きるでしょう」(19節)
その前の「世は私を見なくなります」の「世」は、先回の「聖書の空間理念図」
で示しましたところの「天に対する世」です。これはもう「この世的に」考えます。
「彼はたしかに十字架上で息絶えた。みんなそれを見ている。
念のために、兵士がイエスの脇腹を槍で刺したではないか。間違いなく死んでいた。
彼が復活して現れたって? 冗談じゃない、単なる幻を見たのでしょう。
そういう現象はまま現れるものだよ・・・」と。
「世」の人間からすると、どうであろうと「イエスは死んでもういない」ということになるのですね。
しかし弟子たちにはイエスは告げていきます。諸君はそれが間違いなく「復活した私だ」と認知するだろう、と。
なぜなら、弟子たちは、前もってそういうことが起きると聞いているのだから。
「ああ、あのとき言われていたことが起きているのだ」と。
(そのためにイエスはいま、前もっての予告をしているのですね)
するとどうなるか?
弟子たちは、「イエスは生きておられるんだ!」と、体験上知ります。
人は体験したら確信します。その結果、イエスが今も生きておられるから、
自分たちもイエスが地上にいたときと同じように生きていい、
生きるべきだと、思うことが出来るようになる、というのです。
そういうことを、まもなく拷問を受けるということがわかっている状況で、
イエスは静かに愛情込めてインストラクションしています。
驚くべきことではないでしょうか。
感動的でないでしょうか。
実際イエスは復活して、弟子たちの肉眼に見えるようにして現れます。
こうしたことを通して弟子たちの心の内には時と共に、
イエスが教えていったこと全体への確信も生まれていきます。
だから、それらを証言しつつ宣べ伝えることになるのですね。
こうしたことを聖書で読める状況にある、現代の信頼者たちもまた
「イエスは永続者であって、今も生きている」という確信を持つことが出来ます。
単に、「あのとき復活した」というだけではなくですね。
ならば、現代の信頼者たちもみな、
「イエスが生きているから、自分たちも生きよう」という元気を得ることが出来るでしょう。
肉体を持って生きるこの世での人生には、苦難が多いです。
だが、最低線のところでこの「イエスが生きているのだから・・」という元気を得られるという。
信頼者にとってこれはありがたいことではないでしょうか。