鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.241『もう「世の君主(悪魔)」がやってくるよ』(14章30節)

2008年09月19日 | ヨハネ伝解読
今回の聖句はこれです。 

                    
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=聖句=

 「私はこれ以上長く諸君に話しておられないよ。この世の君(支配者)が来るからだ。
彼(悪魔)は私に対しては何の力もないのだが・・・」(30節)
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14章30節でイエスは、悪魔がこの世の君主(支配者)であることを明言しています。
この世はそういうものだ、というのが聖書論理の大前提で、物語の舞台設定です。
この世は、いうなれば悪魔と彼に従う悪霊たちを閉じこめた牢屋、という位置づけなのです。

そして、悪魔は、そこの牢名主なんですね。
だから、牢屋内であるこの世に対する支配権を基本的に持っています。


                    


そういう中に創った、天国の模型のような空間がエデンの園です。
創主はそこに創主と霊的に交信する霊を入れたアダムをおいて、暮らさせました。
愛するイブ(エバ)も創ってあげました。
彼らは、創主からの戒めを守って、創主と100%交信して、罪なき状態で暮らしていました。
罪というのは、創造主と霊的に交信しない状態をいいます。


                    



ところがエデンは所詮、悪魔を閉じ込めた牢屋の中にあります。
悪魔は易々と進入し、イブを騙して創主からの戒めに従わなくさせてしまいました。
アダムもイブに従って戒めを破ってしまいました。
こうしてアダムの霊に罪が入りました。

二人はエデンの園を出なければならなくなりました。
罪ある存在は、天国の模型であるエデンに留まることは出来ないのが道理です。

                    


聖書には、霊的資質は男性を通して遺伝する、という論理があります。
そこで以後人類は、罪ある存在として生まれるようになりました。

エデンの外は、悪魔とそれに従う悪霊を閉じ込めた牢屋です。
罪あるものとなった人類は、罪ある存在の親玉、悪魔の傘下・支配下に置かれます。
そこでイエスは悪魔を「この世の君」といっているわけです。


                    


<イエスはこの世でも悪魔の傘下ではない>

そういう世(宇宙)に、イエスは創主の王国(天国)から入ってきたわけです。
マリアの胎内でもって人の姿をとって、そして生まれた。
で、イエスもこの世では悪魔の傘下にいなければならなかったか、というとそうではありません。

イエスの身体は、御言葉が肉化したものです。(ヨハネ伝、1章14節)
生理的に罪を犯すこともなく、霊的に守られて病にかかることもなく、罪なき生活を30年間送りました。
イエスは悪魔の傘下に置かれることがなかったわけです。


                    


そして、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。
そのとき、「これは私の愛する子」という声が天から聞こえ、聖霊がイエスに鳩のように降りました。

そして、聖霊によって悪魔のいる荒野に導かれていきました。
悪魔は人類と違った存在(イエス)に会って驚きます。そこで~

  「あんた創造主の子か?」

       ~と尋ねます。

「創主の子なら、石をパンに変えられるでしょう、やってごらん?」

~と確認しようとします(マタイ伝、4章3節)。

すると、イエスは~

 「『人はパンのみによって生きるのではない、創主から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」

~と御言葉で応じます。(マタイ伝、4章4節)
こうして創造主からの戒めを守る姿~30年間そうしてきた~を保つのです。

 悪魔は、イエスを宮の頂上に連れて行って、もう一度確認しようとします。

「創主の子なら、ここから飛び降りてごらん。
『創主の子なら、あなたの足が石にぶつかる前に、天使が支える』
と聖書に書いてあるでしょ?」(マタイ伝、4章6節)

悪魔も聖書の言葉は知っているのです。そして聖句をも自己の目的のために使うのです。

ところがイエスは、そういう風に使われる御言葉には従いません。

『主である創主を試みてはならない』

~という御言葉を守って動じないのです。(マタイ伝、4章6節)


                    


 「こいつは創主の子だ!」悪魔は確信します。そこで、取引に入ります。
高いところから、この世の栄華を全て見せて~

「これみんな私のものだ、でも、私にひれ伏して拝んだら、
みんなあんたのものにしてあげるよ!(私の相続者にしてあげるよ)」

~と持ちかけます。(ヨハネ伝、4章8~9節)

するとイエスは、『ただ創主のみに仕えよ』という御言葉を出して、
「サタンよ、引き下がれ!」と一喝します。

「もうかなわない・・・、取引にも応じない、この世の王である自分も、こいつにはかなわない」

~「えらいことになった・・・」悪魔はそれを悟って逃げていきます。
そして天使たちがイエスのもとにやって来て仕えます。(マタイ伝、4章11節)


                    


イエスはこの世でもそういう悪魔以上の存在です。
ですから、この世でも自らの権威でもって、病人を癒し、悪霊を追い出すわけです。
また、時には72人の弟子たちに自らの権威を与え、ある町で福音を伝導させます。(ルカ伝、10章9節)

町から帰った弟子たちは~

「先生の名(イエス)でもってすると、悪霊までが私たちに服従しました」

~と報告します。(ルカ伝、10章17節)

イエスは「あったりまえだろ? 私が荒野で一喝したとき、悪魔は私に敗北したのだから・・」といいます。

「私がサタンが電光のように天から落ちるのをみた」(ルカ伝、10章18節)

~というのは、その意味ではないかと思われます。


                   

 こうしてイエスの権威が燦然と輝く一方で、今やそれを知った悪魔は
イエスとの対決を避けつつ、ひそかに傘下の悪霊と人類に君臨している。
これがこの「最後の晩餐」当時の世の状況ということになります。
今回の聖句の最後

「彼(悪魔)は私に対しては何の力もないのだが・・・」

~も、その背景で理解できるものです。


                    





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