22日から26日まで、中国・大連に出張のためしばらくご無沙汰しました。
大連はアカシアの都市ですが、白い花が咲くのは五月の中旬。緑の葉が出るのが4月の後半で、
今は枝ばかりの冬のアカシア大連でした。昼の気温は5度前後でした。日本の1月2月ですね。
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日露戦争に勝利しての1907年以来、1945年の敗戦まで、日本の租借地、つまり、ほぼニッポン国でしたので、
至る所に日本帝国統治時代のものが残っています。旧満鉄本社も大連にありました。
日本のお偉方たちが泊まった旧やまと旅館(ホテル)もそのままの状態で、ホテルとして営業していました。
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さて、最後の晩餐におけるイエスの遺言を追うことを続けましょう。
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=聖句=
「私の内にとどまっていないものは誰でも、(切り取られた)枝のように外に投げ捨てられ枯れてしまいます。
そういう枝はかき集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまいます」(15章6節)
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ブドウの木と枝のたとえ話はまだ続くのですね。イエスにはホントに珍しいことです。
15章6節では「私の内に留まらないものは、枯れ果てて、火の中に投げ込まれて焼かれてしまう」といっています。
「火に投げ込まれ焼かれる」というと、最後の審判で「火の池」行きになることが連想されますが、ここはそうではないようです。
弟子たちに、イエスがいなくなった後の福音宣教について注意事項を語っている場面だからです。
<道徳的に苦闘する宗教か?>
前の5節まででは、イエスは「宣教は私に繋がってしなければいかんよ」と繰り返し述べていました。
ここではそれを裏から言っています。
つまり、そういう宣教をしない場合はこうなるんだよ、と具体的に述べているところと考えられます。
もっと具体的には例えばどういう状況が考えられるか。こんな場面です。
宣教者が福音の教えでもって自分の道徳的過去を照らし出してしまいます。
すると人間誰にでもあるところの過去の道徳的に恥ずかしいことがらが、色々浮かび上がってきます。
あのときあんなコトした、こんなコトしてしまった、と・・・。
そして、ああいうことを繰り返さないためにはどうしたらいいか、と悩みます。
してはならない、とわかっていながらまたするかもしれない自分と苦闘をします。
パウロの次のような言葉をとりだして、「そうだ、パウロもまたそうだったんだ・・」と、ひたすら苦闘をします。
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「・・わたしは、内なる人としては創主の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、
わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見ます。
わたしは、なんというみじめな人間なのでしょうか。・・・」(「ローマ人への手紙」、7章22~4節)
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するともう意識がそれで満たされてしまい、イエスや創造主のことがそっちのけになってしまうのです。
独り相撲ですね。春平太はこれを道徳キリスト教と名付けています。
また、これが日本にあまりに多いのでニッポンキリスト教とも呼んでいますが、
こういう心理状態で宣教したらイカンよ、とイエスは言っているのです。
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パウロも、上記のようなことをくだくだしく言っていますが、彼の場合、心のもう一方の隅にはイエスがいます。
イエスと父なる創主が意識されているのです。
そして、将来又道徳的罪を犯す自分ではあるが、イエスがその全てを相殺してくれたんだ、と確信しています。
そして人間、その確信が強いと、過去において自分がしたことなど(善きことも含めて)もう問題でなくなってくる。
どうでもよくなってくるのです。
宣教すべきは、このことである。こういう心の解放である。なにものにもとらわれなくなった自由な心である。
にもかかわらず、人間はその途中の道徳的・律法的罪のあたりで引っかかってしまって、
そこで苦闘をし、独り相撲をしやすいのだ。
そうなったらイカンよとイエスは念入りに言っているのです。
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でも、そういう苦闘を聞いて、同感し、「そうだよなあ・・・」と同調する人も世の中にはいるものです。
ではそういう人を確保したら、伝道がなったことになるのか?というと、
イエスはそうではないと言っています。
そういう宣教者も、宣教されてそういうキリスト教の信徒になった人も、
みんな、最終的には枯れ枝のようにかき集められて捨てられるんだよ、といっているのです。
なぜ? それは冷たいんじゃないの?
この人たちも一生懸命なのに・・・という疑問も湧くでしょう。
でもイエスはそれは枯れ枝だ、と断言しています。
この意識状態は福音の根本目的である「創造主を信頼して繋がる」という心理と、あまりに無縁だからです。
イエスにつながらないというのは、創造主につながらないということです。
創造主につながらない存在は、創造主には「つまるところはどうでもいい」存在なのですね。
冷たいようですが、これが聖書の鉄則であります。「つまることろは」ですよ。
創主のこの世に対する最大で究極の関心事は、
「天(創主)につながるもの」を作ること、ということがここに浮上しています。
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大連はアカシアの都市ですが、白い花が咲くのは五月の中旬。緑の葉が出るのが4月の後半で、
今は枝ばかりの冬のアカシア大連でした。昼の気温は5度前後でした。日本の1月2月ですね。
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至る所に日本帝国統治時代のものが残っています。旧満鉄本社も大連にありました。
日本のお偉方たちが泊まった旧やまと旅館(ホテル)もそのままの状態で、ホテルとして営業していました。
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さて、最後の晩餐におけるイエスの遺言を追うことを続けましょう。
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=聖句=
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そういう枝はかき集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまいます」(15章6節)
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ブドウの木と枝のたとえ話はまだ続くのですね。イエスにはホントに珍しいことです。
15章6節では「私の内に留まらないものは、枯れ果てて、火の中に投げ込まれて焼かれてしまう」といっています。
「火に投げ込まれ焼かれる」というと、最後の審判で「火の池」行きになることが連想されますが、ここはそうではないようです。
弟子たちに、イエスがいなくなった後の福音宣教について注意事項を語っている場面だからです。
<道徳的に苦闘する宗教か?>
前の5節まででは、イエスは「宣教は私に繋がってしなければいかんよ」と繰り返し述べていました。
ここではそれを裏から言っています。
つまり、そういう宣教をしない場合はこうなるんだよ、と具体的に述べているところと考えられます。
もっと具体的には例えばどういう状況が考えられるか。こんな場面です。
宣教者が福音の教えでもって自分の道徳的過去を照らし出してしまいます。
すると人間誰にでもあるところの過去の道徳的に恥ずかしいことがらが、色々浮かび上がってきます。
あのときあんなコトした、こんなコトしてしまった、と・・・。
そして、ああいうことを繰り返さないためにはどうしたらいいか、と悩みます。
してはならない、とわかっていながらまたするかもしれない自分と苦闘をします。
パウロの次のような言葉をとりだして、「そうだ、パウロもまたそうだったんだ・・」と、ひたすら苦闘をします。
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「・・わたしは、内なる人としては創主の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、
わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見ます。
わたしは、なんというみじめな人間なのでしょうか。・・・」(「ローマ人への手紙」、7章22~4節)
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独り相撲ですね。春平太はこれを道徳キリスト教と名付けています。
また、これが日本にあまりに多いのでニッポンキリスト教とも呼んでいますが、
こういう心理状態で宣教したらイカンよ、とイエスは言っているのです。
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パウロも、上記のようなことをくだくだしく言っていますが、彼の場合、心のもう一方の隅にはイエスがいます。
イエスと父なる創主が意識されているのです。
そして、将来又道徳的罪を犯す自分ではあるが、イエスがその全てを相殺してくれたんだ、と確信しています。
そして人間、その確信が強いと、過去において自分がしたことなど(善きことも含めて)もう問題でなくなってくる。
どうでもよくなってくるのです。
宣教すべきは、このことである。こういう心の解放である。なにものにもとらわれなくなった自由な心である。
にもかかわらず、人間はその途中の道徳的・律法的罪のあたりで引っかかってしまって、
そこで苦闘をし、独り相撲をしやすいのだ。
そうなったらイカンよとイエスは念入りに言っているのです。
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でも、そういう苦闘を聞いて、同感し、「そうだよなあ・・・」と同調する人も世の中にはいるものです。
ではそういう人を確保したら、伝道がなったことになるのか?というと、
イエスはそうではないと言っています。
そういう宣教者も、宣教されてそういうキリスト教の信徒になった人も、
みんな、最終的には枯れ枝のようにかき集められて捨てられるんだよ、といっているのです。
なぜ? それは冷たいんじゃないの?
この人たちも一生懸命なのに・・・という疑問も湧くでしょう。
でもイエスはそれは枯れ枝だ、と断言しています。
この意識状態は福音の根本目的である「創造主を信頼して繋がる」という心理と、あまりに無縁だからです。
イエスにつながらないというのは、創造主につながらないということです。
創造主につながらない存在は、創造主には「つまるところはどうでもいい」存在なのですね。
冷たいようですが、これが聖書の鉄則であります。「つまることろは」ですよ。
創主のこの世に対する最大で究極の関心事は、
「天(創主)につながるもの」を作ること、ということがここに浮上しています。
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