聖霊の働きについてのイエスのレッスンは続きます。
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BGMは相変わらずmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
++++++++++++++++++++++++++++++++
=聖句=
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世が誤っていたことを認めさせるよ。
人々は罪について誤って考えているんだ。私を信じないからなんだよ。
義についてとは、わたしが父のもとに行き、諸君がもはやわたしを見なくなるからだよ」
(16章8~10節)
++++++++++++++++++++++++++++++++
今回は、10節の「義についてとは私が父のもとに行き、諸君がもはや私を見なくなるからだよ」
の聖句部分です。
これも難しい!
イエスがいなくなることが、「義について世が誤っている」ことに関与しているか、
「誤っていたことを認める」ことに関与しているかが、文脈の上ではあいまいですね。
でも、「義について世が誤る」のはイエスが世にいる間に起きていることなはずですから、
これを「いなくなった後のこと」につなげるのは無理がある。
やはり、「いなくなると」「誤りを認める」という方に繋がるでしょう。
つまり、「いる間は義について誤った考えをもつ」のだけれど、
「いなくなると誤りを認める」ということの内容を探ればいいことになります。
では、「義」とは何でしょうか。
「正しいこと」でしょう。
ところで「正しい」という形容詞を英語で見ると、rightとrigihteousの二つの語があります。
二つはニュアンスにおいて違います。
前者は、「この世一般で正しい」というニュアンスを持ち、後者は哲学的と言っていいでしょうか、
もう少し深い意味での「正しい」という色合いを持るように、辞書からは読み取れます。
名詞の「正しいこと」にもrightnessとrighteousunessがあって、同様なニュアンスの差が感じられます。
それはさておき、この聖句では、二つの間の差はもっとはっきりしています。
「義」にもまた「天の義」と「この世の義」があるという思想がここにはある。
この天の義が英語の聖書ではrighteousunessと表現されています。
具体的にどうか。
創世記で、アダムとイブが「智恵の実」を食べる前に善悪判断の基準としていた義は「天の義」です。
二人はそうやって暮らしていた。
そこに蛇(悪魔)が「この実を食べると自分で善悪の判断が出来るようになる」(創世記、3章5節)と
イブを誘惑します。そして二人は食べる。
食べたということは、以後、自分で(人間の考えで)善悪を判断するようになったことを意味しています。
この判断をする基準が「世の義」です。
彼らは以後、世的に見て、つまり、人間から見て「正しいこと」を基準に善悪を判断する、ということになる。
それ以来、人間はその状態で来ている、というのが聖書の論理です。
あとは、前回の「罪について」と同じです。
以後、人間は世の霊(悪魔)だけによって全面的に影響を与えられることになる。
だから、「世の義」だけを基準に善悪を判断して生きている。
けれども、聖霊がくると事態は一変する。
悪魔からの「世的な」意識波動で人々の意識が全面的に影響を受けているところに、聖霊が来る。
これはイエスと同じ創造霊で「聖なる」天の意識波動を発する霊である。
イエスがいなくなるとこの霊が送られ、この世に遍在して働く。
そこに弟子たちが「天の義こそが真の義だ」と宣教する。
人々は「何を言ってるか」と最初は思うかも知れないが、
聖霊が意識波動を送ると心が共鳴して感動する。
そして「ああ、俺たちは間違っていた、本当の義というのはこうだったのだ」と悟る。
~そういうことになります。
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「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世が誤っていたことを認めさせるよ。
人々は罪について誤って考えているんだ。私を信じないからなんだよ。
義についてとは、わたしが父のもとに行き、諸君がもはやわたしを見なくなるからだよ」
(16章8~10節)
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今回は、10節の「義についてとは私が父のもとに行き、諸君がもはや私を見なくなるからだよ」
の聖句部分です。
これも難しい!
イエスがいなくなることが、「義について世が誤っている」ことに関与しているか、
「誤っていたことを認める」ことに関与しているかが、文脈の上ではあいまいですね。
でも、「義について世が誤る」のはイエスが世にいる間に起きていることなはずですから、
これを「いなくなった後のこと」につなげるのは無理がある。
やはり、「いなくなると」「誤りを認める」という方に繋がるでしょう。
つまり、「いる間は義について誤った考えをもつ」のだけれど、
「いなくなると誤りを認める」ということの内容を探ればいいことになります。
では、「義」とは何でしょうか。
「正しいこと」でしょう。
ところで「正しい」という形容詞を英語で見ると、rightとrigihteousの二つの語があります。
二つはニュアンスにおいて違います。
前者は、「この世一般で正しい」というニュアンスを持ち、後者は哲学的と言っていいでしょうか、
もう少し深い意味での「正しい」という色合いを持るように、辞書からは読み取れます。
名詞の「正しいこと」にもrightnessとrighteousunessがあって、同様なニュアンスの差が感じられます。
それはさておき、この聖句では、二つの間の差はもっとはっきりしています。
「義」にもまた「天の義」と「この世の義」があるという思想がここにはある。
この天の義が英語の聖書ではrighteousunessと表現されています。
具体的にどうか。
創世記で、アダムとイブが「智恵の実」を食べる前に善悪判断の基準としていた義は「天の義」です。
二人はそうやって暮らしていた。
そこに蛇(悪魔)が「この実を食べると自分で善悪の判断が出来るようになる」(創世記、3章5節)と
イブを誘惑します。そして二人は食べる。
食べたということは、以後、自分で(人間の考えで)善悪を判断するようになったことを意味しています。
この判断をする基準が「世の義」です。
彼らは以後、世的に見て、つまり、人間から見て「正しいこと」を基準に善悪を判断する、ということになる。
それ以来、人間はその状態で来ている、というのが聖書の論理です。
あとは、前回の「罪について」と同じです。
以後、人間は世の霊(悪魔)だけによって全面的に影響を与えられることになる。
だから、「世の義」だけを基準に善悪を判断して生きている。
けれども、聖霊がくると事態は一変する。
悪魔からの「世的な」意識波動で人々の意識が全面的に影響を受けているところに、聖霊が来る。
これはイエスと同じ創造霊で「聖なる」天の意識波動を発する霊である。
イエスがいなくなるとこの霊が送られ、この世に遍在して働く。
そこに弟子たちが「天の義こそが真の義だ」と宣教する。
人々は「何を言ってるか」と最初は思うかも知れないが、
聖霊が意識波動を送ると心が共鳴して感動する。
そして「ああ、俺たちは間違っていた、本当の義というのはこうだったのだ」と悟る。
~そういうことになります。