17章11節、もう一つ副産物を披露しておきますね。
それはエホバとイエスという二つの名の関係についてのことがらです。
このブログで鹿嶋は、エホバは創造主から一定の権威をまかされて行動する、
至高の位にある天使が用いる名らしい、と考えてきました。
それはまた、次のように考えることも出来そうです。
「ということはエホバもまた創造霊の名である」と。ただし、天使が持ってきた創造神の名であって、
彼は創造主として(人間に対して)行動する時それを用いた、と。
では、イエスはどうか。これが創造神の名らしいことが、これまでに浮上しました。
つまり、これもまた創造神の名なのです。
すると二つの名の関係はどうなんだ、という疑問が湧きます。
<旧約は新約の影>
それは、旧約と新約という二つの書物の関係から推察できるようにおもいます。
旧約(の論述)は基本的に、ホンモノ(真理)の影と鳥瞰することが出来ます。
ホンモノはイエスが明かします。
それは「わたしが真理である」というイエスの言葉が示唆している。
そしてイエスの教えは新約聖書に記されています。
このことから、「新約で記述されているのホンモノである」といえそうです。
そして、旧約で示されているエホバの名は、
ホンモノであるイエスの名(創造神の名としての)の影(仮に示された仮の名)だと推論できます。
そして、それが御子の名でもあり、聖霊の名でもあったというわけです。
そのことが、17章11節におけるイエスの「祈り」のことばによって示唆されている。
ヨハネ伝の著者ヨハネは、それをしっかり記憶していて記録してくれました。
おけげでエホバの名とイエスの名との体系的理解が、鹿嶋にはなりました。
<創造的誤解を恐れずに>
17章114節に関する考究は、こんなところです。
途中「とてもついていけない」とお感じになった読者も多いことでしょう。
その方々のために、聖書という書物に関する鹿嶋も前記のスタンスを再録しておきますね。
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みなさんこんにちは。
聖書の内容は無限です。人間の解釈に絶対の正解はありません。
だから面白いのです。
みんな自分の納得する解釈をし、創造的誤読を楽しみましょう。
それが不安でならない人は、教理主義教会に行って下さい。
そこでしっかり縛ってもらって下さい。
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<「危険です!」はお好きなように>
最後にもう一つ。
日本の牧師さんの多くは、こうした自由解読の行き方と対極的な姿勢をとっておられるのが現状です。
信徒さんのなかに、聖句の意味を自分の頭で考えてみる人が出る。これどこでも出ますわネ。
人間知性の自然な働きです。そこで信徒は生じた疑問を質問します。
そのとき、牧師さんが発する常套句がある。
「それは(そういうことを考えるのは)危険です!」
常套アドバイスといったらいいでしょうかね。
素人が勝手に考えると、サタンが働いて危険だというんですね。
だから、余計なこと考えないでプロ(牧師)の教えるところに従っていたらいいんだと。
まあ、これも聖書に対する一つのスタンスだといえないこともない。
聖句主義はあらゆる姿勢を容認しますのでそういう判断になる。
そうでないと真の解釈自由は得られないのです。
だから、鹿嶋はそういう牧師さんに反論したり、批判する気などありません。
みんながんばって「お好きなように」というのが鹿嶋のスタンスです。
「ヨハネ伝解読」17章11節、そんなところで、ひとまず閉じましょう。
次回には、掲示板にてみなさまへに一寸面白そうな「呼びかけ」をする予定です。