鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<イエスの血と「いのち」の力>(6)『世界観・歴史観の力』

2011年05月12日 | イエスの血の権能

 
  聖書が提供する世界観・歴史観が今の我々の心を安定させてくれる、その効用について述べます。
「イエスの血」から離れるようですが、のちにつながっていきます。

                    

 原発と放射能情報について考えつづけています。いまほど、ネットの情報とマスコミの情報とが乖離している例は少ないでしょう。
すごいですよ。両方見ていたらわかります。

ネットでの識者の情報は事態の深刻さ、危険さを伝えるのが主流です。
テレビや大新聞は逆です。「放射能は大したことない」を繰り返しています。

もしネット情報が事実であって、関東圏全域が暮らすには危険だとしてもマスメディアはそれは報道しません。
人々は実際にその地(東京も含めて)で、生活し、働いて食を得ています。このシステムから離れるわけにはいかない。
そんなところにどうして恐ろしい情報を報道できましょうか。

 こうした状況に置かれた日本人のとる行き方は二つになるのではないかと思います。一つは精神の強靱なリアリストです。
彼らは「そうであっても我々はここで生きるしかないでしょ」と覚悟して暮らすことになるでしょう。
「将来のことは、そのときのことだ」と開き直るのです。まさに「覚悟」ですね。

第二は一般の庶民です。彼らはそれほど精神的が強靱ではありません。
そこで、マスメディアの「大丈夫だよ」という情報だけを信じて暮らします。情報乖離はおきるべくしておきるわけです。

                    

けれども、一般人が事実を直視しても精神がやられにくいようにしてくれる道具もあります。
それは事実を心に収容させてくれる世界観・歴史観です。
これがあると人は事態をその中に位置づけ、理解して心に納め、心の安定を得ることが出来る。

聖書にある次のような聖句は、一つの歴史観を供給してくれます。 
 
                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、
・・・・(中略)・・・・・地上では諸国の民が海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。
天の万象が揺り動かされるからです。
そのとき人々は人の子(イエス)が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗ってくるのを見るのです」
                  (ルカによる福音書、21章10~2節) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


   これはイエスの言葉で、いわゆる7年間の大艱難とそれに続くイエスの再臨を述べたところだと解釈できます。
そして、これに続いて地上に至福の千年王国がやってくると解せられる聖句もあります。
これらが一つの歴史観を形成してくれます。

 当初の悲惨な歴史展開は平和な時代の我々の感覚からはなかなかイメージできません。
ダイナミックで、奇想天外でもあります。
だが、いまの福島原発に懸念されている恐怖の事態は、こういう歴史展開イメージの中になら、収まってくれます。

                    

 北関東で大地震がありました。そして原発設備の崩壊と放射能の空と海へのの放出がいまも続いています。
 これが続けば多くの土地と水が汚染され、飲食する物がなくなります。
食べるものを確保すべく、民族は国外に出たり手を出したりするでしょう。

 そして他の国においても、大地震と原発の崩壊が起きれば、その民族も同じことをする。
そうなれば、食物をめぐっての戦いは必然的です。
また、放射能の影響で従来にない疫病の流行があるかもしれません。人類の三分の一が死ぬとも記されています。

                    

  しかし、それらは万物の創造主が計画されたことであって、
その後にイエスが空に再臨し、地上に降りてきて千年王国を実現する、という計画もあるという歴史観を
心に抱いていたらどうか。
 いまの出来事も、これから起きるかもしれない悲惨なこともその中に位置づけて理解することが出来ます。
そうすれば心は整理されます。その分心が安定します。
悲惨な出来事を収納する歴史観が何もなかったら、ただただ恐ろしい出来事の情報に翻弄され、心が大きく乱れるのです。
乱れるから、もう現実は見ないようにしよう、とするしかなくなるのです。

                    


 「この世界観は絶対に正しい、その歴史展開は100パーセント起きる」と信じなくても、それは我々の心で力を発揮します。
そもそも一つの歴史観を絶対に正しいと信じることなど人間には出来ません。
こういってある牧師さんにたしなめられたことが鹿嶋にはありますけれども
「信じます! 信じます!」と叫んでも、百パーセントにはならない。
7割とか8割とかの確率で信じているのです。(「できないのに自分は百パーセント信じてると思ってしまう」これが狂信です)

確率で信じていても
その歴史観は一つの仮説となって、怖い出来事もしかるべきところに位置付けてくれるのです。

                    

                    

 

コメント (2)
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