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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.2 「部族社会の中で統治が始まる」

2012年07月30日 | 政治見識のための政治学




 そもそもの最初から思考を進めますね。

人間は集まって集団社会を作ります。
その最初は部族集団でした。それがあちこちの地点に出来ました。
お釈迦様も、インドのある地方の部族社会(国家)の王子だったと言います。

後に広域大国家になるローマも、はじめはイタリア半島の中部を横切るチベレ川の流域に出来た一部族社会でした。
チベレ川の近辺には、他にも部族社会が沢山あったでしょう。




<昔の食糧確保は大仕事>

人間が群れて暮らす理由の一つは、集団で効率よく食物を生産することでしょう。
食料生産は、昔は、一大仕事でした。

鹿嶋は聖書に親しんでおりますので、天使という言葉によく出会うのですが、
聖書での天使はイメージ上の存在ではありません。れっきとした霊的実在です。

霊ですからいろんな姿に変身しますが、そのデフォルトというか、基本形は人間と同じです。
羽が生えているというのは、後から作ったイメージ上のフィクションです。
聖書にそんなことは書いてありません。

だが天使は肉体をもちません。
ということは肉体を維持するために食物を得る必要がないということでもあります。

これには鹿嶋は本当にうらやましく感じました。
人間は肉体を持つ(ように創られた?)が故に、常時食べ物を確保しなければならない。
食べても一日に何度かまたおなかがすくのです。
それに病気になるし、けがをするし、死の恐怖をもたねばならないし、本当に大変です。

 (天使はいいなあ・・・)





<襲撃の恐怖のなかでの生活>

ともあれその食料生産は、集まって分業ですると、効率が飛躍します。
それが集団社会を造る一大理由でしょう。

しかし、もう一つの理由の方が直接的で強大です。
他の隣接部族からの襲撃、略奪を防ぐことがそれです。

人間は、同じ群れの人に対しては、共感も同情ももちます。
だが、会ったことも交信したこともない人間には同情は生じません。
だから、自分の食料が足りなくなったりしたら、野獣のように他部族を襲撃して物品を奪えるのです。

この襲撃を防御するために、人間は互いに集まり部族集団をつくって暮らします。
昔の部族集団は、四六時中外部からの襲撃の危険の中で生存しておりました。





<知力・腕力に優れた家族>

部族の中には、腕力、武力、知力に優れ、勇敢でもある人の多い家族もあります。
この人たちは、他部族からの襲撃に率先して戦い、防御します。
他の家族は、この腕力に優れた家族の防衛活動を頼りに思っていきます。

またこの家族は、部族内のもめ事の調整・処理に関しても頼りにされます。
知力に優れた彼らの裁きには、他の人によるよりも知恵があり、尊敬されます。
また腕力があるから人々は恐れ従います。

その裁きが、一定のルールでもってなされれば、集団社会には秩序が生まれ、保たれることになります。

こうして、この勇敢ものの多い家族は、対外抗争と内部秩序の維持を集落民から請け負うことになります。
権力委任の開始です。




<統治の成立>

時と共に彼らはそれを専業的に行うようになります。
だが自分たちも食べなければならない、着なければならない。
彼らはそれらの物質を、集落民から徴収するようになります。これが税です。

これによって「統治」が経済的にも成立します。統治は政治の別名です。

彼らは武力を強くするために、他の「命知らず」の部族民を雇うようにもなります。
こうして統治機関は展開していきます。

税は習慣化、制度化します。
彼らはその税を調整して、武器を改善し、戦闘技術を高め、
さらに知力教養を高め、贅沢な暮らしをします。

彼らは、外部の襲撃に対して生命の危険を冒してくれますので、民もそれを容認します。
そうした中で彼らは次第に、容認されそうにないことも「命令」するようになります。

そしてこの命令力が強大化すると、それは、絶対権になります。
これを手にしたものが、王です。

王はいつも一人です。
複数の人が王になると、命令が食い違ったりして、秩序が逆に乱れてしまします。
統治者家族の中から王は一人出るわけです。

かくして部族集団は、部族国家になります。






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Vol.1 「政治見識を育てる政治学が必要」

2012年07月30日 | 政治見識のための政治学




このチャーチは、チャーチですから俗世のことは扱わないのが原則です。
だが、ここで「一般人民が政治見識を持つために必要な知識」を書いておこうと思います。

大変な時代になりました。
今回もまた、現実の必要に背中を押されてしまいました。

福島原発事故を契機に、原発に対する政府のあり方に、多くの国民が疑問を持つようになりました。
これは自分や子孫の生存に関わる問題ですから、その動機は強力です。
そして脱原発を選択するものは、その政策を求めて自分たちの見解をデモでもって表明するようになりました。

こうして人々は否応なしに、政治というものが自分たちの生存に直結していることを自覚せざるを得なくなった。
1960年代から70年にかけての安保闘争以来、久方ぶりの国民規模での政治意識の浮上です。

それと共に、ツイッターやフェースブックで、いろんな見解が交わされるようになりました。
筆者もそれに加わったりしましたが、そこで、日本の人々には政治見識がほとんど育っていないことを痛感しました。




<無政府主義は美しき妄想>

たとえば、こんな事態を経験しました。
大阪市長になった橋下徹さんへの批判がフェースブックでは盛んでした。
筆者はそれに対して~、
「希有な政治資質を持っているのではないか。なにせ堺屋太一さんが最高顧問をする気になったくらいだから・・・」
~と発信しました。
すると「堺屋さんも権力が好きだからな・・・」という否定的見解が出ました。

それはある大学の准教授か教授かの方の意見でした。
素晴らしい原発情報、放射能情報を提供してくださっている方でした。
以来、敬愛しつづけています。

だがそれでも、その言葉に限っては、それを受けて筆者は次の言葉を失いました。

橋下さんは地方自治体政府の現役の政治家ですよ。政治に権力はつきものですよ。
政府というのは人民から権力を委任されてなり立つものですよ。
なのに「権力が好き」というのを否定の理由に出すのはどういうことでしょうか?

権力が嫌いだからでしょう。
気持ちはわからないことはありません。

権力というのは、他者に対する強制力です。
人を強制的に動かすというのは、人間の自然な感情にはあまり気持ちいいものではありませ。
それなしで、説得と理解だけで、政治が行えたらそんないいことはありません。

事実、そうした政治を期待する政治思想もあります。
無政府主義がそれです。

この思想自体は純粋で美しいものです。
だから理想意識の高い青少年時代に人はそれを希求します。

だが、無政府主義というのはナイーブな幻想なのです。
これから示していきますが、統治というのは権力を委任されることなくして成り立たないものです。

けれどもその非現実的な妄想に照らして、現実を批判する人が日本には多いです。
政治見識が幼いのです。

終戦直後、連合国GHQ司令長官として日本の土を踏んだのは、米国の将軍ダグラス・マッカーサー元帥でした。
彼の就任直後の第一声は~

「日本人は政治的には13才」

~でした。彼は日本人の政治見識の幼稚さを、厚木空港に降り立って即座に洞察したのです。

前述の大学教授先生は理科系の先生だったと思います。
だが文化系でなくても、大学教師たるもの、無政府主義的ナイーブさからは脱却していなければなりません。
そうしたことも含めた日本人の雰囲気をマッカーサーは洞察したのでしょう。




<悲しき日本政治学の実情>

しかし、我々日本人側としてもやむを得ない理由があります。

日本の大学にも政治学という講座があります。政治学の専門書もあります。
それらが提供する知識が生きたものではないのです。

それらはほとんど西欧学者の言葉の引用に終始しています。
それも吟味してかみ砕き理解して上ならまだいいのですが、99%がそうではない。
ろくに理解もしないで、羅列に終始している。それに出典の註を、
盆踊りや祭りのぼんぼり提灯のようにぶら下げまくっているだけ。

 勉強量を示すためですが、かくのごとくに著者の意識がそれを審査・評価する先輩学者の方を向いている。
そしてその先輩のほとんどが、西洋文献をかみ砕かないでやる人だから、もう救いがないのです。

 政治学というのは、理論的にはあまり成熟していない学問です。
だが、米国の大学ではこれを現実の政治問題に関する議論を学生にさせることでもって補っています。
「中国の民主化は可能か?」といったテーマで議論をさせる。
そしてこれをポリティカル・サイエンスとして、ほとんど必修科目にしています。

日本の授業は、外国文献の引用の羅列講義がほとんどです。
これでは日本人は、大学に行っても政治見識の持ちようがありません。




そうした現状の中で、鹿嶋は自家製の政治学をここに披露しようと思うのです。
私は政治学の専門家ではありません。素人です。
だが、それだけに素人が政治見識を持つに役立つ知識が展開しやすいかも知れない。
そう期待して始めることにします。

でも、どうなるかな?
すでに原稿が出来ているわけではありません。
書きながら、次を作っていきます。
いつものことながら、更新が遅れても、あしからず・・・。





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