聖書の神概念が人の知力を育成する効果もみておこう。
<神覚的動物>
人間は「神覚的動物」といわれる。
物事の中に神を覚えて生きる生き物である。
この際の「神」とは「人に力を及ぼしている、見えない意識体」であり、別名、霊という。
<まず自然物の中に>
① ひとは自然のままではまず、山や大木、巨岩、川、動物などの自然物のなかに神を覚える。
人は自然の恵みによって肉体を維持して生きているので、まず、その恵みの源に神を覚えるのだ。
そして、それを恐れ、尊敬し、感謝し、周囲を浄め、礼拝する。
代表は山であろう。
イエスの時代にも、サマリアの女が「自分たちはあの山を礼拝している」といっている。
日本の大神神社(おおみわじんじゃ。通称三輪神社)もご神体を三輪山としている。
② 次に人は、その霊を像で現そうとする。そして結果的に、物質の像を造り、
その中に神が内在するとイメージしてその像を拝む。
③さらに人は、神の住まいを、自分の手で造ってそこで礼拝しようとする。
具体的には、それは、幕屋、神殿、神社となる。神殿、神社は幕屋を固定化したものである。
幕屋は、たたんで移動させることができる。
こうすると、人は拝む場所を固定化されずに済み、礼拝がしやすくなる。
自然物はその存在するところから動かない。
人間の神覚本能による神礼拝は、大体、そこらあたりに収束する。
これらはみな、物質に内在するとイメージされて拝まれている神である。
そしてこの段階では、神はスクリーンの向こう側にあって、その影が投影された存在である。
だから、その実態はよくわからない。
がとにかく、人はそれを漠然と神だと思って、感性に直接感知している。
<言葉で示される神>
人間は自然なままではそんな状態で生きる動物である。
だがそんな中で、紀元前2000年頃、この地上の中東地域で、まったく別の神が紹介される、という事件が起きた。
それは、自らを「まことの神」と称する存在(以後当分「自称まことのまこと神」と呼ぶ)である。
この神が、アブラハムという霊感豊かな一人の人間を選び自ら語りかけて自分を明かしていくということが起きた。
(信仰者の読者には、これこそが疑う事なきまことの神だから、「自称」とつけるのはのどに引っかかるだろうが、一般読者もいることを考え、敢えて「自称まことの神」と当面していく)
彼はアブラハムと妻サラから始まる子孫を増殖させ、一つの民族とし、
その集団にメッセージを与え、その記録を蓄積させて自らがどんな存在であるかを明かしていく。
そしてその記録集がユダヤ教でいう聖書である。キリスト教ではこれを旧約聖書と呼んで、新約聖書と合わせて聖書としている。
だから、こちらは、言葉でもって示されていく神である。
けれども「神は霊」であって、霊は見えない意識体である。
そういう存在の認識は最終的には霊感による。その点では、「自然物に内在するとイメージされる神」と同じである。
だが他の点で違いがある。こちらの神は「言葉と霊感との両方が動員されて」認識される神である。
<ありてあるもの>
アブラハムの500年ほど後の子孫に、モーセという超霊感者が出る。
自称まことの神は、彼に、自分のプロファイルを示し始める。
まず、「あなたは誰?」というモーセの問に
わたしは「ありてあるもの」(英語ではI am who I am)と応える。
この意味するところはこうだ。
この世の存在が自分の何者かを示すとき、ほとんどが「なにか他によく知られた存在を持ってきて、それとの関係で」もって示す。
私は「あなたがご存じの山本なにがしの子供です」、とかである。
これを「アイデンティティを示す」とか、自己存在証明をする、とかいう。
だが、そういう他者を持たない存在もある。それはすべての存在に先立って存在している存在である。
「アイ・アム・フー・アイ・アム」はそれをいっている。
ついで、そのすべてに先立って存在している自分は、「他のすべてを創造した」という。
このこともまた超霊感者モーセに示される。
かくして、自称まことの神は万物の創造神であったことになる。
また、これに対比すると、自然物の中に内在するとイメージされている神は、在物神といっていいかもしれない。
チョットわかりにくくなるが、語呂がいいので「創造神」「在物神」と呼ぶことにしよう。
ともあれ、ならば他のすべての存在は、この創造神によって創造された被造物だということになる。(となれば、在物神はこの被造物の中に内在するとイメージされている神ということにもなる)
被造物はみな「私はあの創造神によって造られた存在です」と自己存在証明をすることが出来る。
他方、創造神は、自分を造ってくれた存在がないのであるからして、他者による自己存在証明は出来ない。
だから「わたしはありてあるもの」ということになるのである。
<空間的無限者>
万物の創造神であることから、他の属性も演繹される。
(前回要点を述べたが、大切なことなので、いま少し詳論しておく)
万物は無限の空間に存在しうる。そのすべてを自分が創造した、と言えるには、自分は無限の空間的広がりを持っていなければ具合が悪い。
自分に空間的限界があって、他との境界線の外側のものも、「チョット手を伸ばして造ったよ」といえば、
まあ言葉としては言えないことはないが、不自然で無理がある。
やはり万物の創造者は、自らのふところの内に万物を創造する、空間的無限者であるべきである。
<時間的無限者>
空間と同じことが時間についても言える。創造神は無限の過去から存在していてこそ「万物をオレが創造した」といる。
存在に出発点があるならば、それ以前のものについてはオレが創ったといえない。だから無限の過去から存在している。
同じことが、未来についても言える。これから新しく存在し始めるものについても「オレが創った」といえるのは、無限の未来にまで存続していてこそである。
ある時点に存在の終わりがあったらそれ以後のものには「オレが創った」と言えない。
以上、空間と時間との二つの属性をまとめて言えば、万物の創造神は時間空間的無限者ということになる。
<多神教と一神教>
よく言われる多神教と一神教との違いも、この神認識の方法に由来する。
個々の自然物に内在する神を感じるというのなら、その神が多数になるのは当然の帰結である。
対して、自分以外の万物を創造した神となれば、それは、単独になるのが筋である。
複数いたら、互いに「オレがお前を創った」とけんかになる。
「西洋は一神教だから独善的で赦しがなく、日本は多神教だから寛大」というのは日本の「識者」がよく語る評言である。
だが、これは一神、多神を外的形態だけで認識しての浅薄な理論だ。
こんなものを知識人扱いすることが、日本のマスコミの浅薄さを示している。
<神を特定する>
話を戻す。
言葉でもって神を考えることは、神を特定することである。
まことの神とは何かを論じることは、神を特定することなのだ。
自然物に内在するとイメージして拝まれている神にはそれがない。
とにかく「神と覚えられるもの」の総体を、漠然と拝んでいるのである。
(戦争の神、商売の神、縁結びの神、等々の機能分化はなされるが
これらは像のイメージに助けられて漠然と分けられているのみである)
その神認識には感性のみが動員されていて理性がない。
対して、言葉で特定していくという神認識の方法には、感性に加えて理性が動員されている。
これが人の知力に及ぼす影響の差は大きい。
神覚的動物である人間にとって、神は自分の運命に影響する怖くて重要な存在である。
これに対する意識が四六時中感性のみであるのと、感性に理性が加わっているのとでは大きな違いを知力に産んでいくのだ。