
前回に関連して、もう一つ記事を差し挟みます。
ここで、「福音」の骨格を一気に示します。
もちろん、鹿嶋の考える骨格です。

聖書は膨大なメッセージ内容を持った書物です。
そこではいろんなテーマが述べられますが、大テーマの一つは「福音」です。
福音(ふくいん)という語は、「人間が幸福になるベストな方策の知らせ」を意味しています。
その方策を、人間をも含むすべての存在を造った創造神が与えた・・・このメッセージが福音なのです。
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鹿嶋はここで、このメッセージの骨格を示したいと思います。
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聖書は旧約聖書のうしろに、新約聖書を合体させてできています。
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<旧約の骨子>
人間を幸せにする方策という観点から見ると、旧約聖書の骨子は、律法(人間に守れと命じられた戒め)です。
(これは天使を通して人間に与えられています)
ここでは、律法を守ることが、祝福を受け幸福になる方策になります。
守らないと、その人のうちには罪が生じ、刑罰としての呪いを受け、不幸に陥れられていきます。
律法とは、そういう教え(言葉)です。
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<新約の骨子>
新約聖書では、その律法に「赦し」が加えられます。
律法を犯しても、罪が許される道があるよ、と伝えている。
この知らせが福音(ふくいん:「よきしらせ」という意味)」です。

<追加するのは創造神の御子>
この知らせを持ってきたのは、創造神の御子イエスです。
旧約の律法の教えでは、「律法を犯す ⇒ 罪 ⇒ 刑罰」という論理が貫徹しています。
ところが新約で、イエスがこれに「赦し」を加えているのです。

<創造者上位の大前提>
イエスはどうしてそんなことが出来るのでしょうね。
その根拠には、聖書の存在感、世界観があります。
聖書メッセージは、全存在界は創造者と被造物とでなっているという鉄則の下に展開されています。
そしてそこでは、創造した存在は、創造された被造物より上位にあります。
テレビ受像器を考案して造った人間が、テレビより上位の存在として好きなように使うように、
創造主(神)は被造物の絶対的な上位者なのです。

<御子イエスは安息日の主>
だからたとえば(新約聖書で)イエスはこう言っています。
「わたしは安息日の主なのだ」
・・・主というのは、主人です。
主人は、従者に対して絶対的な上位者です。
従者は主人の命令に絶対に従うべき存在です。
(ちなみに、奴隷というのは、この従者の内で、金銭で売買されうる存在をいいます)
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安息日は、一日何もせず、創造神のことを思うべき日です。
これを「守れ」と言う命令が安息日の戒めで、律法の一つです。
この日は通常、土曜日とされています。
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「この安息日に対しても私は主人である」とイエスは宣言しています。
「安息日は、創造神である父とイエスが造って与えた(伝えたのは天使)もの」だからです。
安息日も、(律法すべて)も、創造神が造った(定めた)被造物なのです。
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もちろん、創造神も御子も暴君ではありません。
いったん定めた以上は、これを廃棄することはしない。
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だが、その真意と細部はまだ伝えられていない。
エホバ天使がモーセに「十戒」として与えた段階ではまだ、伝えられていない。
それをいま、わたしは述べている。
安息日をつくり、その上位にある自分が述べている。
だからそれは正しいのだ、・・・ということになります。
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その上でイエスはさらにいいます。
「そもそも人間には律法を完全に守ることは出来ないのだよ」~と。
有名な「女を見て姦淫の情をいだけば、姦淫をしたのと同じだ」~というイエスの言葉は、それに関して発せられたものです。
イエスはこの例を用いて、旧約で「行為の罪」としてユダヤ人たちに受け取られていた「罪」の概念に、「思いの罪」を追加しています。
そして、旧約聖書の律法とは本来そういう深いものだ、という。
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明記されていないだけだ。
それらすべてが「罪」であって、それが律法の真理だ。
それについてはイエスは「わたしは律法を完全化しに来たのだ」とも言っています。

<人間はみな罪人>
さあ大変。
こうなると、律法を守りきることなど誰にも出来ません。
全てが罪人で、天国に入ることなど誰も出来ません。

<律法に「許し」を加える>
だがそこに、イエスは「赦し」を導入します。
「わたしは罪を許す権威を(父から与えられて)持っている」とイエスはいう。
(創造神は、律法に対しても主だから、そうなるわけですね)

<肯定的に受け入れたものに、イエスの言葉は実現する>
そして、この許しを得るには、「わたし(イエス)のその言葉を信じる(肯定的に認識する)ことだ」
「信じたものには、その赦しは与えられるのだ」~と宣言します。
この宣言が福音です。
「よき知らせ」です。
そしてイエスは弟子たちにこの福音を、「地の果てまでのベ伝えよ」と命じて、天に昇ります。
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これを記したのが新約聖書です。
だから、新約聖書には、律法も廃棄されないで生きています。
そこに許しも加わったのが新約聖書です。
新約聖書は、より総合的な聖書なのです。
イエスはそれを「(旧約)聖書は私のことを述べた本」という言葉で示しています。
(ヨハネ伝、5章39節)
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以上が、福音の「骨格」です。
福音に関して記されている細部のことがらは、みな、この骨格の中に位置づけることができます。
それらは冷蔵庫の中に食材を収納するがごとくに、収納されていくでしょう。
(完)
