随想8で、鹿嶋は人間の血を考えました。
それは「いのちエネルギー」を霊から受け取り、身体の諸器官に循環運動をもたらす機能を持つ、と考えました。
こんどは「イエスの血」を考えましょう。
難しそうだけどね。
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「人の子」となって現れたイエスの身体には、人間のように血が流れています。
だが、この血は人間の血とは異なるものという論理が、聖書から読み解けます。
<ロゴス(言葉)が人となった>
まず、イエスの身体全体がどういうものかを考えましょう。
それについてはヨハネ伝の1章が述べています。
イエスは言葉(原文のギリシャ語、ロゴスを当面「言葉」としておきます)が人となった存在だという。
すると、イエスの身体も言葉から出来ていることになります。
「言葉は人となって我々の間に住まわれた」というヨハネ伝の聖句(1章14節)はそれを述べています。
<人間の体は土の塵から造られた>
他方、人間の身体がどうか、は「創世記」(2章7節)に記されています。
アダムの身体が「土の塵によって創られた」と記されている。
(そこに「いのちの霊」をふき入れられたのが、アダムということになっています)
その人間の身体に、血が流れているわけです。
鹿嶋は随想8で、その血が「いのちエネルギー」を含み、身体を循環して諸器官に「いのち」を配布している、と仮説したのでした。
その「いのち」が諸器官に循環運動をさせている、と解したのでした。
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ところがイエスの身体は、塵でなく、創造神のことば(ロゴス)から出来ています。
「私の言葉は霊であり、またいのちです」というイエスの言葉が示すように、創造神の言葉は、霊です。
イエスの身体は霊なのです。
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余談ですが、ですからイエスが復活するときには、その身体がそのまま復活します。
それ故、弟子たちは、復活したイエスにあったとき、その手の釘あとの穴や、脇腹の槍の刺し傷を見ることになります。
他方、人間の身体は土ですから、死んだら崩壊消滅してしまいます。
復活するときには、人間の場合は、その霊が身体になるのです。
<霊が霊に対応する>
話を戻します。
イエスの身体は霊ですから、それは人間の霊に対応し得ます。
そこでイエスの身体の死は、霊の死となり、それは人間の霊の死の代償になり得ます。
これがイエスが十字架刑死して、人間の霊の死を代償するという構図を形成します。
<いのちの液状体>
さて、そういうイエスの身体を流れている血も、人間とは違うはずです。
これについて鹿嶋はまた大胆な仮説を立てましょう。
「イエスの血はいのちエネルギーそのものが液体化したもの」というのがそれです。
<イエスの血の効能>
さあ、そうすると、様々な推論が可能になります。
第一にイエスの血は、罪を相殺してしまいます。
罪は死のエネルギーをもっています。
罪の報酬は死、というのはそれをいっています。
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死のエネルギーとは、いのちのマイナスのエネルギーです。
対してイエスの血は、いのちのプラスエネルギーの液状化したものです。
このいのちエネルギーは、死のエネルギーに負けてしまうことはありません。
「闇は光に打ち勝たなかった」(ヨハネ伝、1章5節)はそれを言っています。
この血の持つプラスのいのちエネルギーは、死のエネルギーを相殺してしまうのです。
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第二に、イエスの血は悪霊を追い出します。
イエスの血が、いのちエネルギーの液状体であるならば、
悪霊は、自らのエネルギーである、死のエネルギーが相殺されるのを恐れ、
逃げるのです。
また、イエスの血には創造神の権威もともなっています。
それは悪霊には恐ろしいものとなります。
ですからイエスの血の権威を人間が宣言すると、悪霊は逃げて出て行くことになります。
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第三は、イエスの血は、契約の確証力を持ちます。
これについては、前述しました。
その血の権威を確信する人は、その契約(約束)の中に平安を得て定住できるようになります。
このように、イエスの血には、その契約の言葉を確証する以外にも、さまざまな効能が考えられます。
それはおかしなことではありません。
そもそも、聖書は「いのち方程式の本」ともいえる性格を持っています。
だから、いのち凝集体である「イエスの血」が様々な働きをするのは自然なことでもあるのでしょう。
(随想12.イエスの血は「いのちエネルギー」の液状体? ・・・・完)