前回、グレースという英語の持つ深遠な意味を示しました。
それは「代償を求めない愛」でした。
これを短く「無償の愛」と言う人もいますが、実はこれは、創造神だけに出来る「一方的に与えるだけの愛」でした。
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~御子イエスの統治下に入った人間には、「創造神の子となる機会」が与えられている。
そのことを創世前から決めてくださっている~
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人間はこれに対して報いるすべを持っておりません。
ただ感謝して受けるのみだ。
そういうプレゼントをくださる創造神の愛が、英訳聖書ではグレースという語で表現されていたのでした。
<何故か「恵み」になっている>
新約聖書の原典はギリシャ語で書かれています。その単語はアガペー(agape)となっています。
英訳聖書では、この語の意味を日常語のloveと混同しないために、わざわざgraceという言葉にしているのです。
なのに、日本の口語訳聖書では「恵み」となっています。
これではグレースのもつ意味はほとんど伝わらない。
どうしてこんな、日常語的な言葉を使っているのか。
今回は、それを考えます。
<グレースの思想は日本になかった>
日本語の聖書(文語文聖書)を始めて作成されたのは、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン先生です。
30年をかけての労作でした。
これを作るとき、「代償を全く期待しないで与える愛」という思想は日本にはありませんでした。
思想がなければ、それを表す言葉も現れません。
ヘボン先生、思案の末に「恩愛」という漢字熟語を考案されました。
そしてそれに「めぐみ」というフリガナをつけました。
もちろん、そんな用語は日本語にはありません。
ない言葉を使って、「この理念は日本語にはない独特のものだ」と示されたのでしょう。
それはヘボン先生がかろうじてとることの出来た最後の策だったのでしょう。
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だけど、そんなことされても、日本人はわかりませんよね。
その状態で第二次大戦での敗戦まで行きました。
そして敗戦を契機に、聖書をわかりやすい口語文にしようという動きが起きました。
ヘボン先生のつくられた邦訳聖書は、文語文による聖書です。
これを口語文にしようという動きが起きたわけです。
<どうせわからないなら「恵み」で>
その際、恩愛という語がよくわからない。
「めぐみ」とフリガナはつけてあるけど、漠然としてわからなかった。
そこで~、どうせわからないのだから、もうとっつきにくい「恩愛(めぐみ)」なんて語は使わないでおこう。
「めぐみ」という音を「恵み」と書いて、身近な漢字にしておこうぜ、~となったのでしょう。
こうしてグレースは「恵み」となったわけです。
そういうことですから「恵み」が何のことだか、今もわからないのは当たり前なんですね。
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そのわからない邦訳語でもって、「エペソ書」1章のパウロの思想が今も日本では示そうとされています。
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~御子イエスの統治下に入った人間には、「創造神の子となる機会」が与えられている。
そのことを創世前から決めてくださっているのは「恵み」だ~とパウロはいっている。
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・・と実質上表現しているのですが、・・・そんな言い回しではわからないよね。
そのことがグレースという特別な愛だということなんてわからないよね。
<日本語英語でいくべき>
鹿嶋は、英訳聖書のグレースは、もう日本語英語で「グレース」と訳した方がいいと考えています。
そうすると少なくとも「恵み」という日常語の持つニュアンスに惑わされなくて済むのです。
ちなみに鹿嶋は、聖書で「恵み」と出てきたときには、反射的に「グレース」と読み替えることにしています。
そしてこの語を使うと、「代償を求めない愛」という思いが提供してくれる、さらに多くの面が浮上してきます。
次回にはそれを考えましょう。
(=アガペー,グレース、恩愛、恵み=・・・・完)