福音における「罪の真理」は込み入っている。
「律法を守れ」、といいながらも、それを守れないのは、「究極の罪にはならない」、という。
では、究極の罪とは何かというと、「それはイエスを信じないこと」で「その真理には聖霊が導き入れてくれる」という。
この論理が複雑で、明確に理解できない。
良心の働きも複雑さを加重する。・・・これが人間の実情である。
理解できないから、今も日本の教会では「これこれの罪を犯しました」「御旨に従いませんでした」と“告白ごっこ”が盛んである。
<ヨハネの素晴らしい命名>
そこでこの二つに明確な名前を与えて、わかりやすく示そうとしたのが「ヨハネ伝」の著者ヨハネである。
彼は「死に至る罪」「死に至らない罪」という名前を考案した。
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「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たら、創造神に(いのちを)求めなさい。
そうすれば創造神はその(求めた)人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。
死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります」
(ヨハネによる第一の手紙、5章16-17節)
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「死に至らない罪」とは、「律法を守りきれない罪」だ。
良心うずきの罪、いわゆる罪咎(つみとが)の罪はこちらだ。
これはイエスの血を信じることによって、そのいのちでもって相殺され、消し去られる。
だからこの罪で死に至ることはない。
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「死に至る罪」とは、「イエス(の血の効用)を信じない罪」である。
すべての罪を消し去る「イエスの血の効力」を受け入れなかったらもうゆるし(消去)の道はない。
これすなわち「死に至る罪」となる。
<『ヨハネ伝』には神学がある>
ヨハネは教えられた言葉の言葉面の下にある奥義を熟考して、福音を示した人であった。
同じ伝記でも「ヨハネ伝には神学がある」と言われるゆえんである。
その代表例は~
イエスは創造神から出たロゴス(ことば)であり、「人の子」イエスは、そのロゴスが肉体となった方、という認識である。
こういう解説(教え)は、イエス自身もされていない。
だが、ヨハネはイエスの十字架上の身体が槍で刺されたとき、「血と水」が出たのをみて衝撃を受けた。
この記憶を晩年まで疑問として心に抱き、ついに、「この方の身体は人間の身体とは違っていた」のだ、という洞察にヨハネは達した。
「創造神から出たロゴスが肉体となった方」との本質的な理解に達したのだ。
これがないとイエスの伝記である「ヨハネ伝」にもよくわからないところが読者の心に残る。
ヨハネはそこで「人の子」イエスは「ロゴスが肉体化した存在」と伝記の冒頭に書いたのだ。
<大切な「恐れ」からの解放>
ともあれ、この明確な罪認識があってこそ、人は「恐れ」なくして律法に対面することが出来る。
「恐れから解放されて」律法を守るよう努められる。
これはイエスを心置きなく愛し、同一化の努力をするために必須なのだ。
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まず聖霊によって罪の真理を悟らされ、
それから、イエスとの同一化に、全身全霊を尽くす。
これによって、ステージ(III)への道は開かれるのだ。
~今回は、ここまでにしておこう~