この機会に、万物の創造神には、もう一つ「唯一者」(ただお一人の方)という属性も「筋として」出てくることを見ておきましょう。
<唯一者>
それは「二人以上いたのでは、筋として成り立たない」ことをみればわかります。
たとえば、「オレは自分以外のすべての存在を創造した創造神」だ、と主張する存在が、A神様とB神様の二者いるとしたらどうなるでしょう。
A神からみたら、B神は被造物になります。
ところがB神からしたら同様に、A神は被造物となってしまうのです。
つまり、「自分以外の万物」を創造した創造神が二人以上いるというのは、筋として成り立たないのです。
ごく当然になりたたなくなる。
創造神は、唯一者となるべくしてなっている唯一者なのです。
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(ここからは聖句に慣れていない人はスキップしていいです)
<聖句照合>
この推論に呼応している聖句は、たとえばこれでしょう。
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「まことにこの主(創造神)がこう仰せられる。
"わたしが主である。他にいない"」
(イザヤ書、45章18節)
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もしも、反対の意味を持った聖句、例えば「私の他に創造神はもう一人いる」といったような聖句しか見つからなかったら?
どうしてもそれしか見つからなかったら、筆者はその推論を破棄します。
そして再吟味します。
<聖句主義(Biblicism)>
このように最終権威を推論(解釈)でなく、聖句に置くという生き方を、バイブリシズムといいます。
米国南部のバイブルベルト、と呼ばれている地域の教会の用語です。
筆者はそれを聖句主義と邦訳しました。
そして筆者もまたその立場に立って、この基督教再入門をすすめています。
バイブリシズムについては、後にもう少し詳しく説明いたします。
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<ニッポン知識人の愚かさ>
(ここからは全てが読んでください)
余談です。
神概念をよく考えることもしないで、格言の如くに公言されているフレーズが日本にはあります。
「西洋の神は他の神を認めない独善の神だから、西洋人は寛容の心がうすい」とか、
「それに対して日本人は多神教だから寛容だ」とかがそれです。
あちこちでまき散らされている言葉ですから、読者も見聞したことあるでしょう。
だがそれは事態の構造を見ていない。
事象の上っ面をみているだけの妄言です。
悲しいことに、こういう妄言を、日本では、知識人と言われる人々がヌケヌケとマスメディアを通して公言している。
マスコミ人もそれを恭しく拝聴して報道しています。
~それによって、日本の国際政策も、日本人の国際行動も、的外れになってしまっている。
その結果、被らなくていい損失を被り続けています。
なんと愚かなことでしょうか。
民族のこういう愚かさを無くすためにも、創造神概念を入念に知っておくことがいかに大切か。
そのためにも「基督教再入門」はなくてならないものなのです。
(続きます)