Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

忘却は生存のための本能か

2018年12月25日 20時44分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昼過ぎに神奈川大学の生協まで食事をするために出かけたが、生協の食堂は本日はもう営業をしていなかった。大学の本部棟の8階にある食堂でランチ590円を食べた。ここは生協の運営ではなく大学側が設置している食堂のようである。見晴らしがよく、日吉の丘から鶴見のつばさ橋、東神奈川の孝道山の丘、ベイブリッジ、根岸の丘が一望に眺められる。本日は特に晴れ渡り、抜群の眺望を楽しんだ。

 帰りに団地の傍の学校の校庭沿いの花壇に弱々しいがユキヤナギが咲いているのを見つけた。葉がこの間の台風の塩害で枯れているが、枝ごとに2~3輪ほどの花が咲いている。撮影したが、2枚ともピントが外れて残念ながら証拠写真にはならない。
 5株ほど連続して植わっており、すべてに花が付いていた。団地の中のユキヤナギは花をつけていない。ほんのわずかな距離の違いで、台風の塩害の差が出ている。今年は春先の花木の咲き具合が寂しいかもしれない。



 SDカード内臓型のカメラでユキヤナギを撮影した。その写真は使い物にならなかったが、11月に撮影した写真が保存されていた。すっかり記憶から消えていた。自宅療養で一息ついたばかりの頃で、気分が暗く沈んでいた時期の撮影である。
 人はそういうときの気分はさっさと記憶の外に追いやって、本人の自覚しないうちに、生存に向けて前向きになるのだろうか。そして私はまだそのようなエネルギーが残っているようだ。

「孤独死」

2018年12月25日 12時21分02秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 室内にいるととても明るい陽射しの朝である。風がないので、寒さはあまり感じない。
 本日中に年賀状を仕上げて投函するつもりではあるが、果たして出来るであろうか。熱の裡に昨年いただいた年賀状やら「欠礼ハガキ」を整理。
 80歳を機に賀状は止めるとの宣言も幾枚かあった。だんだんと増えてくる。同時に新しい友人からの賀状も数枚。
 「欠礼ハガキ」は今年は11枚も来た。昨年よりも多い。亡くなった方の年齢を見ると同年代も幾人か。それだけ我々も歳をとったということである。が、亡くなった親の年齢はいづれもが90代半ばであった。これにはびっくり。ずいぶん長寿となったと思う。
 はたして我々の年代は平均寿命は延びるのだろうか。私は平均寿命は団塊の世代直前までだと思う。その後は下降へ転ずるように思えてならない。それが健康寿命といわれるものなのか、実年齢なのか、分からない。下降へ転ずるという根拠はまったくない。単なる「感覚」だけである。

 最近「孤独死」ということばをよく聞く。いづれも否定的に使われる。だが、どうなのだろうか。確かに死後、遺体の引き取りもなく、葬儀も出せず、という形は周囲の人びとや公的な機関にも多大な面倒をかけてしまう。
 だが、それだけではなく家族があっても一人住まいを選択して、ひっそりと亡くなりたいという人もたくさんいる。「孤独死」それ自体をすべて否定的に捉える、という風潮には私は首をかしげたくなる。それは個人の意志でもある。亡くなって日が経つことのデメリットは確かにある。「面倒をみなかった、看取らなかった」といって、遺された親族・家族は社会的な批判を受けかねない。また遺体の腐敗など周囲の迷惑もあるかもしれない。だが、一人静かに、人知れず死を迎えたいという意志をどのように尊重するか、考えてみたいものである。

 私もそのような立場になったら、一人静かにそっと生を終わりたいと思う。死んだら葬儀をするか、しないかは遺族の判断だが、私が亡くなることで、生き残った友人たちがささやかに酒盛りなどをする機会を提供できるなら望外の喜びである。
 それが隣人など周囲の人間の迷惑というなら、施設に入るしかない。だが、そのような資力は多分ないと思う。遺族にそれを負担はさせたくもない。
 妻よりも私が先に死ねば、妻には多大な面倒をかけることになる。それもまた心苦しい。

 人に迷惑を掛けずに死ぬ、ということはとても難しいことのようだ。

 正月を前にこんなことを記載して、不愉快にさせたら申し訳ないが、思いつくままに記してみた。


世界平和アピール七人委員会アピール

2018年12月25日 01時04分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
世界平和アピール七人委員会のアピールをいつものとおり、そのまま掲載します。
【⇒http://worldpeace7.jp/?p=1154


2018年12月17日
☆平和アピール七人委員会
武者小路公秀 大石芳野 小沼通二 池内了 池辺晋一郎 高村薫 島薗進

 政府は、沖縄県民の意思を無視して、玉城デニー知事の度重なる対話要請に真摯に向き合わず、対話を拒否し、辺野古の恒久基地化をめざし、埋め立て計画区域への土砂投入強行を始めました。
 安倍政権の度重なる暴力的行動は、日本国憲法に書かれている「国政は、国民の厳粛な信託による」とする人類普遍の原理に違反し、平和のうちに生存する権利を否定するものです。政治には倫理とヒューマニティが必要です。
 世界平和アピール七人委員会は、19世紀に琉球王国を滅亡させ、20世紀に沖縄戦において県民に多大な犠牲を強いたことに続く、21世紀の琉球処分を認めるわけにいきません。私たちは 沖縄県民の側に立ちます。
 国民一人一人が他人事と思うことなく、現状を直視し、発言されることを求めます。