

「白隠禅画をよむ 面白うてやがて身にしむその深さ」(芳澤勝弘、ウェッジ)読了。とても刺激的で面白かったが、如何せん禅画である。禅の知識だけでなく、当時の習俗、風俗がなかなか文章を読んでも分からない。これは手ごわい。
「白隠禅画を単なる古美術にしてはなりません。語録・法語などの白隠著作だけでなく、もし、民俗、芸能、美術、政治史などの視点からも、その特徴を解明することが必要です。そして、この禅画に込められたメッセージを再検証せねばなりません。そこには、火の出るような宗教家の情熱、つまり菩提心があり、三百年の時を超えて蘇ってくるはずです。白隠はいつ噴火するかわからない火山のようなものです。その秘められたメッセージを探り当てれば、そこに膨大なエネルギーが解放されます。しかし単に古美術品扱いしているならば、そのエネルギーは現代に蘇ってはきません。白隠の禅は「上求菩薩、下化衆生」という実践的テーマに集約されますが、それはいわば永遠の未完成です。‥」
白隠の絵画作品にかかれた「賛」を追っても理解が私には難しい。以前、八甲田の温泉地で登山の途中に悪天候とケガで1泊したおり、道元の書を講談社学術文庫で読んだ。むろん現代語訳付でなければ読み進められなかったが、一冊全部なんとか読み終わるとそれなりに何かわかったような気分にはなった。
しかし白隠の作品と「賛」をこの書の解説を読んでも「わかったような気分」にはなれなかった。解説が分かりにくいのではない。作品と「賛」そのものがわかりにくい。
だが、絵画作品としてはどこかやはり惹きつけられる。これは見るたびに解説を読んで各棟を続けるしかないようだ。それがわかっただけで取りあえず満足しておこう。