Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は忙しい

2018年12月16日 23時20分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の横浜の最高気温は6.9℃と7℃に届かなかった。雨は予想通り昼過ぎから15時くらいまで。冷たい雨となった。
 夕方は晴れて、星空も見えたが、先ほど夜のウォーキングに出かけたら薄曇りで星を見ることが出来なかった。月が薄い雲の向こうにかろうじて半月の形がわかる程度に見えていた。

 明日は午前中に雨の予報。午後からは晴れる。最高気温の予報も12℃とずいぶん高くなる。せっかく冬になったと思ったのだが、晩秋に逆戻り。

 朝は9時前に家を出て、組合の会館へ。9時半から16時までは慌ただしくて、気が抜けない。帰宅時間も遅くなりそうである。忘年会もあるのだが、お酒は飲まずに過ごすことになる。とても寂しい。

「駒井哲郎」展から4

2018年12月16日 20時00分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日で終了した駒井哲郎展、遅くなってしまったが、印象に残った戦後の彩色のある作品をいくつか。

   

 まず「星座」という作品群。1971年の「星座Ⅰ」「星座Ⅱ」「星座Ⅲ」という3枚組の作品がある。これは数年前に東京都現代美術館で見ることが出来た。現代美術館の所蔵品である。
 その時にどこかで書かれていたらしいのだが、同じ「星座」という作品があることを知った。いつかまとめて見たいと思っていたのだが、どうも今回展示されている1968年に完成したらしい「星座」(石洞美術館蔵)がそれにあたるらしい。
 1968年と1971年とを比べると、後者の方が丸い形態が中心に変っている。作者の「宇宙」に対する「像」の変化である。同時に世の中の宇宙に対する「像」も確かに変化していたように私は感じている。私自身の「宇宙の像」も変化していた。
 作者にとって「星座」とは「宇宙」の意味なのである。例えば「星座Ⅱ」は星、しかもかに星雲のイメージである。星の一生の最後の超新星爆発後の残骸の輝きである。中心に残るのはブラックホールである。
 その宇宙の像は、米ソのロケットというものによる開発戦争という側面ではなく、ビッグバンであったり、膨張する宇宙であったり、ブラックホールなどの存在や、銀河系の形態やや銀河群というものの存在に関する知見の深化にともなうイメージの転換だったと思う。
 宇宙が突拍子もない不思議なものから、どこかイメージを作ることが可能なものとして身近になってきたことの反映なのであろうか。
 現在もまだまだ「宇宙の像」は更新をされているが、1960年代から1970年代にかけての方が、その変化は大きかったかもしれない。あくまでの私個人のイメージの変化に沿った思い出しかないが‥。
 私の脳内では「星座Ⅲ」のイメージが渦巻いている。

   


 そして思い出したが、当時購入することも読むこともなかったが、「新潮」という月刊誌があった。今もあるようでいろいろと物議をかもしている。当時書店に並んだこの「新潮」の表紙に時々目を奪われていたことを覚えている。展示では1972年の1、2、3、10月号の原画があった。一つ一つの記憶はないが、こんなイメージの月刊誌があった記憶がちゃんとよみがえってきた。どこか「輝いていた」雑誌で会ったと記憶している。
 当時は駒井哲郎の名も知らず、版画ということもほとんど理解していなかった。ずいぶん派手な雑誌だと思っていた程度である。ただあまり明るい世界は私の周りでは縁がなかった。
 今回あらためてこれら世田谷美術館蔵の作品を見て、3月号に香月泰男のシベリアシリーズの中にある「青の太陽」(1969)を思い浮かべた。駒井哲郎の作品の下の緑の造形が、うつむく人間の群れに見えてきた。どこか鎮魂歌として共通点を感じて、大いに惹かれた。



「木枯らし」の句

2018年12月16日 11時35分42秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 午前中の用事は終了。昨日のようにお昼前には家を出て組合の会館へ。午後からの雨にそなえて、起きてすぐに、いつも持ち歩くごく軽いウインドブレーカーとリュックに防水スプレーを軽く吹き付けた。
 本日の最新の天気予報では最高気温の予報が横浜では9℃。時系列の予報では正午から15時までが雨の予報である。南の空、遠くの方は明るい。はたしてどのくらいの雨になるのだろうか。予報は降る恐れもある、という表現から、断定的な表現までテレビ局などによって三秒に違っている。今のところ風はそれほど強くはない。体感温度はこのままならば昨日ほどには寒さを感じないかもしれない。

★海に出て木枯し帰るところなし     山口誓子
★凩や焦土の金庫吹き鳴らす       加藤楸邨


 第1句、1944年の作。「この句を作った時、私は特攻隊の片道飛行を念頭に置いていた」と書いているとのこと。太平洋戦争のさなかに発表された句ということもあり、直接的な表現を避けたのだろう。「帰るところなし」とは片道切符の燃料のみの特攻隊をいっていることになる。
 第2句、「野哭抄」より。直後に「全官公労ゼネストを前に委員会出席、その後病臥 咳つのる目を日輪のゆきもどり」の句があるから、1947年1月の句と思われる。まだ今の23区内も空襲の焼けた跡が生々しい景観が広がっていたはずである。焼け野原に遺された金庫、それが荒れた社会の象徴としての金庫、ということにもつながっている。
 いづれも忘れられない句である。