何があろうが、素直に世に従わない私は皆が楽しく浮かれていると、まずは不機嫌になる。そして決して肯定的には同調しない。クリスマスと聞くとまずは背を向ける。
クリスマスを素直には喜んでいない句をまずは探してしまう。
★イヴの灯のとどかぬ闇に生きるもの 大西やすし
★人工滝見詰めて聖夜の酔ひさます 中村和弘
★へろへろとワンタンすするクリスマス 秋元不死夫
★虫ひとつ殺して聖樹を飾り終え 藤井健史
むかしいわゆる受験校で、カトリックに基づくミッションスクールの中学1年となったとき、12月にクリスマスパーティーが開かれた。小学校の低学年でも騙そうというかのようなちゃちな馬小屋に年老いたみすぼらしい老人と若い母親、包まれた赤子、そしてそれを拝む3人の男と3頭の馬かロバかわからない動物の舞台、そして高さ3メートルほどのクリスマスツリーを見せられ、ブラザーの聖書の朗読を聞かされた。あのちゃちなものはブラザーが毎年「精魂を込めて作る」と聞いた時には唖然とした。
聖書の朗読は、中学1年から高校3年まで1200人がとてもまじめな顔をさせられて聞かされていた。入学して1年近く経った私たちにはそろそろ学校に慣れてきて、あまりのお粗末な飾りに辟易したが、高校3年生まで真剣な顔をして参列していることの方がおかしかった。それは同じクラスの友だちとも共有した感想であった。
それ以来私は、ミッションスクールの行事には背を向けることにした。面従腹背、早く卒業してしまいたかった。やめるのは面倒であった。公立の中学に行くのはもっと嫌だった。親と喧嘩するのも面倒に思われた。学校というところに居場所はないと悟った瞬間でもあった。
数学や理科の教科書や問題集を解いているほうが面白いと思った。国語で習う小説を読んでいるほうが楽しいと心底思った。
カナダに本拠があるというブラザーの母体である修道士会とその学校法人の鼻持ちならない高慢さと、十代の少年を宗教の行事の時には幼児のようにとらえるアンバランスな姿勢が、嫌になった。ただし、にもかかわらず個人的には魅力あるブラザーも幾人かはいた。個人の振舞いと集団としての振舞いには大きな乖離もともなうということもうすうす気がついた。
それ以来、クリスマスというととても馬鹿馬鹿しいものだと思い込んでいる。当時はクリスマスはサラリーマンが街中でへべれけに酔っぱらって大騒ぎをする時代でもあり、私はますます本筋から逸れているクリスマスが嫌いになった。
クリスマスを享受する世相、クリスマスのおおもとの教会の子供だましの飾りつけ、両方とも私は受け入れなかった。