Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

クリスマスには背を向ける

2018年12月23日 23時52分52秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 クリスマスという季語を歳時記で引いてみると、まずはクリスマスという行事に明るく楽しくなじんでいる句が目につく。
 何があろうが、素直に世に従わない私は皆が楽しく浮かれていると、まずは不機嫌になる。そして決して肯定的には同調しない。クリスマスと聞くとまずは背を向ける。
 クリスマスを素直には喜んでいない句をまずは探してしまう。

★イヴの灯のとどかぬ闇に生きるもの    大西やすし
★人工滝見詰めて聖夜の酔ひさます     中村和弘
★へろへろとワンタンすするクリスマス   秋元不死夫
★虫ひとつ殺して聖樹を飾り終え      藤井健史


 むかしいわゆる受験校で、カトリックに基づくミッションスクールの中学1年となったとき、12月にクリスマスパーティーが開かれた。小学校の低学年でも騙そうというかのようなちゃちな馬小屋に年老いたみすぼらしい老人と若い母親、包まれた赤子、そしてそれを拝む3人の男と3頭の馬かロバかわからない動物の舞台、そして高さ3メートルほどのクリスマスツリーを見せられ、ブラザーの聖書の朗読を聞かされた。あのちゃちなものはブラザーが毎年「精魂を込めて作る」と聞いた時には唖然とした。

 聖書の朗読は、中学1年から高校3年まで1200人がとてもまじめな顔をさせられて聞かされていた。入学して1年近く経った私たちにはそろそろ学校に慣れてきて、あまりのお粗末な飾りに辟易したが、高校3年生まで真剣な顔をして参列していることの方がおかしかった。それは同じクラスの友だちとも共有した感想であった。

 それ以来私は、ミッションスクールの行事には背を向けることにした。面従腹背、早く卒業してしまいたかった。やめるのは面倒であった。公立の中学に行くのはもっと嫌だった。親と喧嘩するのも面倒に思われた。学校というところに居場所はないと悟った瞬間でもあった。
 数学や理科の教科書や問題集を解いているほうが面白いと思った。国語で習う小説を読んでいるほうが楽しいと心底思った。

 カナダに本拠があるというブラザーの母体である修道士会とその学校法人の鼻持ちならない高慢さと、十代の少年を宗教の行事の時には幼児のようにとらえるアンバランスな姿勢が、嫌になった。ただし、にもかかわらず個人的には魅力あるブラザーも幾人かはいた。個人の振舞いと集団としての振舞いには大きな乖離もともなうということもうすうす気がついた。

 それ以来、クリスマスというととても馬鹿馬鹿しいものだと思い込んでいる。当時はクリスマスはサラリーマンが街中でへべれけに酔っぱらって大騒ぎをする時代でもあり、私はますます本筋から逸れているクリスマスが嫌いになった。

 クリスマスを享受する世相、クリスマスのおおもとの教会の子供だましの飾りつけ、両方とも私は受け入れなかった。



「受胎告知」(高階秀爾)から

2018年12月23日 20時31分00秒 | 読書
 今回もいつものように覚書として、メモ代わりに。

「ルネサンス期を特徴づける様式といえば、大きく分けて「遠近法」と「肉づけ法」、「明暗法」がある。(遠近法では遠くへ行けば小さく見えるという考えに基づく「線遠近法」と、同じ色でも手前にいる人ははっきりと鮮やかに見える一方、遠くの人は少しぼやけ、ぼんやり見えるという視覚体験に基づく「色彩遠近法」という方法がある。)「肉づけ法」は、例えば人間の顔を恵萼歳に、鼻や顎は少し前に出ていて、頬は丸みを帯びるというように、凸凹を明確に描き+。この肉付けという手法は陰影の効果によって実現されるが、その背景には油彩画の発達が非常に大きく寄与している。「明暗法」は、空間の中に何かを置いた時に、どの方角から光が入ってくるのかによって、光のあたり方が決まることに着目した手法である。」
「すなわち音金法は三次元の空間を、肉付け法は対象の立体性を、そして明暗法はその空間における対象の配置を明確に規定し、併せて、目に見える現実と同じように世界を画面に再現するという技法である。これらの三つの手法は、14世紀の終わり頃から模索され、15世紀にはほぼ完成を見た。」


「ゴシック時代から人間的に描かれるようになったマリアは、ルネサンス時代を迎え、いちだんと人間味あふれる親しみやすい存在として描かれるようになる。‥ルネサンスとは、現実の魅力に目覚めた時代だったのである。」

聞こえないふり‥

2018年12月23日 12時06分19秒 | 思いつき・エッセイ・・・

☆歳をとると耳が遠くなる☆

 歳をとると耳が遠くなる、ということをよく聞く。そして確かに多くの先輩が、低音が聞きづらくなったり、会話に支障をきたして、補聴器をつけ始めている。
 私もテレビの音が大きくなったといわれる時がある。同じテレビで以前は音量が40段階で1年中14で聞いていた。最近は夏場のクーラー作動時や冬場のガスストーブを点けた時には17位に音量を上げないと聞きづらい時がある。
 それは番組にもよる。だいたいバラエティー番組では14位でも煩いし、そのチャンネルにしているだけでわずらわしい。喋りの整ったアナウンサーであれば、男女を問わずボリュームは上げないでも聞こえる。早口の喋りでも男女や低音・高音に関係なく聞きやすい芸人がいる。話芸というのは喋り方がスマートというのではなく、老若に関係なく、聞きやすさを心得ているのであろうと、推察している。要するに嫌な声、どうでもいい音声は耳がひろってくれない。これは反面ではいいことだ。

☆聞こえているのに聞こえないふり  その1☆

 だが、聞こえているのに聞こえないふりをする場合が多い、ということに若い人は気がつかない。また同年代や高齢の人自身も無自覚である。
 聞こえているのに聞こえないふりというのは二種類ある。

 会議の前後などで会話中に他の方に割り込まれると、聞こえないふりをする場面が明らかに増えた。複数のことを同時に進行させることがとてもわずらわしく、面倒になってきている。
 もともと人が他の人と会話中に声をかけてくる人というのはいつも決まった人である。人の都合よりも自分の都合を優先する人である。そしてその都合はほとんどの場合あまりたいした重要性や緊急性はない。「そんなこと自分でやってよ」という一言で片付けたい。そのようなことはたとえ聞こえても聞こえないふりをすることにしている。その方が相手を傷つけることばをこちらから発しない分、人間関係を悪くする契機とはならない。歳のせいにして聞こえなかったといえば逃げられる。
 逆からみれば、この人のいうことは大切、と思う場合や、急ぎかどうかを判断してその場合は反応することにしている。

☆聞こえているのに聞こえないふり  その2☆

 もうひとつ聞こえているのに聞こえていないふりをする場合がある。それはテレビの番組内容や読書や自分の思考に熱中しているときである。それらは中断すると次に思い出せなくなる、というときである。その時は聞こえないふりをする。それはたいていが家にいるときが多い。妻から声を掛けられる場合が圧倒的である。
 妻に言わせれば、私のいうことを無視した、と不機嫌になる。これは申し訳ないと思いつつも、思考を中断されるのが歳をとるとつらくなるのである。それは私から妻に声をかける場合も同じである。
 ところが、ふだんあまり大勢の人と会話をする機会が少ない妻にしてみれば、たまに会話をしたいときに無視をされた、と傷つく。私は人に囲まれている時間が多いので家では静かにしていたい。これはもうすれ違いそのものである。ここの折り合いが夫婦関係の持続の難しいところである。無視された妻からは、耳が遠くなってやはり歳なのね、といわれる。

☆補聴器の装着☆

 以上のふたつの、聞こえているのに聞こえないふりを演じているという自覚があるうちは、多分補聴器のお世話にはならずに済むと思う。しかしその自覚がなくなったら補聴器の装着を考えた方が良いようだ。
 もうひとつ、テレビの音量が40段階のうち、20を超えたらやはり考えなくてはいけないかもしれない。客観的ものさしと、自覚、二つは手放せない。