「図書1月号」(岩波書店)より。いつものとおり覚書として。
☆セザンヌの生家 司 修
「まだ十代の終りごろの出来事が、そのまま夢となるのです。八十歳になっても。‥一か所のみ、これは「セザンヌの生家だ」。これからドラマがはじまる、という時に、目覚ました。」
この文章の個所で、どこかホッとした。私は夢をほとんど記憶しないが、ふだんいろいろと思いを巡らせるときに必ず十代後半のころからの自分が出てくる。あるいはさまざまな判断の基礎にそのころからの思いなどがどこかに横たわっていることに気がつく。そんな自分が「思い出にすがっている人生なのか」と不安になる。しかし多くの人がこのような体験をしていると知ると、人間とはそういうものだ、と合点できる。またそれで安堵する自分がいる。
☆畸人鵬薺 沓掛義彦
「鵬薺先生を酒伴として酒を酌みつつ思うに、近年の日本人の劣化はひどすぎる。正解、寛解は言うもおろか、産業界から、スポーツの世界に至るまで大ウソが堂々まかり通り、モラルは地に墜ち‥。かく言う拙老もそういう日本人の一人であって、江戸時代に生きていたら「腐儒」と呼ばれた人種に属することは間違いない。」
大酒で憂さを晴らす選択は私にはない。どうもこの御仁は大酒を飲みうそぶくことが何かの価値であるかのように錯覚されているとしか思えない。一仕事、一行動ののちにお酒もひとつの癒し・語りの縁として飲むべし、語るべしと思うのだが。酒に飲まれてはいけない。
☆「伊丹十三選集」刊行に寄せて 磯田道史
「『孝明天皇紀』は恐るべき公開度の高さだから、孝明天皇が痔に悩まされていたことを包み隠さず、情報公開している。現代では『大正天皇実録』などが公開されても、天皇・皇族の病気にかかわる部分は、宮内庁の方針か、非公表にされることが多く、黒塗りされていて公開されない。」
「縄文人の足が恐ろしく達者で、一日に五、六十キロ、東京鎌倉ぐらいを楽に往復していた、とは、教室の誰からも聞きだせなかった。やはり、伊丹さんの好奇心が的を得たところに向っており、聞き手として非凡なのであろう。‥伊丹さんは、研究者も知らないような歴史情報を独自に動いて入手しておられた。‥」
☆潜伏キリシタンと世界遺産 西出勇志
「安倍晋三首相は「世界の宝を大切に守り、魅力を世界へ発信する決意を新たにしたい」との談話を発表した。だが、もともとは為政者による弾圧あってこその潜伏であり、堰史的事実の多くは凄惨な悲劇に彩られている。‥内心に踏み込んでくる為政者の暴力性を教訓として胸に刻みたい。幕末の維新期のキリシタン弾圧「浦上四番崩れ」は遠い昔ではない。思想・良心の自由、信教の自由を考える上でこの教訓も宝である。」
「終焉の大浦天主堂での主役は浦上の農民である。彼らが絵踏を強いられた庄屋屋敷は信仰と世俗権力がクロスした場であり、内心に踏み込んでくる為政者の行為に応じざるを得なかった先人たちの悲しみが凝縮している。潜伏キリシタンの名前を冠した世界遺産の中に浦上がないのはどうにも割り切れない気分が残る。世界遺産の物語の後に「浦上四番崩れ」があり、キリシタンを狭所へ押し込んで多数の死者を足した五島列島・久賀島の「牢屋の窄」を含む「五島崩れ」の弾圧があった。世界遺産登録の脚光と祝福の影で、負の歴史がこぼれ落ちないように教区を改めて胸に刻みたい。」
☆熊さん八つぁん 武田雅哉
「2013年、オバマ大刀利用と並んだ、すがた・かたちが、ディズニーのアニメでだれもが知るところとなった「くまのプーさん」に似ていると評判になって以来、中国当局は、インターネット上においてこの図像を検閲したばかりか、釜山の実写映画についても国内での上映を拒否したというのである。明王朝の皇帝が、みずからの命運を豚に重ね合わせた結果、かえって豚を抹殺しかけた事件から五百年を経て、国家のトップとの類似性を理由として、こんどは異国のくまさんが抹殺されようとしている‥。政治の大国でも、動物たちも、なかなかしんどいのである。」
いやいや日本でも同様のことが間もなく起きる予感が私にはしている。
☆モダン語の時代 山室信一
「世界的動向を吸収するモダン語こそ日本語の国際化に繋がると説く推奨論と、雑駁で浮薄なモダン語こそ日本語の乱れをもたらす現況だと主張する排斥論が対立する。‥モダン語排斥の声は、軍靴の音ともに高まる。英米語などのカタカナ語は「敵性語」として駆逐され、モダン語は自粛を強いられていく‥。」
「既に彼方に去ったモダン語の地平に歩み寄り、そこから改めて現在を見返す時空を往還する旅路へ、いま旅立つ。」
確かに「国家」がことばに介入するのはことばの弾力を失わせ、個人の内面や思想に介入する。ことばは、日本語はそんなに柔な言語ではない。だが、一方で現在のビジネス用語の安直な氾濫(すでに原語の意味すら捻じ曲げている)や、政治家のことばの劣化は目を覆うばかりである。ことばへの信頼が薄れつつあり、「敵性語」ならぬ「意味不明外来語」への規制を歓迎することに多くの人が同意しかねない時代がまた起きつつある。
世代間のことばのギャップは昔も今もある。だが、貧富の格差拡大とともに、階層によることばの違いも拡大していないか。150年以前のように政治家・上級官僚が家業となってしまった戦後日本である。
☆泣かない読書 -灰谷健次郎「兎の眼」 柳 広司
この本は1974(S49)年の出版。無名の新人作家の灰谷健次郎をベストセラー作家にした。
「「効果があればやる、効果が無ければやらないという考え方は合理主義といえるでしょうが、これを人間の生き方にあてはめるのはまちがいです。この子どもたちは、ここでの毎日毎日が人生なのです」。作中で引用される障害児の面倒を長く見てきたドイツの修道女の言葉は、経済合理性ばかりが追求される今日の日本社会を正面から撃ち抜く。国会議員が人間を「生産性」の物差しで計る意見を文章で発表し、そのことに一切責任を取らずに済まされるこの国の行き着く先は、2016年に相模原で起きた障害者大量殺人さえ肯定する社会であろう。“弱い、力のない者を疎外したら、疎外した者が人間としてだめになる”」
「大人がやるべきは「悲惨すぎる」戦争を閲覧制限や記載削除で隠蔽することではなく、「悲惨すぎる」戦争そのものを無くする努力をすることであろう。」
☆秋野不矩さん(大きな字で書くこと) 加藤典洋
「(秋野さんが)亡くなったのは、2001年の10月11日。‥バーミアンの大仏がタリバンによって爆破されたのは、2001年の3月のこと。もし秋野さんがバーミアンを訪れたら、その穴を描いただろう。」
☆野見宿祢の墓 三浦佑之
「もし播磨国の立野に作られた墓がヒトデのような四隅突出型か方墳であったなら、ノミノスクネの墓である可能性は大きいと思うのだが、さて」