展示はルーベンスの版画の次は急に19世紀に飛ぶ。ベルギーは1830年に近代国家としての独立を果たす。フランスの象徴主義の影響下、「中世からルネサンスにかけて北方美術が好んで取り上げたきた骸骨たちの舞台の近代的な再生」(図録解説)が行われたと記されている。
この作品は「舞踏会の死神」(フェリアン・ロッブス、1865-75)。ちょうど日本では江戸幕府が解体し明治の時代が始まったころである。カトリックの多数派の国ベルギーではキリスト教的な制約を超えた市民的自由が希求される中で、ボスやブリューゲル的な世界が注目を浴びたということなのだろうか。あまり単純化はしたくはないが‥。この作品の白い着物はカトリックの司祭がミサで着る服らしい。それを骸骨が着用して舞踏会に現われたという想定らしい。下に出た細い足が妙に艶めかしい。教会の権威に対する揶揄といえそうだ。ロップスの作品は11点ほどある。絵画としての評価はさまざまであろうが、とても強烈な風刺画である。
ウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンク(1867-1935)の「運河」(1894)。運河の手前の岸に等間隔で並ぶ7本の樹と画面の右三分の二に描かれた浮かび上がる煉瓦の建物と左側の名にもない空間が印象的である。縦42センチ余、横122センチ余という大胆な構図で、そして草を表現する緑と運河の深い青、レンガ色、黒い樹木という配置にも魅せられた。煉瓦の建物の窓ガラスは割れて、灯りもなく廃墟である。
「人間的なものの欠如」「当時の社会事情の反映」「時代を超えた神秘的な悲しい雰囲気」と解説に記されている。私は当時の工業化の非人間的な労働と資本の競争の残酷な結果を、醒めた諦念で見つめた作品に思えた。一見非現実的に見える風景が、現実のものであるというアイロニーを感じてはいけないのだろうか。私はこのような作品が実に背後には人間的な感情に裏打ちされた作品に思える。
ヴァレリウス・ド・サードレール(1867-1941)の「フランドルの雪」(1928)。これは高低差はないが、ブリューゲルの「雪中の狩人」(1565)を思い起こさせる作品である。ブリューゲルの作品から人間をはじめ動く動物をすべて取り去った時の静寂の世界である。しかし人の住む家は丹念に描かれている。印象的なのは沈む夕日である。朝日とは思えない。どんよりと暗く沈んだ空が画面善意の6割以上を占めている。
これがベルギーの冬の空なのだろうか。太陽の下には村の家々ではなく街の混みあった家並みのような描写がある。そこも静まりかえっている。他の作品が展示されていないので、よく分からないが、このような風景画にとても惹かれる。この静寂に画家がこだわったものは何なのだろうか。気になる。
ジェームス・アンソール(1860-1940)の「キリストのブリュッセル入城 1889年マルディ・グラの日」(1898)。不思議な色彩感覚と人物造形のアンソールの水彩画。
画面の真ん中に、キリストのエルサレム入城になぞらえてキリストの格好をしたアンソールが描かれている。しかし画面手前の人びとの視線はキリストなど見ていない。仮面をかぶっている。マルディ・グラとは謝肉祭の最終日の祭りが催される日。キリストの栄光と同じく、アンソール自身はブリュッセルに迎えられたものの実際は無視と無理解という扱いを迎える。
しかしこのように自己顕示が強い人というのはとても付き合うのは苦労をする。アンソールという人、なかなか難しい人であったようだ。の人の作品もブリューゲルに似て中心性の希薄な作品が多いようだ。
ポール・デルヴォー(1897-1994)の「女性と骸骨」(1949)。この作品は初めて目にした。インクと水彩の作品。背景の壁が着色され、主題である女性と骸骨は淡彩である。
艶めかしい裸体の女性像が頻出する作品群の中で、着衣の、それも着飾ったような女性像は珍しい。座ってはいないが骸骨の手も女性像と同じような手の仕草である。悩みは同じなのであろうか。
人間を透写してもその思考の内部は見通せない。悩みなど空虚なのかもしれない。あるいは死の前にはすべて無効という諦念なのだろうか。骸骨と女性にはなんの接点も関係もなさそうである。しかし何かを考えているということは共通している。
ルネ・マグリット(1898-1967)の「夢」(1945)。昨年のルネ・マグリット展でも展示されていたと思う。宇都宮美術館所蔵作品である。マグリットの作品には影がこのように同じ向きのものがある。鏡像もこのように描いたものが確か存在したように記憶しているが確かなことはわからない。
実は私は小学生の時、鏡像はどうして左右対称なのか不思議でしようがなかった。どうしてこの絵のように映らないのか。左右が見た目と変わらない方が自然ではないか、とずいぶん悩んだことがある。そんなことを思い出させてくれる作品である。
デルヴォーやマグリットの作品がボスやブリューゲルの作品や思想とどのように換券するのか、交わるところがあるのか、私にはよくわからないまま、展示室を後にした。共通点に「死の匂い」がある、「メメント・モリ」の警告がある、とのことであるらしい。しかしそれだけならばすべての絵画がどこかでつうじているという、一般化でしかない。ここまで現代へ引っ張ってくると、もうわからなくなるばかりであった。