Sightsong

自縄自縛日記

土井徳浩@新宿ピットイン

2017-03-05 20:09:22 | 中南米

新宿ピットイン昼の部にて、土井徳浩DUO(2017/3/5)。

Tokuhiro Doi 土井徳浩 (cl)
Takeshi Obana 尾花毅 (7 strings g)
Sawori Namekawa 行川さをり (vo)

クラとギターのデュオ、またはヴォーカルを加えたトリオで、ブラジルのギタリスト・作曲家であるギンガ(Guinga)の曲ばかりを演奏するという趣向。 

確かに行川さんが「おたまじゃくしが多い」という通り、トリッキーでうねうねした曲ばかり。それでいて愉しくも物哀しくもある調子であり、それを、土井・尾花の超ハイテクにて何てことないといわんばかりに展開していく。クラもギターも音色が少しドライでとても滑らかである。行川さんもちょっとかすれた良い声でスピーディーに唄う。

ギンガって聴いたことがなかったが、こんなユニークな曲を書く人だったのか。(ところで、「Mingus Samba」という曲もあったが、あまりミンガスっぽくなかった。)amazon musicにも入っているし、あとで聴いてみよう。


ジェリー・マリガン+アストル・ピアソラ

2017-02-22 23:11:00 | 中南米

『Gerry Mulligan / Astor Piazzolla』(Accord、1974年)を聴く。

Astor Piazzolla (bandoneon)
Gerry Mulligan (bs)
Tullio De Piscopo (ds, perc)
Guiseppe Prestipino (b)
Bruno De Filippi, Filippo Dacco (g)
Alberto Baldan, Gianni Zilioli (marimba)
Angel "Pocho" Gatti (p, org)
Renato Riccio (viola)
Umberto Benedetti Michelangeli (vln)
Ennio Miori (cello) 

こんな録音があるとはまったく知らなかった。調べてみると何度も再発されており、オリジナル盤は『Summit』というタイトルであったようである。

1曲のマリガンのオリジナルを除き、あとはすべてピアソラの曲。マリガンの曲にしてもまるでジャズらしくはない。これはタンゴのアルバムである。あまりピアソラを聴いてはいないのだが、馴染みのメロディーが流れてくる。

それにしても、最初はタンゴ・サウンドの中にあるバリトンサックスの音に違和感を覚えた。しかし繰り返していると、バンドネオンとバリサクの絡みが実に気持ちよくなってくる。名人ふたりの共演だから当然なのか。

●ジェリ―・マリガン
ジーン・バック『A Great Day in Harlem』(1994年)
ジェリー・マリガン+ジョニー・ホッジス(1959年)
ビリー・ホリデイ『At Monterey 1958』(1958年)
バート・スターン『真夏の夜のジャズ』(1958年)


アンドレ・マルケス『Solo』

2017-01-16 21:53:51 | 中南米

アンドレ・マルケス『Solo』(2005年)を聴く。

Andre Marques (p)

先日もエルメート・パスコアールのグループにおいて、あまりにこりともせずに卓越した技巧と愉快な雰囲気を見せてくれた、アンドレ・マルケスのピアノ・ソロである。「あまり」というのは、メンバーが並んでパーカッション合戦をやったときだけ、耐えきれずにか笑っていたからである。

たぶん、すごくマジメな人なのだと思う。音楽もマジメで端正だが、つまらなくはない。むしろその逆で、実に愉快。そしてタッチが柔らかく、強弱を効果的に使っている。エルメートの、前につんのめってはしゃぎまくるような曲のセンスを、色濃く受け継いでもいる。

ぜひピアノ中心のバンドで来日してほしい。トリオ・クルピラでも、『Viva Hermeto』のような思いっきりジャズでもいい。

●アンドレ・マルケス
エルメート・パスコアール@渋谷WWW X(2017年)
トリオ・クルピラ『Vinte』(2016年)
アンドレ・マルケス『Viva Hermeto』(2014年)
アンドレ・マルケス/ヴィンテナ・ブラジレイラ『Bituca』(2013年) 


エルメート・パスコアール@渋谷WWW X

2017-01-09 09:29:48 | 中南米

渋谷のWWW Xに足を運び、エルメート・パスコアールのグループを観る(2017/1/8 1st)。わたし自身は2004年に代官山で観て以来だが、そのときはシロ・バチスタが当日になって共演でなく別々にプレイしようとエルメートに言われ苦笑したとの話を聞いた。巻上公一さんも登場した。その後2回くらいは来日しているはずだ。

行けるかどうかわからなかったため予約が遅れ230番台だったが、幸運にも最前列が空いていた。

Hermeto Pascoal E Grupo:
Hermeto Pascoal (key, vo, 角笛, perc)
Itibere Zwarg (b, vo, perc)
Andre Marques (p, perc)
Jota P. (Joao Paulo) (ss, as, ts, fl, piccolo fl, perc)
Fabio Pascoal (perc)
Ajurina Zwarg (ds, perc)
Guests:
須藤かよ (accordion)
ケペル木村 (perc) 

開演までの1時間は、ThomashによるDJ。ダンサブルでカッコいい。shazamでピックアップした音源は以下のもの。

Pedro Santos "Desengano Da Vista"
Kidstreet "Song (Strig Version)"
Frank Ocean "Nikes" 

さて満を持してグループの登場。

ほぼノンストップで1時間20分。どのパフォーマーも魔術師さながらだ。イチベレ・ズヴァルギのベースの疾走感あるグルーヴ。アンドレ・マルケスの理知的かつ情熱的なピアノ。ジョタペ=ジョアン・パウロの完璧なサックスとフルート。

そして御大エルメート・パスコアールのキーボードは異物感さえあるにも関わらず、サウンドを常に浮き立たせるようにしてドライヴする。エルメートのスキャットによるコール・アンド・レスポンスは複雑で、観客が付いていけず爆笑。全員で、玩具や木靴を含めたパーカッションによる演奏も素晴らしく、皆は感嘆の声を上げていた。

ゲストとして登場した須藤かよ、ケペル木村のふたりは、「Leo, Estante Num Instante」を演奏した。リシャール・ガリアーノやミシェル・ポルタルがカバーしている愉しい曲である。これがふたりの手にかかると日本的になるのでさらに愉快。

ローラーコースター、祝祭、笑いと涙。音楽の化身たちによる素晴らしいパフォーマンスを体感できた。 

●参照
エルメート・パスコアールの映像『Hermeto Brincando de Corpo e Alma』(最近)
板橋文夫@東京琉球館(2016年)
トリオ・クルピラ『Vinte』(2016年)
アンドレ・マルケス『Viva Hermeto』(2014年)
アンドレ・マルケス/ヴィンテナ・ブラジレイラ『Bituca』(2013年)
2004年、エルメート・パスコアール(2004年)
エルメート・パスコアールのピアノ・ソロ(1988年) 


トニーニョ・フェハグッチ『a gata café』

2016-12-20 14:49:15 | 中南米

トニーニョ・フェハグッチ『a gata café』(Boranda、2016年)を聴く。

Toninho Ferragutti (accordion)
Cássio Ferreira (sax)
Cléber Almeida (ds)
Thiago Espírito Santo (b)
Vinícius Gomes (g)

フェハグッチはブラジルのアコーディオン奏者。

まったくよどみのない指と蛇腹の動きで、少し甘いようなアコーディオンの音色が、同じ音域にあるサックスの音色と、実に気持ちよく絡んでいる。こういう音楽を聴くと、身体も心も弛緩して、街角の石畳やカフェや陽だまりなんかをイメージしてしまう。人いきれの音楽でもあり、都会の音楽でもあるんだな。

タイトル曲は「猫のコーヒー」という意味だそうで、それはジャコウネコのウンチを通過させたコピ・ルアックのことなどではなく、猫がゆるりと自分の場所を決め込んだりするカフェで飲むコーヒーのことかな。2曲目の「Egberto」は、エグベルト・ジスモンチに捧げた曲だろう。ああ旅に出たい。


アンドレ・マルケス/ヴィンテナ・ブラジレイラ『Bituca』

2016-12-18 11:27:07 | 中南米

神楽坂の大洋レコードを覗いてみたところ、アンドレ・マルケス『Viva Hermeto』(2014年)、トリオ・クルピラ『Vinte』(2016年)の横に、アンドレ・マルケス/ヴィンテナ・ブラジレイラ『Bituca』(2013年)が置いてあった。

ヴィンテナ・ブラジレイラは、エルメート・パスコアールのグループにおいてピアニストを務めるアンドレ・マルケスによるビッグバンドであり、本盤はミルトン・ナシメントのカヴァー集となっている。

Andre Marques (arrange, conduct, p, fl, melodica)
その他、弦楽器、管楽器、打楽器などメンバー多数 

アルバム全体を通じて、幻惑的で魅力がある。曲ごとにさまざまな展開があって、ナシメントの曲ではあるが、同時にエルメートの音楽がもつ、汲んでも汲み足りないウキウキ感と豊饒さにも溢れているようだ。笑いながら焦って繰り返していくような感覚は何にもかえがたい。

ある曲は弦中心、ある曲は管楽器のソロを目立たせ、ある曲ではバンドネオンやアコーディオンが前に出てきて、またある曲ではコーラス中心。

マルケス自身は演奏よりもアレンジと指揮に集中しているのではあるが、6曲目の「Morro Vehlo」はピアノソロ曲となっており、抑えた導入部から最後の歓びへの展開が素晴らしい。この雰囲気はそのままに7曲目に突入する。また、2曲目ではフルートを、また11曲目ではメロディカを演奏しており、特にメロディカの甘さに惹かれる。

エルメートのグループにおいて、マルケスがどのようなパフォーマンスを見せてくれるのか楽しみだ。

●アンドレ・マルケス
トリオ・クルピラ『Vinte』(2016年)
アンドレ・マルケス『Viva Hermeto』(2014年)


トリオ・クルピラ『Vinte』

2016-12-06 16:05:10 | 中南米

神楽坂の大洋レコードで、ジャズとして面白いものはないだろうかと尋ねたところ、トリオ・クルピラ『Vinte』(2016年)をご紹介してくださった。エルメート・パスコアール集『Viva Hermeto』を作ったアンドレ・マルケスが参加するピアノトリオであり、ここでは、御大エルメートを含め、多くのゲストがトリオに加勢したアルバムになっている。

Trio Curupira:
Andre Marques (p, fl)
Fabio Golveia (b, g)
Cleber Almeida (ds, g, vo)

Guests:
Ricardo Zohyo (b) (1)
Gabriel Grossi (harmonica) (2) 
Hamiliton de Holanda (bandolim) (3)
Jane Duboc (vo) (4)
Itibere Zwarg (b) (5)
Raul de Souza (tb) (6)
Hermeto Pascoal (bass fl) (7)
Natan Marques (g, vo) (8)
Jota P (ts) (9)
Arismar do Espirito Santo (g) (10) 

確かにマルケスはエルメート・パスコアールの後継者的な存在なのかなと思わせてくれる。軽やかなタッチのピアノもそうだが、どの曲も、うきうきとしてはじけるようでいて、愁いのようなものもあり、魅力爆発なのだ。10曲の中でエルメートの曲はひとつに過ぎないのに。

1曲ごとに異なるゲストが参加していて、それぞれ趣向が異なっている。ガブリエル・グロッシがハーモニカで参加した3曲目、ジェーン・ドゥヴォックの軽いヴォイスとマルケスのフルートが絡む4曲目、そしてエルメートがベース・フルートを吹いた7曲目など、とても愉しい。特に、エルメートである。息と声をベース・フルートにミックスして、この人はやはり妖精なのだった。

いままで知らなかったのだが、トリオ・クルピラは結成20年にもなる長寿バンドである。遡って聴く楽しみができた。

●参照
アンドレ・マルケス『Viva Hermeto』(2014年)
エルメート・パスコアールの映像『Hermeto Brincando de Corpo e Alma』(最近?)
2004年、エルメート・パスコアール(2004年)
エルメート・パスコアールのピアノ・ソロ(1988年) 


ビューティフル・トラッシュ『Beautiful Disco』 アルゼンチンのビョーク・カヴァー

2016-11-27 08:40:02 | 中南米

昨日入院中の病院から抜け出して神楽坂を散策していて、ついでに、行きたかった大洋レコードも覗いてみた。ブラジルとアルゼンチンの音楽に注力しているレコ屋さんで、中はさほど広くはない。ただ、紹介したいという熱意のようなものが溢れていて、じろじろ眺めていると愉しい。オリジナルのトートバッグやシャツなんかも販売していて欲しくなる。

それで、目に飛び込んできたディスクが、ビューティフル・トラッシュ『Beautiful Disco』(レーベル不明、2015年?)。正直言って、このひと昔前のようなジャケットとタイトルだけでは手に取ることはまずない。しかし、大洋レコードさんがジャケットに貼りつけたシールに「ビョーク」と書いてあって、おおっと思ったわけである。

なんと、歌手と大勢の打楽器奏者によるアルゼンチンのビョーク・カヴァーである。うおおマジか。

Beautiful Trash:
Andy Inchausti(パーカッション指揮)
Jazmin Prodan(ヴォーカル)
Juan Bianucci(キーボード)
Lucas Bianco(ベース)
Dolores Arce(ジャンベ、コーラス)
Shira Michan(ジャンベ、コーラス)
Natalia Arce(ジャンベ)
María Villareal(ジャンベ)
Federico Wechsler(スルド)
Pablo Avendaño(スルド)
Pablo Lloret(スルド)
Sebastian Reccia(カホン、スティックとコンガ)
Manuela Iseas(カホン)
Federico Rescigno(ダラブッカ)
Pablo Marigo(カホン、コンガ)
Emiliano Escudero(コンガ)
ゲスト: 
Richard Nanto(トランペット on track 6)
Judia Morgado(コーラス on track 1)

カヴァー曲は以下の通り。
1. The Triumph of the Heart 収録アルバム『Medulla』(2004年)
2. Hunter 収録アルバム『Homogenic』(1997年)
3. Big Time Sensuality 収録アルバム『Debut』(1993年) 
4. Crystalline 収録アルバム『Biophilia』(2011年) 
5. Hyperballad 収録アルバム『Post』(1995年)
6. Venus as a Boy 収録アルバム『Debut』(1993年)
7. Army of Me 収録アルバム『Post』(1995年)
8. Virus 収録アルバム『Biophilia』(2011年)
9. Joga 収録アルバム『Homogenic』(1997年)
10. Unravel 収録アルバム『Homogenic』(1997年)

こう見ると、『Debut』以降のビョークのアルバムから、『Vespertine』(2001年)と『Volta』(2007年)を除いて、満遍なくセレクトされている。『Vulnicura』(2015年)は時間的に間に合わない。

歌手のハスミン・プロダンはもともとそのような資質なのか、それともここでビョークの歌唱法も追及したのかわからないが、実にビョークの特徴が重なっている。アイスランド、アルゼンチンと、英語を母語としないという共通点も何か関係があるのだろうか。しばしば喉をダミ声で震わせたり(これは元ちとせもインディーズ時代のミニアルバム『Hajime Chitose』で思いっきり真似している)、「Hyperballad」における「mountain」などの独特な発音があったり、何だかすごく嬉しい。

それにしても大変な数の打楽器である。ジャンベ、カホン、コンガ、スルド、タラブッカ。もはや沸騰快適音楽である。ギニアのママディ・ケイタが中心になってジャンベを打ち鳴らした映画『ジャンベフォラ』(1991年)はサウンドも、画面の外側に飛び出しまくっていた叩き踊る人たちの動きも激しくて、ちょっと衝撃的で、その後日本でもジャンベを手に取る人が増えたような印象がある。また、先日テヘランでカホンを叩く人の写真を撮ったところ、ヴァイオリニストの喜多直毅さんに「カホンは世界を救う!」と言われたこともあった。

要するに打楽器もビョークもこのアルバムもファンタスティックである。

●参照
Making of Björk Digital @日本科学未来館(2016年)
ビョーク『Vulnicura Strings』(2015年)
ビョーク『Vulnicura』(2015年)
MOMAのビョーク展(2015年)
MOMA PS1の「ゼロ・トレランス」、ワエル・シャウキー、またしてもビョーク(2015年)
ビョーク『Volta』、『Biophilia』(2007、2011年)
ビョーク『Vespertine』、『Medulla』(2001、2004年)
ビョーク『Post』、『Homogenic』(1995、1997年)
ビョーク『Gling-Glo』、『Debut』(1991、1993年)


パトリシオ・グスマン『チリの闘い』、『チリ、拭い去れない記憶』

2016-11-13 20:38:32 | 中南米

1970年、チリにおいてサルバドール・アジェンデによる社会主義政権が誕生した。自由選挙に基づくものであった。しかし、1973年、アメリカの支援とアウグスト・ピノチェト陸軍総司令官が率いる軍事クーデターにより打倒され、アジェンデは死んだ。ピノチェトの独裁政治は1990年の失脚まで続いた。

パトリシオ・グスマンによる3部作のドキュメンタリー『チリの闘い』(1975、77、79年)は民衆運動の盛り上がりと軍事クーデターに伴う白色テロまでを捉えた作品であり、また、『チリ、拭い去れない記憶』(1997年)はピノチェト時代が去った後にこのときのことを振り返った作品である。前者は今年(2016年)に日本公開され大きな話題になった。わたしは観に行く時間を捻出できず、英語版DVDを入手した。

『チリの闘い』は、確かにおそるべき強度を持った、力強いドキュメンタリーである。

アジェンデは鉱業部門などを国有化し、アメリカ資本の寡占状態を解消した。ずっと南米はアメリカの裏庭であり、富がごく一部の者にのみ集中する仕組みになっていた。自国の資源を取り戻そうとする動きはここだけの現象でもなく、21世紀になってからのベネズエラやボリビアに象徴される大きな揺り戻しにもつながっている(モラレスによる『先住民たちの革命』)。しかしこれは、新自由主義的な経済構造としても、また東西冷戦構造としても、アメリカにとっては看過できないことであった。

アメリカはCIAを通じてチリの運輸業界にカネを流して活動をボイコットさせ、経済の麻痺に追い込もうとする。国内では産業活動が打撃を受け、また食糧の供給も滞った。これに対し、アジェンデを支持する市民たちは、自前での物流、農家からの直販、産業ごとの連帯(すなわち労働組合というわけではない)などにより対抗する。

市民たちが経済社会を下から再構築しようとする力は大変なものだ。もちろん反対派もノンポリもいた。しかし、雑踏や集会において、何かの組織の専従というわけでもない市民が自らの考えを臆することなく話す空気には、シニカルに視る・視られるの要素は見当たらない。

軍部とアメリカはこれを力で押しつぶした。ついに1973年9月11日、アジェンデは軍部による攻撃の中で亡くなる。アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために』太田昌国『暴力批判論』においても強調される「もうひとつの9・11」である。そしてアジェンデを支持した数千人の市民たちはその場で殺され、あるいは連れ去られて(行方不明)、亡き者となった。映画でも、第1部の最後および第2部の最初に、カメラに向かって軍が発砲し、カメラマンが亡くなる瞬間が記録されている。

このクーデターと白色テロ、独裁時代のはじまりが、『チリの闘い』に記録されている。DVDに収録されているグスマンへのインタビューによれば、マドリッドで映画を勉強したグスマンは祖国に戻り、この騒乱を記録しようと決め、4-5人のメンバーで秘密裡に撮影を開始した。フィルムは限られているため、プロットも練った上で20-25時間の撮影を行い、現像した。投獄されたが釈放後ストックホルムに逃れ、その後、おじなどがスウェーデン大使館の荷物だと偽って船便でフィルムを荷出し、3か月後、グスマンのもとにすべて無傷で届いたのだという。なお、80年代には、ミゲル・リティンがピノチェト政権下のチリに潜入してもいる(G・G・マルケス『戒厳令下チリ潜入記』)。現在よりは監視体制が緩かったのかもしれないが、命を懸けたうえでの奇跡であったということができる。グスマンはパリからハバナへと移り、そこで編集作業を行った。第1部、第2部のあと、精根尽き果てたようになり、2年を置いて第3部を制作している。尋常ならざる密度と強度は当然のことでもあった。

「9・11」から23年を経て、ピノチェト時代も去ったあと、グスマンはチリに戻り、『チリ、拭い去れない記憶』を撮る。『チリの闘い』はピノチェト政権下では上映禁止、このときもまだ配給するリスクを取る者はなかった。グスマンは、生き残った者たちにフィルムを見せる。かれらの口からは、あれは自分だ、あれは誰それだ、あれは行方不明だ、との切実な証言が次々に出てくる。また、当時をあまり知らぬ若者たちにもフィルムを見せる。誰もが自国の歴史に直面し、涙を流している。一方、ピノチェトがやったことは内戦の回避や経済不況の打開であり良かったことだとの発言もある。そのような、命を天秤にかけようとする誘惑はどの時代にもあるものに違いない。ちょうど、米軍の空爆による無関係な者の犠牲を「コラテラル・ダメージ」だと位置付けたり、日本への原爆投下が戦争終結を早めたのだとみなしたりするように。

ピノチェトは失脚してから渡った英国から戻り、グスマン判事(監督とは別人)に追い詰められるが、最終的には判決が下される前に死んでしまう。2006年、ごく最近のことである(ドキュメンタリー『将軍を追いつめた判事』)。グスマンの『光のノスタルジア』(2010年)および『真珠のボタン』(2015年)は決して歴史の総括ではない。歴史を捉えなおす過程としての映画だということができるのではないか。

●参照
パトリシオ・グスマン『真珠のボタン』(2015年)
パトリシオ・グスマン『光のノスタルジア』(2010年)
G・G・マルケス『戒厳令下チリ潜入記』、ドキュメンタリー『将軍を追いつめた判事』 


石内都展『Frida Is』

2016-07-03 19:45:13 | 中南米

銀座の資生堂ギャラリーに足を運び、石内都展『Frida Is』を観る。

石内都氏が、フリーダ・カーロの遺品を撮影する様子は、小谷忠典『フリーダ・カーロの遺品―石内都、織るように』というドキュメンタリー映画で視ることができる。カーロの死後50年が経ち、開かずの間にあったさまざまなものが出てきたのだった。

コルセット、義足(カーロは足を切断した)、眼鏡、樹脂の櫛、ガラスの小さな薬瓶、ホーローの容器、あざやかな色のドレス、布の鞄、ショール。石内氏はそれらに対し、マイクロニッコール55mmF2.8を装着したニコンF3にコダック・エクター100を詰めて、次々に迫り、次々に撮っていった。小さな汚れや染みを凝視することは、そのような行為でもあった。確かに映像と同様に、写真からも、撮影する石内氏の息遣いと、死んだはずのカーロの息遣いとがシンクロするようなリアルさを感じざるを得なかった。

それはそれとして、写真は、ピンボケやブレが目立つことがわかった。行為の凝着が大事なのだとしても、これはちょっと違うのではないか。大御所であれば許されるのか。

●参照
小谷忠典『フリーダ・カーロの遺品―石内都、織るように』


トゥーツ・シールマンス+エリス・レジーナ『Aquarela do Brazil』

2016-06-06 23:17:35 | 中南米

トゥーツ・シールマンス+エリス・レジーナ『Aquarela do Brazil』(Fontana、1969年)を聴く。

Toots Thielemans (g, harm)
Elis Regina (vo)
Antonio Adolfo (p)
Roberto Menescal (g)
Wilson das Neves (perc)

たまにこんなものを聴くと身体の力を抜くことができて、うっとりもする。エリス・レジーナがちょっと余裕をもって呟くような瞬間もいいし、「哀愁」そのもののトゥーツ・シールマンスのハーモニカも大好きである。最初の「Wave」から気持ちが浮き立ってきて、終わりころの鼻歌のような「Honeysuckle Rose」に至ってニコニコ、そして最後の「Volta」でのレジーナの震える声にはやけに感傷的になってしまう。生きていることも悪くないねと大袈裟に思ってしまうのもふたりの力か。


エグベルト・ジスモンチ@練馬文化センター

2016-04-21 07:16:58 | 中南米

練馬文化センターで、エグベルト・ジスモンチのソロライヴを観る(2016/4/20)。はじめの計画ではナナ・ヴァスコンセロスとのデュオであったところ、かれが急逝し、ジスモンチひとりだけになったという経緯があった。残念ではあるが、ならば代役は不要である。

Egberto Gismonti (g, p, 笙, fl)

冒頭に、笙によるシンセサイザーのような音の重なりを展開し、驚かされた。その後、ファーストセットは、ギター中心の演奏。

かれのギターは、繊細極まりない副旋律に力強い主旋律をかぶせていく。耳はふたつの物語を同時に追っていくのだが、一方、ノッてくるとそのふたつの旋律・物語が驚くほど有機的に絡み合い、そのままどこかに連れていかれるような感覚があった。ギターはときに軋み、ときにベースの働きもし、ときにナナのパーカッションが降りてきたりもした。メロディとリズムとが同列にあった。

フルートも吹いた。構造が工夫されたもののようで、倍音が出てきて、ギターに馴れた耳にとっては刺激剤だった。

セカンドセットはピアノ。ギター以上に、小さな小さな音を大事にする演奏であり、皆は息を呑んでかれを見つめていた。愉しげに転調を繰り返すピースもあり、また、「Silence」など故チャーリー・ヘイデンのナンバーも聴こえてきた。悼む友人は、ナナだけではないのだった。

そして最後の曲では、画面にスクリーンが降りてきて、そこに投影されたヴァーチャル・ナナとの共演。やり過ぎかと思ったのだが、それはまずいものになりようがなくて、胸にぐっとくるものがあった。


細田晴子『カストロとフランコ』

2016-04-16 23:54:30 | 中南米

細田晴子『カストロとフランコー冷戦期外交の舞台裏』(ちくま新書、2016年)を読む。

キューバ革命の立役者にして生きる英雄フィデル・カストロと、スペインの独裁者フランシスコ・フランコ。まったく思想も評価も異なりそうなふたりだが、外交において通じ合うところがあったのだという。

キーワードは愛郷心(ふたりともスペインの北西部をルーツとする)、反米感情、軍人としての感情、独自外交。そう言われてみれば、キューバに住むスペイン系住民は多いし、カストロも家父長的な為政者であったし、キューバ事件やスペイン市民戦争のイメージだけで政治の旗色を決めてしまうことは単純に過ぎるように思える。

それはそれとして、情報がとっ散らかっていて、ダメなまとめ方の典型に見える。「あれもある、これもある」で記述したうえで、かれらは一本筋が通った政治家が好きであったとか、モラルを重視したとかいったことを結論のように提示されると、脱力してしまう。

●参照
太田昌国の世界 その24「ゲバラを21世紀的現実の中に据える」(2014年)
太田昌国の世界 その10「テロリズム再考」(2011年)
『情況』の、「中南米の現在」特集(2010年)
中南米の地殻変動をまとめた『反米大陸』(2007年)
チェ・ゲバラの命日
沢木耕太郎『キャパの十字架』(2013年)
スペイン市民戦争がいまにつながる
ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』(1938年)
ギレルモ・デル・トロ『パンズ・ラビリンス』(2006年)


エルメート・パスコアールの映像『Hermeto Brincando de Corpo e Alma』

2016-01-17 22:23:49 | 中南米

エルメート・パスコアールのDVD『Hermeto Brincando de Corpo e Alma』を見つけた。わたしはポルトガル語をまるで解さないが、自動翻訳から推測するに「全身全霊で遊ぶエルメート」とでもいう意味だろうか。わりに最近の姿ではないかと思う。

エルメートは何度も高いびきをかき、その自分の映像を集め、多くのいびきエルメートとセッションする。白く長い髯は、ココナッツの油で洗ってちょっと摩擦を残したのだと得々と語るのだが、やはり、多くのエルメートが髯をしごいたり、ピンと引っ張って弦のように弾いたり。

1時間、そんなのばっかり。衰えないお茶目な怪人なのだ。存在に感謝感謝。

●参照
アンドレ・マルケス『Viva Hermeto』(2014年)
2004年、エルメート・パスコアール
エルメート・パスコアールのピアノ・ソロ(1988年)


アンドレ・マルケス『Viva Hermeto』

2015-11-05 00:33:53 | 中南米

アンドレ・マルケス『Viva Hermeto』(Boranda、2014年)を聴く。

Andre Marques (p)
John Patitucci (b)
Brian Blade (ds)
Rogerio Boccato (perc) (6)

1曲だけパーカッションが参加しており、また1曲だけピアノソロが挿入されているが、他はピアノトリオによる演奏である。しかも、タイトル通り、すべてブラジルのレジェンド、エルメート・パスコアールの曲ばかり。

愉しそうに固いベース・テクニックを披露するジョン・パティトゥッチも、やはり愉しそうにさまざまな大技中技小技を展開するブライアン・ブレイドも気持ちがいい。そして名前を知らなかったアンドレ・マルケスのピアノは、いかにも難しそうなエルメートの曲を、左手と右手を微妙にずらして見事に弾きまくっている。それもそのはずで、マルケスは、エルメートのサイドマンを20年も務めたピアニストであるらしい。

それにしても、狂騒的に浮かれ果てて執拗に変奏する、エルメートの変わった曲の数々。循環し、繰り返し、果たしてどこに連れていかれるのか愉快の極みである。抒情的な名曲「Bebe」は、ガリアーノ=ポルタル『Blow Up』における名手ふたりのデュオにも決して負けていない。エルメート自身によるピアノ・ソロは、また別の時空間で我が道をゆく感じではあるけれども。そして、『Slaves Mass』の冒頭を賑々しく飾った「Tacho」。他にもどこかで聴いたようなエルメート感覚が散りばめられている。好き好きエルメート。

●参照
2004年、エルメート・パスコアル
エルメート・パスコアルのピアノ・ソロ