Sightsong

自縄自縛日記

旨いジャカルタ

2013-08-31 21:39:48 | 東南アジア

ジャカルタ1週間。

■ Aroma Pondok Sunda

Senayan Cityの地下1階にあるインドネシア料理店。リブのスープや空心菜の辛い炒め物が旨かった。


サテ


リブのスープ

■ NERAYAN 漁家荘海鮮酒家

シーフードレストラン。割に有名なようで、店には日本人がちらほら。名物だという蟹のカレー炒めは、タイのSomboonと違い、かなりスパイシー。


エビマヨ


蟹のカレー炒め


いつもビンタンビール

■ Ichi Tomi

工業団地にある日本料理店。当然、日本人駐在員ばかりであり、このようなところはレベルが高い。から揚げ定食も旨かった。


から揚げ定食

■ Jitlada Thai Cuisine

Senayan Cityの地下1階にあるタイ料理店。まずいわけはない。但し、都市ガスの臭いとしか思えないドリアンのアイスは例外。


パッタイ


ヤムウンセン


ココナッツアイス

■ ドライブインにあるパダン料理の店

店名不明。何でもパダン料理だということだが、小皿を次々に並べ、欲しいものだけ食べるというシステム。どれもこれも塩辛く、ご飯と一緒でないと喉が渇く。


テーブルに乗りきらない皿


しょっぱい

■ 飛鳥

これも工業団地にある日本料理店で、かなりまとも。駐在員しかいない。

以前は外国に行って日本料理を食べるなんてナンセンスだと思っていたが、考えを変えた。仕事最優先であるから、短期滞在といえど、食べなれたものが欲しいのである。


ビーフステーキ定食

■ 屋台のナシゴレン

仕事仲間大推薦の屋台。確かに旨かったし、料理するところをみることができるし、何しろ90円くらいと安い。


手慣れた手つき


はやい


ナシゴレン


クロポという菓子

■ Kafe Betawi

スーパーの中にあったファミレス。やっぱり東南アジア料理はどこでも口に合うのが嬉しい。


牛テール


ナシゴレン


チャウ・シンチー+デレク・クォック『西遊降魔篇』

2013-08-31 12:03:27 | 香港

ジャカルタからの帰途、チャウ・シンチー+デレク・クォック『西遊降魔篇』(2013年)を観る。

妖怪ハンターが、戦いを通じて愛や平和についての悟りを開いてゆき、ついには三蔵法師となり、戦った相手の沙悟浄、猪八戒、孫悟空を引き連れて天竺へと旅立つ。つまり、『西遊記』に至るまでの物語である。

残念ながらチャウ・シンチー自身は監督に専念しており画面に登場しないが、それでも、ひたすら愉快。やはり、『少林サッカー』や『カンフーハッスル』のノリそのままであり、極端な顔の俳優たちが、そこまでやるかというような極端な活動を展開する。片脚が何百倍にも肥大する妖怪ハンターの老人とか、もう、わけがわからない。映画館で観たら爆笑必至か。

それから、スー・チーの余裕綽々のアクションが特筆もの。この人は名女優であるね。

●参照
チャウ・シンチー主演『0061北京より愛をこめて!?』、『ハッスル・キング』、『ラッキー・ガイ』
キャロル・ライ『情謎/The Second Woman』(スー・チー主演)
侯孝賢『ミレニアム・マンボ』(スー・チー主演)
アンドリュー・ラウ『Look for a Star』(スー・チー主演)
ジョニー・トー製作『スー・チー in ミスター・パーフェクト』


『ドキュメンタリードラマ・基町アパート』

2013-08-26 08:49:22 | 中国・四国

翌朝のジャカルタ行きの荷造りを急いで済ませてしまい、NHKで放送された『ドキュメンタリードラマ・基町アパート』を観た(2013/8/24放送)。

広島の戦後復興事業として、1969-78年に建設された基町アパート。東京に住む龍太は、母親の仕事の都合で、2か月間、基町アパートの祖父のもとに預けられる。その間、小学校も転校。はじめて会う祖父は、中国語しか話せない人だった。何も事情を知らない龍太は、仰天し、反発する。しかし、隣の同級生の中国人・リンリンや、町内会長のおじさんや、先生に心を開いていくうちに、龍太は、自分のルーツについて知りたいと思うようになる。

龍太の祖父は、満州に残された残留孤児で、中国人と結婚し、龍太の母が生れていた。戦後しばらく経ってから帰国、家賃が安い基町アパートに住むようになる。もう日本語を覚えることなど難しく、孤独感を覚え続けた生活だった。そして、基町アパートには、そのような事情を抱えた帰国者が多いというのだった。

一方、基町アパートに住む、よそよそしいお婆さん。龍太も気にしていたが、原爆で被曝し、火傷のある側に人が立つと耐えられないという心の傷を抱える人だった。

龍太の先生は被曝者三世。龍太も残留孤児三世。直接には持たない戦争の記憶を、心の傷を持つ当事者から、乱暴にではなく、シェアしてもらいたいとの思いが込められていて、いいドラマだった。その一方で、あくまで「戦争に巻き込まれた」という被害の立場から視ており、加害の立場が盛り込まれていないことが残念ではあった。

それにしても、基町アパートのさまざまな姿には驚かされた。先日、記者のDさんの案内で、商店街や、下を見渡せるようになっている空中の渡り廊下なんかを歩いてみたのではあったが、実はもっと画期的な構造なのだった。これではまるで空中楼閣である。(番組のサイトに詳しい >> リンク

龍太の通う学校には、『はだしのゲン』が置いてある。松江市の検閲圧力事件より後にこのドラマが撮られていたら、どうなっていただろう。戦争の実相を隠蔽しようとする誤った考えは、ドラマで描かれた記憶の共有とは正反対に位置する。

●参照
旨い広島
『ガタロさんが描く町~清掃員画家のヒロシマ~』


リチャード・プレス『ビル・カニンガム&ニューヨーク』

2013-08-25 23:31:12 | 北米

ジャカルタ行きの機内で、リチャード・プレス『ビル・カニンガム&ニューヨーク』(2010年)を観る。

ビル・カニンガム、1929年生まれ。20代のころに、奇抜なデザインの帽子屋を開くが失敗。しかし、80歳を超えるいまも、興味の対象はひたすらにファッションだ。 「ニューヨーク・タイムズ」紙に掲載されたストリート写真が評判を呼んだのが1978年、50歳前だというから、きっと遅咲きであったのだろう。

ホームセンターで買った安物の上っ張りを着て、ニコンのフィルム一眼レフ(FM系)を首から下げ、自転車でニューヨークを失踪する。そして、これはというファッションをゲリラ的に撮りまくる。住居にはネガが入ったキャビネットだらけ、トイレとシャワーは共同。楽しくて忙しくて、恋愛なんかする暇がいちどもなかったよ、と、いまも独身。

似た人が誰もいないという意味で明らかに変人、しかし、多くの人に愛される変人。本人はとにかく楽しそうだ。

少し元気が出た。好きなことを追及できるのは幸せなことに違いない。

ところで、もう1本観た、ウォルター・ヒル『バレット』はつまらなかった。スタローンの個性に頼って、エンタテインメントとして何ら新しい要素がないという・・・。かつての『ストリート・オブ・ファイヤー』なんてもっと面白かったと思うんだけど。


アンドレ・カイヤット『眼には眼を』

2013-08-24 21:01:21 | 中東・アフリカ

安部公房がどこかで褒めていたと思い出し、アンドレ・カイヤット『眼には眼を』(1957年)を観る。

シリア。フランス人医師は、非番のときに駆けこんできた患者の診察を断る。翌日、診療所で聞かされた話によると、患者を乗せた車が途中で止まってしまい、その夫が残りの6kmを必死で連れてきたが、亡くなったのだという。妻を亡くした夫は、医師を憎み、つけ狙う。そして、医師を砂漠の村に誘い込み、ダマスカスまでの200kmを一緒に歩いて帰るように強いる。

死を賭しての復讐譚であり、そこには相手の言うことを信頼する気持ちなど、お互いに毛頭ない。歩いても歩いても灼熱の砂漠と岩山、喉の渇き。もう救いようのない映画だ。

シリアは、1920-46年、フランスの委任統治下にあった。英仏に石油が狙われる地でもあった(医師が、酒場で「石油の仕事?」と訊かれる場面がある)。この映画に描かれたような、底なしの不信感があったということなのだろうか。


旨い富山

2013-08-24 15:54:47 | 東北・中部

はじめての富山。

あらためて考えてみると、富山どころか、北陸にほとんど足を運んだことがない。これではいけない。

夜は「魚処やつはし」で、いろいろと旨いものを食べた。どうも聞くところでは、冬はさらに旨いそうである。

戻ってきたばかりだが、明朝からジャカルタ。準備はいつになっても苦手。


白海老の揚げ物


バイ貝と肝、ひらめ、甘海老などの刺身


甘海老の卵


ナンダ(ゲンゲの一種)の煮物


岩牡蠣のフライ


赤鰈の焼き物


翌朝、ほたるいか


小森陽一『ことばの力 平和の力』

2013-08-23 00:33:39 | 思想・文学

小森陽一『ことばの力 平和の力 近代日本文学と日本国憲法』(かもがわ出版、2006年)を読む。

著者の小森氏(東大)は、「九条の会」事務局長でもあり、本書も、日本国憲法の歴史的な意義を明らかにしたものだ。

樋口一葉、夏目漱石、宮沢賢治、大江健三郎。近現代において重要な作品を残した4人の足跡を追うことによって、どのような時代の特質が見えてくるのか。

樋口一葉は、日清戦争のただなかに登場した。この戦争における清国への宣戦布告は、「ようやく国際法に基づいた戦争ができるようになった」という嬉しさがあふれた、明治天皇のメッセージであったという。人びとは毎日戦争報道に一喜一憂し、それに伴って活字メディアが成長した。一葉は、その時代にあって、「いやだ」を発し続けた。

「有史以来」などではなく、戦争という国家暴力によって生まれたレイプと売春宿。一葉の「いやだ」は、そのような暴力構造に向けられていたのだ、という。したがって、このことは現在の諸問題につながっている。

「・・・「従軍慰安婦」の問題に、あれほど二世、三世議員たちが恐怖し、歴史の捏造を企み、それをなし遂げつつあるということは、そこに戦争を推進する勢力の断末魔のあがきがかかっているということでしょう。」

夏目漱石は、近代化の意味を問い続けた文学者であった。いびつな開化が進んでいった結果、個人と国家との間の矛盾は、どんどん大きくなっていく。その危険性を感知し、国家権力の暴走に恐怖した。

有名な講演録『私の個人主義』は、実は、確実に権力の中枢に入る人たちに語られたものであった。漱石は、彼らに対し、諌めるように言うのだが、著者は、これをいまの日本の状況そのものだとする。そして、国家と権力との根源的な対立を、憲法九条が解決してきたのだ、と。

「・・・苟しくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使ふ価値もなし、又金力を使ふ価値もないといふことになるのです。 (略) もし人格のないものが権力を用ひようとすると、濫用に流れる。金力を使はうとすれば、社会の腐敗をもたらす。随分危険な現象を呈するに至るのです。」

宮沢賢治が活動した時期は、第一次世界大戦後であった。1920年代、戦争とは犯罪であるとの反省から軍縮が進められ、幣原外交があり、軍縮に同調した浜口首相が狙撃され(1930年)、翌年、満州事変が勃発した。そして日本は破滅へとひた走る。賢治は、そのような歴史の転換点にあって、戦争は人を人でなくするものだとの考えや、「正義の戦争」などないのだという見方を、小説において展開した。

「・・・賢治は、殺すか殺されるかという二者択一のなかに人間が追い込まれてしまうと、そのとき人殺しは正当化されてしまうんだと見抜いていました。そのような状況に陥った人間は、もはや敵の兵士も生き残れますように、などという願いを持つことはない。だから平和のときに何をするかが大事なことなのであって、戦争になったら終わりなんだということです。戦争という事態をつくりださない、その抑止の仕方が最大の問題です。あたりまえのことですが、人間が人間としての倫理を持ちうるのは平和なときだけなのです。」

どうだろうか、最近の『はだしのゲン』検閲事件を思い出させることでもないだろうか。

大江健三郎は、戦争責任を「あいまい」なままにして、米国の家畜となった日本のありようを問う。それは、敗戦という転換点において、日米の利益が一致し、「国体護持」を行ってきたからであった。

本書において繰り返し提示されているあやうさは、現在、またさらに大きくなったように思える。著者は、このような危機の時代において、すぐれた文学を読み込み、ことばの力を活性化していくべきだと願っている。まさに、その権利をもたない者たちが出鱈目なことばを操っているいま、このことは極めて重要である。

●参照
沖縄「集団自決」問題(16) 沖縄戦・基地・9条(小森陽一)
小森陽一『沖縄・日本400年』
市川崑の『こころ』と新藤兼人の『心』
吉本隆明『賢治文学におけるユートピア・「死霊」について』
ジョバンニは、「もう咽喉いっぱい泣き出しました」
6輌編成で彼岸と此岸とを行き来する銀河鉄道 畑山博『「銀河鉄道の夜」探検ブック』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
大江健三郎『沖縄ノート』


ジャック・アタリ『ノイズ』

2013-08-21 07:42:51 | 思想・文学

ジャック・アタリ『ノイズ 音楽/貨幣/雑音』(みすず書房、原著1977年)を読む。

音楽は何を吸収し、何を予言しながら変貌してきたのか。本書は、知的エリート・アタリが、音楽と社会・権力とが並走するありようを、丹念に検証した本である。

音楽は、社会の世相を反映するだけではない。音楽は、その根源的な性質から、権力を揺るがし無化する力を持つ活動であった。それは、時に暴力でもあった。しかし、近代になり、音楽は権力装置に組み込まれていく。

権力としての音楽は、コード化されたものであり、構造であり、反復であり、そして活動としての死をも意味した。そして、権力の中心部から逸脱した音楽は、権力にとって望ましからざるものであり、さらに権力を突き動かす性質を増した。

そして、権力は近代資本主義経済へと読みかえられていく。反復こそが、ストックこそが、消費こそが、貨幣を通じた交換こそが、音楽という装置の中心に座り、より人間活動の根源に近いはずのライヴ演奏が傍流となってしまう。サブであるばかりではない。既に演奏は、メインたる反復・消費音楽を確かめるためのものに堕してしまっている。

それでは、根源的な音楽にはもはや本来の力を発揮するチャンスは与えられないのか。これに対する光明として、アタリが示す活動は、何とフリージャズであった。資本主義経済との全面戦争ではない。その中で、われ関せずと独自の演奏活動空間を創出し、そして反復やストックの消費ではない即興活動を行う、フリージャズ。アタリの慧眼でもあり、当時新しかったこの動きを「作曲」活動として位置付けている視点がユニークである。創造性を発揮できる分野を、楽譜や録音をもとにした反復ではなく、作曲に見出し、そしてフリージャズは作曲を時々刻々と行うというわけだ。

現代の音楽のあり方が、まさに近代のたまものであることを示した本であり、議論の展開は非常に面白い。しかし、フリージャズの位置づけがやや教条的に感じられるし、ストックと消費を所与のものとして遊ぶ音楽という視点がこぼれおちているようだ。また、「フリー」なジャズだけではなく、一見制度的ジャズに組み込まれているようなジャズであっても、それはただの反復や交換ではない。制度内での「音色」や「声」といった身体性の観点も見当たらない。

もっとも、本書が書かれたのは1977年といかにも古いわけであり、それは「無いものねだり」なのかもしれない。本書は2012年における改訳版だが、これとは別に、フランスでは2001年に改訂版が出されたという。アタリが80年代、90年代の音楽や社会の変貌をいかにとらえたのか、興味津々である。

●参照
ジャック・アタリ『1492 西欧文明の世界支配』


朱鷺&つれバンド『ひろしま歌ものがたり』

2013-08-18 10:13:46 | 中国・四国

この6月、広島にある「純音楽茶房 ムシカ」に、記者のDさんにご案内いただき、朱鷺&つれバンド『ひろしま歌ものがたり』のCD記念ライヴを聴いた。CDも購入、ときどき思い出しては聴いている。

「朱鷺」は土屋時子さん(朱鷺子さん)。劇団でずっと活動してきた方で、何と劇中歌以外で人前で歌い出したのは50代になってからだという。

サックスの宮國泰明さんは宮古島出身、耳鼻科のお医者さん。それから、広島ちんどん倶楽部。

広島の歌だけでなく、「アリラン」、「黄昏のビギン」、「十九の春」といったお馴染みの歌も含まれている。

ほとんどのメンバーはアマチュアである。だから何、ではない。CDも聴きはじめるとそのままリピートしてしまう。なぜか心地好いのは、人間臭さと、ちんどんのサウンドによく合うサックスの音色のせいでもあるのかな。それと、ムシカの居心地のよさも思い出したりして。


鄭周河写真集『奪われた野にも春は来るか』、「こころの時代」

2013-08-17 23:56:10 | 東北・中部

先日、沖縄県宜野湾市の佐喜眞美術館で、鄭周河(チョン・ジュハ)という韓国人写真家による写真展『奪われた野にも春は来るか』を観た。展示されていたよりもさらに多くの写真群が、同じタイトルの写真集としてまとめられ、韓国で出版されている。テキストは日本語と英語に訳されている。

改めて、写真集を紐解き、じっくりと観た。写真展によって受けた印象が、また違った形で増幅されていくようだ。

ほとんどの写真には、人が登場しない。津波と福島第一原発の事故により、破壊され、汚染され、住民の方々がまずは避難した時期である。

このようなカタストロフという文脈でなかったとしたら、ひょっとすると、美しく懐かしい里山風景として観ているかもしれない。しかし、やはり、もの言わぬ風景が発する「ただごとでなさ」に、息を呑んでしまう。そして覚えるのは、観なければよかったという気分と、何ということになったのかという悲しさと、何ということをしてくれたのかという怒りと、このような社会を一緒につくりあげてしまったのだという絶望感と。

受け手の小賢しさなどすり抜けて、「なにものか」の力が迫ってくる。やはり、恐ろしい写真群だ。

タイトルの『奪われた野にも春は来るか』は、植民地朝鮮の詩人・李相和(イ・サンファ)の詩から引用されている。美しく懐かしい土地を表現し、体感したあと、詩人は、最後に1行付け加え、締めくくる。痛切と簡単に言ってのけるにはあまりにも痛切すぎる発語である。

「しかし、いまは野を奪われ春さえも奪われようとしているのだ」

この土地は、侵略者たる帝国・日本に奪われたものだったのである。

写真集に、徐京植によるテキストがある。福島と植民地朝鮮とを重ね合わせること。それは、「奪われた者たちの苦悩に、最大限の想像力を働かせなければならない」のだとする。そしてまた、この写真群の特徴たる「不在の表象」について、ナチスドイツに殺されたユダヤ人たちの衣服をもってインスタレーションを創るクリスチャン・ボルタンスキーの作品との共通点をも見出している。慧眼というべきである。

ボルタンスキー作品の映像(デジタルカメラによる) >> リンク

クリスチャン・ボルタンスキー『MONUMENTA 2010 / Personnes』(2010年、パリ)

今回の鄭周河の写真については、NHK「こころの時代」枠においても特集されていた(2013/5/12放送)(>> 映像)。そこでは、写真家自身による興味深い示唆があった。

「不在」を、森を撮ること。それは、日常の中に潜む「兆」や「予兆」を見出すための方法論であり、それにより、何が失われ、何が奪われたのか、何を視るべきなのかを考えるべきなのだ、という。

写真家は、かつて、精神病院を撮った写真集『惠生院』を発表した(1984年)。その過程において、相手を理解できず、なぜその人たちが自分ではないのかという内省があった。病院の取り壊しに反対して韓国の大学を中退、ドイツに留学して哲学を学ぼうとする。そこでの関係の中では、写真が持つ暴力性に取りつかれ、老人たちを、もっとも暴力的な手段であるフラッシュによって撮影し、『写真的暴力』(1993年)を公表した。そして、『大地の声』(1994-98年)、『西方の海』(1998-2003年)をまとめた後、韓国の原子力発電所近くの地域を対象とした『不安、火-中』(2008年)を撮る。

曰く、原発地域の人びとは、日常生活を営んでいる。しかし、勿論、不安は内側に潜んでいる。少し視線をそらし、目をしっかり開けて視ると、原発との共存という不安さが露出してくる。そのように、直視すべき現実をさらけ出す方法として、撮影行為をしたのだ、と。

確かに、この写真家は方法論の人であるようだ。むしろ、それを曖昧にして狙いや言葉を見えないようにする「芸術活動」のほうが、世間には多いのだと思う。しかし、写真家の意識は明確だ。

「カレンダーのように美しい」里山風景。それだけでは、何が言いたいのかわからない。自然の中に潜むものを、如何に伝えていくか。放っておけば目に視えないものを、如何に見せたり感じさせたりすることができるか。そこにおいて必要なものは、記憶と認識の共有、知識や経験の共有だという。

写真群のタイトルについても、意味や文脈が異なるものを重ね合わせ、それにより日本の侵略の過去を免罪する、のではない。そうではなく、「奪われる」という経験、ふるさとを奪われた人間としての心を共有化することこそが大事なのだ、と。

わたしはこの写真群を積極的に評価する。しかし、おそらく、この表現の方法論に関しては、賛否両論があることだろう。薄っぺらい芸術至上主義が、写真というアートの政治や歴史やテキストへの回収を否定するかもしれない。

それでは芸術とは何なのか。まったくの抽象が成り立つのか。たとえば、物語への回収を拒否したような写真作品は、その前提となる共有感覚や情報にもたれかかっているだけではないのか。

人間はことばによって生かされ、ことばによって知を形成する。勿論、ことばという制度による再生産だけだとすれば、それは芸術としての力をもたない。この写真群は、意味という場所への往還なのだと思うがどうか。

●参照
鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』
徐京植のフクシマ(NHK「こころの時代」)
辺見庸の3・11 『瓦礫の中から言葉を』(NHK「こころの時代」)
クリスチャン・ボルタンスキー『MONUMENTA 2010 / Personnes』


『従軍作家たちの戦争』、笠原十九司『南京事件論争史』

2013-08-16 22:41:30 | 中国・台湾

NHKスペシャル『従軍作家たちの戦争』(2013/8/14放送)(>> リンク)を、何度か繰り返して観た。

作家・火野葦平。1937年、日中戦争出征中に、芥川賞受賞を知る。陸軍情報部(馬渕逸郎中佐)はこれに反応し、次の徐州作戦(1938年)から、日本軍の戦争の正当性を国内外に発信すべくメディア・ミックス戦略を打つ。火野はそのために重用され、提灯持ちの文章を書き続けた。そして、従軍中に書いた『麦と兵隊』などの「兵隊三部作」はベストセラーになった。

火野だけではなかった。多数の有名作家たちが、陸軍のもと「ペン部隊」を結成した。なかでも、林芙美子漢口作戦に従軍し、そのときの体験をもとに軍を称揚する文章の執筆や講演を行い、大変な人気を博した。

なぜメディア・ミックスか。ひとつには、石川達三が、南京事件についての兵隊への聞き書きを記した『生きてゐる兵隊』が問題視され(1938年3月の「中央公論」は発売前に発禁)、それが漏れて中国語版となり、軍の実相を対外的に示すことになったからであり、またひとつには、ナチスドイツがレニ・リーフェンシュタールらを使ったプロパガンダ戦略をとりいれたからでもあった。

もちろん、作家たちには強大な国家権力による大きな制約があったという。軍を美化しなければならぬ、戦争の醜い側面を描いてはならぬ。

しかし、それを差し引いても、火野も、林も、軍に作家たちを斡旋した菊地寛も、皆抵抗することはなく、むしろ積極的に戦争協力した。(なお、東南アジアでの従軍作家たちの言動については、中野聡『東南アジア占領と日本人 帝国・日本の解体』(>> リンク)に詳しい。)

火野は、中国のあと、フィリピンのオドネル捕虜収容所(「バターン死の行進」、すなわち捕虜たちを60km以上強制的に歩かせた先)において、「武士道」などについて「精神教育」を行った。そして、1944年には、ビルマから山岳地を越えてインドに侵攻したインパール作戦にも参加している。中国においても、既に小説には書けない戦争の実相を「従軍手帳」に書き綴っていた火野だったが、ここに至り、無謀な作戦によって多くの戦死者を出した日本軍に対し、激しい憤りを覚えるようになっていた。フィリピンでも、「精神教育」のあと釈放したフィリピン人捕虜たちの多くは、抗日ゲリラとなった。すなわち、「大東亜共栄圏」に象徴される日本政府・日本軍のヴィジョンらしきものが、極めて独りよがりなものに過ぎないのであった。

1945年8月、日本敗戦。菊地、火野をはじめ多くの作家が公職追放になった。火野は、自分の行ってきたことに対する責任と、自分の心の中に渦巻いていたジレンマとに向き合い、1960年に自殺するまで、『土と兵隊』に戦争の実相を加筆し続けていたという。(なお、アフガニスタンで活動するペシャワール会の中村哲医師(>> リンク)は、火野の甥であるといい、番組でも戦後の火野についてコメントしている。)

おそらくは、浅田次郎がコメントしているように、十字架を自ら背負って自身の落とし前をつけた火野のような存在は、例外的だったのだろう。戦争協力を行った「日本文学報国会」などは、何の声明も出さぬまま解体したという。すべてをうやむやにするという方法論が、既にここにあらわれている。

笠原十九司『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』(平凡社新書、2007年)は、南京事件について世に示さんとした石川達三『生きてゐる兵隊』の発禁についても触れている。

南京事件は、この発禁に象徴されるように、事件直後から中国のみならず欧米にもその残虐性が知れ渡ったにも関わらず、日本の国民にはその実態を知らせないようにするものだった。

著者は、このことと、戦後処理のまずさにより、日本国民のなかで歴史の共有に失敗したのだということを、丹念に示している。既に学問的には南京事件という史実について疑いようがない結論が出ているにも関わらず、いまだ、否定派はネガティブ・キャンペーンをやめようとしない。言い張り続ければ、まだ両論あるのだという意識を社会に醸成し、教科書からもその記載を消し去ることだって狙えなくはない、ということだ。

この動きの駆動力こそが、今に至る政権与党のなかにあった。戦争の実相を伝えることを統制しようとする現在の動きも、『従軍作家たちの戦争』の時代に似てきている。極めて危険なメッセージを読みとるべきである。

●参照
陸川『南京!南京!』
盧溝橋・中国人民抗日戦争記念館(南京事件についても展示)
高橋哲哉『記憶のエチカ』


安彦良和『クラッシャージョウ』

2013-08-16 08:19:39 | アート・映画

懐かしさのあまり、安彦良和『クラッシャージョウ』(1983年)を観てしまった。中学生になる前だったか、宇部だか小野田だかの松竹系の映画館に観に行った記憶がある。

あらためて確認しても、手作業感がみなぎった作品のアニメはやはり良い。映画版のオリジナルだけあって物語がまとまっており、アニメーターを特定したためか安彦良和独自の絵の雰囲気も統一されており、とても完成度が高い。比較してはならないが、描いた人がばらばらなものを寄せ集めた『機動戦士ガンダム』よりも(ガンダムの鼻にある線が2本でなく3本の絵さえあった)。

当時まったく意識していなかったことだが、ジョウは19歳、ヒロインのアルフィンは17歳。彼らがディスコで泥酔し暴れる場面がある。『風立ちぬ』の喫煙場面騒動のように、いまなら難しいところかもしれない。

ところで、『ユリイカ』の安彦良和特集号(2007年9月)を紐解いてみても、この映画への言及はほとんどない。やはり自身の原作でなく、高千穂遥の意向がかなり反映されているからかな。

意外なことに、かつて、安彦良和は左翼学生であった。「別冊宝島」の『左翼はどこへ行ったのか!』(宝島社、2008年)というふざけた本に、そのあたりを振り返ったインタビューがある。『虹色のトロツキー』や『クルドの星』を置いておいても、このような兵器ドンパチものを観ていると、逆なのではないかと感じてしまう。

●参照
半神半人の英雄譚 『タイタンの戦い』、『アリオン』


工藤敏樹『祈りの画譜 もう一つの日本』

2013-08-15 20:45:05 | アート・映画

工藤敏樹『祈りの画譜 もう一つの日本』(NHK、1972年放送)を観る。

実にさまざまな絵柄の絵馬が登場する。蛇や蛸などの動物が描かれたもの。女性の乳が物凄い勢いで吹き出しているもの。かつては絵馬職人がいた(いや、いまもいるのかもしれない)。わたしが知っている絵馬など、大量生産の味気ないものにすぎない。

場所もさまざまだ。東京・浅草寺、山形・立石寺。そして、青森・津軽の名もない小さなお社が登場する。雪どけ水が岩をえぐった場所に、ひっそりと設置されている。驚いたことに、お社は頻繁に水に流され、流されるたびに、気付いた人がまた設置するのだという。そこに、川に向かって祈る女性が描かれた絵馬がある。水に流されて溺死した夫のために絵馬職人に描いてもらったものであり、絵馬ごとお社が流されない限りは夫は成仏しないのだ、という。

立石寺には、結婚前に亡くなった娘のため、架空の夫とともに描きこんだ絵馬がある。絵馬ではないが、満蒙開拓団として中国に渡り亡くなった子どもたちを「集団結婚」させた多数の人形もある。このような風習は、もう完全にすたれてしまったのだろうか。

棟方志功は、訛りの強い言葉で、津軽の風土について話しながら、豪快に版画を刻んでいく。シベリア抑留時の絵を描き続けた山口の香月泰男は、この仕事を鎮魂だという。水俣の秀島由己男は、水俣病によって亡くなったのだろうか、声なき声をあげる多くの子どもたちの絵を、ペンで丹念に描く。

おかしな政治屋たちには、かつて多くの人たちが絵に込めた鎮魂の気持ちが、少しでもあるだろうか。

●参照
工藤敏樹『メッシュマップ東京』(1974年)
工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』(1967年)
『香月泰男・追憶のシベリア』展


山口果林『安部公房とわたし』

2013-08-15 08:08:00 | 思想・文学

山口果林『安部公房とわたし』(講談社、2013年)を読む。

不世出の作家・安部公房が亡くなってからもう20年。実は、23歳も歳の離れた女優・山口果林との間に、長い期間にわたる関係があった。

安部の妻は、安部作品の挿絵で有名な安部真知。娘は安部ねり。山口と安部の関係は、彼女たちとの間に、狂気的とも思える確執をも生み出した。これはちょっと読んでいて辛く怖い。

山口は女優業にダメージを与えるスキャンダルを恐れ、安部の担当編集者は、安部がノーベル文学賞を取るまで関係を世に示すべきでないと主張していた。安部はノーベル賞を受賞することなく亡くなり、関係は噂のままであった。

ところが、この時期に及んでの告白。女優の心の裡にため込んだものが切実に書き記されている。生きてきたことの証明というべきかもしれない。

●参照
安部公房『(霊媒の話より)題未定』
安部公房『方舟さくら丸』再読
安部公房『密会』
安部公房の写真集
安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
勅使河原宏『おとし穴』(安部公房原作)
勅使河原宏『燃えつきた地図』(安部公房原作)


高野秀行『ミャンマーの柳生一族』

2013-08-14 07:51:40 | 東南アジア

高野秀行『ミャンマーの柳生一族』(集英社文庫、2006年)を読む。おかしなタイトルだが、フィクションではない。

2004年。著者は、作家・船戸与一に案内役を依頼され、ミャンマーに入国する。著者は、それまで、ミャンマーには2年に1回くらいの割合で行っているが、基本的には「非合法で行く国」であった。なぜかといえば、反政府少数民族ゲリラの支配区を訪れるためであり、それにはタイや中国との国境を非合法に越えるしかなかったからだという。のっけから驚愕である。

それで、何が「柳生一族」か。江戸時代初期、柳生一族は、徳川幕府安定のために表でも裏でも活躍した。ミャンマーは、テイン・セイン大統領のもと民政に移管したとされているが、それまでは、長い軍政期にあった。その維持のために軍情報部が必要とされたのだが(KCIAなどのように)、著者は、その軍情報部を柳生一族になぞらえているのである。

しかし、ミャンマーにおいては前例のない話ではない。建国の父アウン・サンは、抗日活動前に日本軍に取り込まれていたとき、何と、「面田紋次」という名前を付けられていたというし(ビルマ=ミャンマーを意味する「緬」を姓名に分割)、彼と共闘したネ・ウィン(のちに大統領)の日本名に至っては「高杉晋」。冗談のようだが史実だ。

そんなわけで、著者の悪乗りは際限なく続く。柳生一族の大目付たるキン・ニュン(軍情報部のトップ、首相)は柳生宗矩、そのライバルであるマウン・エイは松平伊豆守。幕府の最高権力者として、アウン・サンは徳川家康、ネ・ウィンは二代目・秀忠、タン・シュエは家光。アウン・サン・スー・チーは千姫。面白すぎる。

いつか使えそうなネタはいろいろある。たとえば、千葉真一(サニー千葉)は「サニチバ」と呼ばれ有名。真田広之は「ヘンリー・サナダ」。

ふざけているばかりの旅行記ではない。カレン、カチン、シャンなどの少数民族問題や、アヘンを財源としていたシャン州の独自性については、数少ない人にしか書けないものに違いない。

この取材旅行が終わった直後、柳生キン・ニュン宗矩は松平マウン・エイ伊豆守との権力争いに敗れ、終身刑を言い渡された。それに伴い、軍情報部は解体、柳生一族は崩壊。

さらにタン・シュエ政権からテイン・セイン政権に変わった今では、柳生キン・ニュン宗矩は恩赦にて軟禁を解かれ、松平マウン・エイ伊豆守は失脚させられた。盛者必衰。

大推薦の本なのだが、今後、ミャンマーのことを考えるときには、必ず「柳生一族」という言葉が浮かんできそうで・・・。