友人と、リコーイメージングスクエア新宿で石川武志写真展『MINAMATA ユージン・スミスへのオマージュ』。
石川さんはユージン・スミスとアイリーン夫人が水俣に移り住んだ際に同行し、小さな部屋で1年間寝食を共にした。新婚のふたりの隣で川の字になって毎日寝ていたんだよと笑って話してくれた。確かに映画『MINAMATA』に登場した通りの小さな家の部屋や急造暗室が記録されている。
若かったこともあり、写真技法はスミスから教わったのだという。Tri-Xを使い、ISO400ではなく320とみなして薄いネガを作る。原版がハイコントラストになってグラデーションが飛ぶことを嫌ったようだ。それをプリントすると薄暗い感じになるため、ハイポで銀を除去しコントラストを付ける。
いや良い写真群である。ミノルタSR-T101やオリンパスペンを使うスミスをとらえ、たまにぶれているのも親密さの証拠。覆い焼きも良い。映画のジョニー・デップも愛嬌があったけれど、本物はもっと剽軽でもあったんだな。
会場に置いてあったインド・バラナシの写真集もすばらしく、頁を順にめくりながらしばらく話をした。
●参照
水俣とユージン・スミス
森元斎『国道3号線 抵抗の民衆史』
『上野英信展 闇の声をきざむ』
『けーし風』読者の集い(31) 「生きる技法」としての文化/想像力
政野淳子『四大公害病』
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』
土本典昭さんが亡くなった
工藤敏樹『祈りの画譜 もう一つの日本』(水俣の画家・秀島由己男)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』(行政の不作為)
桑原史成写真展『不知火海』
桑原史成写真展『不知火海』(2)
森元斎『国道3号線 抵抗の民衆史』(共和国、2020年)を読む。
なぜ九州なのか。なぜ国道3号線なのか。
西南戦争の原因は中央政府により切り棄てられた者たちの不満だった。チッソ(当時)はアセトアルデヒド生産のトップ工場であり、国力の維持のために中央政府により擁護体制が敷かれ、水俣病を止めることができなかった。炭鉱のかずかずも国のエネルギー供給上重要な機能だった。ここに国内の植民地的な思想があり、棄民政策があった。
興味深い点は、著者が「あわい」を視ているところだ。加害と被害のあわい、論理と実践のあわい、当事者と傍観者のあわい。たんなる両論併記などではなく、バランス感とやらでもない。これもまた思想である。
「現在にあっては、放射性物質が拡散し、COVID-19が蔓延し、なすすべもなく立ちすくむ私たちがいる。沖縄の基地を撤廃したい私たちがいる。石木の豊かな自然にダムなど作りたくない私たちがいる。そうしたなかにありながらも、日常生活を営み、暮らす。」
「私たちは何もできない。と同時に私たちは何でもできる。これらのあわいに私たちは悶え加勢しながら生きている。」
きのう東武東上線の電車で読んでいて、あっと叫んでしまいそうになった指摘がある。孫文を支えたアジア主義者宮崎滔天の兄・宮崎八郎は、反西郷でありながら西南戦争に参加し、政府軍の弾で死んだ。もちろん宮崎も大川周明も頭山満も内田良平も妖怪的な人であり、アジア主義者とはいえ日本が指導するというパターナリズムや侵略的な思想からは自由ではなかった。一方で、炭鉱労働者は東アジアから連行されてきた人が多かった。九州はやはり人流と思想の結節点だった。
「内実は異なれども、ある種のアジア主義を標榜せざるを得ないなにがしかを放つ場所、それが国道3号線沿いのベクトルめいたものなのだ。」
●参照
上野英信『追われゆく坑夫たち』
上野英信『眉屋私記』
『上野英信展 闇の声をきざむ』
伊藤智永『忘却された支配』
西嶋真治『抗い 記録作家 林えいだい』
奈賀悟『閉山 三井三池炭坑1889-1997』
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
本橋成一『炭鉱』
勅使河原宏『おとし穴』(北九州の炭鉱)
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の仮想的な炭鉱)
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』
石井寛治『日本の産業革命』
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』
土本典昭さんが亡くなった
工藤敏樹『祈りの画譜 もう一つの日本』(水俣の画家・秀島由己男)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』(行政の不作為)
桑原史成写真展『不知火海』
桑原史成写真展『不知火海』(2)
ハマん記憶を明日へ 浦安「黒い水事件」のオーラルヒストリー
浦安市郷土博物館『海苔へのおもい』
寺尾忠能編『「後発性」のポリティクス』
高野秀行『移民の宴』(沖縄のブラジル移民)
松田良孝『台湾疎開 「琉球難民」の1年11カ月』(沖縄の台湾移民)
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(日系移民)
大島保克+オルケスタ・ボレ『今どぅ別り』 移民、棄民、基地
高嶺剛『夢幻琉球・つるヘンリー』 けだるいクロスボーダー
岡本隆司『袁世凱』
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』
ジャッキー・チェン+チャン・リー『1911』、丁蔭楠『孫文』(辛亥革命)
大島渚『アジアの曙』(第二革命)
尾崎秀樹『評伝 山中峯太郎 夢いまだ成らず』(第二革命)
武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す』(秋瑾)
汪暉『世界史のなかの中国』
汪暉『世界史のなかの中国』(2)
中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本』
井上勝生『明治日本の植民地支配』
玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢』
満州の妖怪どもが悪夢のあと 島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』
森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』
大城立裕『朝、上海に立ちつくす』(東亜同文書院)
譚璐美『帝都東京を中国革命で歩く』
熊谷博子『作兵衛さんと日本を掘る』(2018年)を観る。
筑豊の炭鉱労働者であり、のちにその様子をたくさんの絵として描き残した山本作兵衛についてのドキュメンタリーである。
いまも残される坑口跡や設備があることに驚いてしまうが、その映像により、人を使い潰した歴史がさらに現実の歴史として迫ってくる。
それにしても、クローズアップによって仔細に観れば観るほど凄い絵の数々だ。現代美術の菊畑茂久馬が一時期創作から離れたのは、作兵衛の絵に衝撃を受けたからでもあった(知らなかった!)。それはリアルであるだけではない。語りや炭坑節が筆で書き込まれ、それを追っていくと歴史の変えようのなさに無力感を覚える。面白いことに、リアルでない面もあった。炭坑の中で女性が服を着ていることは、作兵衛の思いやりであった。それは炭鉱労働の経験者が絵を観て嘘だと笑ったから、わかったことである。その後の絵では、女性も上半身裸となっている。
上野英信さん、上野朱さん、当時の炭鉱労働者(老人ホームに入っている)、作兵衛のお孫さんなど、登場人物を絞ってじっくりと撮られた作品であり、とても濃密だ。
また、国策により職を追われた炭鉱労働者たちが、原子力発電の労働者となっていったことも示唆されていることにも、注目すべきだ。熊谷監督が『むかし原発いま炭鉱』でも言及していることである。たんにエネルギー政策という面だけではなく、労働者という面でも、石炭の歴史は原子力の歴史につながっている。それでは、原子力労働者は、次にどこに流れさせられるのか。軍事なのか。
黒田京子・喜多直毅デュオの音楽も出色。
あわせて、隣のカフェ・ポレポレ坐での「上野英信の坑口」展も観た。福岡市文学館で2017年に開かれた『上野英信展 闇の声をきざむ』と連携した展示である。筑豊文庫創立の書、上野英信の珍しい版画、サークル村の機関誌、上野が使っていた万年筆(メーカーがわからなかった)、『眉屋私記』を書き換えた過程がわかる原稿、ボタなど、興味深い展示だった。改めて、上野がもっと生きていて沖縄をさらに深堀していたなら、と考えてしまう。
山本作兵衛を世に紹介しようとした上野英信は、炭鉱労働にとどまらず、移民(原子力と同様、炭坑労働者の棄民政策として)、南米、沖縄とどんどん視野を拡げ、また同時に深堀もしていった。そしてその根っこに、天皇制を見出していた。
「戦場であれ、炭鉱であれ、日本人であれ、朝鮮人であれ、<いわれなき死>の煙のたちのぼるところ、そこにかならず<天皇>はたちあらわれるのです。」(『天皇陛下萬歳』)
●炭鉱
上野英信『追われゆく坑夫たち』
上野英信『眉屋私記』
『上野英信展 闇の声をきざむ』
伊藤智永『忘却された支配』
西嶋真治『抗い 記録作家 林えいだい』
奈賀悟『閉山 三井三池炭坑1889-1997』
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
本橋成一『炭鉱』
三木健『西表炭坑概史』
勅使河原宏『おとし穴』(北九州の炭鉱)
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の仮想的な炭鉱)
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』
石井寛治『日本の産業革命』
博多。とりあえず空腹なので、ほろよい通りの炉端魚助でごまさば、その他。ついでにスーパードライとごまさば寿司を買って(またか)、電車に乗り込んで長崎に向かう。
長崎。
浦上駅から歩いて原爆資料館、爆心地、北村西望の平和祈念像。この像を見るのは中学の修学旅行以来だから10年ぶりくらいである。融けた万年筆、手の骨と一体化したガラス、弁当と炭化したお米。
高田の駅から夜道をとぼとぼ歩いて、雪の浦手造りハムへ。扉を開けたらみんな笑っている。不思議。Shuta Hirakiさんや福岡のベーシストAVANさんも来た。
長沢哲さんと齋藤徹さんのライヴが終わって、本当においしい鍋。ごちそうさまでした。
浦安の飲み友達が迎えに来てくれて、思案橋でハシゴ3軒。
日本二十六聖人の像(舟越保武)と博物館。外から想像した殉教の絵。踏み絵。信仰を隠す土人形。
聖フィリッポ教会。1962年にガウディ研究の今井兼次氏が設計した。壁には京都から長崎の間で作られた陶磁器などが埋め込まれている。驚愕。近くのカフェの屋上でひとやすみ。
有明海に面して牡蠣小屋がいくつもある。小長井の牡蠣が解禁になったばかりで、たらふく食べた。余は満足じゃ。
博多まで車で送ってもらい、中洲の酒一番。なんといっても、鯨のおばいけが懐かしい。湯をかけて冷水にさらしたのだろう、まるで雪のようになっている(これははじめてだ)。
鎌田慧『死に絶えた風景―ルポルタージュ・新日鉄』(現代教養文庫、原著1971/82/85年)を読む。
1950年に財閥解体とともに発足した八幡製鉄は、1970年に富士製鉄と合併して新日鉄(現・新日鉄住金)となる。本書は主にそれ以降の八幡製鉄所の姿を描いたルポである。著者はそのために労働下宿に入ってもいる。
読んでいて露わになっていくのは、既に斜陽であった石炭産業と同じ労働構造であることだ。あるいは現在の原子力産業との類似点を見出せるのかもしれない。何重もの下請けがあり、労働者はその何重もの搾取をもろに受ける。労働現場や下宿や地域からは逃げ出せない工夫が仕掛けられている。死者が高い割合で出ざるを得ない3K労働。
労働下宿は「飯場」そのものだった。明治30年代の官製製鉄所建設当時に「千人小屋」として登場し、形を変えて存続してきた。被差別出身者が多く、また炭鉱労働者が流れてきていた。かれらは自分にどんな労働が与えられるか知らずに、労働力供給機能を持つ労働下宿に生きた。
驚くべきは、明治以降の国策産業に、かれらが安く使い潰せる労働力として投入されたということだけではない。かれらは同じ鉄鋼産業の中でも使いまわされた。君津や光や堺に新しい製鉄所ができると、万単位の3K労働者が、「兵站所」の八幡から民族移動させられた。労働者はスクラップ・アンド・ビルドの手段に過ぎなかった。そして、北九州は公害の町から住宅地と化して、地域全体が労働下宿と化したのだった。
●鎌田慧
唖蝉坊と沖縄@韓国YMCA(2017年)
鎌田慧『怒りのいまを刻む』(2013年)
6.15沖縄意見広告運動報告集会(2012年)
金城実+鎌田慧+辛淑玉+石川文洋「差別の構造―沖縄という現場」(2010年)
鎌田慧『沖縄 抵抗と希望の島』(2010年)
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)(2009年)
鎌田慧『抵抗する自由』 成田・三里塚のいま(2007年)
沖縄「集団自決」問題(8) 鎌田慧のレポート、『世界』、東京での大会(2007年)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』(1995年)
鎌田慧『六ヶ所村の記録』(1991年)
ええじゃないかドブロク
「すみだジャズ」の錦糸公園メインステージでは、夜、朝崎郁恵のステージもあった(2015/8/15)。奄美のレジェンドであり、見逃すわけにはいかない。
終戦記念日ということもあってか、1曲目は「嘉義丸のうた」。最初に、このうたの由来の語りが流された。1943年、大阪を出港した民間船「嘉義丸」(かぎまる)が、米軍に沈められた。300人以上の死者を出す大事件だったが、その情報は軍部により伏せられた。戦局の不利を社会から隠すためだった。まさに同年末に、那覇を出港して米軍に沈められた「湖南丸」が600人以上の犠牲者を出したが、そのことが数十年間も知られることがなかったことと同じである(なお、対馬丸事件はその8か月後である)。嘉義丸事件を知った朝崎郁恵さんの父は、ひどく心を痛め、「嘉義丸のうた」を作ったのだという。しかし、この歌も人前で歌うわけにはいかず、半ば封印された。
もう何年も前に、この歌をめぐるテレビドキュメンタリーを観たことがある。メロディーは、有名な「十九の春」と同じ。曲だけが奄美から南下して沖縄に伝わったのではないか、との見方があるという。
朝崎さんは祈るようにじっくりと歌った。ステージの途中で、その「十九の春」も日本語で歌った。だが、ほとんどの歌は奄美の言葉であり、朝崎さんがかいつまんで説明するものの、聴いていても言葉の直接的な意味はわからない。それでも、よれまくり、揺れまくり、シフトしまくる中から出てくる声は朝崎郁恵のものとしか言いようがなくて、不覚にも泣きそうになってしまう。
最後の「行きゅんにゃ加那」で、ようやく、朝崎郁恵が奄美民謡というカテゴリーに収まる。
武下和平『奄美しまうたの神髄』(JVC、1994年)を聴く。
武下和平(唄、三味線)
早田信子(はやし)
長岡浩之(太鼓)
奄美の島唄は琉球から伝わったというが、大きく異なる形で独自の進化をしている。三味線はバチを使い、琉球よりも激しく上と下から叩く。コードも琉球音階ではないため、琉球の島唄のような奇妙な明るさと哀しさではなく、後者の色合いが強いように感じる。そして男でも裏声を多用する。
突如現れた天才と評される武下和平の高い裏声には、耳が吸い付くようになって聴き惚れる。わたしは中江裕司『恋しくて』に出演した氏の姿しか観たことがないのだが、ナマで聴くことができればどんなに素晴らしいだろう。尼崎在住だという。
ところで、奄美出身の唄者・里国隆も、亡くなる直前のコンサートを尼崎で開いていた(>> 1985年の里国隆の映像)。このふたりの接点はどのようなものだったのだろう。
●参照
1985年の里国隆の映像
里国隆のドキュメンタリー『白い大道』
元ちとせ『故郷・美ら・思い』(1996年度奄美民謡大賞の受賞記念)
銀座ニコンサロンで、本橋成一さんの写真展『炭鉱』が開かれている。
ここに収められているのは、九州と北海道の炭鉱。筑豊では、あの上野英信さんに案内されたのだという。
狭く真っ暗な中での炭鉱労働、素っ裸になっての着替え、炭鉱住宅の子どもたち、悲惨な炭鉱事故の後。もちろん貴重な記録なのだが、写真群から漂ってくる空気は、暗く厳しい社会のルポが放つものとは明らかに違っている。真っ暗な坑道の中では、爆発防止タイプのストロボを持っていない写真家のために、男たちがヘッドランプの光を集めてくれたのだという。子どもたちの文字通り屈託ない笑顔も、オトナの写真家に向けられたものではない。つまり、本橋さんの人柄のようなものが表れた写真群だと思えるのだがどうか。
●参照
本橋成一『バオバブの記憶』
池澤夏樹・本橋成一『イラクの小さな橋を渡って』
本橋成一『魚河岸ひとの町』
本橋成一『写真と映画と』
奈賀悟『閉山 三井三池炭坑1889-1997』
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』
上野英信『追われゆく坑夫たち』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
勅使河原宏『おとし穴』(北九州の炭鉱)
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の仮想的な炭鉱)
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』
石井寛治『日本の産業革命』
奈賀悟『閉山 三井三池炭坑1889-1997』(岩波書店、1997年)を読む。
三井三池鉱山は、福岡県大牟田市を中心とした坑道の入り口から有明海の海底にまで広がる、巨大な炭鉱であった。その総延長は300kmとも言われたという。官営三池炭鉱が三井に払い下げられたのが1889年(大日本帝国憲法の公布年)、そこから明治、大正、昭和と、日本の経済発展に貢献した。歴史的役割を終え、本書が刊行された1997年に閉山。いまでは、坑道掘りの炭鉱は、日本国内では釧路にしか存在しない。
などと書くと、産業発展史の教科書のようになる。実際には、それは、無数の炭鉱労働者に対する暴力的な抑圧によって維持されていた。(なお、北九州の炭鉱は多数の小規模な炭坑の集合体、三井三池はより大規模なものだと思っていたが、本書によれば、三井三池でも、入口単位での管理をしていたようだ。)
炭坑労働者の間でも激しい差別的な扱いがあった。よく知られたことだが、当初は囚人使役があり(払い下げには、囚人使用権まで含まれていた)、やがて、中国や朝鮮から労働者を連れてきた(強制的に、あるいは、二年間などと騙して)。中国人労働者・朝鮮人労働者に対する扱いは熾烈を極めた。言うことをきかないと直接殺すこともあり、また、「使えなく」なってから、亡くなってからは、ひとりひとりとしては扱われなかった。
外国人だけではない。飢餓や貧困に苦しんでいた与論島からは多くの労働者が渡ってきて、港湾で働いた。かれらも差別の対象となった。(このあたりは、熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』、熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』に詳しい。)
戦後、会社はさらに効率化を進めた。つまり、労働条件の過酷化を進め、安全対策を適切に行わなかった。その結果として起きた事故が、1963年の炭塵爆発である。炭塵が放置され、あるきっかけで火が付き、爆発・落盤するとともに、発生したCOガスで、多くの労働者が亡くなり、また、激しい後遺症に苦しむこととなった。
しかし、このように因果関係が明らか過ぎるほど明らかな事故に対しても、会社や国の対応はあまりにも不適切だった。その過程では、原因を炭塵ではないとする「学者」や、誤った判断をくだす「医者」や、条件闘争のなかで個人を押しつぶそうとする「労組」や、経済発展を最優先させる「国」が、犠牲者に立ちはだかった。こう見ると、歴史は現在につながっているのだということがよくわかる。
●参照
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』
上野英信『追われゆく坑夫たち』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
勅使河原宏『おとし穴』(北九州の炭鉱)
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の仮想的な炭鉱)
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』
外村大『朝鮮人強制連行』
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石井寛治『日本の産業革命』
銀座ニコンサロンにて、桑原史成の写真展『不知火海』を観る。昨年11月にも開かれたばかりだが、今回、桑原氏が土門拳賞を受賞した記念での再度の開催である。構成や個々の写真は、前回と少し変えてあるようだ。
5歳で水俣病を発病し、23歳で亡くなった少女は、その美しさから「生ける人形」と呼ばれた。また、石牟礼道子『苦界浄土』に登場する杢太郎少年のモデルとなったと言われる少年の写真もある。
桑原氏は、「生ける人形」を、できるだけ美しく撮りたかった、と述べている。それだけでなく、白黒プリントが非常に巧く、さすがである。それだけに、なお、水俣病を発生させ、放置し、さらには別の公害病を生んだ罪が、重いものとして迫ってくる。
ニコンサロンは、この写真展の次に、石川文洋氏のベトナム戦争の写真展を予定している。福島の原発事故も、これまでテーマとしてきている。この姿勢を貫くならば、安世鴻氏による慰安婦の写真展を中止したことの理由も明確にすべきである。
●参照
桑原史成写真展『不知火海』
工藤敏樹『祈りの画譜 もう一つの日本』
土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』
土本典昭さんが亡くなった
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』
井上光晴『西海原子力発電所/輸送』(講談社文芸文庫、原著1986年・1989年)を読む。
本書に収録された二篇「西海原子力発電所」と「輸送」とは、佐賀県の玄海原子力発電所を一応のモデルとして書かれている。
前者は、原発立地に伴うくろぐろとした闇、原発反対運動と原爆による被爆体験とに共通する自らへの枷を描く。後者は、核廃棄物を収めたキャスクが輸送中に事故を起こし、その町が、放射性物質によって汚染されていく物語。
明らかに、井上光晴は、水俣病を思い出しながら、原発事故被害を描いている。現在の目でみれば、それは間違ったディテールだ。しかし、これらの小説の本質は、人の棲む町が、放射性物質や、噂や、底知れぬ恐怖といった目に視えぬものによって崩壊していく姿の描写にある。その意味では先駆的な作品であるといえる。
井上光晴の小説が新刊として出るなど、久しぶりのことではないか。これを読んでも実感できることだが、ただの「ウソつきみっちゃん」のホラ話ではない。他の作品も文庫として復刊してほしい。
「NNNドキュメント'14」枠で放送された『日本地図から消えた島 奄美 無血の復帰から60年』(2014/1/19放送、鹿児島読売テレビ放送)を観る。ナレーターは元ちとせ。
日本の敗戦から1953年末まで、奄美群島は米国統治下にあった。
黒糖などには関税が課せられたため生活が苦しく、飢えをソテツ(入念にアク取りをしないと死に至る)やサツマイモでしのぐ日々。「B円」という独自通貨の利用を強制され、また、なかなか「本土」への渡航が認められなかったため、交易もままならない。したがって、人びとが取った手段は密航であった。
番組には、当時、「陳情密航団」を組織した人が登場する。鹿児島に渡った後に乗った鉄道の中で逮捕され、十日間の拘留ののち、米国大使館に陳情に赴いたという。そのとき面会した米国大使館員は、「最低3年間、長くても10年間」のうちには、奄美群島が日本に戻されるだろうとの発言をしている。奄美では、復帰を求めてのハンガーストライキもなされた。
そして、「無血」での日本への施政権返還。
「陳情密航団」の人は、学校で体験談を語るとき、「日本人の誇りを忘れないよう」と言う。また別の人は、日本に戻ってよかったと言う。
一方、米国に軍事的機能を提供するため、施政権の返還が遅れ、現在さらにその機能が強化されている沖縄と比較すると、あまりの違いに驚いてしまう。勿論、良し悪しの問題でも倫理の問題でもない。
●参照
○島尾ミホ『海辺の生と死』
○島尾ミホさんの「アンマー」
○島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
○里国隆のドキュメンタリー『白い大道』
○1985年の里国隆の映像
●NNNドキュメント
○大島渚『忘れられた皇軍』(2014年、1963年)
○『ルル、ラン どこに帰ろうか タンチョウ相次ぐ衝突死』(2013年)
○『狂気の正体 連合赤軍兵士41年目の証言』(2013年)
○『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』(2013年)
○『沖縄からの手紙』(2012年)
○『八ッ場 長すぎる翻弄』(2012年)
○『鉄条網とアメとムチ』(2011年)、『基地の町に生きて』(2008年)
○『風の民、練塀の町』(2010年)
○『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
○『シリーズ・戦争の記憶(1) 証言 集団自決 語り継ぐ沖縄戦』(2008年)
○『音の記憶(2) ヤンバルの森と米軍基地』(2008年)
○『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)、『空白の戦史・沖縄住民虐殺35年』(1980年)
○『毒ガスは去ったが』(1971年)、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1979年)
○『沖縄の十八歳』(1966年)、『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)
伊藤ルイ『海の歌う日 大杉栄・伊藤野枝へ―ルイズより』(講談社、1985年)を読む。
故・伊藤ルイ(ルイズ)は、大杉栄と伊藤野枝の娘である。この両親は、ルイ幼少時に、軍部(甘粕正彦)により、1923年の関東大震災直後に虐殺された。そのため、ルイは福岡において祖母・伊藤ムメに育てられた。松下竜一の名作『ルイズ 父に貰いし名は』(1982年)は、祖母のことを書くという条件で取材を受けている。
本書は、さまざまな思いを綴ったエッセイ集であり、ルイ独特の文体もあり、読む者も行きつ戻りつする思索や回想につきあうこととなる。
ルイは、その出自のこともあり、小さいころから大人たちの差別的な扱いを受けてきた。そのためもあって、自分の「特別」な両親のことは意識上も対外的にも回避していたが、次第に、そのことを受け容れてきたという。それは、差別を受け、自らのルーツを知るために勉強し、そして社会運動にかかわり、権力のからくりを直視し続けたからにほかならない。
甘粕事件のとき、大杉栄の甥にあたる橘宗一少年も、同時に無惨にも殺されている。その父親・橘惣三郎は、宗一の墓石に、「大正十二年(一九二三)九月十六日ノ夜大杉栄、野枝ト共ニ犬共ニ虐殺サル」と書いた。晩年のルイの姿を撮ったドキュメンタリー映画、藤原智子『ルイズその旅立ち』(1997年)には、名古屋の寺の藪の中にその墓石があることを知りながら、住民たちが軍部に知らせることもなく、戦後まで隠しおおせたのだということがわかる場面がある。
そのことを胸に抱き、ルイは、沖縄戦において新垣弓太郎なる人物が、日本兵に撃ち殺された妻のために「日兵逆殺」と記した墓を確かめるため、沖縄を訪れている。しかし、その甥にあたる人物は、既に、「沖縄と日本とがひとつになってやっていかなければならないときに妨げになる」という理由で、墓を打ち壊してしまっていた。ルイは、愕然として、次のように言う。まさに、歴史修正主義の臭い風が吹くいま、発せられるべきことばでないか。
「そうではなくて、戦争という状況のなかで、人間が無思慮に暴力を使い、人を殺したあと、その暴力を使ったことによって、人間がどのように堕落していくものであるか、それは人間が人間でなくなる、そういう恐ろしさを私たちに教える証拠として、それを残しておいていただきたかったのです。」
銀座ニコンサロンにて、桑原史成の写真展『不知火海』を観る。
旧・チッソによる水銀廃液が引き起こした水俣病の姿を追った写真群であり、1960年代の本格的な発病から、完全な救済に至らない現在のありようまでが展示されている。
もちろん患者の姿は痛ましい。しかし、なかには、「生ける人形」と呼ばれた少女を、写真家が「なるべく美しく撮ろうとした」写真もある。患者とひとくくりにできないことを如実に示すものだ。そのことは、政治決着を目指して登場してきた政治家たち(それが政治的な善意だとしても)の写真と対置されることによって、なおさら際立ってくる。
●参照
○土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』
○土本典昭さんが亡くなった(『回想・川本輝夫 ミナマタ ― 井戸を掘ったひと』)
○原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
○石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
○『花を奉る 石牟礼道子の世界』
○石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』
○佐藤仁『「持たざる国」の資源論』(行政の不作為)
○工藤敏樹『祈りの画譜 もう一つの日本』(水俣の画家・秀島由己男)