たぶん7回目のサウジアラビア。忙しくて短期の滞在であり、時差ボケも解消されず、ひたすら体調を崩さぬように努めている。そんなわけで、特にフラフラするでもなく、部屋で、ジョン・フィルビー『サウジ・アラビア王朝史』(法政大学出版局、原著1955年)をななめ読み。
サウジアラビアはサウード家の国家であり、その祖先は15世紀にまで遡ることができる。かれはリヤド近郊のディライーヤ(現在世界遺産に登録されているが、補修中で観ることができない)に居を定めた。中世のアラビア半島の地図を見るとわかることだが、非常に多くの部族によって支配地域が分割されている。サウード家の者たちもその中で勃興してきた勢力であった。
王国の黎明期は18世紀の初頭。王は厳格なイスラームの教えであるワッハーブ信仰に帰依し、そのことが、国の性格を定めていくことになった。そして部族間の絶え間ない抗争があり、国が成長していく。
この歴史の中でもっとも強大な敵勢力はオスマン帝国であった。19世紀にいちどはオスマン帝国によって壊滅させられたサウジアラビアだが、20世紀初頭に復活し、ついにはアラビア半島のほぼ全域を勢力下に収める。逆に言えば、それまでは、アラビア半島西岸のヒジャーズ地方は「トルコのもの」であった。ヒジャーズにあるジェッダの旧市街には、トルコ様式の建築物がたくさんあるのだが、それも頷ける(2014年12月、ジェッダ(1) 旧市街)。メッカとメディナという2つの聖地を支配したことが、どれだけこの国にとって大きなことであったか。
ところで、アラビア半島南西に位置するイエメンは、山岳地帯でもあり、今にいたるまで部族の力が強い。オスマン帝国に支配されたり、南部のアデンを含む海岸域を英国におさえられたりもしているが、サウジアラビアとの関係においても、独自のポジションを保有し続けてきたように見える。知らなかったことだが、20世紀には、イエメンのイマーム・ヤヒヤ(こんなところに住んでいた!)はイタリアのムッソリーニ政権と親密になり、武器を購入したりもしている。そして今では、サウジアラビアによる空爆に苦しめられている。長い確執を見出すことができるわけである。
「Arab News」2016/2/28における、イランのイエメン介入に対する批判記事
●参照
保坂修司『サウジアラビア』
イリヤ・トロヤノフ『世界収集家』 リチャード・バートンの伝記小説
2012年11月、リヤドうろうろ
2012年11月、リヤドの朝
リヤドの国立博物館
リヤドのビルと鍵と扉
リヤドの夜景
2014年9月、アラビア砂漠
2014年12月、ジェッダ(1) 旧市街
2014年12月、ジェッダ(2) 木の歩道橋
リヤドのゴールド・スーク
リヤドの昼景
アラビア湾 a.k.a. ペルシャ湾
旨いサウジアラビア
旨いサウジアラビア その2