Sightsong

自縄自縛日記

琉球新報社・新垣毅編著『沖縄の自己決定権』

2015-07-29 22:43:54 | 沖縄

琉球新報社・新垣毅編著『沖縄の自己決定権 その歴史的根拠と近未来の展望』(高文研、2015年)を読む。

 

1879年、琉球王国はついに沖縄県とされ、日本に強引に編入された。 この「琉球処分」については、これまで、琉球、日本、中国(清国)という三角関係によって説明されることが支配的だった。すなわち、1609年の島津藩による侵攻(上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』に詳しい)以来、琉球王国は日本と清国の両国にファジーに属する国家として存続していた。そのバランスを強引に破壊した事件であったというわけである。

一方、列強諸国も琉球をその版図に入れんと狙っていた。19世紀前半の江戸末期より、英仏米の船が界隈をうろうろし、ついにペリー率いるアメリカ東インド艦隊が強圧的に琉球に関係を迫るに至る。アメリカが琉球=沖縄を便利に使える場所として欲しがった歴史の第一幕であり、これが現在まで続いているという見立ては、最近では、石川真生『大琉球写真絵巻』でも、ジャン・ユンカーマン『沖縄うりずんの雨』でも前面に押し出されている。

アメリカと琉球との間には、1854年に琉米修好条約が結ばれる。それだけでなく、翌1855年にはフランスとの間で琉仏修好条約、1859年にはオランダとの間で琉蘭修好条約が締結される(フランスとオランダは国内で批准していない)。すなわち、ここから明らかになることは、当時の琉球王国は独立国家であって、日本に併合されることが当然視できるような関係ではなかったということだ。

当時は「征服」が国際法上認められていた。一方、「琉球処分」は、日本による琉球国王・尚泰王に対する強制であり、「征服」とは異なっていた。それは、琉球が日本の一部であるという物語が破綻することを対外的に示すことになってしまい、対清国、対列強諸国のどちらにしてもまずい選択肢であったからだ。この「国の代表者への強制」という行為は、当時の慣習国際法が禁じており、それを成文化したウィーン条約は、過去に遡って適用できるのだという。

なぜ日本がこうまでして琉球を手に入れようとしたかといえば、南側の防衛拠点として使いたかったからに他ならない。アメリカにとっての琉球=沖縄と同様に、日本が琉球を使いたがった歴史も、現在まで続いている。しかし、現在の研究成果は、その正当性に根本的な疑いを投げかけているということである。

●参照
上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』
上里隆史『海の王国・琉球』
本郷義明『徐葆光が見た琉球』
西銘圭蔵『沖縄をめぐる百年の思想』
石川真生『大琉球写真絵巻』
島袋純さん講演会「"アイデンティティ"をめぐる戦い―沖縄知事選とその後の展望―」
グローバリゼーションの中の沖縄
押しつけられた常識を覆す


「JazzTokyo」のNY特集(2015/7/26)

2015-07-29 06:53:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

「JazzTokyo」のNY特集(2015/7/26)。

http://www.jazztokyo.com/column/jazzrightnow/005.html

●クリス・ピッツィオコスのドキュメンタリー映像『Return to Babel ~ バベルへの帰還』、インタビュー

驚くほどの自意識と独創性。映像には、Downtown Music Galleryでレコードをあさる面白い場面もある。

●シスコ・ブラッドリーのコラム

クリス・ピッツィオコス『Gordian Twine』
マックス・ジョンソン『Something Familier』(『Gordian Twine』参加のベーシスト。この人も25歳と若い)
ヨニ・クレッツマー『Book II』(アナーキーなサックス好きには是非)
プライド・オブ・ローウェル(カセットテープでリリース)
サムスクリュー(メアリー・ハルヴァーソンのギターがジワジワくる)

●よしだののこのNY日誌

毎回脱力していて凄く楽しい。

●参照
「ニューヨーク、冬の終わりのライヴ日記」(2015年)
クリス・ピッツィオコス@Shapeshifter Lab、Don Pedro(2015年)
クリス・ピッツィオコス『Gordian Twine』(2015年)
ウィーゼル・ウォルター+クリス・ピッツィオコス『Drawn and Quartered』(2014年)
クリス・ピッツィオコス+フィリップ・ホワイト『Paroxysm』(2014年)
クリス・ピッツィオコス『Maximalism』(2013年)
イングリッド・ラブロック、メアリー・ハルヴァーソン、クリス・デイヴィス、マット・マネリ @The Stone(2014年)
『Plymouth』(2014年)
メアリー・ハルヴァーソン『Thumbscrew』(2013年)
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』(2012年)
イングリッド・ラブロック(Anti-House)『Strong Place』(2012年)(メアリー・ハルヴァーソン参加)
ステファン・クランプ+メアリー・ハルヴァーソン『Super Eight』(2011年)
イングリッド・ラブロック『Zurich Concert』(2011年)(メアリー・ハルヴァーソン参加)
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』(2009年)
アンソニー・ブラクストン『Trio (Victoriaville) 2007』、『Quartet (Mestre) 2008』(2007、08年)(メアリー・ハルヴァーソン参加)


広瀬淳二『SSI-5』

2015-07-28 07:19:38 | アヴァンギャルド・ジャズ

広瀬淳二『SSI-5』(Hitorri、2014年)を聴く。

広瀬淳二 (self-made sound instrument, version 5)

タイトルは「自家製楽器その5」の頭文字である。43分の間、おそらくはマルセル・デュシャンのレディメイドを思わせる車輪状の何やらを使った演奏である。わたしが広瀬さんのプレイを初めて目にしたのは、もう20年くらい前、サックスではなく、この自家製楽器であった。呆然としていたので音は記憶にないのだが、そうか、こういう音だったのか。最近(2012年)、広瀬さんのサックスを聴いたときに自家製楽器のことを訊いてみると、CD『the elements』に、サインのかわりにそのイラストを描いてくださった。

それにしても、最初から最後まで、工事現場か飛行場か地下室にいるようだ。風なのかダクトの吸気の音なのか、機械の音か離着陸の音なのか、排水管の音か鼠が駆ける音なのか。有象無象をともかくも身体化し、環境化する。それは同時に様々な音を発する氏のサックスと同じである。そして演奏が終わると、またこの現場に戻りたくなってリピートする。

●参照
広瀬淳二+大沼志朗@七針(2012年)
広瀬淳二『the elements』(2009-10年)


ロスコー・ミッチェル『Celebrating Fred Anderson』

2015-07-27 07:18:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

ロスコー・ミッチェル『Celebrating Fred Anderson』(nessa、2015年)を聴く。

Roscoe Mitchell (as, ss, sopranino sax)
Tomeka Reid (cello)
Junius Paul (b)
Vincent Davis (ds)

ロスコー・ミッチェルとフレッド・アンダーソンはシカゴの音楽仲間だった(同じ1965年にAACMに入っている)。これは、2010年に他界したアンダーソンを偲んで、2015年に開かれたコンサートである。

ドラマーのヴィンセント・デイヴィスはアンダーソンのお気に入りであり、ベースのジュニアス・ポールは常にデイヴィスとプレイしていたという。チェロのトメカ・リードはミッチェルの希望で参加。

追悼コンサートとは言え、アンダーソンのテイストは特にない。ミッチェルのソロは相変わらずぐちゃぐちゃべろべろであり、唯一無二というのか、誰にも似ておらず嬉しくなってしまう。リードの擦りとポールの振動が世界を激しく断片化し、その時空間のなかに浮遊したミッチェルが、大きな筆で過激に絵を描いてみせてくれているわけである。

●参照
ロスコー・ミッチェル+デイヴィッド・ウェッセル『CONTACT』
ジャック・デジョネット『Made in Chicago』(ミッチェル参加)
アート・アンサンブル・オブ・シカゴの映像『LUGANO 1993』(ミッチェル参加)
アート・アンサンブル・オブ・シカゴ『苦悩の人々』(ミッチェル参加)
アート・アンサンブル・オブ・シカゴ『カミング・ホーム・ジャマイカ』(ミッチェル参加)
サニー・マレイのレコード(ミッチェル参加)
ムハール・リチャード・エイブラムスの最近の作品(ミッチェル参加)


『けーし風』読者の集い(27) 未来につながるたたかいへ

2015-07-26 06:32:41 | 沖縄

『けーし風』第87号(2015.7、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2015/7/25、神保町区民館)。参加者は8人。

とはいえ、当日に新宿の「模索舎」で入手したので、まだじっくり読んではいない。

主に以下のような話題。

○本誌記事「ゲート前の人びと」では、キャンプシュワブ前に座り込む人にインタビューを行っている。比較的最近、個人的な取り組みをはじめた方もいて、とても興味深い。
『沖縄うりずんの雨』を撮ったジャン・ユンカーマン氏は、ゲート前で歌い踊る人たちを目にして、「本土」との違いに愕然としたという。それは、ごく短期で終わるわけではない運動にあって、持続のために、現場で発明されたものであっただろう。そのことは、ともすれば悲壮に集中する「本土」の運動、そしてそういった従来のものとは異なる最近の運動を軽薄として批判する傾向と、大きな違いがある。
○しかし、個々の運動に相互に違和感があったり、知らないことがあったとしても、あとで学び修正すればよいだけのことである。「本土」には、「小異」ばかりを問題とする傾向がある。このことは「オール沖縄」と対照的ではないか。
○沖縄の運動において重要なことは「可視化」である。矛盾や暴力があらわに視えてしまう沖縄と、日常生活に埋没する東京との違いは大きい。東京における運動の高まりは、問題が多くの人に視えてきたからでもあるだろう。
○高江を撮った三上智恵『標的の村』(2012年)に対する違和感には、「テレビ的」な絵作りがあった。もともとテレビドキュメンタリーとして制作されたものでもあったからである。
ジャン・ユンカーマン『沖縄うりずんの雨』では、1995年の女児レイプ事件の犯人たる3人の米兵が取材されている。そのひとりはカメラに向かって証言を行っている(残るふたりのうち、ひとりはアメリカで再度レイプ事件を起こし自殺、もうひとりは取材拒否)。これは、貧困生活にある若者を兵士にしていく構造(日米問わず)への批判でもあるに違いない。しかし、高里鈴代氏(「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表)は、この取材に対して、「背景には米軍の強大な軍事力があり、米兵の行動をゆがめている。そうした構造的な問題を考えさせる優れた映画だが、米兵の性犯罪に遭った女性の中には、彼の映像を見ることに耐えられない人もいるはず。私は証言映像は不要だったと思う。」と批判している(2015/7/20、朝日新聞)。
○新城郁夫氏は、『越境広場』創刊0号に共鳴し、マイノリティを一括りにして多様性を覆い隠すことの暴力を批判する。(わたしは、マイノリティを「外部」として設定し、彼らに<憑依>することでその真意を代弁するつもりになる言説(<マイノリティ憑依>)を思い出した。>> 植民地文化学会・フォーラム「内なる植民地(再び)」における岡和田晃氏の発言)(参照:崎山多美講演会「シマコトバでカチャーシー」
○沖縄の運動においてヤマトンチュが多いことに否定的な声がある。沖縄独立論、米軍基地の県外移設論・本土移設論とも関連する。翁長知事の公約は、仲井眞前知事のブレーン時代から変わらず、「県外移設」であり、「本土移設」ではない。このあたりの曖昧さに注目すべきである。一方で、「沖縄差別を解消するために沖縄の米軍基地を大阪に引き取る行動(略称=引き取る行動・大阪)」という運動が登場してきている。
○松島泰勝氏の主張するポイントは、当初は「自治」であった。また、島袋純氏は、「自治」の観点から研究を進め、「島ぐるみ会議」への参加と軌を一にして独立論への距離を縮めたように見える。(参照:島袋純さん講演会「"アイデンティティ"をめぐる戦い―沖縄知事選とその後の展望―」
○1960年代後半、金武湾のCTS阻止闘争があった(新崎盛暉氏の連載)。琉球政府の屋良主席は推進側であった。このことは、現在の沖縄へのUSJ・カジノ誘致と重ね合わせて考える必要があるのではないか。

終わった後、中華料理店で懇親会(店の名前を忘れた)。

●紹介された本・映画・集会等
高橋哲哉『沖縄の米軍基地―「県外移設」を考える』(集英社新書)
『越境広場』創刊0号
村上陽子『出来事の残響―原爆文学と沖縄文学』(インパクト出版)
新藤健一・編著『沖縄「辺野古の海」は、いま』(七つ森書館)
琉球新報社・新垣毅『沖縄の自己決定権』(高文研)
「ふぇみん」No.3090(浦島悦子「ジュゴンの里に暮らす」)
ジャン・ユンカーマン『沖縄うりずんの雨』
三上智恵『戦場ぬ止み』
2015/7/26 「沖縄と結ぶ杉並集会」(松本剛、安次富浩)
2015/7/26 「戦争法案反対!国会包囲行動」
2015/8/25 アジア記者クラブ8月定例会「朝鮮から「戦後70年」を問い直す 「140年戦争」という視座から」

●参照
これまでの『けーし風』読者の集い


元ちとせ『平和元年』

2015-07-25 09:27:32 | ポップス

元ちとせの久しぶりの新作!『平和元年』(Ariola、2015年)には、題名通り、平和と反戦の歌が集められている。

デビュー時から落ちていく声量と、逆に過剰になっていくこぶしとが不満に思えてしかたがない時期があった。確かにこのアルバムでも、最終曲「さとうきび畑」はデビュー前の19歳のときにデモ録音したものであり、その伸びやかな声は現在と明らかに異なっている。

だが、もはや、このように作品を出し続けてくれれば、そんなことはどうでもよいのだ。声が変化していくのは当然であり、依然、元ちとせは強烈な個性を発散している。すべて味わい深い歌唱ばかりである。

ピート・シーガーの「腰まで泥まみれ」では、ただひたすらに「進め!」と叫ぶ隊長を「馬鹿」と見限り、引き返す兵隊を歌う。松任谷由実の「スラバヤ通りの妹へ」では、「日本」に向けられた視線を受け止めて歌う抒情。谷川俊太郎と武満徹のコンビによる「死んだ男の残したものは」では、「死んだ兵士の残したものは/こわれた銃とゆがんだ地球/他には何も残せなかった/平和ひとつ残せなかった」と、敢えて大きな物語を棄てて戦争を直視している。そして、坂本龍一のキーボードに伴奏されて歌う「死んだ女の子」。

プロテストソング集としても、成熟した歌手の作品のひとつとしても推薦。

●参照
元ちとせ『Orient』(2010年)
元ちとせ『カッシーニ』(2008年)
元ちとせ『Music Lovers』(2008年)
元ちとせ『蛍星』(2008年)
『ミヨリの森』(2007年)(主題歌)
元ちとせ『ハイヌミカゼ』(2002年)
元ちとせ×あがた森魚
『日本地図から消えた島 奄美 無血の復帰から60年』(ナレーターとして参加)
『ウミガメが教えてくれること』(出演)


デューク・エリントン『The Ellington Suites』

2015-07-24 23:27:34 | アヴァンギャルド・ジャズ

この数日間、デューク・エリントン『The Ellington Suites』(Pablo、1959, 1971, 1972年)ばかりを聴いていた。

収録されている組曲(Suites)は3つ。エリザベス女王に捧げられた「The Queen's Suite」(女王組曲)、フランス・グーテラス城の再建をたたえた「The Goutelas Suite」(グーテラス組曲)、ウィスコンシン大学(UWIS)での演奏に際して作られた「The Uwis Suite」(ユーウィス組曲)である。

どこを切っても、エレガントなくせに荒々しく、スタイリッシュ。「女王組曲」では、艶やかなジョニー・ホッジスのアルトもいいし、渋谷毅さんが演奏している「The Single Petal of a Rose」のオリジナルを聴けることも嬉しい。「グーテラス組曲」ではなんといってもダンディなるポール・ゴンザルヴェスのテナーソロ。もちろんエリントンのピアノはいつも恰好いい。

エリントンは大人の音楽、ワンダーの源泉。

●参照
デューク・エリントン『Live at the Whitney』(1972年)
デューク・エリントンとテリ・リン・キャリントンの『Money Jungle』(1962年、2013年)
デューク・エリントン『Hi-Fi Ellington Uptown』(1951-52年)
渋谷毅エッセンシャル・エリントン@新宿ピットイン(2015年)


原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点』

2015-07-23 22:52:22 | 政治

原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点 ―アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」―』(渓水社、2005年)を読む。

サンフランシスコ平和条約(講和条約)(1951年署名、1952年発効)は、言うまでもなく、全面講和ではない。これをもって敗戦国・日本は再び国としての主権を得た。しかし、ソ連がその内容への不満から参加せず、中国は国のかたちを変えたために議論を受け継ぐことができておらず(それまでの当事者は、敗北した国民党=中華民国であった)、韓国は交戦国でなかったために参加の希望を叶えられなかった。

したがって、ここには、結果的にアメリカの意向が色濃く反映されている。すなわち、急激に最大の課題と化した冷戦対応。社会主義陣営に渡すものを最小化すること、そのために日本を寛大に扱うこと。これによる甘えが、日本国内にいまだ巣食う歴史修正主義という怪物を生み出すとは、当時予想できなかったことに違いない。

カイロ会談(1943年)、ヤルタ会談(1945年)、ポツダム宣言(1945年)を経ての成果であるとしても、そのバイアスが原因となって、いまだ解決できない大きな問題が生み出されたのだということが、本書での検証を追っていくことでよくわかる。竹島、北方領土、尖閣諸島、沖縄、台湾という場所のすべてが、相手なき解決策として、敢えて曖昧な「楔」となったのである。これらの場所については、交渉段階から所属を明確化すべきとの主張がなされていたにも関わらず、国際動向に応じて便利に使えるような形となった。実際に、1956年には、北方領土二島返還という妥結が日ソ間でなされかけていたところ、ならば沖縄は戻さないとの脅しがアメリカから日本に伝えられ、破談に追い込まれている。日ソ間で仲良くされては困るからである。

そのようなオフショア・バランシングにやすやすと乗せられて、ナショナリズムを暴発させることが如何に愚かなことか、問われ続けているわけである。

●参照
孫崎享『日本の国境問題』
孫崎享・編『検証 尖閣問題』
豊下楢彦『「尖閣問題」とは何か』
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』
吉次公介『日米同盟はいかに作られたか』
水島朝穂「オキナワと憲法―その原点と現点」 琉球・沖縄研


エヴァン・パーカー+土取利行+ウィリアム・パーカー(超フリージャズコンサートツアー)@草月ホール

2015-07-23 06:52:38 | アヴァンギャルド・ジャズ

草月ホールに足を運び、待ちに待ったコンサート(2015/7/22)。巨人ウィリアム・パーカー、土取利行ともにナマで目の当たりにするのははじめてだ。エヴァン・パーカーは、世田谷美術館でのソロ(1996年)、中野ZEROでのベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラ(1996年)、新宿ピットインでのエレクトロ・アコースティック・アンサンブル(2000年)以来、4回目。それでも前回から15年が経っている。

Evan Parker (ts, ss)
土取利行 (ds, perc)
William Parker (b, 尺八, 弦楽器)

最近のエヴァン・パーカーの録音を聴いていると全盛期よりさすがにパワーが落ちたのかと思っていたが、いやいや、凄まじい強度である。主に循環呼吸奏法による延々と持続する音は、テナーでは何かを掴むような力を持ち、ソプラノではステージ上に巨大で透明な氷の城を築き上げるようだった。

ウィリアム・パーカーのベースは、期待以上に、「軽くて同時に重い」。軽々とステップを踏みながら、地響きと轟音を放出した。そして尺八、民族楽器風の弦楽器。それらの謎めいた音が、土取さんが様々なパーカッションから、まるで泥や芥を振動によってふるいにかけて次々に宝石を見出すように発するビートと相まって、皆が固唾を呑んで見守る時空間が創り上げられた。

途中でもその瞬間が訪れたのだが、2回目のアンコール演奏においても、エヴァンがリラックスしたように「曲」を奏でる時間があった。これもまた、なかなか聴くことができないものだった。

感激がさめないまま剛田武さん、橋本孝之さんとビールを飲んで、さらに地元でひとり飲み、クールダウン。

●参照
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』(2003、2013年)(ウィリアム・パーカー参加)
Farmers by Nature『Love and Ghosts』(2011年)(ウィリアム・パーカー参加)
ウィリアム・パーカー『Uncle Joe's Spirit House』(2010年)
アンダース・ガーノルド『Live at Glenn Miller Cafe』(2008年)(ウィリアム・パーカー参加)
ブラクストン、グレイヴス、パーカー『Beyond Quantum』(2008年)
ウィリアム・パーカーのカーティス・メイフィールド集(2007年)
ダニエル・カーター『The Dream』、ウィリアム・パーカー『Fractured Dimensions』(2006、2003年)
ウィリアム・パーカー、オルイェミ・トーマス、ジョー・マクフィーら『Spiritworld』(2005年)
ウィリアム・パーカー『Luc's Lantern』(2005年)
ウィリアム・パーカーのベースの多様な色(1994、2004年)
Vision Festivalの映像『Vision Vol.3』(2003年)(ウィリアム・パーカー参加)
ESPの映像、『INSIDE OUT IN THE OPEN』(2001年)(ウィリアム・パーカー参加)
アレン/ドレイク/ジョーダン/パーカー/シルヴァ『The All-Star Game』(2000年)
ウィリアム・パーカー『... and William Danced』(2000年)
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(1985年)(ウィリアム・パーカー参加)
ウェイン・ホーヴィッツ+ブッチ・モリス+ウィリアム・パーカー『Some Order, Long Understood』(1982年)
シュリッペンバッハ・トリオ『Gold is Where You Find It』(2008年)(エヴァン・パーカー参加)
シュリッペンバッハ・トリオ『Detto Fra Di Noi / Live in Pisa 1981』(1981年)(エヴァン・パーカー参加)
シュリッペンバッハ・トリオ『First Recordings』(1972年)(エヴァン・パーカー参加)
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(2008年)(エヴァン・パーカー参加)
エヴァン・パーカー+ネッド・ローゼンバーグ『Monkey Puzzle』(1997年)
エヴァン・パーカー+吉沢元治『Two Chaps』(1996年)
ジョン・エスクリート『Sound, Space and Structures』(2013年)(エヴァン・パーカー参加)
『Rocket Science』(2012年)(エヴァン・パーカー参加)
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(2011年)(エヴァン・パーカー登場)
ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)(エヴァン・パーカー参加)
ハン・ベニンク『Hazentijd』(2009年)(エヴァン・パーカー登場)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(1981-98年)(エヴァン・パーカー参加)


ジャン・ユンカーマン『沖縄うりずんの雨』

2015-07-20 22:37:34 | 沖縄

岩波ホールで、ジャン・ユンカーマン『沖縄うりずんの雨』(2015年)を観る。

第1部、沖縄戦。第2部、占領。第3部、凌辱。第4部、明日へ。沖縄人と日本兵を殺した元米兵、米兵を殺した元日本兵、施政権返還の正体を見抜き日の丸に火をつけた知花昌吉さん(『ゆんたんざ沖縄』も引用される)、チビチリガマでの「集団自決」で偶然生き残った知花カマドさん、元沖縄県知事・大田昌秀さん、元米兵の政治学者・ダグラス・ラミスさん、沖縄の差別的構造を撮る写真家・石川真生さん(最近の『大琉球写真絵巻』も紹介される)、1995年に沖縄で起きた12歳少女強姦事件の犯人のひとり、普天間の海兵隊員、・・・。

この映画にはさまざまな人が登場する。その声が、ペリーの琉球来訪(1853年)から沖縄戦(1945年)を経て現在に至るまでの、米国の帝国主義的な歴史の中に位置づけられ、こだましている。ユンカーマン監督の流暢とは言えない日本語によるナレーションも、既に何度も語られた歴史を、新たに語りなおそうとする異化作用に一役買っているようだ。

貴重なフィルムも、驚くような語りもある。ぜひ多くの人に観てほしい。

●参照
ジャン・ユンカーマン『老人と海』


『銀巴里セッション 1963年6月26日深夜』

2015-07-20 07:37:33 | アヴァンギャルド・ジャズ

先日(2015/7/7)亡くなった菊地"プー"雅章さんの個人的な追悼のつもりで、『銀巴里セッション 1963年6月26日深夜』(Three Blind Mice、1963年)のLPを聴く。今になって、歴史的な録音というだけでない聴きどころと驚きが満載だということに気付いている。なお、司会は相倉久人さんである。

(1) Greensleeves
高柳昌行 (g)
金井英人 (b)
稲葉国光 (b)
富樫雅彦 (ds)

(2) Nardis
菊地雅章 (p)
金井英人 (b)
富樫雅彦 (ds)

(3) If I Were A Bell
中牟礼貞則 (g)
日野皓正 (tp)
稲葉国光 (b)
山崎弘 (ds)

(4) Obstruction
山下洋輔 (p)
宇山恭平 (g)
金井英人 (b)
富樫雅彦 (ds)

実は最初にこの盤を聴いたとき、高柳昌行のギターが轟音ではなく、まるでタル・ファーロウのようなオクトパス風であることを不思議に思っていたのだった。実はそれが高柳前史でもなんでもなくて、枝葉をそぎ落としたミニマルな音世界が本人の幹であることには、あとで気付かされた(1979年には『Cool Jojo』という大傑作もある)。この「Greensleeves」も、高柳のソロを耳で追いかけていくと、とてもスリリングである。

若干23歳の菊地雅章は「Nardis」を弾く。富樫雅彦もこのとき23歳、ブラッシュワークにずいぶん元気があって驚いてしまうが、麻薬禍から戻ってきての復活演奏ということもあるのだろうか。もちろん、まだ下半身の自由を失う前の演奏であり、美学を追及した後年のスタイルとは異なる。そして菊地雅章。このときすでに、思索しながら(そして盛大に唸りながら)、コード進行に沿ったノリノリとは対極に身を置いて、鍵盤に指を乗せるたびに違うフレーズを捻出しようとしていることがわかる。若くしてこの人であったのだ。

高柳とは対照的に、ダンディで暖かく、余裕のある中牟礼貞則。このとき30歳、そして80歳を超えた今もバリバリの現役。今も昔もカッチョいい人である。ところで、石塚真一『BLUE GIANT』に川喜多というヴェテラン・ギタリストが登場するが、この人のイメージがかぶってしまう(ちょっと違うか)。

最後の収録曲は21歳(!)の山下洋輔。これこそ山下前史であり、どう聴けばいいのかよくわからない。

●参照
高柳昌行1982年のギターソロ『Lonely Woman』、『ソロ』(1982年)
翠川敬基『完全版・緑色革命』(1976年)(高柳、富樫参加)
菊地雅章クインテット『ヘアピン・サーカス』(1972年)
菊地雅章+エルヴィン・ジョーンズ『Hollow Out』(1972年)
富樫雅彦が亡くなった(2007年)
『富樫雅彦 スティーヴ・レイシー 高橋悠治』(2000年)
富樫雅彦『セッション・イン・パリ VOL. 1 / 2』(1979年)
富樫雅彦『かなたからの声』(1978年)
富樫雅彦『風の遺した物語』(1975年)
小川紳介『1000年刻みの日時計-牧野村物語』(1968年)(富樫雅彦のパーカッション・ソロ) 
宮野裕司+中牟礼貞則+山崎弘一+本多滋世@小岩フルハウス(2013年)
淺井愼平『キッドナップ・ブルース』(1982年)(山下洋輔登場)
相倉久人『至高の日本ジャズ全史』 


シュリッペンバッハ・トリオ『Detto Fra Di Noi / Live in Pisa 1981』

2015-07-19 21:02:54 | アヴァンギャルド・ジャズ

エヴァン・パーカーが久しぶりに来日していることもあり、演奏を観る前に、シュリッペンバッハ・トリオ『Detto Fra Di Noi / Live in Pisa 1981』(Po Torch Records、1981年)を聴く。ずいぶん前に新品で入手した2枚組LPであり、CDが出ているかどうかは知らない。

Alexander von Schlippenbach (p)
Evan Parker (ss, ts)
Paul Lovens (selected ds & cymbals, sage)

3人とも若い時期の演奏だけあって、精力のようなものが漲っている。何しろアレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハは40代前半、エヴァン・パーカーは30代後半、パウル・ローフェンスにいたっては30代前半である。

シュリッペンバッハのピアノは地響きの轟音を発するとともに無数のきらびやかな音符を四方八方に噴出している。かつてそのプレイを観たときのように、舌と脚をせわしなく動かし続けていたのかと思うと面白い。身体の外側だけでなく、かれの脳内でもシナプスを電気信号が高速で運動していたのではないだろうか。パーカーの有機物による稲妻、さらにローフェンスはふたりに伍すために割れた音をためらいなく発する。

B面からC面にかけて30分ほどの演奏があって、長いアンコールの拍手がD面の頭まで収録されていて、妙に感動してしまう。1981年にピサにいた人たちは、このレコードを聴く自分よりも迫真的な音を受け止めたわけである。

●参照
シュリッペンバッハ・トリオ『Gold is Where You Find It』(2008年)
シュリッペンバッハ・トリオ『First Recordings』(1972年)
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(2008年)
エヴァン・パーカー+ネッド・ローゼンバーグ『Monkey Puzzle』(1997年)
エヴァン・パーカー+吉沢元治『Two Chaps』(1996年)
ジョン・エスクリート『Sound, Space and Structures』(2013年)(エヴァン・パーカー参加)
『Rocket Science』(2012年)(エヴァン・パーカー参加)
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(2011年)(エヴァン・パーカー登場)
ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)(エヴァン・パーカー参加)
ハン・ベニンク『Hazentijd』(2009年)(エヴァン・パーカー登場)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(1981-98年)(エヴァン・パーカー参加)


講演会「やんばるからの伝言」

2015-07-19 09:36:00 | 沖縄

沖縄県東村高江では、米軍の「北部訓練場」に新しいヘリパッド6基が建設されようとしている。オスプレイも離着陸する。

その危険性・不当性を訴えてずっと反対運動を続けている伊佐真次さんと、高江の取材をしている写真家の森住卓さんが講演をされるというので、千駄ヶ谷区民会館まで足を運んだ(2015/7/18)。会場には約130人が集まり、かなりの熱気だった。

講演前には、主催側の布施祐仁さん、高江を舞台に『標的の村』を撮った三上智恵さんの挨拶があった。また、WWFの花輪伸一さんも会場にいらしていた。

※文責は当方にあります

■ 伊佐真次さん(ヘリパッドいらない住民の会)

○2014年9月、3回目の挑戦で、ついに東村議会の議員に当選した(合計8名)。人口約1,900人の村は多くがお互いを見知っていて、地縁・血縁でつながっている。従って、従来は表で選挙活動を行う慣習もないのだが、自分だけ宣伝カーを出して運動した。沖縄市泡瀬から移住してきて村に親戚もない自分にとって、挑戦だった。面白かった。
やんばるの森には、珍しく貴重な動植物が多い。イタジイはもこもこして「ブロッコリーの森」とも呼ばれる。ヤンバルクイナ(天然記念物)が約1,200-1,300羽生きているのに対し、ノグチゲラ(特別天然記念物)はわずか400羽程度。新川川沿いにいる小さい蝶・リュウキュウウラボシシジミ。リュウキュウヤマガメ。リュウキュウハグロトンボは飛び立つときにきらりと光る。昔は沖縄の中部にもいたキノボリトカゲ。ゲットウ。イシカワガエル。ヒメハブは旨いらしいがまだ食べたことがない。
○沖縄には、米軍基地そのものだけでなく、訓練空域・水域や射爆撃場が多い(>> リンク)。訓練が始まると漁ができなくなる。
北部訓練場は那覇市の2倍の面積を持つ。その半分(主に国頭村側)を返還し、その中にあるヘリパッド7基を無くす代わりに、新たに高江に6基を作ろうという計画が、1996年の日米のSACO合意に含まれている。また、安波訓練場を返還する代わりに、上陸作戦を訓練するための訓練水域を設置することも含まれている。実質的に基地機能の強化である。
○北部訓練場のゲートは2つであり、それ以外は森林の中ゆえフェンスもなく、出入可能。米兵も出てくることがある。
○北部訓練場のなかでは、米兵がサバイバル訓練をしている。泥水もくぐる。そのために(動物の糞尿)、2014年11月には米兵90人がレプトスピラ症に感染した。
○低空飛行するヘリは騒音がひどく、危険。電柱の先には目立つようサインボールが付けてある。ヘリCH-46がオスプレイに代替されていく。
○反対するメンバーに対し、沖縄防衛局は、通行妨害の禁止を求めて訴えた。SLAPP裁判(公共の場で権利を主張する者に対する、圧倒的な権力を有する側による恫喝的手法)と言われる。最初は7歳の少女まで対象に含まれていた。裁判の過程で、特別な理由なく、仮処分の対象は伊佐さんひとりに絞られた。そして最高裁では上告棄却により敗訴。
○ヘリパッドは、森林を伐採して直径75mの更地を造成して作られる。アクセス道路などの影響も無視できない。亜熱帯林は、そのように温度・湿度、日光、風などの断絶が生じると、そこから乾燥して枯れていく。また、オスプレイは着陸のときに激しい熱を地上に吹き付けることが知られているが、このように芝生や森林があって山火事の危険があるのではないか。

○ハワイではオスプレイが墜落し2名が亡くなった(2015/5/17)。その原因究明なく、その翌日には沖縄の上空を飛んでいた。また、計画段階では住宅地の上を飛ぶことはないとされていたが、普通に飛行しているのが実態である。防衛省に抗議しても、「米軍に伝えます」という返事のみであり、まったく効果がない。今後、横田基地など「本土」ではどうなるだろう。
○軍用車や兵隊が公道に出てくる実態。沖縄戦の体験者はそれをみただけで恐怖で動けなくなる。
○基地の返還にともない、基地に依存するよりもはるかに大きな経済効果が生まれた事例は多い。

■ 森住卓さん(フォトジャーナリスト)

○辺野古のことは少しずつ取り上げられていたものの、高江は、東京のメディアにまったく無視されていた。
○反対する住民には、他から移住してきた人が多い。軍用地料に依存せず自立した暮らしをしている人たちだとも言うことができる。
○多くの貴重な動植物。(森住さんが撮った見事な写真群)
○伊佐さんのお父さん(85歳)は、沖縄戦で生き残ったことの心の傷をベースに反対をしている。そのお父さん(伊佐さんのお祖父さん)は、那覇の大空襲(1944/10/10)の前日、泡瀬において、突然警察に捕らえられ連行され、戻ってこなかった。おそらくは、反戦活動をしていたからではないか。
○泡瀬は山原船が来て、北部の材木をそこに集積する場所でもあった。そのため、高江の人ともつながりがあった。そのことが移住にもつながった。
○伊佐さんのお父さんの腕には、「土」という彫物がある。友人たちと、海軍少年志願兵になろうとして彫ったものだ。死ぬときは海より土の上で死にたいとの意味だった。ところが、伊佐さんだけトラホームの疑いがあるとして徴用されなかった。仲間は全員亡くなった。また、「対馬丸」に乗って疎開するはずだったが、その数日前、家族と一緒に死ぬのだと言って乗船を拒否した。そのように「生き残った」ことが、心の傷になっている。

●参照
三上智恵『標的の村』映画版(2012年)(伊佐さん登場)
三上智恵『標的の村』テレビ版(2012年)(伊佐さん登場)
エンリコ・パレンティ+トーマス・ファツィ『誰も知らない基地のこと』(2010年)(伊佐さん登場)
2010年8月、高江
やんばる奥間川(2010年)
やんばるのムカデ、トンボ、ナメクジ、トカゲ(2010年)
沖縄・高江へのヘリパッド建設反対!緊急集会(2010年)
やんばるのコーヒー(2008年)
ヘリパッドいらない東京集会(2008年)
東村高江のことを考えていよう(2007年)
やんばるのヘリパッド建設強行に対する抗議(2007年)
「やんばるの森を守ろう!米軍ヘリパッド建設を止めよう!!」集会(2007年)
ブロッコリーの森のなか(2007年)
高江・辺野古訪問記(1) 高江(2007年)(伊佐さんとのお話)


オーネット・コールマン『Ornette at 12』

2015-07-18 11:39:45 | アヴァンギャルド・ジャズ

今年(2015年)の6月11日に亡くなったオーネット・コールマンへの個人的な追悼として、『Ornette at 12』(Impulse、1968年)を聴く。ジャケット右下に穴が開けられたカット盤なので自慢にもならないが、オリジナル盤である。

Ornette Coleman (as, tp, vln)
Dewey Redman (ts)
Charlie Haden (b)
Denardo Coleman (ds)

ジャケットはコールマン親子が微笑みあう姿。だが裏面は一転して強張った表情でお互いに目をそらしているのが面白い。

そのオーネットの息子デナードは、とにかく自由にというオーネットの教育あってか、鉄のごとき無邪気さでドラムスを叩きまくっている。1956年生まれだから、このとき12歳になるかならないか。この怪童はバンド仲間からどう評価されていたのだろう。

演奏の聴きどころは、もちろんデナードだけではない。チャーリー・ヘイデンの残響音とともに進むベースは、LP盤でなおさら素晴らしく聴こえる。デューイ・レッドマンの、内奥へ内奥へともぐり続けるテナーもいい。そしてオーネットが登場すると、視野が冗談のようにぱあっと開けるのだ(トランペットとヴァイオリンはいまだによくわからないが)。この人に新しいも古いもないのであって、だからこそ時代を超えた存在なのだと思う。

ふと思い出した。アオシマが『伝説巨神イデオン』のプラモデルに、関節にはめ込むプラキャップ(柔らかい樹脂)を導入したことがあった。正直言って出来のよくないアオシマのプラモながら、その動きは感動的なほどで、ロボットプラモ史において画期的な事件だった。何が言いたいかというと、オーネットのアルトはイデオンの関節のように、ヌルヌルツルツルと可動し、動きのマチエールが心のひだをくすぐるのである。

オーネットよ永遠に。

●参照
オーネット・コールマン『Waiting for You』(2008年)
オーネット・コールマン『White Church』、『Sound Grammar』(2003、2005年)
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 再見(1985年)
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 オーネット・コールマンの貴重な映像(1985年)
オーネット・コールマンの映像『David, Moffett and Ornette』と、ローランド・カークの映像『Sound?』(1966年)
スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』(1966年)
オーネット・コールマンの最初期ライヴ(1958年)
オーネット・コールマン集2枚(2013年)


ウラジーミル・チェカシン『Nomen Nescio』

2015-07-18 10:04:05 | アヴァンギャルド・ジャズ

自分のLP棚から発見、ウラジーミル・チェカシン『Nomen Nescio』(Melodia、1987年)。こんなの持ってたっけ。

Vladimir Chekasin (sax, bcl, syn)
Sergey Kuryokhin (samp, comp, syn)
Oleg Molokoyedov (syn)
Sergey Belichenko (ds)

原題はラテン語であり、「名前を知らない」という意味のようである。それが当てこすりになっているのかどうか判らないが、名前という名のイディオムや対位は、真意を図りかねるエネルギーで軽く否定され、笑い飛ばされている。ペレストロイカが始まろうとしていた時期とはいえ、文字通りの地下からこんなものが生まれていたのである。

チェカシンのサックスはえらく自由だ。おそらくは2本同時に吹いたり、多重録音を同時に試してみたり。何にしても文脈などあって無きがごとくだ。そして、偉大なセルゲイ・クリョーヒンの参加。ロシア民謡のような抒情的なメロディーを弾き、獣の嘶きを挿入する。ジャック・デリダはオーネット・コールマンをではなく、ソ連のジャズを脱構築の観点から分析すべきではなかったか。

●参照
セルゲイ・クリョーヒンの映画『クリョーヒン』
ロシア・ジャズ再考―セルゲイ・クリョーヒン特集
現代ジャズ文化研究会 セルゲイ・レートフ