Sightsong

自縄自縛日記

アンサンブル・ゾネ『飛ぶ教室は 今』

2015-11-29 22:00:07 | アヴァンギャルド・ジャズ

両国のシアターカイに足を運び、アンサンブル・ゾネ『飛ぶ教室は 今』を観る(2015/11/29)。「即興戯曲 音楽×ダンス」と位置づけられている。

Aki Takase 高瀬アキ (p)
Rudi Mahall (bcl, cl)
Nils Wogram (tb)
岡登志子 含め10名 (dance)

何しろ久しぶりのルディ・マハールである。1996年にベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラの一員として来日したときには、エヴァン・パーカーの横で、パーカーのソロを悶えながら嬉しそうに聴いていたことを覚えている。しかし、かれのバスクラだって聴いたことがないような個性的なものであった。その翌年だったか、シュリッペンバッハ・トリオの一員としてエヴァン・パーカーが来日する筈だったが、妻の手術とのことでキャンセルとなり、マハールが代役に抜擢されたのだった。新宿ピットインと六本木ロマーニッシェス・カフェで間近で目撃し、かれの個性は脳に刻みこまれた。わたしにとっては、それ以来である。

今日観たマハールの頭はかなり白くなっていたが(まだ若いはずだが)、長身の体躯を柔軟に動かしながら、バスクラらしからぬ高音域や滑るような音を発する姿は、以前のままだった。

会場には、中心に学校の椅子が十脚置かれ、隅にピアノ、その横にマハールとニルス・ヴォグラムの譜面台。それを取り囲む形で、観客の椅子が据えられた。ダンサーたちは、コミカルに、また変質した幼少時の記憶のように奇怪に、次々に踊り続ける。音とダンスとが間接的に絡むだけではない。ときにマハールとヴォグラムとは踊り場の中を吹きながら練り歩き、かれらにダンサーたちが悪夢のように憑りついた。高瀬アキも、ブギウギ・ピアノ、ブルース・ピアノ、そしてやはりダンサーの中に飛び込んで行く。

この抑えた忍び笑いの感覚と高笑いの感覚。タイムマシンでどこかに連れていかれたようでもあった。

●参照
「失望」の『Vier Halbe』(マハール参加)
『失望』の新作(マハール参加)
リー・コニッツ+ルディ・マハール『俳句』
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(マハール参加)


ジル・ドゥルーズ『スピノザ』

2015-11-29 19:48:10 | 思想・文学

ジル・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』(平凡社ライブラリー、原著1981年)を読む。

バールーフ・デ・スピノザは、主著『エチカ』(1675年頃)において、神の完全性・全体性の前では人間の解釈などどうしたって「足りない」ものとなることを説いた。素人のわたしが読んで捉えたところでは、

完全性(実体)は神にのみあるのであって、しかもそれは唯一のものである。様態のごときものは実体の個々のあらわれに過ぎぬ。人間精神もまた同様なのであって、それぞれ不完全であらざるを得ない。善だの悪だのといった判断は、不完全なこちら側での不完全な決めつけである。だからこそ、不完全性を知ること、不完全な個々の人間同士を知ることが、精神向上への唯一の道である。如何に完全を希求しても不完全でしかあり得ない、しかし、それをしないこと(無知)は、ドレイへの道である。

といったところ。ドゥルーズは、このことを、倫理と道徳の違いとして説明する。道徳も法も規範も、「足りない」人間が定めるものである以上、「正しくない」可能性を秘めたものにならざるを得ない。ガリレオが異端の徒として裁かれたのが1633年(田中一郎『ガリレオ裁判』)、スピノザが生まれたのが前年の1632年。異端かどうかは、聖書等の記述から外れていないかによって判断される。スピノザの独自極まりない思想によれば、「足りない」人間の行為である。当時のキリスト教会から攻撃されたことも納得できるというものだ。

ドゥルーズによれば、喜びは全体性に能動的に向かってゆくこと、悲しみは道徳や法や規範によって受動的になったときに発生するものである。この、常に新たな形態をつくりあげていくことを説いたドゥルーズが次のように書いているのを読むとき、意味作用の壁の上にピンで止められ顔が描かれる権力作用たる「ホワイト・ウォール―ブラック・ホール」の思想と、スピノザの思想とが重なるように思える。

「・・・私たちは、スピノジストならば、なにかをその形やもろもろの器官、機能から規定したり、それを実体や主体として規定したりしないということだ。中世自然学の、または地理学の用語をかりていえば、経度(longitude)と緯度(latitude)とによって規定するのである。(略)私たちは、ひとつの体を構成している微粒子群のあいだに成り立つ速さと遅さ、運動と静止の複合関係の総体を、その体の<経度>と呼ぶ。ここにいう微粒子(群)は、この見地からして、それら自体は形をもたない要素(群)である。私たちはまた、各時点においてひとつの体を満たす情動の総体を、その体の<緯度>と呼ぶ。いいかえればそれは、〔主体化されない〕無名の力(存在力、触発=変様能力)がとる強度状態の総体のことである。こうして私たちはひとつの体の地図をつくりあげる。このような経度と緯度の総体をもって、自然というこの内面の平面、結構の平面は、たえず変化しつつ、たえずさまざまの個体や集団によって組み直され再構成されながら、かたちづくられているのだ。」

●参照
スピノザ『エチカ』
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)
ジル・ドゥルーズ『フーコー』
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』


レイモンド・マクモーリン@h.s.trash

2015-11-29 07:55:33 | アヴァンギャルド・ジャズ

レイモンド・マクモーリンの演奏を観るために、市川駅近くの「h.s.trash」に足を運ぶ。浦安のバーで名前を聞いたり、トランぺッターのジョシュ・エヴァンスに話を訊いたらジャッキー・マクリーンの教え子ということでかれに言及したりと、気になっていた人なのだった。演奏の開始を待っていると、浦安のカフェの店員さんたちに声をかけられたりして、どこなんだここは、という。

Raymond McMorrin (ts)
Sohei Iwasaki 岩崎壮平 (p)
Kotaro Kobayashi 小林航太郎 (b)
Yosuke Tamura 田村陽介 (ds)
?(飛び入り参加)(b)

「I've Never Been in Love Before」、ジョー・ヘンダーソンの「Recorda Me」から倍音によるテナーソロでつなげて「Body and Soul」、お兄さんに捧げたというオリジナル、シダー・ウォルトンの「The Highest Mountain」、ソニー・ロリンズの「Sonnymoon for Two」からセロニアス・モンクの「Blue Monk」につなげ、やはりモンクの「Rhythm-A-Ning」、「In A Sentimental Mood」と、ジャズスタンダードが中心。

マクモーリンのテナーは、低音を活かしながら幅広い音域を使い、ときに倍音やひしゃげた音を聴かせるものだった。ストレートな迫力も工夫もあった。田村さんのシメるドラムスや小林さんの歌うようなベースの気持ちよさもあって、ずっと没入して聴いた。

エイブラハム・バートン、ルネ・マクリーン、ジョシュ・エヴァンス、ジャッキー・マクリーン、浦安の接骨院(笑)についてなど、もろもろの話をしながら、方向が同じレイモンドさんやカフェ店員の大学生たちと一緒に電車で帰った。

Fuji X-E2、XF60mmF2.4


菊地雅章『エンド・フォー・ザ・ビギニング』

2015-11-27 23:54:57 | アヴァンギャルド・ジャズ

菊地雅章『エンド・フォー・ザ・ビギニング』(Phillips、1973年)。

Masabumi "Poo" Kikuchi 菊地雅章 (p)
Kosuke Mine 峰厚介 (ss)
Hideo Miyata 宮田英夫 (ts, fl)
Yoshio Suzuki 鈴木良雄 (b)
Hiroshi Murakami 村上寛 (ds)

実は繰り返し聴いているのだが、なぜだろう、まったく魅力を感じない。

「銀界」の研ぎ澄まされたオリジナル演奏と比較してしまうためか。村上寛のドラムスがエルヴィン・ジョーンズのフォローのように聴こえてしまうからか。演奏がはじまった途端に、知っている曲だとそれをアピールせんとする拍手が起きて、白けるためか。全体的に緊張感が一期一会でなく再生的なものであるためか。いつかもう少し大人になったらまた聴こう。

●参照
菊地雅章『ヘアピン・サーカス』(1972年)
菊地雅章+エルヴィン・ジョーンズ『Hollow Out』(1972年)
菊地雅章『ダンシング・ミスト~菊地雅章イン・コンサート』(1970年)
菊地雅章『POO-SUN』(1970年)
菊地雅章『再確認そして発展』(1970年)
『銀巴里セッション 1963年6月26日深夜』


山本義隆『私の1960年代』

2015-11-26 23:47:36 | 政治

山本義隆『私の1960年代』(金曜日、2015年)を読む。

長いこと、全共闘での東大闘争時代の活動について沈黙を守っていた山本氏が、ようやく、当時を振り返った本を出した。非常に興味深く、また、単なる昔話にとどまるものではなく、現代においてこそ読まれるべき本である。

近代日本は三度の理工系ブームを経験しているという。最初は明治維新直後、二度目は昭和十年代、三度目は1960年代である。そのすべてが戦争に関係している。一度目は西欧の軍事力に圧倒されたため、二度目は戦争遂行の強化のため、三度目は朝鮮やベトナムという他人の土地での戦争に加担することによる経済成長である。大学教員たちは、その構造にも歴史にもまったく無自覚であった。

今また、文科系を縮小しようとする政策と、軍事産業の拡大による経済成長をねらう動きとにより、四度目のブームが見えてくるのかもしれない。社会と隔絶された場での純粋な研究活動などありえない。それは倫理の問題でもあるが、そのことは置いておいても、少なくとも可視化されなければならない。ノーム・チョムスキーが産官学の結びつきの実態を示しているように(ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』など)。

山本氏は「民主主義」というシステムについても思索する。「民主主義」が本来の姿から離れてゆき、抑圧のための仕組みと化していくという本質である。慧眼というべきである。

「体制の支配機構にビルトインされ制度化された民主主義は、少数者の権利を保障し防衛する強力な機構なり市民のあいだでの理解を欠いているならば、少数者としての当事者の正当な権利を多数者の総意として「民主的」に抑圧する機構に転化することになります。公害や開発にともなう犠牲を押し付けられた当事者の異議申し立ては、多数者により「大局的見地から」押さえつけられ、追い込まれたその人たちの抗議行動が実力闘争の形をとる時には、「民主主義」の立場からの非難がその人たちに集中することになります。」

●参照
山本義隆『原子・原子核・原子力』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
山本義隆『熱学思想の史的展開 1』
山本義隆『熱学思想の史的展開 2』
山本義隆『熱学思想の史的展開 3』
山本義隆『知性の叛乱』
石井寛治『日本の産業革命』(本書で引用)
榧根勇『地下水と地形の科学』(本書で引用)


ジョー・モリス@スーパーデラックス

2015-11-25 01:02:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

六本木のスーパーデラックスにおいて、ジョー・モリスを観る(2015/11/24)。半年前にNYで初めて目の当たりにして以来である。

Joe Morris (g)
Akira Sakata 坂田明 (as, cl)
Jim O'Rourke (b)
Tatsuhisa Yamamoto 山本達久 (ds)

空間をひたすらカラフルに埋め尽くす、モリスのギター。といっても、空間恐怖のようにびっしりと神様を並べる剛腕パット・マルティーノとも、やはり乾いた単音を矢継ぎ早に繰り出す「オクトパス」ことタル・ファーロウとも違う。

自由度の高い即興音楽のなかでひときわ目立つ個性なのであり、アルトサックスとクラリネットと絶叫により邪気と無邪気とを発散する坂田明と並ぶと、両方に耳が吸い寄せられる。

●参照
ジョー・モリス+ヤスミン・アザイエズ@Arts for Art(2015年)
『Plymouth』(2014年)
ジョー・モリス『solos bimhuis』(2013-14年)


田中一郎『ガリレオ裁判』

2015-11-24 07:25:53 | ヨーロッパ

田中一郎『ガリレオ裁判 ―400年後の真実』(岩波新書、2015年)を読む。

ガリレオ・ガリレイは、17世紀に、ローマ教会の異端審問所により有罪の判決を受ける。言うまでもなく地動説を唱えたためだが、それは、後世に語り継がれるような「科学対宗教」の結末ではなかった。あくまでも、争点は、キリスト教においてその考えを許容できるのか、すなわち聖書に書かれていることを冒涜するものではないか、異端かどうかという点なのだった。

もちろん、既に天体観測により、アリストテレスによる天動説にはかなりの無理が出てきていた。本書を読むと、前世紀に新たな考えを拓こうとしたコペルニクスは、あくまで仮説として許容される微妙なものだったことがわかる。ガリレオの発見と論理展開が明晰であったがために、その微妙さまで直視せざるを得なくなったということだろうか。

それにしても、この異端審問と宗教裁判の膨大な記録が、ナポレオンの介入により失われたのだということには驚かされた。ナポレオンは、教会の後進性を論証するために、ローマからフランスへと資料を輸送させ(冗談ではないほどのオカネがかかった)、その後の失脚と復活の騒動の中で、消えてしまったのだという。

その18世紀は、ニュートンによる万有引力の発見とともに、科学興隆の時期でもあった。どうやら、このときに「それでも地球は動いている」というガリレオの言葉が後付けで追加され、固陋な宗教界とたたかった科学の英雄というストーリーが確立されたようである。そして、そのストーリーは今でも生きている。


ジョン・ブッチャー+高橋悠治@ホール・エッグファーム

2015-11-24 00:05:00 | アヴァンギャルド・ジャズ

埼玉県の深谷まで、高崎線ではじめて足を伸ばした。ジョン・ブッチャーの演奏を堪能するためである。

John Butcher (ss, ts)
Yuji Takahashi 高橋悠治 (p)

ファースト・セットはブッチャーのソロ。強烈な音圧の循環呼吸によるソプラノは、うなりを起こした。それがブッチャーの体躯の近くなのか、ホール全体なのか、自分の耳の中なのか、それとも全部なのか、よくわからないほどの代物だった。まずは会場から「凄い」という声が聞こえた。テナーに持ちかえると、低音も高音も強く発する奇怪な音。

セカンド・セットは高橋悠治とのデュオ。まずはテナーにて、まるでヴァーチャルな空間において間合いを探りあい、高速ですれ違うような、相互の呼応が展開された。眼を見合わせて突然演奏を終えるスリリングさ。そしてソプラノでは、貫通するような強さでのせめぎ合い。と思いきや、高橋悠治はひらひらとダンスするように弾き、衝突したのか、しなかったのか。達人同士の手合わせなのだった。静かに興奮し、動悸が激しくなった。

演奏後、ブッチャー氏と少し話をした。マドリッドでの写真をウェブサイトに使ってもらってどうも、と言うと、ああ、あんたか、と。新宿のナルシスの話になった。もう随分前だが、小さなカフェだ、覚えている。店に入るとすぐに窓があって花があって。まだ同じ場所にあるのか。あのレディーは元気か。ああ、そうか(笑)。ぜひ、わたしからのBeeest Wisheeesを伝えておいてほしい、と。これでナルシスに行って、川島ママに伝える用事ができた。

Nikon P7800

●ジョン・ブッチャー
ロードリ・デイヴィス+ジョン・ブッチャー『Routing Lynn』(2014年)
ジョン・ブッチャー@横浜エアジン(2013年)
ジョン・ブッチャー+大友良英、2010年2月、マドリッド(2010年)
ジョン・ブッチャー+マシュー・シップ『At Oto』(2010年)
フレッド・フリス+ジョン・ブッチャー『The Natural Order』(2009年)
ジョン・ブッチャー『The Geometry of Sentiment』(2007年)
デレク・ベイリー+ジョン・ブッチャー+ジノ・ロベール『Scrutables』(2000年)
ジョン・ラッセル+フィル・デュラン+ジョン・ブッチャー『Conceits』(1987、92年)

●高橋悠治
姜泰煥・高橋悠治・田中泯(2008年)
姜泰煥・高橋悠治・田中泯(2)(2008年)
『富樫雅彦 スティーヴ・レイシー 高橋悠治』(2000年)


J.D.アレン『Graffiti』

2015-11-23 10:33:22 | アヴァンギャルド・ジャズ

J.D.アレン『Graffiti』(Savant、2015年)を聴く。

J.D. Allen (ts)
Gregg August (b)
Rudy Royston (ds)

2008年にシンディ・ブラックマンのグループで吹くアレンを観たとき(>> リンク)、ウェイン・ショーターのようにミステリアスなテナーだと思った。それ以降あまり注目もしていなかったのだが、何しろテナーのサックス・トリオには弱い。しかもドラムスがルディ・ロイストン。久しぶりに手を伸ばしてみた。

あらためて聴いてみると、ショーターの匂いはほとんどない。情や泣きのこぶしを交えず、潔くゴリゴリと吹くテナーである。といって、マイケル・ブレッカーやデイヴ・リーブマンやジョージ・ガゾーンのようにテクだけで突き進む感覚でもない。このハードな感じは、むしろ、チャールズ・ブラッキーンの系譜か。

もっとも、「誰ふう」などと考えなくてもストレートに楽しめる。何しろテナーのサックス・トリオ。

J.D.アレン、メルボルン、2008年 Leica M3、Summicron 50mmF2、TMAX3200、フォマスピードバリアント311、3号フィルタ

●参照
ジェレミー・ペルト『Men of Honor』(2009年)(アレン参加)
メルボルンでシンディ・ブラックマンを聴いた(2008年)


うたをさがして@ギャラリー悠玄

2015-11-23 08:18:57 | アヴァンギャルド・ジャズ

数寄屋橋近くのギャラリー悠玄に足を運び、「うたをさがして」トリオを観る(2015/11/22)。

齋藤徹 (b)
さとうじゅんこ (vo)
喜多直毅 (vl)

2011年の震災のあと、テツさんは、被災地において、人の心に届くものとして歌と踊りを見直したのだという。とくにこのトリオにおいては「ことば」。それは、テオ・アンゲロプロスの映画(トニーノ・グエッラの手による脚本)からインスパイアされた日本語詞であり、テツさんの幼馴染の故・渡辺洋さんの詩であった。また、ガルシア・ロルカによるスペイン語の詩であり、アントニオ・カルロス・ジョビンのポルトガル語の歌曲であった。

さとうじゅんこさんの歌にはじめて生で接し、その眼と口とに視線が吸い寄せられてしまった。ジョビンの歌を「カンタ、カンタ」と、「イマジーナ」と、歓喜をたたえて発するとき、また、渡辺洋さんの詩を想いを込めて「ねばりづよく」と発するとき、言語によらず本質的に同じなのだとさえ感じられた。

喜多さんのヴァイオリンの音はやはり素晴らしいものだった。湧き出て流れ出てくる人間の音に加え、まるで虫の声、風の音、さらには沖縄の指笛まで(!)。

会場には、『おしゃべりなArt展』として、多くの作家による作品が展示してある。面白いことに、途中で3人ともギャラリーを歩き回り、数々の作品に付せられたことばやそれにより想起したことばを交互に発し、ことばによる乱しと刺激とを与える時間もあった(最後はテツさんによる「八千円・・・」にて会場爆笑)。そしてテツさんのベースが場に絶えず振動を与える。それはまるで、紙の上に置いた砂が、振動によってことばを形成していくようなイメージでもあった。

演奏が終わったあと、会場では、テツさんの還暦祝いを兼ねた宴(御馳走様でした)。バール・フィリップスの最近の体調がまだ心配であること、高柳昌行オーケストラが渋谷毅オーケストラに移行するときの最初のベーシストがテツさんであったこと、ドクトル梅津バンド結成時にエレキベースをどうかと誘われたことなど、お話を伺った。喜多さんは、来年(2016年)は、キッド・アイラック・ホールにてソロ演奏を何度かやるつもりだとのこと。何とか時間を見つけて駆けつけたいところ。

Fuji X-E2、60mmF2.4

●参照
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
喜多直毅+黒田京子『愛の讃歌』(2014年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』(2012年)
ミッシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」(2011年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
ミッシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999、2000年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』(1996年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、1994年)

 

 


アミナ・クローディン・マイヤーズ『The Circle of Time』

2015-11-22 14:33:36 | アヴァンギャルド・ジャズ

アミナ・クローディン・マイヤーズ『The Circle of Time』(Black Saint、1983年)を聴く。

Amina Claudine Myers (p, org, vo, harmonica)
Don Pate (b)
Thurman Barker (perc)

シカゴAACMのイメージが強いものだから、アミナはシカゴ出身だと思い込んでいたのだが、実は、アーカンサスで生まれ、小さいころからテキサスのダラスやフォートワースの教会でピアノやオルガンを弾いていたのだという。南部からシカゴに出て行ったのは、大学を卒業したあとのことである。ゴスペルやブルースをコアに置く彼女のスタイルも、それで納得できようというものだ。

アミナの音楽が独特なのは、ルーツを大切にしながら、AACMの前衛において活動を展開していったことに違いない。この盤でも、もろにゴスペル(「Do You Wanna Be Saved」などで)を提示しつつ、単音とブロックコードでアグレッシブに攻めまくる。マイラ・メルフォードにも似たようなアプローチがあったが、影響はあったのだろうか。

そしてアミナの声は、可愛くて少しハスキー。タイトル曲の「The Circle of Time」における奇妙な掛け声なんて痺れる。

●参照
ヘンリー・スレッギル(8) ラップ/ヴォイス(リュウ・ソラ『Blues in the East』(1993年)にアミナ参加)
アート・アンサンブル・オブ・シカゴの映像『LUGANO 1993』(1993年)(アミナ参加)
アミナ・クローディン・マイヤーズ『Jumping in the Sugar Bowl』(1984年)
アミナ・クローディン・マイヤーズのベッシー・スミス集(1980年)
ヘンリー・スレッギル(7) ズォイドの新作と、X-75(『X-75 / Volume 1』(1979年)にアミナ参加)


「JazzTokyo」のNY特集(2015/11/21)

2015-11-21 23:47:43 | アヴァンギャルド・ジャズ

「JazzTokyo」のNY特集(2015/11/21)。

http://www.jazztokyo.com/column/jazzrightnow/008.html

※JazzTokyoのフォントが小さすぎるという方は、右上のフォントサイズのボタンを。

●シスコ・ブラッドリーのコラム

蓮見令麻『UTAZATA』
永井晶子『Taken Shadows』
アンドリュー・バーカー+ポール・ダンモール+ティム・ダール『Luddite』
ジェイミー・ブランチ+トーマス・ヘルトン@JACK

●よしだののこのNY日誌

The Stoneにおける日曜日の昼下がりシリーズ。

●「夏の終わりのニューヨーク」「情報の灯台と関係と」

寄稿させていただきました。

●参照
「JazzTokyo」のNY特集(2015/10/12)
「JazzTokyo」のNY特集(2015/8/30)
「JazzTokyo」のNY特集(2015/7/26)
「ニューヨーク、冬の終わりのライヴ日記」(2015年)


ビョーク『Vulnicura Strings』

2015-11-21 10:17:50 | ポップス

ビョーク『Vulnicura Strings』(one little indian records、2015年)を聴く。

『Vulnicura』において、ビョークは肉声に近いストリングスを再び迎えたわけだが、この盤では、さらに極端に、ストリングスのみと『Vulnicura』の曲を再演している。「stonemilker」も「black lake」も「lionsong」も、まるで必然のように姿を変えた。

やはり強烈なジャケットは、エマニュエル・レヴィナスが予測不可能なものに顔を晒せと説いたことを思い起こさせる。ヴァルネラブルな自己を追及するサウンドは、シンプルな形によって純化され、依存するものが乏しいというあやうさとともにじわじわと迫ってくる。

●参照
ビョーク『Vulnicura』
MOMAのビョーク展
MOMA PS1の「ゼロ・トレランス」、ワエル・シャウキー、またしてもビョーク
ビョーク『Gling-Glo』、『Debut』
ビョーク『Post』、『Homogenic』
ビョーク『Vespertine』、『Medulla』
ビョーク『Volta』、『Biophilia』


ジョイス・キャロル・オーツ『アグリーガール』

2015-11-19 01:24:59 | 北米

ジョイス・キャロル・オーツ『アグリーガール』(理論社、原著2002年)を読む。

ついふざけ過ぎてしまい学校を爆破するぞと口走ったばかりに、警察に取り調べられる男の子。背が高く直情的なために、自分も周りも女の子扱いしない女の子。世間の風当たりに弱く、あまりにも保守的な大人や先生たち。ユダヤ人を敵視するカルト宗教の教祖。甘やかされて育った、見てくれが良いだけのボンボンたち。

ジュブナイルではあるが、汗とニキビが噴き出る場所を求めて渦巻いているような若者の心を、オーツはとても巧く描く。自信がないために暴走し、何もよくわからなかった日々は、誰にでもあったものに違いない。

これが大人向けの小説であれば、オーツの筆は、いやそれはないだろうというグロテスクな閾にまで突き進むに違いない。それはそれで、読後にとても後味が悪く、後悔したり満足したりするのだが。

●参照
ジョイス・キャロル・オーツ『Daddy Love』(2013年)
ジョイス・キャロル・オーツ『Evil Eye』(2013年)
林壮一『マイノリティーの拳』、ジョイス・キャロル・オーツ『オン・ボクシング』(1987年)
ジョイス・キャロル・オーツ『Solstice』(1985年)
ジョイス・キャロル・オーツ『エデン郡物語』(1966-72年)


トム・レイニー『Hotel Grief』

2015-11-15 20:39:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

トム・レイニー『Hotel Grief』(Intakt、2013年)を聴く。

Tom Rainey (ds)
Ingrid Laubrock (sax)
Mary Halvorson (g)

終わりもはじまりもないトリオ。トム・レイニーのドラミングは、まるで偶然によって動きを極端に変えながらはじけまくるネズミ花火のようだ。その火花の数々に煽られてか、イングリッド・ラウブロックの懐の深いサックスが、いつになくハード路線であるように聴こえる。メアリー・ハルヴァーソンは、最初から最後までぐにゃりぐにゃりと時空を歪め続ける。

こんな凄い演奏を、年末のCornelia Street Cafeでいつものように繰り広げていたのかと思うと。

●トム・レイニー
イングリッド・ラウブロック UBATUBA@Cornelia Street Cafe(2015年)
イングリッド・ラウブロック、メアリー・ハルヴァーソン、クリス・デイヴィス、マット・マネリ @The Stone(2014年)
イングリッド・ラウブロック(Anti-House)『Roulette of the Cradle』(2014年)
トム・レイニー『Obbligato』(2013年)
イングリッド・ラウブロック(Anti-House)『Strong Place』(2012年)
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』、『Capricorn Climber』(2007、2012年)
イングリッド・ラウブロック『Zurich Concert』(2011年)
ティム・バーン『Electric and Acoustic Hard Cell Live』(2004年)