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自縄自縛日記

太田昌国の世界 その87「追悼私記2話—大谷恭子さん、鈴木道彦さん」

2024-11-30 09:44:14 | 政治

東京琉球館で太田昌国さんのトーク(2024/11/29)。先ごろ亡くなった弁護士の大谷恭子さん、フランス文学者の鈴木道彦さんに関する話。

大谷恭子さんは全共闘世代、ブントのメンバーでもあった。たまたま脳性麻痺の小学生・金井康治の建造物侵入事件(1977年)の弁護を引き受け、そのことが彼女の弁護士生活を変えた。大谷さんのようなひとたちの地道な努力が、国連の障害者権利条約(2008年発効)、日本の障害者差別解消法(2013年制定)に結び付いた。2021年には民間企業にも配慮が義務付けられた。太田さんはこの社会を「インクルーシブ」(包摂的)なものと書く。

その後大谷さんは永山則夫の弁護団にも加わり、死刑廃止論者となる。永山は極寒の地に生まれ酷いネグレクトを受けた少年時代を過ごした。ひとの背景を鑑みることなく少年犯罪も死刑も誠実に考えることはできない。大谷さんはそれを追求した。

フランス文学者の鈴木道彦さんがなぜ小松川事件(1958年)や金嬉老事件(1968年)に関わったのか。鈴木さんは「李珍宇はジャン・ジュネだ」と言ったという。娼婦の子として生まれたジュネもまた過酷な少年時代を過ごした。

個の事情や背景はそれぞれ異なるものの、大谷さんや鈴木さんの残した論考を参照しつつ、太田さんは「民族性を盾にしてなにかを語ることは危険だ」と言う。昨今のクルド人たちに対する言説もまた、と。

●太田昌国
太田昌国の世界 その68「画家・富山妙子の世界」
太田昌国『さらば!検索サイト』
太田昌国の世界 その62「軍隊・戦争と感染症」
太田昌国の世界 その28「「従軍慰安婦」論議の中の頽廃」
太田昌国の世界 その24「ゲバラを21世紀的現実の中に据える」
太田昌国の世界 その15「60年安保闘争後の沖縄とヤマト」
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
太田昌国『「拉致」異論』
太田昌国『暴力批判論』
『情況』の、「中南米の現在」特集

●鈴木道彦
鈴木道彦『越境の時 一九六〇年代と在日』
鈴木道彦『異郷の季節』


代島治彦『きみが死んだあとで』

2022-08-12 08:46:46 | 政治

代島治彦さんの三里塚二部作に続く『きみが死んだあとで』(2021年)、見逃していたがアマプラにあった。

 

1967年、佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止しようとして学生たちが機動隊と衝突し、山﨑博昭という18歳の若者が殺された。言うまでもなく日本の対米従属、とくにベトナム戦争への介入に対する異議申し立てだった。

数多くの証言者たちのひとりとして、死者と高校の同級生だった詩人の佐々木幹郎さんが登場する。理知的に話していたが、自分自身がヘルメットの上に置いた両手を機動隊の棒で殴られ潰されたときの体験を語る段になって、突然目がらんらんとして恍惚の表情、「山﨑、おまえもあのとき、死んでなるものかという気持ちだったはずだ」と生への欲望を漲らせる。驚愕した、なんという映像を撮ったのか。

そして駿台予備校講師の山本義隆さん。かれは東大全共闘議長であったために逮捕されて大学を追われた。僕は高校三年生のとき、福岡まで出て行って物理の講義を受けた。あまりにもおもしろく、また科学史についての余談も興味深く、もう数十年前のことなのに忘れられない。あのときのにやりとした表情も変わっておらず嬉しくなってしまう。映画では演説をする当時のフィルムを山本さん自身に見せるという場面があって、これにも驚いた。すごい映画だ。『磁力と重力の発見』も読まないとな。

●代島治彦
代島治彦『三里塚のイカロス』(2017年)
大津幸四郎・代島治彦『三里塚に生きる』(2014年)

●山本義隆
山本義隆『近代日本一五〇年 ― 科学技術総力戦体制の破綻』
山本義隆『私の1960年代』
山本義隆『原子・原子核・原子力』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
山本義隆『熱学思想の史的展開 1』
山本義隆『熱学思想の史的展開 2』
山本義隆『熱学思想の史的展開 3』
山本義隆『知性の叛乱』


川上高志『検証 政治改革』

2022-03-08 21:25:11 | 政治

川上高志『検証 政治改革』(岩波新書、2022年)。

1994年の政治改革が何をもたらしたのかについてはずっと気になっている。たとえば、中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』では、小沢一郎にとって「政治の主役は有権者ではなく政治家であり、民意の代表は二義的な問題に過ぎない」ものであったと指摘されていて、だとすれば現在の状況はある意味では狙い通りだったわけである。

本書で興味深いのは、中選挙区から小選挙区への変化が派閥の弱体化をもたらしたということ、政治家が地元への利益誘導ができなくなったことは新たな分配のメカニズムとセットではなかったということ、そしてキョーフの官邸主導の改革が進められた一方でその歪みを制御する仕組みをビルトインしていなかったということ。

だから政治家が文字通り無責任になったことも、アレとかアレとかが登場したことも、いまになってみれば当然の帰結であったのかもしれない。

●参照
中北浩爾『自公政権とは何か』
中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』
小林良彰『政権交代』
山口二郎『政権交代とは何だったのか』
菅原琢『世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか』
中野晃一『右傾化する日本政治』


キム・ミレ『狼をさがして』

2021-04-11 08:48:22 | 政治

イメージフォーラムに足を運び、キム・ミレ『狼をさがして』(2020年)を観る。

1970年代前半に東アジア反日武装戦線が起こしたテロ事件、そしてその後のメンバーたちの状況。

批判的な視線がないという見方もあるかもしれない。だが、いまなおかれらについて語ることが半ばタブー視されるいま、視えないものを敢えて視ようとする姿勢の中に、松田政男のいう風景論につながるものを感じる。足立正生『略称・連続射殺魔』(1975年)がそうだったように。

●参照
若松孝二『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』
『狂気の正体 連合赤軍兵士41年目の証言』
太田昌国の世界「60年安保闘争後の沖縄とヤマト」
『田原総一朗の遺言2012』(『永田洋子 その愛 その革命 その・・・』)
渚ようこ『あなたにあげる歌謡曲』、若松孝二『天使の恍惚』
オリヴィエ・アサイヤス『カルロス』


太田昌国の世界 その62「軍隊・戦争と感染症」

2020-08-01 09:37:44 | 政治

ひさしぶりに東京琉球館で太田昌国さんのトーク(2020/7/31)。

2時間ほどのお話は次のようなもの。

●ワイドショー的に感染者数について一喜一憂、大騒ぎでコロナの本質が視えなくなっている。ことの本質はなにか。コロナによって透けてみえるものはなにか。
●731部隊は、満州において、医師や疫学者による研究を行った。それは中国人を実験台に使い、いかに感染症を有効に使うかというものであった。人道主義を投げ棄て、数をいかに滅ぼすかということを最優先する連中がいた。それが75年前までのわれわれの国家の姿だった。戦後、アメリカは日本の指導者たちをあえて裁くことはないとかくまった。731の決算は済んでいない。その精神は為政者のなかに何の反省もなく生き延びている。
●横田の在日米軍司令部が公表したところによれば(2020/7/24)、米兵のコロナ感染者は189人。そのうち大半の162人が沖縄の海兵隊員(キャンプハンセン、普天間)。
●そして軍隊は移動する。日米地位協定において米軍人はパスポート・ビザの日本の法令が適用されないことになっている。羽田から民間航空機で岩国に入った者が3人。海兵隊員(1万5千人)の3分の1が半期ごとに部隊を交代する。移動範囲は日本の国内にとどまらない。
●軍隊は機密があることを当然視している。その論理が一般社会に通り、感染症についても軍隊以外の庶民は知るべきことでもないと思っている。
●米国は日本が主権を持たない「保護領」のごとく、治外法権地域としてふるまっている。冷静にみれば、戦後75年間、米国は政治的・経済的・軍事的に敗戦国をしゃぶりつくし、利用しつくしてきた。日本だけでなくドイツ、イタリアも同様である(枢軸国、ファシズム3国)。こんなふうに国家の歴史を展開してよいのか。日本の自民党や外務官僚も米国一辺倒以外のことを考えなかった。それはただの戦争の結果であり、論理、倫理、正義などあったものではない。
●中国の尖閣諸島などにおける行動ももちろん問題だが、一方で米国が世界中で我が物顔でふるまっている。それに対する批判なくては東アジアの状況を公平にとらえることはできない。メディアは嫌中意識を増幅させるだけであり、それに対しては逐一批判的であるべき。
●コロナの感染者数などにひるみおびえて引きこもる人が増えれば増えるほど、為政者にとっては好都合。その結果、集会やデモもできない。為政者は国会を開かず記者会見もしない。自由討論に耐えうる論理が政策がないからだ。もちろん疫学的なことも考えなくてはならないが、言いなりのままやっていたらどうなるかも併せて考えないと、人間社会の存続があやうくなる。
●この政治や社会のありようは、スペイン風邪(1918-20年)のときと似ている。当時と予防措置も似たようなもの(マスク、密を避ける)。世界では第一次世界大戦の死者の4倍、日本では関東大震災の死者の5倍。しかしそれが民衆の記憶として語り継がれなかった。なぜか。
(※なお、スペイン風邪という名称は、中立国ゆえ情報を出したスペインの名前が付された気の毒なものだ。いまWHOは倫理基準としてウイルスの発症地を使わないとしている。「武漢ウイルス」など不可。)
●米国では第一次大戦の「戦死」が「インフルエンザ死」にまさるという意識があった。「銃後」の人たちは、たかだか「インフルエンザ死」のことを大ごととして言おうとはしなかった。そして記憶として受け継がれなかった。
●このときの感染は、まさに、軍隊の移動とともにあった。感染した米兵がヨーロッパに。感染した英国兵士がアフリカに。転戦と移動を通じて際限なく感染が広まった。
●現地の民衆はその結果を引き受けざるを得なかった。
●このありようは、現在のコロナ禍にも、また、たとえばアグリビジネスによる排除や反テロ戦争などによる流浪の民・難民のありようにも共通している。
●「米国のコロナによる死者はベトナム戦争を上回った」という言説が出回った。米軍の死者は5万数千人、コロナの死者はもう15万人超。だがベトナム人の死者は500万人、さらに後遺症で苦しむ者多数。問うべきは「君たちにとってはそうだろう、だが不正義によるベトナム人の死者は?」。この声が世界に満ち溢れなければならない。
●いかにして、軍事優先の論理を根こそぎ取り除いていくか。

参考文献

【日米安保、地位協定】
●豊下楢彦『安保条約の成立』(岩波新書)
●前泊博盛『日米地位協定入門』(創元社)
●前田哲男『敵基地攻撃論批判』(立憲フォーラム)

【スペイン風邪】
●アルフレッド・W・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ―忘れられたパンデミック』(みすず書房)
●速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ―人類とウイルスとの第一次世界戦争』(藤原書店)

【民衆の視点からの歴史】
●阿部勤也『ハーメルンの笛吹き男 - 伝説とその世界』(ちくま文庫)
●藤木久志の著作(百姓一揆などについて)
●良知力『向こう岸からの世界史―一つの四八年革命史論』(ちくま学芸文庫)
●網野善彦の著作

●太田昌国
太田昌国『さらば!検索サイト』
太田昌国の世界 その28「「従軍慰安婦」論議の中の頽廃」
太田昌国の世界 その24「ゲバラを21世紀的現実の中に据える」
太田昌国の世界 その15「60年安保闘争後の沖縄とヤマト」
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
太田昌国『「拉致」異論』
太田昌国『暴力批判論』
『情況』の、「中南米の現在」特集


中北浩爾『自公政権とは何か』

2019-10-06 11:33:25 | 政治

中北浩爾『自公政権とは何か―「連立」にみる強さの正体』(ちくま新書、2019年)を読む。

なぜ自公政権がこうも批判を受けながら、しかも政策的な違いが小さくないにも関わらず、安定的な政権運営を続けているのか。それは何も公明党が我慢してへばりついているから、ではない。そのことが本書を読むと納得できる。

すなわち、小選挙区制は二大政党を生み出すものではなく、一党優位に近い二ブロック型多党制を生み出すものだった。これは過去に印象深い結果となった、得票率が高くなくてもオセロゲームのようにぱたぱたと議席を獲得していく現象ばかりを意味するものではない。それよりも、もはや、連立を前提としないと政権を奪うことはできないということのほうが重要である。

自公政権はそれを実にうまく利用してきた。一方、旧民主党は二大政党制にとらわれ過ぎてしまった。

そしてまた、公明党内部では、このような形でヴィジョンが異なる自民党と組んだほうが、自党の政策をより実現できると認識していることがわかる。軽減税率もそのひとつである。集団的自衛権で譲歩したこともあって、その実現には強くこだわった。だが結果として、以下の記述はあまり妥当なものではないだろう。これがまさに現在批判されていることだからである。

「自民党の右傾化に対する「ブレーキ役」よりも、社会的弱者の味方として恵まれない人々の生活の向上を重視する公明党のあり方が、そこには示されている。」

いずれにせよ高度な選挙協力の形ができてしまったわけである。それゆえ、それに抗してふたたび政権交代を実現させるには、戦略的な野党結集が必要だということがわかる。しかし以下のようにことは簡単ではない。

「非自公勢力の場合は、そうではない。労働組合など一部を例外として、そもそも組織化された票が少なく、候補者調整を超える選挙協力が難しいし、都市部に主たる支持基盤を持つ政党がほとんどであり、地域的な相互補完性も難しい。また、旧民主党と共産党は、反自民党を奪い合う関係にある。」

だからこそ、無党派層の大幅動員、野党候補の一本化、地域での矛盾の顕在化を地域票に結びつけること、共産党とのうまい連携などが重要視されているのだろうけれど。

●参照
中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』
小林良彰『政権交代』
山口二郎『政権交代とは何だったのか』
菅原琢『世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか』
中野晃一『右傾化する日本政治』


『ルイズその絆は、』

2019-08-08 21:54:16 | 政治

駒込の東京琉球館で、テレビドキュメンタリー作品『ルイズその絆は、』(1982年)を観る。

伊藤ルイが60歳になるころの貴重な記録である。

このときには大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の墓石は福岡の西光寺に移されたばかりだった(その後ふたたび移転)。これは藤原智子『ルイズその旅立ち』にも描かれているように、戦後までお上の目にとまらぬように隠しおおされていた。なぜならば栄と野枝とが反政府のアナキストであり、また、裏面には宗一少年について、その父・橘惣三郎が「犬共ニ虐殺サル」と刻んだからである。

映像では、その墓石の表面に「吾人は/須らく愛に生きるべし/愛は神なればなり」と刻まれていたと紹介する。のちに栄の妹・あやめと離婚するときにあやめを切りつける惣三郎にも、栄に共鳴し堺利彦の娘婿・近藤憲二と再婚したあやめにも、あまりにも激しい気性と愛を強くもとめる心とがあった。

5人の栄・野枝の遺児(魔子、最初のエマ、次のエマ、ルイズ、ネストル)が受けた迫害はかなりのものだった。事件後かれらは全員改名した(真子、幸子、笑子、留意子・ルイ、栄)。もちろん父母の累が及ばぬようにという配慮だった。しかしルイはある年齢から自分を隠さず生きた。「もういちど生まれかわるとしたらまた伊藤になりたい」と言ったという。やはりこの人の生き方には胸を衝かれる。

番組の最後は、ルイも関わった会の名前にも結び付けて、「戦争への道を許さない者たち、われわれ」という言葉で締めくくられる。これがいま伊藤ルイとその縁を思い出す大きな意味である。

●参照
伊藤ルイ『海の歌う日』
藤原智子『ルイズその旅立ち』
亀戸事件と伊勢元酒場
加藤直樹『九月、東京の路上で』
藤田富士男・大和田茂『評伝 平澤計七』
南喜一『ガマの闘争』
田原洋『関東大震災と中国人』
植民地文化学会・フォーラム「内なる植民地(再び)」
山之口貘のドキュメンタリー(沖縄人の被害)
平井玄『彗星的思考』(南貴一)
道岸勝一『ある日』(朝鮮人虐殺の慰霊の写真)
『弁護士 布施辰治』(関東大震災朝鮮人虐殺に弁護士として抵抗)
野村進『コリアン世界の旅』(阪神大震災のときに関東大震災朝鮮人虐殺の恐怖が蘇った)


藤原智子『ルイズその旅立ち』

2019-07-21 21:49:56 | 政治

過日、藤原智子『ルイズその旅立ち』(1997年)を再見することができた。公開当時に岩波ホールで観て以来、22年ぶりくらいである。

伊藤ルイは、1923年の関東大震災直後に軍部に殺された大杉栄と伊藤野枝の娘である。その前の名前はルイズだったが、事件後に他の姉妹と同様に改名された。事件のとき甥の橘宗一少年も虐殺された。父親・橘惣三郎は、宗一の墓石に、「大正十二年(一九二三)九月十六日ノ夜大杉栄、野枝ト共ニ犬共ニ虐殺サル」と書いた。

映画ができる前の年に、伊藤ルイは亡くなった。はじめて映画を観たとき、ルイさんの幼馴染が昔の家を訪れて泣き出すセンチメンタルな場面に心を動かされていたわけだけれど、今回再見して、別のふたつの面があらためて強く印象に残った。自分も社会も変わったからかな。

ひとつは人びとの強さ。墓石が政府や警察に見つかるとただごとでは済まない。しかし、近所の人はそれをわかったうえで黙って隠しとおした。ルイさんの幼馴染や姉妹は大人から冷たい扱いを受けたわけだが、子どもであろうとなんであろうと、彼女たちは毅然とした個人であった。これがいまの社会でどれほど成り立つだろうか。

もうひとつ。強いといえばルイさん自身がそうだった。そのルイさんでさえも、しがらみを捨てて自分の信じる社会運動をはじめたのは50歳くらいのころだったという。そして亡くなるまで独立独歩で進み続けた。この遅さと強さにとても勇気づけられてしまう。

●参照
伊藤ルイ『海の歌う日』
亀戸事件と伊勢元酒場
加藤直樹『九月、東京の路上で』
藤田富士男・大和田茂『評伝 平澤計七』
南喜一『ガマの闘争』
田原洋『関東大震災と中国人』
植民地文化学会・フォーラム「内なる植民地(再び)」
山之口貘のドキュメンタリー(沖縄人の被害)
平井玄『彗星的思考』(南貴一)
道岸勝一『ある日』(朝鮮人虐殺の慰霊の写真)
『弁護士 布施辰治』(関東大震災朝鮮人虐殺に弁護士として抵抗)
野村進『コリアン世界の旅』(阪神大震災のときに関東大震災朝鮮人虐殺の恐怖が蘇った)


清水克行『耳鼻削ぎの日本史』

2019-07-16 00:27:32 | 政治

清水克行『耳鼻削ぎの日本史』(文春学藝ライブラリー、原著2015年)を読む。

耳鼻削ぎと言えば豊臣秀吉の朝鮮出兵時になされたことが知られている。それは確かに秀吉の異常な命令によるものでもあったが、実のところ、さほど珍しい行為でもなかった。特に戦国時代に、相手軍の兵士を殺した証拠としてよく使われた手法であった(首は重い)。それに伴い、上唇を鼻と一緒に削いで男だという証明とするなどルール化も進んだようである。(書いていて気持ちが悪くなってくるね。)

しかし、耳鼻削ぎはそれに始まった行為ではなかった。中世において、死刑には重すぎ、追放だと軽すぎるような場合の刑として、わりと普通に使われていたという。刑罰のひとつの段階に過ぎなかったということである。しかし、その対象は女性の場合が多かった。

場所によって異なるが、この行為は江戸時代のはじめのころには廃れた。いちどは見せしめとして使われた権力行使手段が別の形に変化する様は、時期は同じようなものとはいえ、ミシェル・フーコー『監獄の誕生』に描き出されたヨーロッパのそれとは異なるように思える。


関川夏央『砂のように眠る』

2019-06-19 21:44:08 | 政治

関川夏央『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』(新潮文庫、原著1993年)を読む。

戦後、地にへばりつくように生きてきた人たちの姿が、小説と評論とを交互に繰り返す形で描写されている。もっとも「地にへばりつく」と大袈裟に言ったところで、それはほとんどの人がそうであったということに違いない。そしてその中には著者も入っている。著者の「実感」は、体験したという重さと時代とに縛られている。それゆえ、四半世紀前に書かれたことの古さをどうしても感じてしまう。

小田実が勢いにまかせて活動したこと、しかし後で振り返っての内省が乏しかったことは、きっと的を射ているだろう。しかし、60年安保の反対運動の盛り上がりについて、あたかも若者が反対するという自己満足をしたかっただけだと言わんばかりの記述は、悪い意味で「実感」に引きずられたものだ。たとえば、「父親は南京でそんな事件を見なかったと言っていたよ」という雑さと何が違うのか。


太田昌国『さらば!検索サイト』

2019-03-30 10:40:38 | 政治

太田昌国『さらば!検索サイト』(現代書館、2019年)を読む。

太田氏のさまざまな短い連載記事をまとめたものであり、氏の思想に接してきた人にとってはさほどの新しさはない。それはつまり、氏がずっと一貫性をもって諸問題について語ってきたということに他ならない。

中南米の政治、とくにチリ軍事クーデター(もうひとつの「3・11」)。愚劣で醜悪な日本政治。死刑。拉致問題と日本政府の不作為。パトリシオ・グスマン。ガルシア・ロルカ。やはり読みすすめていくと刺激が多い。

●太田昌国
太田昌国の世界 その28「「従軍慰安婦」論議の中の頽廃」
太田昌国の世界 その24「ゲバラを21世紀的現実の中に据える」
太田昌国の世界 その15「60年安保闘争後の沖縄とヤマト」
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
太田昌国『「拉致」異論』
太田昌国『暴力批判論』
『情況』の、「中南米の現在」特集


フランソワ・キュセ『How the World Swung to the Right』

2019-02-03 09:56:15 | 政治

フランソワ・キュセ『How the World Swung to the Right - Fifty Years of Counterrevolutions』(Semiotext(e)、原著2016年)を読む。

フランス語の原著からの英訳版(2018年)である。先日ロサンゼルスのギャラリーHauser & Wirth併設の書店で「Resistance & Dissidence」(抵抗と反体制)という小特集を組んでいて、そこで入手した。

世界はいかに右傾化したのか。サッチャー政権・レーガン政権の80年代、ベルリンの壁崩壊・ソ連崩壊後の90年代、そして9・11後の00年代。著者は主に1980年からの30年間を切り出してその変化を手際よく説明している。それは鳥瞰的に視れば概説に過ぎない。しかし、その間に、右翼と新自由主義が手を組むのではなく、左翼が別の世界システムを構築していたならまた別の世界がありえたかもしれないという指摘は、鳥瞰ならではである。そして左翼・右翼という雑なタームの揺らぎもまた、著者の視野に入っている。

主に00年代以降のインターネット時代については、あらためて思想の観点から見つめようとしていることも、本書の特徴である。それをフェリックス・ガタリが投じたコインに遡っているのだけれど、1992年に亡くなったかれを含め、ロラン・バルト(1980年物故)、ミシェル・フーコー(1984年物故)、ジル・ドゥルーズ(1995年物故)、ジャック・デリダ(2004年物故)、あるいはクロード・レヴィ=ストロース(2009年物故)まで、フランスの偉大な思想家たちがこの時代に姿を消したことを、右傾化に歯止めをかけられないことの象徴として見ているようでもある。そのことは、現代日本での「思想」のひどいありさまを一瞥すると実感できる。

本書の書きぶりは次第に絶望と希望とがあい混じるようになってゆく。しかし最後はやはり希望なのである。なぜなら新自由主義的システムは限界点・閾値を踏み越えつつあるからだ、というわけだ。

「It (※新自由主義的システム) will not be toppled in a day or in a year, but once all the thresholds of the tolerable have been crossed. When the uprising will occur is now just a question of time. And the new form it will take, a form that must be invented, is just a question of imagination. Luckily, many people everywhere are working toward this, taking the time they need. Just like that slogan that activists in the 1990s painted onto the front of a large investment bank, "You Have the Money, but We Have the Time."」


橋本明子『日本の長い戦後』

2019-01-01 12:22:14 | 政治

橋本明子『日本の長い戦後 敗戦の記憶・トラウマはどう語り継がれているか』(みすず書房、原著2015年)を読む。(みすず書房の本をkindleで読むことができるのはうれしい。)

敗戦のトラウマとは、必ずしも国家レベルでの言説のありようだけではない。国民としても、自身が巻き込まれたこと、あるいは直接的・間接的に加害に加担したこともトラウマとなっている。また個人としての国民は、家族や近い者が間違った戦争に関わったことによっても、複雑な物語を負担し、再生産している。

本書は、そのようなトラウマに起因する記憶の語り直しを、多くの声を収集することによって分析したものである。様々な類型が見出されている。被害による切実な苦悩、苦難。無力感の継承(やむを得なかったのだという庶民と化す)。無力な中でも良心による対処(気高い無力さ)。全員が無力ならば被害者意識は強固なものとなる。

著者は、そういった言説の創出や共有において、無意識に、あるいは沈黙や不詮索という協力関係によって、他者への加害が消し去られていることをひとつひとつ指摘する。厄介なのは、それが記憶する義務や反戦の誓いといった良心によって駆動されていることだ。正確な史実よりも、近しい人との連帯や記憶の継承というわけである。

ここから得られる真の教訓はなにか。無力への欲望、考えなくてよいことの安寧ではない(戦勝国の戦争証言には、ほとんど無力感がみられないという)。考えて、次の社会に実際に結び付けてゆくことである。「自己免罪的な衝動を抑える努力を積み重ねていく」ことである。これは痛い。

「良心的兵役拒否、上官の違法命令に対する不服従、過剰な軍事力行使に対する異議申し立て、戦時国際法が保証する民間人や戦闘員の人権保護といった課題について戦後市民が考える機会を得、知識も積んでいけば、権威・権力の社会構造に強く抵抗することもできるかもしれない。こうした知識は軍事力を統制するうえで大切なものだが、にもかかわらず、戦後世代に与えられてきた社会的処方箋は、軍事力の構築自体を避けるというものだけだった。この処方箋は市民の牙を抜き、いざというとき国家権力に対してとりうる抵抗手段を奪っている。それにより、日本社会には深いところまで無力化の構造が根を下ろしていった。」

これは、「知りつつも知らない」からさらに「なかったことにする」というおぞましい自己防衛行動=歴史修正主義へという反動の流れを生んでいる。もちろん無理がある。だからその手の本や映画や発言がグロテスクなものにみえるわけであり、そうであるならば、グロテスクをグロテスクだと言い続けるほかはない。痛みを抱えて矛盾だらけの領域を探索するほかはない。一足飛びの文化コードの書き換えは野蛮である。

ただ、著者もいうように、勇気をもって深く内省し、反省を表明することが、あまり日本では価値があるものとして共有されていない。あるいはその言説のフォーマットが欧米ふうであることも確かではあるだろう。一方で、ナショナリストたちに「コスモポリタニズムに対する文化的抵抗の特徴が認められる」のも確かである。どっちがマシか、答えは明らかだ。

ところで、自分には新鮮な指摘があった。たとえば実態は加害によって手が汚れている「祖父」について、「愛する人を守るために戦った」ことにするしかない「思いやりのある優しい、かっこいい祖父」という記憶の語り直しのことである。著者は、こうした類型は、「21世紀の理想に合わせ、恋愛の時代に育った若い受け手の心に響くよう更新したもの」であり、「戦中世代は概して、家族生活に対する愛着が今の人たちよりも弱かったが、このことはあまり知られていない」とする。なるほど、その視点は面白いかもしれない。

●参照
伊藤智永『忘却された支配』
服部龍二『外交ドキュメント 歴史認識』
波多野澄雄『国家と歴史』
高橋哲哉『記憶のエチカ』
高橋哲哉『戦後責任論』
外村大『朝鮮人強制連行』
井上勝生『明治日本の植民地支配』
中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本』
小熊英二『単一民族神話の起源』
尹健次『民族幻想の蹉跌』
尹健次『思想体験の交錯』
『情況』の、尹健次『思想体験の交錯』特集
水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』
『世界』の「韓国併合100年」特集


加藤政洋『敗戦と赤線』

2018-12-26 08:10:27 | 政治

加藤政洋『敗戦と赤線~国策売春の時代~』(光文社新書、2009年)を読む。

本書は、集団売春街がどのように形成されたのかを追っている。それは主に前借金にもとづく管理売春であり、狭義の「赤線」に限るものではなかった。また、戦前の遊郭や私娼街が存続した場所ばかりではなかった。色々なタイプがあった。

驚くべきことは、こういった施設は政府や警察の強い意向で作られたことである。敗戦後すぐの1945年8月18日、内務省から警察宛てに、外国人向けの「性的慰安施設」を充実させるよう命令があった(国務大臣は近衛文麿)。すなわち、占領軍から日本人を護るために日本人を差し出すという人柱政策、「性の防波堤」に他ならなかった。

明らかになるのはこれにとどまらない。施設は急に拵えられたのではなく、戦中の軍人や軍需工場の「産業戦士」に向けられた慰安所から地続きであった。また、GHQが公式に制度を解体させてもなお別の形で存続させた。

本書では東京の主な地域の他、岐阜、京都、沖縄についてもその経緯を検証している。ここでも驚く指摘がある。那覇の栄町は、戦後の発展の中心として企図されながら、たまたま別の遊興の場所になってしまったのではなかった。戦前の大遊郭・辻に取って替わる歓楽街として、なかば意図的に囲い込まれたというのである。

占領軍の意図を超えて、非占領側が自国民を差し出す構図。「占領軍」を別の形に読み替えてもよい。これは現在の構図でもあるだろう。

●参照
藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド』
木村聡『消えた赤線放浪記』
マイク・モラスキー『呑めば、都』
滝田ゆう『下駄の向くまま』
滝田ゆう展@弥生美術館
川島雄三『洲崎パラダイス赤信号』


野添憲治『開拓農民の記録』

2018-07-29 09:39:18 | 政治

野添憲治『開拓農民の記録 日本農業史の光と影』(現代教養文庫、原著1976年)を読む。

日本の「開拓政策」とは、社会的弱者を手段として使い潰す「棄民政策」に他ならなかった。本書にぎっしりと収められている事例を読んでいくとそう考えざるを得ない。

それは近代以降ばかりではない。江戸幕府による開拓(武蔵野など)には、コメの増産のほかに江戸に集まってくる浮浪者の処分という意味もあった。明治に入ってからは、その処分の対象が、国策によって仕事を失った士族となった。その政策が成功したかどうかは見方による。船橋の小金牧(いまの船橋市の二和や三咲あたり)では、明治~大正に移住してきたうちの1割程度しか土着していない。しかし、入植者の想いや苦労はともかく、土地は開拓されて残った。

政府軍に抵抗した会津藩の者は下北半島に、また仙台藩の者は北海道に集団移住した。新政府のかれらに対する保護は当然冷淡なものであり、移住先の土地も農業に適していないことが多かったという。それも、「国有未開拓地処分法」のもと特定の重臣・華族・豪商に無償で払い下げた広大な土地に小作人として追いやった(敗戦後の農地改革ではじめて壁が消えた)。

台湾、樺太、朝鮮、満州などへの植民地開拓は明治末期から進められていたが、第一次世界大戦後のインフレ、米騒動、関東大震災による恐慌などにより在村での生活が不可能となった人たちが、さらに流民となってそれらの地に向かった。北海道(松前)もまたそうであった。それもうまくはいかなかった。士族でなくても農業経験のない者が、いきなり知らぬ場所に赴き、しかも農業には不適な土地をあてがわれて、成功するわけはない。だがその本質は、救済や保障などではなく、難民を取り除くことによる社会不安対策、それと農業増産政策であった。これは昭和に入って本格化する満州や内地の開拓にも共通していた。

犠牲になったのは社会的弱者たる開拓民ばかりではない。満州では現地の中国人から土地を奪い、不便を強いて、権力構造を作り上げた(たとえば、澤地久枝『14歳 満州開拓村からの帰還』)。そのために抗日運動が激化し、開拓者たちも危険にさらされた。そして敗戦により、ソ連軍から命からがら逃げて帰国し、こんどは国内での開拓に身を投じざるを得なくなる。たとえば、鎌田慧『六ヶ所村の記録』では、そのようにして六ヶ所村に二度目の開拓に入ってきた人たちの歴史を追っている。また本書では触れられていないが、成田・三里塚もそのような地であった。罹災者、失業者、復員軍人、引揚者をどのように扱うかという政策である。

では内地でうまく事が解決したのかと言えば、そうではなかった。戦後の経済政策・農業政策の転換によって、たとえば、それまで開拓中心であったはずが農地の改善に方針が変えられ、道路もろくにできないケースがあった。あるいは、三里塚ではいきなり空港を作るから立ち去るようにとの酷い決定をくだされた。また、やはり本書では言及されていないが、石炭の採掘をやめるというエネルギー政策の転換によって、1960年前後から多数の炭鉱労働者が離職せざるを得なくなった。かれらの多くがまた中南米などを目指すことになる(上野英信『出ニッポン記』)。中には、満州、内地、中南米と流れていった人もいる。すなわち、明らかに、国策上の処理による「棄民」ということだ。

「開拓」という文字は、1974年の一般農政への移行によって消えた。しかし、いまも共通して流れるものを見出すことは難しくはない。要は、「昔からそうだった」のである。

●移民
上野英信『眉屋私記』(中南米)
上野英信『出ニッポン記』(中南米)
『上野英信展 闇の声をきざむ』(中南米)
高野秀行『移民の宴』(ブラジル)
後藤乾一『近代日本と東南アジア』
望月雅彦『ボルネオ・サラワク王国の沖縄移民』
松田良孝『台湾疎開 「琉球難民」の1年11カ月』(台湾)
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(日系移民)
大島保克+オルケスタ・ボレ『今どぅ別り』 移民、棄民、基地
高嶺剛『夢幻琉球・つるヘンリー』 けだるいクロスボーダー

●満蒙開拓
『開拓者たち』
工藤敏樹『祈りの画譜 もう一つの日本』
澤地久枝『14歳 満州開拓村からの帰還』
澤地久枝『もうひとつの満洲』 楊靖宇という人の足跡

●六ケ所村
鎌田慧『六ヶ所村の記録』

●アイヌ
『今よみがえるアイヌの言霊~100枚のレコードに込められた思い~」』
新谷行『アイヌ民族抵抗史』
瀬川拓郎『アイヌ学入門』

●三里塚
代島治彦『三里塚のイカロス』(2017年)
大津幸四郎・代島治彦『三里塚に生きる』(2014年)
『neoneo』の原発と小川紳介特集
萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』(2008年)
鎌田慧『抵抗する自由』 成田・三里塚のいま(2007年)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』(1995年)
宇沢弘文『「成田」とは何か』(1992年)
前田俊彦編著『ええじゃないかドブロク』(1986年)
福田克彦『映画作りとむらへの道』(1973年)
小川紳介『三里塚 辺田』(1973年)
小川紳介『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』(1972年)
小川紳介『三里塚 第二砦の人々』(1971年)
小川紳介『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)
三留理男『大木よね 三里塚の婆の記憶』(1974年)