練馬区立美術館で野見山暁治展。
この人が福岡の炭鉱町の生まれとは知らなかった。緻密なスケッチをしたあとに全体性に寄与しないものを棄て去る方法論がおもしろい。結果として残る心象風景に見える火や山は炭鉱の記憶からもきているのかな。
練馬区立美術館で野見山暁治展。
この人が福岡の炭鉱町の生まれとは知らなかった。緻密なスケッチをしたあとに全体性に寄与しないものを棄て去る方法論がおもしろい。結果として残る心象風景に見える火や山は炭鉱の記憶からもきているのかな。
人が瓶や木の実になったようなフォルムに惚れ惚れする。メキシコ帰りというイメージばかりが強かったのだけれど、意外にもスタイルが変遷していったのは発見だった。やはりというべきかフェルナン・レジェからの影響もあった。戦時中に当局に依頼されての絵も謎めいていて、まったく戦意高揚につながらないのが北川民次らしい。本駒込のギャラリー・ときの忘れものでも北川作品を展示していて、これもうれしい。
世界とコネクトする回路を巨大にしたような世界観であり、いきなり遠近感を失ってその回路の中に放り込まれる。美術館の外に出ると世界がこれまでとはちがう相にあり、安部公房『方舟さくら丸』を思い出させてくれた。
兵庫県立美術館。
これを観たらパルコ文化・セゾン文化がどうのと軽く言えなくなるほどの熱量。レニ・リーフェンシュタールへの共鳴もわからなくはない。井上光晴の本のデザインが石岡瑛子だったことは発見。
笠井紀美子とかマイルス・デイヴィスの『TUTU』とかコッポラの『ドラキュラ』とか、展示をはがしてダッシュしたい。
前衛集団「具体」の会員だったからといって、今井祝雄には、吉原治良、白髪一雄、田中敦子、村上三郎のようにマテリアルや肉体での世界への働きかけといった面はない。むしろ世界との関わりを醒めた眼で一歩引いて眺めつつ、関わりを棄て去れない自分を作品として昇華させているような感覚。
それは記録媒体そのものやそれが捉える具体性への固執にもつながっていて、何年間もの毎日の自撮りを並べた《デイリーポートレート》では河原温を、また歩いた経路を地図に記録しつつ写真を撮る《ウォーキング・イベント 曲がり角の風景》ではポール・オースターの『ガラスの街』を思い出させてくれた。どちらも世界との関わりを切実に求めた作家であったし、一見白けたような今井祝雄にもそのようなものを感じた。
同じ場所で赤信号と青信号のときに露光する《時間の風景/阿倍野筋》だってアイデア一発ではなく、信号に接するときの時間という個人的な体験が普遍化している。
大阪の右上、京都の手前にある島本町の長谷川書店にて、乾千恵さんの個展『17のピアソラ・タンゴ』。
タッチからざざざざざと澄んでも濁ってもいる音が聴こえてくる。書もまた相対することで出来上がりだけでなく書かれたプロセスも共有させてくれるよう。
長谷川書店は素敵な本屋さんで、僕の本と千恵さんの絵を並べてくださっていて嬉しかった。千恵さんがぼろぼろになるまで読み込んだ斎藤充正さんのピアソラ本も置いてあった(新版準備中だとか)。数年前にお宅を訪ねたときびっくりしたものだけど、今回もまたびっくりした。
千恵さんが好きな喜多直毅さんのCDを預け、野村喜和夫さんのシュルレアリスム小説集『観音移動』を買った。せっかく来たし、サントリー山崎が生れるきっかけになった名水が出る水無瀬神宮に参拝。
ダンス批評家の竹重伸一さんの知己を得て、共著で執筆しておられる『アンチ・ダンス』(宇野邦一+江澤健一郎+鴻英良編、水声社、2024年)を読んでみたらとても刺激的でくらくらした。
土方巽や室伏鴻の舞踏とはなんだったのか。自分の身体はどこにあるのか、ひとつにみえて本当にひとつなのか、抜け出ることのできるものなのか。出るとすればどこに出るのか。「無為」とはなにか。生と死とのはざまでどのように反逆し痙攣しうるのか。
ダンスと即興音楽のあり方には共通するところもまるで異なるところもあるだろうけれど、批評のあり方もまた。
ときの忘れものにて松本竣介展。自分の知る松本の作品は多くはないけれど、近代美術館などで目にするたびにしばらく足を止めた。今回もDMの《Y市の橋》なんて、淡くて茶色で緑色で、静かに立体をぱたぱたとたたんだようで、じつに良い。
週末に世田谷美術館に足を運び『民藝』展。
あまりにも愉しくて、同行した友人とずっとああ良いああ良いとおしゃべり。2021年の近美での『民藝の100年』展は民藝運動の意義や歴史を把握できるものだったけれど、今回の展覧会はもっと身近な感覚、これぞ生活のなかの美。
アイヌの紋様も、沖縄の紅型も、小鹿田焼の飛び鉋模様も、山陰の民藝運動家・吉田璋也がプロデュースした牛ノ戸焼も良かった。(ところで京都の芯切鋏はたいめいけんのロゴに似ているような。)
●参照
鶴見俊輔『柳宗悦』
『民藝の100年』展@東京国立近代美術館
アイヌの美しき手仕事、アイヌモシリ
「日本民藝館80周年 沖縄の工芸展-柳宗悦と昭和10年代の沖縄」@沖縄県立博物館・美術館
短編調査団・沖縄の巻@neoneo坐
「まなざし」とアーヴィング・ペン『ダオメ』
ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』(2023年)。
両国のシアターカイ(2023/6/26)。
デュッセルドルフ在住の皆藤千香子さんの演出・振付によるダンス作品。
『私達が失ったもの What we have lost』では、溢れる過剰な情報に押しつぶされ、無力感を覚えるふたり(クリスティーン・シュスター、ヤシャ・フィーシュテート)。かれらは無駄とも思える生産活動を行い、互いに交換可能な存在となったりもする。それらが命を賭してもよいかのように。だがそれは人間社会そのものだ。ステファン・シュナイダーによる音楽は無機的でも有機的でもあり、とても良い。
『奈良のある日の朝 Die Pflicht Ruft』は明らかに首相暗殺事件にモチーフを得た作品だ。やはりここでも無力感に押しつぶされ、それでもなにかを得て生命活動を続ける者がいる(アントニオ・ステラ)。喜多直毅のヴァイオリンははじめはかそけき音を出し、生命がいつ断ち切られてもおかしくはない。やがてそれは倍音となり、生命の声の奇妙な共鳴となっていった。
●皆藤千香子
『私の城』(2022年)
『癒し、欺き、民主主義』(2022年)
ボイス+パレルモ@埼玉県立近代美術館(2021年)
『今・ここ・私。ドイツ×日本 2019/即興パフォーマンス in いずるば』(JazzTokyo)(2019年)
徹さんとすごす会 -齋藤徹のメメント・モリ-(2019年)
『Black is the color, None is the number』(2019年)
齋藤徹+喜多直毅+皆藤千香子@アトリエ第Q藝術(2018年)
即興パフォーマンス in いずるば 『今 ここ わたし 2017 ドイツ×日本』(2017年)
運よく、ロンドンのテートモダンでマグダレーナ・アバカノヴィッチ(ポーランドの彫刻家)の回顧展が開かれていた。かつて広島のアバカノヴィッチ展で元藤燁子さんが踊り、齋藤徹さんがコントラバスを弾いたという、その力を体感したかった。
やはり圧巻はサイザル麻や馬の毛やロープなどを使ったアバカンというシリーズ。生命をもつものはどんな不思議な形や動きをしているからといっても、そこには自然界の論理が機能している。人間からは捉えきれないそれを想像し、オーガニックの通路を経てなにかその力を現出させようとする表現であり、たしかに通常の人為でなかったから社会的な力・政治的な力さえも持ってしまったのか。
アバカンいくつか
アバカンのひとつ
「Pregnant」
もう終わってしまうのでかなり混んでおり、あまりじっくりと観ることができず、結局資料として図録を買うことになる。しかしあらためて紐解くとやっぱりおもしろい。
驚かされるのは、鉄道と美術が明治初期の同じ年に翻訳語として生まれ、ともに並走してきたという視点。はじめは近代化のために、ときに侵略を糊塗する手段として。たしかに満鉄の爆走するあじあ号のイメージは強烈な力を持っていただろう。引き揚げの際にも鉄道は美術作品に欠かせないモチーフだった。展示された美術作品のうちもっとも惹かれたのは松本竣介が描いた東京駅の裏側。この人の絵をまとめて観たらどきどきして気絶するのでは。