Sightsong

自縄自縛日記

ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』

2011-12-31 16:48:20 | 中国・台湾

ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』(1987年)を観る。大ヒットした映画だが、実は観るのははじめてだ(どうも昔から宣伝されるものに反発する癖があって)。


シナリオ集の表紙

公開版よりも長いディレクターズカット版、219分と長いが、ヴィットリオ・ストラーロの色素が濃縮して沈んだようなカメラの素晴らしさ(同じベルトルッチの『暗殺のオペラ』も印象的だった)もあって、まったく飽きない。清朝末期から中華民国誕生、国民党支配、日本の侵略、満洲国建設と崩壊、戦後の中華人民共和国建国、文化大革命の開始まで、愛新覚羅溥儀を巡る激動の歴史を数時間で語ることはどだい無理なのであって、もっと長くてもよかったくらいだ。ただ、全員が英語で喋るのはやはり余りにも不自然。

溥儀役のジョン・ローンは格好良すぎて、(虜囚後もひとりで靴も履けないし、歯磨き粉も出せない生活無能力ぶりは描かれているものの)大日本帝国、中国共産党と、強者に寄り添ってゆくカメレオンのような屈折した個性が充分に表現できているとは言えない。また、英国帰国後に『紫禁城の黄昏』を書く雇われ教師レジナルド・ジョンストン(ピーター・オトゥール)も立派すぎて、「溥儀と、まさにナルシシズムの合わせ鏡」(入江曜子『溥儀』)のような奇妙な存在感も希薄だ。さらには、甘粕正彦(坂本龍一)もやはり上品すぎるのであって、日本が醸成していた侮蔑的視線も充分に感じさせるものではない。

紫禁城を追われたあと、溥儀は日本占領下の天津に蟄居し、さらには満洲国皇帝におさまることになる(出席者があまりにも少ない空虚な建国イベントの描写は面白く、ここで甘粕はドイツ製の左手で巻き上げる一眼レフカメラ・エキザクタを使っている)。このあたりの空っぽの権力構造をもう少し丁寧に追ってほしかったところではある。溥儀の弟・溥傑に嫁ぐ日本人・嵯峨浩なんて、折角妊娠した様子で登場し、狂気に走る溥儀の妻・婉容を不気味そうに見つめるというシーンが挿入されているのに、日本人の血を混ぜて版図を広げるというおぞましさは忘れられているのだ。それに、川島芳子(戸田恵子)が出ているのだと後で確認したが、まったく登場場面の記憶がない。

などと、ケチばかり書いているが、良く出来た映画だった。要は盛り込み過ぎなのである。

●参照
入江曜子『溥儀』
小林英夫『<満洲>の歴史』
満州の妖怪どもが悪夢のあと 島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』 
林真理子『RURIKO』
四方田犬彦・晏妮編『ポスト満洲映画論』


尾崎秀樹『評伝 山中峯太郎 夢いまだ成らず』

2011-12-31 09:00:00 | 中国・台湾

尾崎秀樹『評伝 山中峯太郎 夢いまだ成らず』(中公文庫、原書1983年)を読む。著者の尾崎秀樹(ほつき)は、ゾルゲ事件尾崎秀実(ほつみ)の異母弟である。

山中峯太郎は、戦前に『敵中横断三百里』や『亜細亜の曙』などで大人気を博した作家であり、本格的にジュブナイルを手掛ける前の1910年代前半には、中国の辛亥革命に続く第二革命、第三革命に身を投じている。その経験は、戦後、『実録・アジアの曙』(1962年)、『実録・アジアの曙 第三革命の真相』(1963年)にまとめられ、それが大島渚によるテレビドラマ『アジアの曙』(1964-65年)の原作となっている。しかし原作本は何しろ講談調で、どこまで本当でどこから創作なのかわからない(私は読みかけてウンザリし、放り投げてある)。本書は複数の記録と聞き書きをもとに、実際の山中峯太郎の足跡を追った評伝であり、私にとっては山中講談よりこちらのほうが嬉しい。

まずは、『アジアの曙』に登場する脇役たちが実在の人物だったことに驚く。中国近現代史の本を紐解いても、第二革命、第三革命は数行で片付けられることが多く、紹介される名前も孫文黄興を除けば、江西省の李烈鈞林虎くらいのものだ。

ドラマでは最後まで生き延びる田応詔は、やはり陸軍士官学校への留学組・中国革命同盟会(中国同盟会)の仲間であるが、ドラマとは違い、その妹・令鈴(りんりん)を山中(中山)に結婚しないかと紹介している(ドラマでは、令鈴は李烈鈞の妹であり、山中に秘かに想いを寄せるという設定)。周育賢は戸浦六宏の演技とは違い、「無口でとっつきにくい態度」。上海で活動する商売人・八田徳兵衛の実際の名前は新田徳兵衛。江西省・湖口に陣取っていた何子奇(かしき)は随分と端正で上品な顔つきであり、やはり小松方正の信用ならない風貌とはかけ離れている。同様に林虎だってあんな山男のようではなく、実際の写真はずいぶん理知的で眼光鋭い。郁英(芳村真理)は南京の財閥の娘ではなく江西省の財閥の娘であり、ドラマほど激しいキャラクターではなかった。

日本の軍人については、中国人脈よりも改変してあり、かつドラマではさほど具体的に名前が出てこない。士官学校同期の伊瀬知操は山口ではなく鹿児島の出身。山中に結婚相手を紹介したのは、士官学校支那語班の井戸川辰夫少佐ではなく、何と一年先輩の東条英機。山中の同期には敗戦時自殺した阿南惟畿陸相や、敗戦後首相となった東久邇稔彦や、今村均陸軍大将らがいた。山中が同期のなかでもひときわ優秀であったことを考えれば、この名前は別の場所にあってもまったく不思議ではない。

山中は、勿論、アジア主義者ではあってもその考えはアジア侵略者とはまったく異なっていた。中国のみならず、インド独立運動のラス・ビハリ・ボースが日本で拘束されそうになったときに助けてもいる(中村屋に逃れた時)。また、中国における日本人の「傲慢性、残暴性、侵略性」を強く非難する文章を「朝日新聞」に書いてもいるのである。しかし、日本がアジアを見る目は山中の思いとは逆の方向へと変ってきて、かつ、中国の革命派とも新聞社とも縁が切れ、戦意高揚のようなジュブナイルを発表し続けた山中は、もはやその問題にはふれなかったようだ。本書は、山中のペンネーム「未成」に現れているように、アジア革命への答えを出さぬままに終わった山中の姿を描きながら、その追跡を終えている。

●参照
四方田犬彦・晏妮編『ポスト満洲映画論』
大島渚『アジアの曙』
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』


『完本 桑田真澄』

2011-12-30 22:26:34 | スポーツ

『完本 桑田真澄』(文春文庫、2010年)を読む。買わずに放置していたら、もうブックオフで105円。

『Number』誌の昔からの記事をいくつか集めたオムニバスである。ずっと桑田ファンだったこともあり、いろいろと思い出しては単純にも感慨に耽ってしまう。

PL学園時代の不敵なニヤニヤ笑い。1990年、登板日漏洩疑惑に伴う謹慎明けからの連続完封(無言の迫力があった)。1994年、運悪く勝ち星をいくつも落としたものの、14勝でMVP(20勝くらいの勢いがあった)。1995年開幕第2戦、完封目前にしてスワローズ飯田の頭部への死球退場、その後の故障と復帰。長嶋監督時代の不遇(思いつきで抑えをやらされた)。2002年の復活、タイガース井川との投げ合い(延長10回、福井のホームランで勝利)。同年ライオンズとの日本シリーズでのやりたい放題(石井貴を騙してヒットも打った)。また勝てなくなり、勝利投手の権利を得ても野手の失策や継投の失敗で1勝が遠かった時期。そして2007年、MLBのパイレーツ入団。

桑田という存在は、執念と怨念と頭脳によって奇跡的に成立していた。そうか、もう4シーズンもプレイを見ていないのか。


二軍戦の桑田投手(2005年、鎌ヶ谷球場) Pentax LX、FA★200mm/f2.8、シンビ200、ダイレクトプリント


二軍戦の桑田投手(2005年、鎌ヶ谷球場) Pentax LX、FA★200mm/f2.8、シンビ200、ダイレクトプリント

●参照
『Number』の「決選秘話。」特集
山際淳司『ルーキー』 宇部商の選手たちはいま


四方田犬彦・晏妮編『ポスト満洲映画論』

2011-12-28 10:25:59 | 中国・台湾

四方田犬彦・晏妮編『ポスト満洲映画論:日中映画往還』(人文書院、2010年)を読む。2009年に開催されたシンポジウムをもとにした諸氏の原稿が中心となっている。

大島渚『アジアの曙』(1964-65年)に言及した数少ない論考が含まれているため読んだのだが、それだけでなく、少なくない驚きがあった。

満映で働いた日本の映画人の一部は、満洲解体後も残り、中国や北朝鮮で映画制作の技術的なサポートを行った。
○なんと『白毛女』(1950年)(>> リンク)の編集は日本人・岸富美子氏の手によるものであり、「安芙梅」という中国名でクレジットされている。
○岸氏を含め、満映スタッフは、その後日本に帰国してからレットパージの対象となり(内田吐夢は別格)、映画界ではなかなか仕事を見つけられなかった。
チェン・カイコー『黄色い大地』(1984年)は、アンチ『白毛女』として撮られた映画である。
大島渚『儀式』(1971年)は、戦後の引き揚げメロドラマ(歴史的文脈から離れ、ただ被害者的な位置にのみ身を置く)に激しい拒否を突きつけた作品である。満洲から母ととともに帰国した主人公・満洲男(ますお)、敗戦とともに自殺した父・韓一郎、家父長制を体現する民族主義者の祖父・一臣、従兄の輝道らが、日本帝国主義の傷痕とでも言うべき戦後日本の物語を描いていく。「儀式」とは、映画の中で繰り返し行われる冠婚葬祭を示すだけでなく、満洲という戦後日本が隠蔽しようとしてきた禁忌を病的に再確認しようとする儀式でもあった。満洲男は、最初からタブーを背負って出発した戦後日本を体現するように、祖国に帰属できず、主体意識を成熟させることもできなかった。
○なお、『サザエさん』のマスオさんは、一応は鱒から取った名前と解釈されているものの、連載開始された敗戦直後には、読者はそこに満洲育ちを容易に連想した。
○それだけでなく、現在の日本には満洲国支配の傷痕がいたるところ見受けられる。たとえば、宇都宮餃子の街として名高いのは、関東軍の中に占める栃木県出身者の割合が高かったためである。
○もっとも大がかりなものは日韓関係であり、韓国独立時の中枢は旧満洲国にいた朝鮮人官吏と軍人であり、1965年の日韓基本条約を実現させた岸信介朴正煕は満洲仲間であり、韓国とは満洲国の再来として計画された新国家の側面があった。
○日本の知識人にとって、1960年代前半まで、在日朝鮮人や朝鮮半島への関心は高かったものの、文化大革命前の中国は情報もなく遠い存在であった。大島渚が映画をあまり撮ることのできない時期にあって『アジアの曙』を手掛けたのは、偶然の所産であった一方、背景には、明治維新の決算やアジア主義者についての注目などが磁場のように働いていた。(大島が「想像社」という社名をつけたのは、自分には魯迅ほどの力はないが、対抗した郭沫若の想像社くらいならいいだろうという考えによっていたという。)

●参照
『白毛女』
大島渚『アジアの曙』
小林英夫『<満洲>の歴史』
満州の妖怪どもが悪夢のあと 島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』
林真理子『RURIKO』


辺野古の似非アセスにおいて評価書強行提出

2011-12-27 10:15:06 | 沖縄

名護市辺野古において、国家自らが文字通り人権を蹂躙し、なりふり構わず進めてきた米海兵隊の新基地建設。メディアは国家と結託し、普天間移設というストーリーを執拗に広め続けた。日本政府は抵抗する住民に対し、あろうことか国軍(海上自衛隊)を差し向けた(2007年)。

国家意志は民主党政権になっても変わりはしない。鳩山政権は、これを覆そうと試みたものの、結局は完全に屈服した。菅政権は、面倒な問題として無視した。そして野田新政権は、端から自民党時代の方法を踏襲した。そもそも、パッケージだからといって「普天間移設」というキーワードを(メディアも含めて)使うことが欺瞞なのであり、このことばを使うこと自体が、辺野古の基地ができなければ危険な普天間は永遠に存在し続けるという脅しに他ならない。実際のところ、米国の軍事予算を補助し、その上便利な新基地を作ってあげるのであるから、「辺野古新基地」と称さなければならない。

地域社会と人権の弾圧ばかりではない。日本の環境影響評価法(アセス法)の施行はOECD国の中で最後であったが、そのうえ、曲がりなりにも存在する法を国家自らが破ることになる。呆れた環境後進国である。

この環境影響評価の内容がその名に値しないことはこれまで何度も書いてきた。

○辺野古・大浦湾のジュゴンアオサンゴ等の生態系への影響が過小評価されている。
○「方法書」以前に事前調査を行い、それを「方法書」に基づき行うべき現地調査の成果として組み込み、欠陥だらけの「方法書」と「準備書」を通過させる、と方法は、真っ向からの環境アセスメント法違反である。
○「方法書」から、追加修正、「準備書」と進むに従い、環境影響評価そのものに関わる内容が追加されてきた(後出しジャンケン)。たとえば、オスプレイ配備、洗機場、ヘリパッド、弾薬搭載エリア、燃料桟橋である。また、埋立の砂をどこから持ってくるかの問題もある。このような場合、「方法書」の作成にたち戻らなければならない。

従って、今回の郵送による評価書提出に関して、沖縄県知事が「法令や条例に基づいてやるのだから、出すなというわけにはいかない」と発言しているのは、「提出」という一点だけをとってみればその通りだが、アセス全体がもはや法律違反になっているいま、態度保留の弁と受け取られても仕方がないかもしれない。

問題は、仮に「知事への埋立申請」まで進んだ後である。本来は、知事が許可しなければ終わる話である。しかし、これまで様々な「禁じ手」が取り沙汰されている。

1)埋立手続を国が代行する特別措置法の制定

野田首相はその可能性を否定している。一坪反戦地主会のYさんに訊ねたところ、一応は全国を対象にしている駐留軍用地特措法と異なり、今度はあからさまに沖縄に特定した特措法になるわけであり、それはあり得ないだろうとの見解。

また、「国際関係論と安全保障論の学徒」 @fj197099 さん(>> リンク)によれば、

「再来年の衆院任期を控えて対決度を増す国会でそれが通る見通しはない。野党の賛成は与党の衆院解散を前提としたものになるだろうし、与党はそんな条件は飲めないだろう。」
「よしんば特措法が通せても、その後の工事着工が不可能だろう。反対派は法律違反をものともせずになりふり構わぬ妨害工作に出るだろう。海保や海自など法執行機関どころか実力組織まで含め相当強権的に反対派を排除しないと工事など出来ない。」

2)国土交通相が知事に勧告・指示し、従わない場合には国が行政代執行求め提訴

「沖縄タイムス」(2011/12/14)において報道された(>> リンク)。

3)防衛局が国土交通相に審査請求、国土交通相が不許可取り消し

このオプションは、今日の「東京新聞」(2011/12/27)で初めて目にした。

いずれにしても、白色テロ、あるいは国家テロ(太田昌国)とでも称すべき国家暴力なしには成立しえないものではないか。

●参照
ついに辺野古の似非アセスにおいて評価書強行提出か(怒)
由井晶子『沖縄 アリは象に挑む』(特措法の危険性について指摘)
原科幸彦『環境アセスメントとは何か』
二度目の辺野古
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘
名古屋COP10&アブダビ・ジュゴン国際会議報告会
ジュゴンの棲む辺野古に基地がつくられる 環境アセスへの意見(4)


ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』

2011-12-26 22:56:53 | 政治

ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』(みすず書房、原著1991年)を読む。

昭和天皇は1988年9月、病に倒れ、1989年1月7日に「崩御」した。私は当時高校生、受験勉強の真っただ中にあった。そして連日、「下血」や「自粛」といった耳慣れない用語が新聞、テレビで飛び交うのを奇妙な気持で眺めていた。紛れもなくひとつの時代の終焉をリアルタイムで体験することに慣れていなかった、のだろう。しかしそれは、後から振り返ってみても、やはり奇妙な時間ではあった。なぜならそこには、決定的な変化の到来を望んでいない意志が存在したからだ。異常事態ではありながら、同時に何事もなかったかのような多重性。

本書は、その前後の数年間において、3つの場でのフィールドワークをまとめたものである。沖縄では、日の丸を燃やした人・知花昌一さん。山口では、事故死した自衛隊員の夫を靖国-護国神社に合祀することを拒んだ人・中谷康子さん。長崎では、天皇の戦争責任を明言した長崎市長・本島等さん。3人とも、個人を真綿のように取り巻く社会に対して、毅然とした、魅力的で真当な個であり続けている。

ここでいう社会とは、国家権力の末端というような組織的なものではなく、また、昔から生き続けてきた伝統的な地域社会というようなものとも異なる。顔の見える近しい関係、何らかの情報を介した顔が見え隠れする関係、顔の見えない抽象的な関係が無数に絡み合い、かつ断絶したような有りよう、そこに過去や小さきものに関する健忘症・切り捨てが加わり、もはや個としての動きを諦めなければ罪とさえ見なされてしまうような有りよう。これに抗するのは、やはり個の執念と苦悩と豊饒しかありえないことを、本書は示してくれているようだ。

「今日の日本のように、市民の圧倒的多数が自分は多数派に属していると信じ、その信念が日々、国民的アイデンティティの核として強化されている社会では、万人の権利のためにたたかう少数派にのしかかる負担は、耐えがたい重さとなるばかりだ。だからこそ、多数派が少数派に負うているのは、けっして寛容とか度量の大きさとかの問題ではない。(略) 少数派がたたかっているのは、彼ら自身のためであるのと同時に、多数派のためでもあるのだ。」

何が本書に力を与えているのか。それは日本社会では異端とされる個の姿ばかりではない。個と個のつながりである。本書の出版から20年が経ち、今年の増補版には著者が「あれから二十年余 増補版へのあとがき」を書き足している。そこでは、「どうしてもとりあげなければならない」ひとつのことばを紹介している。素晴らしいことばだと思う。「We found each other. /われわれは、われわれに出会えたのだ!

「いま起きている出会いは、時代の前後、経験の質や量の相違はどうあれ、いちばん大事なこと―この世の中を変えなければたまらない、と感じたから、いま、ここに来て、あなたのとなりに立っているのだ―という確認にはじまるのだ。」

●参照
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』(ノーマ・フィールド、知花昌一を沖縄思想史に位置付け)
金城実+鎌田慧+辛淑玉+石川文洋「差別の構造―沖縄という現場」(知花昌一さんが「時代の流れ」と「二見情話」を唄った)
金城実『沖縄を彫る』
ゆんたく高江、『ゆんたんざ沖縄』
読谷村 登り窯、チビチリガマ
『NHKスペシャル 沖縄 よみがえる戦場 ~読谷村民2500人が語る地上戦~』(2005年)


大島渚『アジアの曙』

2011-12-24 22:39:25 | 中国・台湾

ちょうどまとまった時間ができたので、思い立って、大島渚によるテレビドラマ『アジアの曙』(1964-65年)、全13話をほとんどぶっ通しで再見する。2000年頃に、「チャンネルNECO」で再放送したものだ。大島が松竹を退社、創造社をつくって数年後。松竹時代には、退社の原因となった『日本の夜と霧』(1960年)などの傑作はあったものの、大島映画の成熟期はむしろこの後に来る。

監督が大島、脚本が佐々木守、 田村孟、石堂淑朗。中国の辛亥革命(1911年)に続く第二革命(1913年)を描いた作品であり、中国人はすべて日本人の俳優が演じている。とは言え、佐藤慶、戸浦六宏、小松方正、吉村真理など気合が入っていて文句など付けられない。本当に面白いドラマだ。原作は山中峯太郎であり、ドラマでは主役として中山峯太郎と単純に変えている。

中山(御木本伸介)は、陸軍幼年学校を首席で卒業、士官学校・支那語班在籍時に、清国からの留学生たちと同志の誓いを交わす。その中には、のちに孫文(加藤嘉)の側近となる李烈鈞(佐藤慶)がいた。彼らは、満州族の清国を廃し、漢民族の国を興そうという考えのもとに中国革命同盟会を結成していたのだった(なお、ドラマの途中で「漢民族の」という表現から、「中国人自身の」という表現に変えられる)。日本では幸徳秋水の大逆事件(1910年)があり、石川啄木が「閉塞した空気」と表現するような時代であった。留学生たちは、辛亥革命の知らせに居ても立ってもいられず帰国するも、袁世凱が革命派を排除しはじめると地下に潜る。

陸軍大学校に進み、妻子(妻が小山明子)を設けた中山だったが、薩長の勢力争いや中国に対する考えに我慢できず、大学校をやめ、無断で上海に渡る。李烈鈞らと再会、黄興の南京決起に合流すべく長江(当時日本では揚子江と称した)を上流、南京で上陸できず、そのまま江西省湖口に至り、袁世凱側の要塞を攻め落とす。しかし、そこからは苦難の連続であった。江西省都の南昌を攻略し、林虎らと協力するが、住民の支持が得られず敗走する。第二革命は大失敗に終わった。

次に目指した地は、一足先に林虎が農村の拠点を作ると旅立った湖南省・長沙だったが、結局は日本軍捕らわれの身となり上海に戻る。その頃には、日本政府の方針は中国との共存共栄という理想からは遠くかけ離れていた。そして革命軍も、抗日へと舵を切っていた。既に孫文も黄興も日本に亡命し、一回り若い革命軍と分かりあえない李烈鈞も日本亡命を狙う。中山は、再び中国の大陸での活動を開始した。

いまでは奇妙に思えることだが、清国打倒を狙う面々が、頭山満というナショナリストの大物の協力により、日本において中国革命同盟会(のちに中国同盟会)を結成したという史実がある。また、その中には、孫文や黄興のみならず、ドラマには出てこないものの、紹興で処刑される秋瑾、日本の傀儡政権をつくる汪兆銘らもいたということは非常に興味深い。頭山満や北一輝宮崎滔天(それぞれの名前が、日本軍の口から一度ずつ出る)といった面々による(偏った)アジア主義が、片や中国革命につながり、片や日本のアジア侵略につながったのである。

また、李烈鈞について調べてみると、陸軍士官学校の同期には山西軍閥の閻錫山がいたという(これもドラマには登場しない)。のちに、日本の敗戦後に残留兵を利用して人民解放軍と戦わせた人物である(『蟻の兵隊』)。

政治の季節に、三十代半ばの大島渚によって作られた熱い革命ドラマ。こんなものはもう出来ないのではないか。

●参照
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』
大島渚『戦場のメリークリスマス』
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』
池谷薫『蟻の兵隊』
松本健一『北一輝論』


スリランカの映像(10) デイヴィッド・リーン『戦場にかける橋』

2011-12-23 17:40:38 | 南アジア

泰緬鉄道は日本軍が連合軍捕虜たちを酷使して建設した鉄道であり、その名の通り、タイからビルマまで敷かれていた(現在はタイのみにその一部を残す)。特に難関だったのがクウェー川(クワイ川)での橋の建設であったといい、この話がもとになって、ピエール・ブールの小説が生まれ(『猿の惑星』の作者でもある)、その後、デイヴィッド・リーン『戦場にかける橋』(1957年)も生まれた。

しかし、ロケはタイではなく、スリランカ(当時、セイロン)で行われている。今日初めてこの映画を観て、改めて調べてみたところ、ロケ地はヌワラエリヤからコロンボへと少し向かったあたりのハットンであるらしい。聖山スリー・パーダの麓でもある。私もヌワラエリヤの「友人の教え子の家」に泊まり、大晦日の夜中に「初日の出」を見るべく電車で麓まで移動したから、ひょっとしたらそのあたりだったかもしれない。(友人も自分もオカネをほとんど置いてきてしまったことに途中で気がついて、何とか登山と下山までこなしたものの、そのあと一文無しでどうやってヌワラエリヤまで戻ったのか覚えていない。)

湯本貴和『熱帯雨林』(岩波新書、1999年)によると、いまではタイの国土は3割に過ぎないが、戦前までは8割近くが熱帯雨林に覆われていたという(>> リンク)。ただ、この映画が撮られた1950年代半ばの状況がどうだったのかはわからない。日本軍の捕虜収容所を脱出した米軍兵が保護された病院が、当時英国領であったセイロンの海岸にあるという設定になっており、ならば同じ国で撮影してしまえ、とでもいった決断があったのかもしれない。

映画は、英国軍将校にアレック・ギネス、米軍兵にウィリアム・ホールデン、日本軍将校に早川雪洲と豪華な俳優を揃えており、おまけにデイヴィッド・リーンときては、立派すぎて面白みがまったくない。今月足を運んだこの橋のたもとには、建設で命を落とした中国人捕虜の碑があった。映画の視線は、米、英、日、そしてタイ人(スリランカ人を起用したのかもしれない)にのみ向けられている。

それにしても、やはりあのテーマ曲は「猿、ゴリラ、チンパンジー」である。

●参照
泰緬鉄道
スリランカの映像(1) スリランカの自爆テロ
スリランカの映像(2) リゾートの島へ
スリランカの映像(3) テレビ番組いくつか
スリランカの映像(4) 木下恵介『スリランカの愛と別れ』
スリランカの映像(5) プラサンナ・ヴィターナゲー『満月の日の死』
スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』
スリランカの映像(7) 『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』、『シーギリヤのカッサパ』
スリランカの映像(8) レスター・ジェームス・ピーリス『ジャングルの村』
スリランカの映像(9) 『Scenes of Ceylon』 100年前のセイロン


シャンカール『Endhiran / The Robot』

2011-12-23 12:03:52 | 南アジア

シャンカール『Endhiran / The Robot』(2010年)のDVDを観る。主演は大スター・ラジニカーントとアイシュ。日本では『ラジニカーントのロボット』というタイトルが付けられるそうだ。

科学者(ラジニカーント)は、自分にそっくりな人間型ロボットの開発に成功する。彼の夢は、ロボットをインド軍で使ってもらうことだった。ロボットの感情のなさを指摘され、さまざまな情報をインプットして感情を植えつけるも、ロボットは科学者の恋人(アイシュ)を好きになってしまう。科学者は無骨で(恋人へのプレゼントが、スティーヴン・ホーキング『A Brief History of Time(ホーキング、宇宙を語る)』や『フリーコノミクス』であったというのが笑える)、それに比して万能で強く、忠実なロボット。しかし、科学者の恋人にご褒美とばかりに頬にキスされると舞い上がってしまい、暴走を始める。

手がつけられなくなり、一度は科学者に壊され棄てられたロボットであったが、彼の成功を妬む師匠に拾われ、悪辣な「Version 2.0」として再生する。ロボットは自己の複製再生産をはじめ、恋人を奪い、ロボット軍団を率いて帝国を築く。

タミル映画の伝統を裏切らず、歌あり踊りあり(ところで、何でマチュピチュを前にして、キリマンジャロ~モヘンジョダロ~なんて歌うのか)。下らなすぎて最高だ。

しかし圧巻は科学者・インド軍・警察とロボット軍団との対決場面である。説明するよりも動画の一部を観てほしいが、とにかく過剰だ。空に浮かぶ無数の紳士たちの悪夢「ゴルコンダ」を描いたルネ・マグリットも、これを観たら驚愕するに違いない。ここまでやるのかというCGと冗談、ハリウッド映画を笑いながら軽く凌駕する。何の感慨もないがとりあえずは驚いた。

>> 動画の一部

もう60歳を超えているラジニカーントは今でも大人気だそうで、昨年インドでそんな話をしながら歩いていると、同行のインド人がほらあそこにも、と車の窓に貼られたシールを指さした。あらためて確認してみると、この映画の宣伝用シールだった。


2010年10月、バンガロール近郊にて


金元栄『或る韓国人の沖縄生存手記』

2011-12-23 00:33:45 | 沖縄

金元栄『或る韓国人の沖縄生存手記』(『アリランのうた』制作委員会、1991年)を読む。序文は朴寿南による。

1944年、植民地朝鮮において、著者は日本軍に召集される。お前たちは皇軍の軍属となる、陛下の赤子として光栄なことと思え、仕事場は銃声の聞こえない後方だ、と訓示され、玄界灘を渡り、下関、小倉、長崎、鹿児島、奄美大島を経て那覇に否応も無く連れてこられる。そして軽便鉄道で嘉手納に移動し、名護、ふたたび那覇、糸満。勿論、銃声が聞こえない場所などではありえなかった。

短い手記ながら、凄惨な場面が続出する。逃亡者を連れ帰ってきた日本兵は、朝鮮人軍夫たちに仲間を叩けと竹棒を渡す。力を加減するともう一度やらされるため、力一杯打たざるを得ない。著者はこのように言う。「それでも自分たちはいわゆる”大東亜共栄圏”の主といっているのだ。

米軍が上陸してからは文字通り地獄と化した。日本兵からは差別され、その一方では日本兵と同じように最後まで戦い死ねと強制する。都合のいい支配者だけの論理であった。

名護では、「女子挺身隊」という名のもとに強制的に朝鮮から連れてこられた慰安婦11人を目にする。輿石正『未決・沖縄戦』(じんぶん企画、2008年)、朴寿南『アリランのうた オキナワからの証言』(1991年)、福地曠昭『オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦』(海風社、1992年)でも触れられているように、沖縄本島においても、名護ややんばるにまで朝鮮人の慰安婦が連行されてきていたのである。片や支配国の兵として、片や慰安婦として、沖縄で出遭うというおぞましさよ。

慰安婦としての個々の声や実態は、1965年に日韓の政府間で手を打ってからむしろ明るみに出てきているという。

ところで、朴寿南『ぬちがふう』は完成したのだろうか?

●参照
朴寿南『アリランのうた』『ぬちがふう』
沖縄戦に関するドキュメンタリー3本 『兵士たちの戦争』、『未決・沖縄戦』、『証言 集団自決』
オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦


藤井省三『魯迅』

2011-12-21 23:00:00 | 中国・台湾

藤井省三『魯迅 ―東アジアを生きる文学』(岩波新書、2011年)を読む。

魯迅を読む、とはどのような意味を持ち、それがどのような位置に置かれてきたのか。本書は日本のみならず、朝鮮、中国、東南アジアにおける魯迅の受容史を垣間見せてくれる。

植民地時代の朝鮮では、金史良らが自らの国に「阿Q」を見出している。その後、金石範『万徳幽霊奇譚』(>> リンク)にもつながる系譜があるのだとする。中国では、毛沢東が魯迅世界を共産党史観に押し込めた。そして教科書にも必ず入っており、現在40歳以下の人たちは「魯迅嫌い」になってしまっている。国民党をかつて支持した魯迅の、歪んだ受容史だと言えなくもない。

そして日本では、竹内好というフィルターを通して魯迅世界が形成されてきた。本書の白眉は、このことの意味を説く点にある。魯迅の原文は「屈折した長文による迷路のような思考の表現」であり、「迷い悩む魯迅の思い」が反映されているという。ところが、竹内訳では、多数の明快な短文に置き換え、表現そのものも戦後日本社会にあわせたようなものとなっている。著者は「原作者魯迅に対するリスペクトを欠いている」と手厳しい。なるほど、ならば光文社文庫の著者による新訳を読んでみたいところだ。

他にも発見があった。魯迅はドイツの版画家ケーテ・コルヴィッツらの版画集を中国で刊行していた。沖縄の佐喜眞美術館に所蔵されたコルヴィッツのコレクションが、今年、北京魯迅博物館で展示されたことが話題になったが、そのような背景があったわけだ。

著者は中国浙江省・紹興紹興魯迅記念館を2010年12月に再訪している。私が訪れた直後であり、何だか面白くなった。これで北京、上海、紹興と3箇所の魯迅故居と記念館をまわったことになるのだが、なかでも北京のそれが好印象であった。紹興では、売店で文鎮を買った。表には魯迅故居、裏には少年時代の魯迅が通った「三味書店」がプリントされている。ガラス製で重く、こんな記事を書くために本を開くのにも最適なのだ。ずっとパソコンの近くに置いている。

 

●参照
藤井省三『現代中国文化探検―四つの都市の物語―』
魯迅の家(1) 北京魯迅博物館
魯迅の家(2) 虎の尾
魯迅の家(3) 上海の晩年の家、魯迅紀念館、内山書店跡
魯迅グッズ
丸山昇『魯迅』
魯迅『朝花夕拾』
井上ひさし『シャンハイムーン』 魯迅と内山書店
太田尚樹『伝説の日中文化サロン 上海・内山書店』
『けーし風』読者の集い(13) 東アジアをむすぶ・つなぐ(沖縄における魯迅の抵抗的視点)
金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』 済州島のフォークロア


2011年12月、バンコク

2011-12-21 07:25:25 | 東南アジア

今年4回目のバンコク。市内中心部には水害の影響は見えないものの、少し離れると、胸高あたりに水位の跡を示す線がくっきりと見えたり、まだ冠水している路地があったり。浄水場にも水が入ったそうで、そのためか、水道水がとても臭かった。


店先でしゃがむ


シーロム通りのヒンドゥー寺院


お供え物


店と家

※すべてペンタックスK2 DMD、M 35mmF2.0、FUJI PRO 400で撮影

●参照
末廣昭『タイ 中進国の模索』
ククリット邸
バンコクのThavibuギャラリー
バンコクの「めまい」というバー
泰緬鉄道
チャートリーチャルーム・ユコン『象つかい』


泰緬鉄道

2011-12-20 22:42:59 | 東南アジア

泰緬鉄道は、戦時中に日本軍が連合国の捕虜を酷使し、タイからビルマに軍事物資を補給するために建設した鉄道である。特にクウェー川(「クワイ川」は発音が間違いだそうだ)に架ける橋が有名で、現存する橋は終戦後に戦後補償として日本の手で修復したものであるらしい。鉄道を待っている間に見物した。タイ人や外国人の観光客だらけだ。

ところで、いまだ『戦場にかける橋』を観ていないのだが、この撮影はスリランカで行われたという。

近くには、建設のために亡くなった捕虜たちの共同墓地や、泰緬鉄道博物館(「Death Railway」と!)がある。


チョンカイ共同墓地


クウェー川の鉄橋


鉄橋のバイオリン弾き

15分くらい遅れて鉄道が到着した。ほどなく、遠足の子どもたちで賑やかになった。車窓からはサトウキビやタピオカが見える。


泰緬鉄道


切符確認


遠足


みんな撮影

いまでは線路はビルマ国境よりはるかに手前で途切れている。昼食を取り、川辺に下りたり、線路を歩いてみたりする。線路際の断崖に小さな洞窟があり、仏像が据えられていた。


断崖


木の橋桁



洞窟の仏像


ブーゲンビリア

※すべてペンタックスK2 DMD、M 35mmF2.0、FUJI PRO 400で撮影


2011年12月、プネー

2011-12-19 23:10:15 | 南アジア

インドのプネームンバイから飛行機で30分、自動車で数時間程度の距離にある。大学がいくつかあるためか、落ち着いた雰囲気の街である。

※すべてペンタックスK2 DMD、M 35mmF2.0、FUJI PRO 400で撮影

●参照
2011年9月、デカン高原北部のユーカリとかレンガ工場とか
2011年9月、ヴァーラーナシーの雑踏

2011年9月、ヴァーラーナシー、ガンガーと狭い路地
2011年9月、ベンガル湾とプリーのガネーシャ
2011年9月、コナーラクのスーリヤ寺院
2011年9月、ブバネーシュワル
2010年10月、デカン高原
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


尹健次『民族幻想の蹉跌』

2011-12-18 21:59:54 | 韓国・朝鮮

尹健次『民族幻想の蹉跌 日本人の自己像』(岩波書店、原著1994年)を読む。バンコクからムンバイに飛ぶ機内で紐解き始め、プネーのホテルで読み終えた。

本書で追求されているのは、戦前の「日本民族」というギトギトに血塗られた神話が如何に形成されたか、だけでなく、戦後の「日本人」という「一見無イデオロギーを装った言葉」が何を隠蔽しようとし、忘れ去ろうとしているのか、にも及ぶ。しらっと普遍であるかのように示しやすい言説、それは普遍ではなく記憶と歴史の隠蔽であるというわけだ。

これらの指摘は執拗にして、われわれの無意識をも衝いている。なかでも、戦前の「日本民族」観が多民族の混血を前提としたものであったのに対し、戦後、愚かな「単一民族論」へのアンチテーゼとして日韓のかつての交流史が持ち出されがちなことを考えるなら、この変遷は興味深い。また、「慰安婦問題」を「解決済み」だと一顧だにしない国家のあり方を考えるためにも、一読を勧めたい良書である。

○幕末における吉田松陰の「一君万民」という近代国家を希求した思想は、天皇制国家の出発点に位置した。これはその後の「日本民族」という自己提示にいたる出発点でもあった。
○明治国家の成立過程は、自由民権運動の敗退過程であり、同時に「臣民」「国民」という言葉により天皇を媒介項として人民と政府との対立を曖昧にする構造を造り出す過程でもあった。また1880年代後半は日本に「帝国」というイメージが入ってきた。
○「臣民」も「国民」も、明治国家の誕生以後に生み出された概念である。個人は、強大な中央集権的国家(天皇制)、その下の「家」という中間集団(家父長制)の二重の抑圧のもとに置かれることになった。
○日本の「国民」意識は、明治国家までの人民の「自己意識」とはかけ離れており(藩やクニに分立)、虚偽のアイデンティティとして形成されていった。
○近代日本の成立は、西欧崇拝、天皇制イデオロギー、アジア蔑視観という3本の柱によって彩られている。
○1900年代初頭から、天皇制強化は、実際には、地方団体や社会集団等の社会的媒体の存在によって、あたかも多元的価値や複数集団への忠誠の分割であるかのような外貌を呈しながら進行し、それは天皇制的忠誠の集中過度からくる危険を分散させる絶妙な効果を発揮した。(藤田省三は、1942年、部落会・町内会などの地域自治機構の管轄が内務省から大政翼賛会に移されることによって、「国民統合」が達成されたとしている。)
○国内で「国民」としての同質化を強いられることと併行して、被差別者がその末端に位置づけられ、また、植民地人民が劣位の「国民」として組み込まれていった。
○「日本民族」の統一原理たる「日本精神」「皇道主義」の思想的確立は一朝一夕に達成されたものではない。このフィクションは、初めから具体案があったわけではなく、時局の進展に沿って次第に発見、開拓、負荷されてきた。
○戦前は、戦後の平板化した「純血・単一民族論」ではなく、多くの民族が同化融合して形成された民族であったのだとする言説が中心であった。ここにおいて、日本民族として区別される要素は精神的なものだとされた。そして、朝鮮民族の独自性を否定する「日鮮同祖論」を生みだし、アジア諸民族を「無限抱擁的に融合する」という同化政策の根拠を生み出し、アジア侵略を合理化するものとなった。
○内向きの虚偽のアイデンティティは、他者を劣位とみなす意識だけではなく、憐憫をまじえた同情意識(欧米列強に対抗するために日本の指導を仰ぐべきだとする考え)をも生んだ。
○これらの自己にのみ都合のよいフィクションは、アジアという「他者」からの視線を許容せず、アジアの他民族のなかに自己の姿を読み得ないものであった。
○「日韓併合」(1910年)は、当初の「韓国合併」から「韓国併合」を経て生み出された言葉であり、平和・合法的色彩を装うための欺瞞であった。
○植民地支配において、「同化」という言葉は、異民族支配の実態を示すというよりは、むしろ「民族問題」の顕在化を回避するための言説であった。すなわち、本質的に侵略であった。朝鮮人への参政権付与を説いた北一輝の思想にしても、本人たちの不満と願望、民族自決の意志といった現実をまったく無視しており、ファシズムそのものであった。
○現在の「日本人」という表現は、「日本」「日本人」「日本文化」などの概念を無条件・無前提に肯定したものであり、天皇制、朝鮮、アジアといったものも曖昧模糊のままに放置される性質のものである。他者の視線を組み込まないことは、歴史意識の希薄さにつながり、他者との緊張関係を欠いた自己中心主義的なものへと傾斜しがちになる。むしろ、戦前の罪科を切り落とす意味で、一見無イデオロギー性を装った言葉が多用されてきたのではないか。
日韓基本条約(1965年)では、日本はかつての植民地支配を「合法的」であったとして、朝鮮支配の責任をほとんど認めず、5億ドルの「賠償」も「経済援助」「独立祝金」というニュアンスで支払われ、その引き換えに韓国政府が「対日請求権」を放棄した。このため、日本政府はその後、植民地支配や韓国・「在日」被害者の戦後補償要求を「すべて解決済み」という態度を取っていくことになった。このように日韓の国交正常化は、「過去の清算」を曖昧にし、民衆を無視したままの政権どうしの関係「正常化」という性格を強く帯びた。
○日本国憲法は「平和憲法」であると評価されがちであるが、それは加害責任不明の文章である。もとより天皇の免責と憲法9条は交換条件であった。「護憲」を唱えるかぎりにおいては、天皇制の「擁護」を含むことになる。
○日本国憲法を貫く基本精神(自由、平等、人権)が「普遍主義」であるなかで、その受益者は旧植民地出身者を含む「外国人」を排除した「日本国民」であるというニュアンスが濃厚である。

●参照
尹健次『思想体験の交錯』 
『情況』の、尹健次『思想体験の交錯』特集