Sightsong

自縄自縛日記

ウィリアム・パーカー『Essence of Ellington / Live in Milano』

2016-11-30 12:20:00 | アヴァンギャルド・ジャズ

ウィリアム・パーカー『Essence of Ellington / Live in Milano』(AUM Fidelity、2012年)を聴く。

William Parker (b)
Hamid Drake (ds)
Dave Burrell (p)
Kidd Jordan (ts)
Dave Sewelson (bs)
Sabir Mateen (cl, ts)
Rob Brown (as)
Darius Jones (as)
Ras Moshe (ss, ts)
Steve Swell (tb)
Willie Applewhite (tb)
Roy Campbell (tp, flh)
Matt Lavelle (tp)
Ernie Odoom (vo)

「6、7歳のときからデューク・エリントンを聴き親しんでいた」というウィリアム・パーカーによる、エリントン・プロジェクト2枚組。もちろんここで展開されているのはウィリアム・パーカーの音楽であり、喜怒哀楽とわけのわからない生命力をここぞとばかりに爆発させるエリントンのジャングル・サウンドではない。だが、パーカーにこのメンバーであり、悪いわけがない。

1枚目。まずは「Portrait of Louisiana」では、泡立ちひっくり返るようなキッド・ジョーダンのテナー、過度な破裂音を出さずしてエネルギーを最大限に放出させるハミッド・ドレイクのドラムス。「Essence of Sophisticated Lady / Sophisticated Lady」ではひしゃげたようなデイヴ・セウェルソンのバリトンや、ひたすら擾乱を起こすデイヴ・バレルのピアノ。「Take The Coltrane」での高音を攻めるサビア・マティーンのテナーも良い。重戦車のようにサウンドを駆動するパーカーはやはり最強である。

2枚目。「In A Sentimental Mood」では、デイヴ・バレルの美しく響かせるピアノに続いて、伸びてびりびりと震えるダリウス・ジョーンズのアルト。「Take The A Train」ではまた大勢で盛り上げていて、そのまま「Ebony Interlude」においてマティーンのクラリネットとのデュオになったときのパーカーのベースは、超重量級のくせに軽やかに舞っている。「Caravan」では、硬質なプラスチックのような艶のあるロブ・ブラウンのアルトソロに耳を奪われる。ここでもサウンドを力強く駆動するパーカーのベースがとにかく素晴らしい。そしてオリジナルの「Essence of Ellington」で、エリントンらしく賑々しく締めくくる。

編成のことは置いておいても、2015年の来日時には、このようなパーカーを聴きたかったのだ。

●ウィリアム・パーカー
スティーヴ・スウェル『Soul Travelers』(2016年)
エヴァン・パーカー+土取利行+ウィリアム・パーカー(超フリージャズコンサートツアー)@草月ホール(2015年)
イロウピング・ウィズ・ザ・サン『Counteract This Turmoil Like Trees And Birds』(2015年)
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』(2003、2013年)
Farmers by Nature『Love and Ghosts』(2011年)
ウィリアム・パーカー『Uncle Joe's Spirit House』(2010年)
DJスプーキー+マシュー・シップの映像(2009年)
アンダース・ガーノルド『Live at Glenn Miller Cafe』(2008年)
ブラクストン、グレイヴス、パーカー『Beyond Quantum』(2008年)
ウィリアム・パーカーのカーティス・メイフィールド集(2007年)
ロブ・ブラウン『Crown Trunk Root Funk』(2007年)
ダニエル・カーター『The Dream』、ウィリアム・パーカー『Fractured Dimensions』(2006、2003年)
ウィリアム・パーカー、オルイェミ・トーマス、ジョー・マクフィーら『Spiritworld』(2005年)
ウィリアム・パーカー『Luc's Lantern』(2005年)
By Any Means『Live at Crescendo』、チャールズ・ゲイル『Kingdom Come』(1994、2007年)
ウィリアム・パーカーのベースの多様な色(1994、2004年)
Vision Festivalの映像『Vision Vol.3』(2003年)
ESPの映像、『INSIDE OUT IN THE OPEN』(2001年)
ペーター・コヴァルト+ローレンス・プティ・ジューヴェ『Off The Road』(2000年)
アレン/ドレイク/ジョーダン/パーカー/シルヴァ『The All-Star Game』(2000年)
ウィリアム・パーカー『... and William Danced』(2000年)
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(1985年)
ウェイン・ホーヴィッツ+ブッチ・モリス+ウィリアム・パーカー『Some Order, Long Understood』(1982年)
『生活向上委員会ニューヨーク支部』(1975年)


『山田孝之の東京都北区赤羽』

2016-11-30 08:11:53 | 関東

『山田孝之の東京都北区赤羽』(2015年)、全12話をアマゾンプライムで観る。ふだんテレビをほとんど視ないため、ついこの間までこのドラマの存在も知らなかったのだが、すっかりハマってしまった。

山田孝之が自分の生き方を見つめなおすため、赤羽に移り住み、それをカメラが記録する。出てくる人たちの挙動も、カメラとの距離感も、妙にリアルであり、虚実の境界線がよくわからない。たぶん撮られるほうも撮るほうも、もうひとつのリアルなんだろうな。状況がときどきキャプションとして挿入されるのだが、これがまた客観を装っていて笑いそうになる。テキストや画像を通じてリアルと疑似リアルを同一視するあり方は、まさにSNS的。

タイ料理の「ワニダさん」のお店は実際にあるようだし、いつか飲みに行ってみようかな。飲み歩く場所として荒川区は好きな場所のひとつだが、これに北区も加えなければならない。


シャーリー・クラーク『ザ・コネクション』

2016-11-29 12:38:05 | アヴァンギャルド・ジャズ

シャーリー・クラーク『ザ・コネクション』(1961年)を観る。

同じクラークの『Ornette: Made in America』と同じときにDVDとしてリリースされた。『Ornette』ほど珍しいものではなかった(以前はアメリカVHS版で持っていた)が、英語字幕や特典映像なども収録され、しっかり観たかったので嬉しいことだった。

ジャズファンには、この映画のサントラのように出されたフレディ・レッドのアルバム『The Music from "The Connection"』(1960年)の方が有名である。メンバーは、フレディ・レッド(ピアノ)、ジャッキー・マクリーン(アルトサックス)、マイケル・マトス(ベース)、ラリー・リッチー(ドラムス)。映画でもかなりの時間を割いて演奏している。

とは言え、これは劇映画なのであって、この4人のミュージシャンもそれなりに演技をしている(特にマクリーン)。もっとも、ヘロイン中毒患者たちがカメラに向かって「自然に演技をしろ」と言われて騒ぐだけの映画であり、大したものではない。大袈裟に言えばメタ映画、映画のための映画のようなものだが、そこまで持ち上げなくてもよい。

映画監督のジム役の俳優が当時を振り返った特典映像が付いていて、かれによれば、シャーリー・クラークは完璧主義者で何度も演技をやり直させたのだという。同時代のジョナス・メカスも日記においてクラークのことをときどき評価しているが、いま観て納得できるような要素はない。『Ornette』の価値も記録としてのものではないかと思うがどうか。

●参照
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 再見(1985年)
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 オーネット・コールマンの貴重な映像(1985年)
アルド・ロマーノ『New Blood Plays "The Connection"』(2012年)
ジャッキー・マクリーン『The Complete Blue Note 1964-66 Jackie McLean Sessions』(1964-66年)
ジャッキー・マクリーン『Let Freedom Ring』(1962年)
ジャッキー・マクリーンのブルージーな盤(1956、59年)


ジャン=ピエール・メルヴィル『仁義』

2016-11-28 20:41:46 | ヨーロッパ

ジャン=ピエール・メルヴィル『仁義』(1970年)を観る。

護送中に脱走した男、5年の収監を経て仮出所した男、もと警官の狙撃の名手、老刑事。奇妙な友情と裏切り。「善に生まれ悪に染まる」という人間の業。アンリ・ドカエの暗鬱な撮影。切り詰められた台詞と演出。トレンチコート、ダークスーツ、細いネクタイ、革のボストンバッグなんかもキマッている。

いや見事な映画だなあ。メルヴィルの作品は、『影の軍隊』(1969年)にも『リスボン特急』(1972年)にも痺れていたのだけど、その2本にはさまれた地味な本作も実に秀逸。

そういえば母親がアラン・ドロンのファンだった。それもまあわからなくはない。くたびれた表情を浮かべたイヴ・モンタンは妙に高田純次に似ている。宝石店で自前の銃弾により警護用の鍵穴を撃つのだが、まずは三脚で照準を定め、おもむろに銃を取り外して手で撃つ、それにもまた痺れる。


マーカス・ストリックランド『Nihil Novi』

2016-11-28 12:27:15 | アヴァンギャルド・ジャズ

マーカス・ストリックランド『Nihil Novi』(Blue Note、2016年)を聴く。

01. TIC TOC
Marcus Strickland (as, ts)
Keyon Harrold (tp)
Mitch Henry (Rhodes, key)
BIGYUKI (key)
Kyle Miles (b)
Charles Haynes (ds)

02. THE CHANT
Marcus Strickland (as, Rhodes)
Pino Palladino (b)
Chris Dave (ds)

03. TALKING LOUD feat. Jean Baylor
Marcus Strickland (ts)
Jean Baylor (vo)
Keyon Harrold (tp)
Mitch Henry (key, org)
Kyle Miles (b)
Charles Haynes (ds)

04. ALIVE feat. Jean Baylor
Marcus Strickland (bcl, ts, ds editing)
Jean Baylor (vo)
Keyon Harrold (tp)
BIGYUKI (key, Rhodes)
Meshell Ndegeocello (b)
Charles Haynes (ds)

05. SISSOKO'S VOYAGE
Marcus Strickland (ts)
Keyon Harrold (tp)
Chris Bruce (g)
Mitch Henry (org)
Meshell Ndegeocello (b)
Charles Haynes (ds)

06. MANTRA
Marcus Strickland (bcl, programming)
Keyon Harrold (dialogue)

07. CYCLE
Marcus Strickland (as)
Keyon Harrold (tp)
Pino Palladino (b)
Chris Dave (ds)
Mitch Henry (Wurlitzer)

08. INEVITABLE feat. Jean Baylor
Marcus Strickland (bcl, ts)
Jean Baylor (vo)
Keyon Harrold (flh)
Robert Glasper (p)
BIGYUKI (key)
Kyle Miles (b)
Charles Haynes (ds)

09. DRIVE
Marcus Strickland (bcl, ts)
BIGYUKI (key)
James Francies (key)
Kyle Miles (b)
Chris Dave (ds programming)
Mitch Henry (B-3 org)

10. CHERISH FAMILY
E.J. Strickland (dialogue)
James Francies (key)

11. CELESTELUDE
Marcus Strickland (bcl, ts) 
Keyon Harrold (tp)
Robert Glasper (Rhodes)
Mitch Henry (cl)
Kyle Miles (b)
Charles Haynes (ds)

12. MINGUS
Marcus Strickland (ts, programming)

13. TRUTH
Marcus Strickland (ss)
Mitch Henry (org)
Kyle Miles (b)
Charles Haynes (ds)

14. MIRRORS
Marcus Strickland (sax)
Keyon Harrold (tp)
Charles Haynes (ds)
Meshell Ndegeocello (b)
Mitch Henry (Wurlitzer) 

クレジットが長いが、多くのミュージシャンをショーケース的に使っているのでこれが一番である。で、このリストですべてを言い尽くすという・・・。

ミシェル・ンデゲオチェロのプロデュースであり、またBIGYUKIやクリス・デイヴやロバート・グラスパーらの面々も参加しているということもあって、今年入手して聴いてはいたのだが、耳と脳と心をニュートリノのようにスルーしてしまっていた。心機一転、1曲ずつヘッドホンで大音量で体感してみる。

やはり、ンデゲオチェロのエレベは裏から絶妙に入ってカッチョいいグルーヴを作りまくり最高だ。全曲に入ってくれればよかったのに。BIGYUKIのキーボードは花畑のようにキラキラしていて良いが、これだけだと何が魅力なのかまだわからない。ストリックランドのリードも悪くはないと思うのだが、どうも私にはスマートに過ぎて・・・。グラスパーも相変わらずスタイリッシュではあるのだが。

もう少しアーバンでスマートな人になったらまた聴こう。

●ミシェル・ンデゲオチェロ
テリ・リン・キャリントン『The Mosaic Project: Love and Soul』(2015年)
ミシェル・ンデゲオチェロ『Comet, Come to Me』(2014年)
ニーナ・シモンの映像『Live at Ronnie Scott's』、ミシェル・ンデゲオチェロ『Pour une ame souveraine』(1985、2012年)
ミシェル・ンデゲオチェロの映像『Holland 1996』(1996年)


日野元彦『Flash』

2016-11-27 20:38:07 | アヴァンギャルド・ジャズ

日野元彦『Flash』(TRIO Records、1977年)を聴く。

Motohiko Hino 日野元彦 (ds)
Masahiko Satoh 佐藤允彦 (p)
Nobuyoshi Ino 井野信義 (b)

いま聴いても驚くほど鮮烈で尖っている。トコさんのドラムスは引き締まっていて固く、やはり大変なスタイリストだ。井野さんの、ここぞとばかりに攻めて駆動させるベースにも興奮。そして佐藤さんのピアノは今もそうだが、当時の方が知性と攻撃性とを外部に向けて迸らせていたのではないかと感じる(いまは、余裕があるという意味で)。特に、「Norwegian Wood」において、硬質な即興の中に計算したようにあのメロディが現れる瞬間なんてぞくりとする。

それはそれとして、全員の演奏の方向も、サウンド全体も、起承転結を見通した上で展開されているような気がするのだがどうか。つまらぬというわけではなく非常にスリリングなのだが、破綻ありとしてくれればもっと・・・、いや、この素晴らしい記録にそんなことを言うのはお門違いか。

解説によれば、1977年、この録音に先立つ前に、旧新宿ピットインにおいて、「日野元彦と三人のピアニスト」と題された三夜連続のセッションがあったという。他には山本剛、板橋文夫。その中からこの盤があらためてライヴ録音されたというわけである。なんて贅沢なんだろう。

●日野元彦
本田竹広『BOOGIE-BOGA-BOO』(1995年)
日野元彦『Sailing Stone』(1991年)
内田修ジャズコレクション『宮沢昭』(1976-87年)
菊地雅章『POO-SUN』(1970年)


ビューティフル・トラッシュ『Beautiful Disco』 アルゼンチンのビョーク・カヴァー

2016-11-27 08:40:02 | 中南米

昨日入院中の病院から抜け出して神楽坂を散策していて、ついでに、行きたかった大洋レコードも覗いてみた。ブラジルとアルゼンチンの音楽に注力しているレコ屋さんで、中はさほど広くはない。ただ、紹介したいという熱意のようなものが溢れていて、じろじろ眺めていると愉しい。オリジナルのトートバッグやシャツなんかも販売していて欲しくなる。

それで、目に飛び込んできたディスクが、ビューティフル・トラッシュ『Beautiful Disco』(レーベル不明、2015年?)。正直言って、このひと昔前のようなジャケットとタイトルだけでは手に取ることはまずない。しかし、大洋レコードさんがジャケットに貼りつけたシールに「ビョーク」と書いてあって、おおっと思ったわけである。

なんと、歌手と大勢の打楽器奏者によるアルゼンチンのビョーク・カヴァーである。うおおマジか。

Beautiful Trash:
Andy Inchausti(パーカッション指揮)
Jazmin Prodan(ヴォーカル)
Juan Bianucci(キーボード)
Lucas Bianco(ベース)
Dolores Arce(ジャンベ、コーラス)
Shira Michan(ジャンベ、コーラス)
Natalia Arce(ジャンベ)
María Villareal(ジャンベ)
Federico Wechsler(スルド)
Pablo Avendaño(スルド)
Pablo Lloret(スルド)
Sebastian Reccia(カホン、スティックとコンガ)
Manuela Iseas(カホン)
Federico Rescigno(ダラブッカ)
Pablo Marigo(カホン、コンガ)
Emiliano Escudero(コンガ)
ゲスト: 
Richard Nanto(トランペット on track 6)
Judia Morgado(コーラス on track 1)

カヴァー曲は以下の通り。
1. The Triumph of the Heart 収録アルバム『Medulla』(2004年)
2. Hunter 収録アルバム『Homogenic』(1997年)
3. Big Time Sensuality 収録アルバム『Debut』(1993年) 
4. Crystalline 収録アルバム『Biophilia』(2011年) 
5. Hyperballad 収録アルバム『Post』(1995年)
6. Venus as a Boy 収録アルバム『Debut』(1993年)
7. Army of Me 収録アルバム『Post』(1995年)
8. Virus 収録アルバム『Biophilia』(2011年)
9. Joga 収録アルバム『Homogenic』(1997年)
10. Unravel 収録アルバム『Homogenic』(1997年)

こう見ると、『Debut』以降のビョークのアルバムから、『Vespertine』(2001年)と『Volta』(2007年)を除いて、満遍なくセレクトされている。『Vulnicura』(2015年)は時間的に間に合わない。

歌手のハスミン・プロダンはもともとそのような資質なのか、それともここでビョークの歌唱法も追及したのかわからないが、実にビョークの特徴が重なっている。アイスランド、アルゼンチンと、英語を母語としないという共通点も何か関係があるのだろうか。しばしば喉をダミ声で震わせたり(これは元ちとせもインディーズ時代のミニアルバム『Hajime Chitose』で思いっきり真似している)、「Hyperballad」における「mountain」などの独特な発音があったり、何だかすごく嬉しい。

それにしても大変な数の打楽器である。ジャンベ、カホン、コンガ、スルド、タラブッカ。もはや沸騰快適音楽である。ギニアのママディ・ケイタが中心になってジャンベを打ち鳴らした映画『ジャンベフォラ』(1991年)はサウンドも、画面の外側に飛び出しまくっていた叩き踊る人たちの動きも激しくて、ちょっと衝撃的で、その後日本でもジャンベを手に取る人が増えたような印象がある。また、先日テヘランでカホンを叩く人の写真を撮ったところ、ヴァイオリニストの喜多直毅さんに「カホンは世界を救う!」と言われたこともあった。

要するに打楽器もビョークもこのアルバムもファンタスティックである。

●参照
Making of Björk Digital @日本科学未来館(2016年)
ビョーク『Vulnicura Strings』(2015年)
ビョーク『Vulnicura』(2015年)
MOMAのビョーク展(2015年)
MOMA PS1の「ゼロ・トレランス」、ワエル・シャウキー、またしてもビョーク(2015年)
ビョーク『Volta』、『Biophilia』(2007、2011年)
ビョーク『Vespertine』、『Medulla』(2001、2004年)
ビョーク『Post』、『Homogenic』(1995、1997年)
ビョーク『Gling-Glo』、『Debut』(1991、1993年)


ペーター・コヴァルト+ローレンス・プティ・ジューヴェ『Off The Road』

2016-11-26 07:52:00 | アヴァンギャルド・ジャズ

ペーター・コヴァルト+ローレンス・プティ・ジューヴェ『Off The Road』(RogueART、2000年)は、2枚のDVDと1枚のCDから成る。

DVDは、ローレンス・プティ・ジューヴェが監督を務めたドキュメンタリーであり、それぞれ、『Off The Road』、『Chicago Improvisations』と題されている。英語版・フランス語字幕付きだが、コヴァルトの英語は明快なので躊躇うことはないと思う。

また、CD『Off The Road』は、映像では一部を提示していた音源をしっかりと収めたものである。

CD:
William Parker/Peter Kowald duo
Kidd Jordan/Peter Kowald/Alvin Fielder trio
Peter Kowald solo
George Lewis/Peter Kowald duo
Anna Homler/Peter Kowald duo
Marco Eneidi/Eddie Gale/Peter Kowald/Donald Robinson quartet
Fred Anderson/Peter Kowald/Hamid Drake trio

『Off The Road』はコヴァルトが2000年に行ったアメリカツアーを記録したロード・ムーヴィー的な作品であり、アメリカ各地での出来事や人びととのふれあいが愉しい。

特に興味深かった場面は、テキサスのラジオ局に呼ばれたコヴァルトが話すところ。曰く、東ドイツに生まれた自分は、60年代から即興音楽のコミュニティに参加した。ドイツでは、ナチスドイツの歴史への嫌悪から、ローカルな伝統音楽を好む人が少なくなっていた。即興音楽はローカル性を超えたものだったのだ、と。ここに、近現代の歴史が即興音楽の誕生に与えた影響を垣間見ることができる。

『Chicago Improvisations』は、シカゴにおいて2000年に開催された「Empty Bottle Festival of Jazz & Improvised Music」(なんて粋な名前!)と、その他のセッションやインタビューの記録である。演奏という点ではこちらの方が愉しい。

ソロ、ウィリアム・パーカーとのベースデュオ、キッド・ジョーダンが参加したトリオ、ジョージ・ルイスとのデュオ、そしてフレッド・アンダーソン、ハミッド・ドレイクとのトリオ。アンダーソンについては、レイモンド・マクモーリンが、最近人に教えてもらって聴いて吃驚していると何度か話してくれたこともあり、かれのプレイに影響もあるのではないかと勝手に期待している。それにしても、ハーネスでテナーを装着し、前傾姿勢で延々と熱いソロを吹き続けるアンダーソン、圧巻である。

残念ながらCDには収録されていないのだが、嬉しいことに、ギリシャのフローロス・フロロディス(リード)と、コヴァルトと同じく東ドイツのギュンター・ベイビー・ゾマー(ドラムス)との共演とインタビューが入っている。ゾマーは、東ドイツの音楽は西からの一方向の移動であり、東から出ることはできなかったのだと語っている。ここにも歴史との交錯を見ることができる。コヴァルトとゾマーは、イタリアのジャンニ・ジェビアともトリオを組んでいたはずで、その録音も聴いてみたいところだ。(ところで、90年代後半に吉祥寺のどこかのスタジオでゾマーのソロ録音を観に行って、それは後日CDにもなったのだが、その記憶がすっぽり抜け落ちている。何故だろう?)

また、やはりCDには収録されていないものの、コヴァルトとケン・ヴァンダーマークとのスタジオでの練習風景を観ることができる。ヴァンダーマークはまずテナーを吹き、コヴァルトに抑揚をつけてみようと言われてクラリネットを吹き、さらに、連続的にやってみようといったようなことを言われてバスクラを吹き、またテナーを取る。この即興音楽の精神の伝承が面白いところで、受け手のヴァンダーマークは実にマジメだ。かれは語る。明らかに即興音楽は70年代前後のヨーロッパで生まれたもので、それが大陸を渡り、アメリカのミュージシャンたちはデレク・ベイリー、エヴァン・パーカー、コヴァルト、ペーター・ブロッツマンらを通じて受容し発展させていったのだ、と。一方で、コヴァルトはアメリカのブラック・ミュージックにこそ音楽たるものを見出そうとしていると発言していることも興味深い。

ところで、ヴァンダーマークさんは本当にマジメな人柄で、2011年に来日したときに(ポール・ニルセン・ラヴ+ケン・ヴァンダーマーク@新宿ピットイン)、ペーター・ブロッツマンのDVD『Soldier of the Road』で「インプロヴィゼーションは連続性(continuity)のスナップショットだ」とか言っていたのが印象的だったけど、と訊いたところ、ウン確かにそう言った、生活も音楽も毎日いろいろあって異なる、インプロヴィゼーションはその一断面の発露だと思っている、などと誠実に答えてくれた。

なお、アメリカのヴァンダーマークは当然としても、同じ東ドイツ出身のゾマーも、ドイツ語読みの「ペーター・コヴァルト」ではなく、英語読みの「ピーター・コーワルト」と発音している。広くはどうなのだろう。

コヴァルトの兄は父親の家業を継いで、ローカルな伝統から逸脱するのを恐れていた。しかし自分は、即興音楽を始めたら、もはや作曲された音楽やアカデミズムに戻る気がさらさら無くなった。即興音楽は、「forms of identity」ではなく「quality of identity」を保つものだ、と。もちろんコヴァルトはローカルな「form」に基づく音楽を否定しているわけではなく、その間の移転やつながりをこそ重視しているわけである。

そしてまた、ナムジュン・パイク、ヨーゼフ・ボイス、トーマス・シュミットの名前を挙げ、フルクサスの影響についても言及している。独特な絵を描くことを含め、A.R.ペンクやペーター・ブロッツマンと共通するところである。実際に、ブロッツマンはナム・ジュン・パイクのサポートをしていた時期があるといい、アーティストとしては、フルクサスの運動のなかに位置づけるべきなのだという(『BRÖTZM/FMPのレコードジャケット 1969-1989』)。このあたりのアートと即興音楽との重なりについても調べてみたい。

コヴァルトの人柄を映像を通じて感じさせてくれる作品である。そして、ピチカートであれアルコであれ、音が滑らかであろうとも割れていても、絹のような感覚を味わうことができる。かれはこの2年後の2002年に、心不全で亡くなった。

●ペーター・コヴァルト
齋藤徹『Contrabass Solo at ORT』(2010年)(コヴァルトのコントラバスを使った作品)
アシフ・ツアハー+ペーター・コヴァルト+サニー・マレイ『Live at the Fundacio Juan Miro』(2002年)
アシフ・ツアハー+ヒュー・レジン+ペーター・コヴァルト+ハミッド・ドレイク『Open Systems』(2001年)
ラシッド・アリ+ペーター・コヴァルト+アシフ・ツアハー『Deals, Ideas & Ideals』(2000年)
ペーター・コヴァルト+ヴィニー・ゴリア『Mythology』(2000年)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(1981、1991、1998年)
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(1985年) 


『森山威男ミーツ市川修』

2016-11-25 14:37:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

『森山威男ミーツ市川修』(blue note、2000年)を聴く。

Takeo Moriyama 森山威男 (ds)
Osamu Ichikawa 市川修 (p)
Keizo Nobori 登敬三 (ts)
Hiroshi Funato 船戸博史 (b)

テナーが登敬三さん。でかい地音と野性的なエッジが実に魅力的だ。板橋文夫の名曲「Good Bye」は「待ってました」なのだが、ここでのヴィブラートも味と情があってとても良い。

もちろんこのセッションの主役は全員なのだ。

森山さんの腰を浮かび上がらせるようにして叩く猛々しいパルスを浴びていると、血液を沸騰させないことは不可能だ。「Good Bye」においては、やはり、『Live at Lovely』と同じく、しかし違う形で、力技によって感情を高みに持ち上げてくれる。あああああと感涙を滲ませながら繰り返し聴いてしまう。これは何だろうね。

市川修さん(故人)の暴れながらにしてセンチメンタルなピアノも沁みる。また、船戸博史さんの太くやはりセンチメンタルなベースも沁みる。明田川荘之『室蘭・アサイ・センチメンタル』での山元恭介さんのベースを思い出した。

●参照
森山威男@新宿ピットイン(2016年)
ペーター・ブロッツマン+佐藤允彦+森山威男@新宿ピットイン(2014年)
森山・板橋クインテット『STRAIGHTEDGE』(2014年)
ペーター・ブロッツマン+佐藤允彦+森山威男『YATAGARASU』(2011年)
森山威男『SMILE』、『Live at LOVELY』(1980、90年)
松風鉱一『Good Nature』(1981年)
内田修ジャズコレクション『宮沢昭』(1976-87年)
見上げてごらん夜の星を
渚ようこ『あなたにあげる歌謡曲』、若松孝二『天使の恍惚』


高田ひろ子+津村和彦『Blue in Green』

2016-11-24 17:29:45 | アヴァンギャルド・ジャズ

高田ひろ子+津村和彦『Blue in Green』(ダイキムジカD-neo、2006年)を聴く。

Hiroko Takada 高田ひろ子 (p)
Kazuhiko Tsumura 津村和彦 (g)

先日、高田ひろ子さんのライヴ(安ヵ川大樹+高田ひろ子@本八幡Cooljojo)の後に、ピザやサラダをいただきながら少しお話をしていて、2015年に亡くなったばかりの津村和彦さんの話題が出た。加藤崇之さんのことから津村さんのことに話が移ったのだったか。良い録音が残っていて、CDとして出したいのだということだった。それが形になった。

爽やかなアコースティック・デュオかと思っていたのだが、そんなさらりとしたものではなかった。高田さんの解説によると、津村さんは生前、高田さんとのデュオはキャッチボールができて楽しいと語っていた。ここで聴くことができるキャッチボールは、順番にソロを取って投げるのではなく、激しい出足で、もう相互の領域に踏み込みまくりである。『北斗の拳』でいえば、間合いに入って平然と無数の拳を繰り出し合うケンシロウとハン(???)。

しかもふたりの音色も響きも呆けるほど美しい。松風鉱一さんが定期的に十条で津村さんと共演していたころ、いちどでもゆけばよかった(今は加藤崇之さんが共演している)。

●参照
安ヵ川大樹+高田ひろ子@本八幡Cooljojo


ジョナス・メカス(10) 『ウォールデン』

2016-11-24 09:21:21 | 小型映画

ジョナス・メカス『ウォールデン(Walden: Diaries, Notes and Sketches)』(1969年)を観る。

この映画は6本のリールから構成されているのだが、ずいぶん前にebayで入手したVHS版はなぜか5本目の途中までしか入っていなかった。従って、最後まで通して観るのははじめてだ。この2枚組DVDを何年も寝かせているうちに日本版も出てしまった。ただ、これにも日本語字幕が入っている。また、英仏2か国語での解説書が付いており、あとで思い出しながら追いかけてゆくことができる。

メカスの映画を観るたびに眼が歓び、わけもなくセンチメンタルになる。これはフィルムの明滅が身体のビートとシンクロし、また突き放されることを繰り返されるからに違いない。鈴木志郎康さんも、これを心臓の鼓動だとしているし(『結局、極私的ラディカリズムなんだ』)、メカス自身も映画の中でそう呟いている。観ていなかった6本目のリールにあった。

「That's what cinema is, single frames. Frames. Cinema is between the frames. Cinema is... Light... Movement... Sun... Light... Heart beating... Breathing... Light... Frames...」

この効果は偶然に得られたものではなく、明らかにメカスが技術的に工夫して狙ったスタイルによるものでもあった。金子遊さんによれば、16ミリのボレックスに付いているゼンマイ式の巻き上げハンドルを固定せず、回転状況を把握するためにあえてハンドルも回転させていたようだ。あの多重露光、ピンボケとブレ、露出過多へのゆらぎ、速度のゆらぎなどは、そういった肉体的な感覚によって得られていた。(『失われた記憶にふれる指』

映画では何も起こらない。ジョンとヨーコのベッドインがある(これも6本目にあった)。スタン・ブラッケージ、シャーリー・クラーク、弟のアドルファス・メカス、アンディ・ウォーホル、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなども登場する。友達の結婚パーティにおいて「AND MUSIC PLAYED AND PLAYED」との文字が挿入され、明滅する光の中で踊る人たちの映像も素晴らしい。しかし本質的には何も起こらない。

「He must not then go in search of new things... He must not then go in search of new things that serve only to satisfy the appetite outwardly, although they are not able to satsfy it... and leave the spirit weak and empty, without interior virtue.」(1本目のリールより、十字架のヨハネ、16世紀)

●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォールデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1
ジョナス・メカス(4) 『樹々の大砲』
ジョナス・メカス(5) 『営倉』
ジョナス・メカス(6) 『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』、写真展@ときの忘れもの
ジョナス・メカス(7) 『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ3歳の年」』
ジョナス・メカス(8) 『ファクトリーの時代』
ジョナス・メカス(9) 『富士山への道すがら、わたしが見たものは……』、小口詩子『メカス1991年夏』
アンディ・ウォーホルのファクトリー跡
チャールズ・ヘンリー・フォード『Johnny Minotaur』をアンソロジー・フィルム・アーカイヴズで観る
ジョルジュ・メリエスの短編集とアンソロジー・フィルム・アーカイヴズの知的スノッブ
鈴木志郎康『結局、極私的ラディカリズムなんだ』


黄銘正『湾生回家』

2016-11-23 20:15:07 | 中国・台湾

岩波ホールで、黄銘正『湾生回家』(2015年)を観る。

「湾生」とは、台湾を故郷として生まれ育った日本人を指す。言うまでもなく、下関条約(1895年)から日本の敗戦(1945年)までの50年間、台湾は日本の植民地支配下にあった(「言うまでもない」ことではないかもしれない。新宿の台湾料理店で、背後のご婦人が、無邪気に「台湾ってどっかの植民地だったんだっけ」と大声で訊いていたことがあった。それほど歴史意識は低くなっている)。従って「湾生」は多く、強制送還された日本人は20万人にも及んだという。中には結婚するなどして台湾に残った人もいた。

このドキュメンタリーに登場する人たちの世代や事情はさまざまだ。ただ、台湾という故郷、また祖先の日本での出生など、自らのルーツを確かめようとする想いに衝き動かされていることは共通している。映画においては、植民地支配という負の歴史は横に置かれ、国境や民族を超えた人と人とのつながりが主に描かれている。

この人たちが、負の歴史を意識していないわけではない。ある人は関連する多数の歴史書を読み、ある人は霧社事件(ウェイ・ダーション『セデック・バレ』で描かれた)のことに言及している。また、ある人は、負の歴史とともに、インフラ整備や秩序の導入という正の歴史も評価すべきだと発言している(もちろん、この種の言説は韓国や東南アジアの支配を糊塗するために使われてきたのではあるが)。この誠実さには、確かに心が動かされる。シニカルに視るべきものではない。

むしろ気になることは、これが受けとめられていく過程において、「語りの留保」がどこかに消え去ってしまっているのではないかということだ。映画が終わったとき、客席からは拍手が起きた。これが、台湾といえばすぐに「親日」だと言いたがる心の有り様と共通しているような気がしてならない。

●参照
何義麟『台湾現代史』
丸川哲史『台湾ナショナリズム』
佐谷眞木人『民俗学・台湾・国際連盟』
ウェイ・ダーション『セデック・バレ』
侯孝賢『非情城市』
Sakurazaka ASYLUM 2013 -TAIWAN STYLU-


アレクサンドル・ソクーロフ『オリエンタル・エレジー』、『穏やかな生活』、『ドルチェ 優しく』

2016-11-22 16:48:57 | アート・映画

アレクサンドル・ソクーロフが日本を視て記録した作品、『オリエンタル・エレジー』(1996年)、『穏やかな生活』(1997年)、『ドルチェ 優しく』(2000年)の3本を観る。

とは言え、ドキュメンタリーに分類することは適切ではない。特に『オリエンタル・エレジー』は、おそらくは撮りためたフッテージを用いて、ソクーロフの頭の中にある島の暮らしを奇妙に構築した作品であり、また、映像は極端に歪曲し、ソフトフォーカスがかけられている。暗闇の中での老人が、孤独について聴きとれないような声で語るようなものであり、ナルシスティックな映像詩であると言うべきである。(わたしは、同様のスタイルによる『マザー、サン』(1997年)に苛立ってソクーロフ作品を観なくなった。)

次の『穏やかな生活』では、架空の地から実際の地(奈良県明日香村)へと対象を変えた。むろん、特定できようとできまいと、本質的に作品の佇まいは変わらない。極端なソフトフォーカスと魚眼レンズの使用を控えた結果、観ていると眠りの沼に引きずり込まれそうな力は減っている。その結果、魅力が減ったのかもしれない。

そして、『ドルチェ 優しく』では、加計呂麻島で暮らす故・島尾ミホを捉えている。ソクーロフの力と島尾ミホの力とが重なり昇華した結果か、もっとも怖ろしく動悸がするような映画だ。何しろ、最初に島尾敏雄の生まれ、特攻を準備する時間、ミホとの出逢い、結婚、ミホの発狂、加計呂麻島への帰還が手短に語られたあとは、ほとんど、ミホさんの独白なのである。

亡くなったアンマー(母)とジュウ(父)への想い。敏雄への想い。同居する娘(故人)への想い。そういったことを、まるで自分の生肉を剥きだしにするように、かつまた、自分のことでありながら他人の物語であるかのように、細々と、しかし強靭に呟き続ける。神憑りそのものだ。ミホさんが、襖の隙間から覗く娘を見つめるときにカメラを直視するのだが、その力にこちらはたじろぐ。

●島尾ミホ
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』(2003年)
島尾ミホ『海辺の生と死』(1974年)
島尾ミホさんの「アンマー」(『東北と奄美の昔ばなし』、1973年)


ネイト・ウーリー『Argonautica』

2016-11-22 11:29:33 | アヴァンギャルド・ジャズ

ネイト・ウーリー『Argonautica』(Firehouse 12 Records、2014年)を聴く。

Nate Wooley (tp)
Ron Miles (cor)
Cory Smythe (p)
Jozef Dumoulin (Fender Rhodes and Electronics)
Devin Gray (ds)
Rudy Royston (ds)

ネイト・ウーリーのトランペットとサウンドの魅力は宙ぶらりん感にあると思っていて、一方、本盤では、金管ふたり、鍵盤ふたり、打楽器ふたりで激しく盛り上がってゆく音楽を展開している。しかし「らしくない」のかと言えばそうではない。サウンドの中にはウーリーによる虹色の宙ぶらりん感要素はあって、たとえば、ロン・マイルスが朗々と連続的に吹くコルネットとの比較が愉しい。

また、JOEさんのレビューの通り、ヨゼフ・デュムランのフェンダーローズとエレクトロニクスがサウンドを支配する瞬間がかなりあって、耳を奪われる。時空間を掻き乱したり、不穏な基底音を与えたりして、このカッコよさは半端ない。30-40分あたりのクライマックスにおいて繰り出してくるサウンドの圧も凄い。

ドラムスがふたりのどちらなのかよくわからないが、ルディ・ロイストンの強いスティック音かなと思えるパルスが聴こえてくる。

45分の中でドラマが華麗に移り変わっていく。傑作。

●ネイト・ウーリー
ネイト・ウーリー+ケン・ヴァンダーマーク『East by Northwest』、『All Directions Home』(2013、15年)
ネイト・ウーリー『(Dance to) The Early Music』(2015年)
アイスピック『Amaranth』(2014年)
ネイト・ウーリー『Battle Pieces』(2014年)
ネイト・ウーリー『Seven Storey Mountain III and IV』(2011、13年)
ネイト・ウーリー+ウーゴ・アントゥネス+ジョルジュ・ケイジョ+マリオ・コスタ+クリス・コルサーノ『Purple Patio』(2012年)
ネイト・ウーリー『(Sit in) The Throne of Friendship』(2012年)
ネイト・ウーリー『(Put Your) Hands Together』(2011年)
ジョー・モリス+アグスティ・フェルナンデス+ネイト・ウーリー『From the Discrete to the Particular』(2011年)
ハリス・アイゼンスタット『Canada Day IV』(2015年)


福田克彦『映画作りとむらへの道』

2016-11-21 16:56:23 | 関東

福田克彦『映画作りとむらへの道』(1973年)を観る。小川プロのスタッフであった福田氏が、小川紳介『三里塚 辺田』(1973年)の制作現場を撮った1時間弱の記録映画である。

最初に、辺田の歴史や自然をとうとうと話すお爺さんを撮る場面がある。また、『辺田』には使われなかった場面のラッシュが挿入される。90日間も拘留されていた青年行動隊の20人が保釈されたことを、農民放送局が放送塔からアナウンスする夕方の場面であり、その間、カメラは動かない。実にいいフッテージのように思えるのだが、この使い方を巡って、炬燵に座って、小川プロの面々があれこれと議論している。「包める」場面は、カメラは変に動かさないほうがよい、村の人は東京の人と違って退屈しない、一方「包めない」お爺さんの話はアップでカメラも動かしたほうがよい、と。そうか、このような撮影や編集の模索があったのか。

小川プロ作品のように、手段や具体や技を見つめるものとして、撮影と録音の工夫を語る場面があって、これもまた面白い。カメラはエクレールの16ミリ、レンズはアリマウントのシュナイダー、録音は同録の定番ナグラ、マイクはAKG、そして水道管や煙突やクッションなんかを使って工夫し、撮影者が音を聴こえるように飛ばす仕組みもあった。

『辺田』の名場面のひとつは最後の女性たちによる念仏講だが、映画に採用されたものよりも和やかなところもある。途中で、お婆さんたちが福島民謡「相馬二遍返し」を歌っているように聴こえる(そのメロディに「相馬」とも聴こえるし、「ハア イッサイコレワイ パラットセ」という囃子もある)。これに関して、小川氏は、黒澤明『七人の侍』で使われた田植え唄の囃子と一緒だと発言している。『七人の侍』では多くの田植え唄を集めて選んで使ったはずだが、「相馬二遍返し」は田植え唄でもなく場所も違う。さて、どうだったのだろう。

議論で面白いことのもうひとつは、農村における「肝煎役」への注目だ。情報通で、商売上手で、調整ができて、しかし表には出てこない人たち。ここではそういった人たちを、本当の「ヒーロー」だとする。この発想が、のちの『1000年刻みの日時計-牧野村物語』における百姓一揆の場面にも入っているのかもしれない。

映画の最後は、映画の資金作りの苦労について、変に朗らかに描いている。実際にはいろいろなことがあったはずで、当時も今もこれを観て愉快には思えない人たちが少なくないのではないかと思うがどうか。

●参照
小川紳介『1000年刻みの日時計-牧野村物語』(1986年)
小川紳介『牧野物語・峠』、『ニッポン国古屋敷村』(1977、82年)
小川紳介『三里塚 五月の空 里のかよい路』(1977年)
小川紳介『三里塚 辺田』(1973年)
小川紳介『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』(1972年)
小川紳介『三里塚 第二砦の人々』(1971年)
小川紳介『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)
『neoneo』の原発と小川紳介特集
大津幸四郎・代島治彦『三里塚に生きる』(2014年)
萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』(2008年)
鎌田慧『抵抗する自由』 成田・三里塚のいま(2007年)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』(1995年)
宇沢弘文『「成田」とは何か』(1992年)
前田俊彦編著『ええじゃないかドブロク』(1986年)
三留理男『大木よね 三里塚の婆の記憶』(1974年)