Sightsong

自縄自縛日記

四方田犬彦『星とともに走る』

2008-12-31 00:38:03 | 思想・文学

愛着のある日記といえば、筒井康隆『日日不穏』ジョナス・メカス『メカスの映画日記』、それからこの四方田犬彦『星とともに走る』(七月堂、1999年)である。ときどき引っ張り出してきては手の届くところに置いておき、暇なときに任意に開いた頁を読む。

雑多そのものであるから、たとえば山田風太郎の日記のように戦争という時代とともに読むわけではない。もっとも、ひとりの文学者を通じた文化史の一断面という面もあるだろうが(実際に、ソウル滞在中の朴大統領暗殺前後の騒動は興味深い)、ここでは自らを分裂させて読むのが面白いだろう。

たとえば。サイードに会って、パレスチナのこと以外ばかりについての饒舌さに驚いている。タワーレコードでジャームッシュにばったり会い、陳凱歌の映画を薦める。メカスからマヤ・デレン研究書を貰う。何もせず砂浜にいて、つげ義春『海辺の叙景』を気取る。侯孝賢が遊びにくる。ブニュエル風の夢を見る。吉本隆明と百円のレバフライを6枚も食べる。マイケル・ホイにインタビューし、「Mr. BOO」と違って醒めた見方に驚く。マノエル・デ・オリヴェイラの映画を「発見」する。デレク・ジャーマン『ヴィトゲンシュタイン』について、「演出力の空疎な衰え」(笑)を見出している。タルコフスキー『ノスタルジア』の温泉を訪ねる。モロッコにあるボウルズのアパートを訪ねる。・・・など、ぱらぱらめくって拾ってみても、いちいち妙な話が出てくる。ドラムスのアンドリュー・シリルを成田空港で見かけるくだりも傑作だ。

まあ、言ってみればセレブ的であり、それをデコレートして開陳しているスノビッシュな本ではある。ことさらに声高に感激を叫ぶものものしさも鼻につきはする。短期間で情報を集め、文章や本にするという仕事は、浅く感じられることも多い(たとえば、勅使河原宏と対談した『前衛調書』には、ちょっとゆるしがたい箇所があった)。しかし、日記に関しては面白いのでなんということもない。ジョン・ゾーンは日本のライヴで「ジャズ・スノッブ、イート・シット!」と言ったというが(確かピーター・バラカンのコラムにあった)、この手のものにスノッブ色は欠かせないのだ。


中国の麺世界 『誰も知らない中国拉麺之路』

2008-12-30 01:43:05 | 中国・台湾

中国で食べる麺はあまりにも多彩で、もちろん旨いものとまずいものとがあるが、その拡がりは日本のラーメンとは性質を異にしている。たぶん日本のラーメン・ランキングのような形は中国では成立しないだろう(尺度が違う麺同士を比較できない)。それに、全貌を知っているひとはほとんどいないに違いない。樹形図があるわけでなく、ほとんど現象で成り立っている。・・・というようなことが、坂本一敏『誰も知らない中国拉麺之路 日本ラーメンの源流を探る』(小学館、2008年)を読むと、強く印象に残る。

山西省太原は刀削麺の本場であるとされており(西安ではない)、私も何度か旨いものを食べさせてもらった。刀削麺の作り方はいろいろあって、粉を練った塊を指や刀や箸で湯をめがけてとばしていくものだが、この塊を頭の上に置いて両手で麺を作るひとがいるのだと聞いたことがある。冗談だろうと皆言っていたが、本書にはその写真があった!・・・中国で三人しかできない名人芸だということだ。

また、先日天津を訪れる際に、天津に天津麺や天津丼はあるのかな、と(ないとおもって)冗談を飛ばしていたのだが、このことも触れられている。結論から言うと、天津飯というものはあるが実はまったく異なる料理であるようだ。

そういった個人的な嬉しさはともかく、素材もいろいろ(小麦粉や米粉だけでなく、トウモロコシ、蕎麦、燕麦、コーリャン、緑豆、・・・)、作り方もいろいろ、形もいろいろだということが、本書で開陳されている。ここまで自分の足と舌で中国全土の麺を調べたひとは、他にいないのではないだろうか。ああ面白い。もっと早く出版されていたなら、太原でも平遥でも北京でも上海でももっと麺の開拓ができたはずなのだ。次に中国を訪れる際には、きっと本書で予習するぞと決意した。

読んだら猛烈に中国の麺を食べたくなったので、近くのアジア食材店で3種類の麺を買ってきた(乾麺は本書には取り上げられていないのだけど)。

小麦粉の薄い四角形の麺、「福州面片」。こんなのははじめて見た。

オーソドックスな小麦粉の麺、「切面乾」。

ついでに、タイの「Chantaboon Rice Stick」。太さが2種類あったが、つるつるしたきしめんのような感触を期待して、太いほうにした。

他にもいろいろあった。アジア食材店は(アメ横センタービルの地下もそうだ)、行くたびに取り乱してしまう。

今晩の夕食は、四角い麺にしてみた。スープを作って、最後に投入して2分だけ茹でる。とても旨かったが、すぐに麺がスープを吸ってお互いにくっついてしまうことに気が付いた。スープは多目にしないといけないのだ。


ガザ空爆に晒されるひとたちの声

2008-12-28 23:26:21 | 中東・アフリカ

イスラエル軍が「ハマスを対象にした」空爆を行ったとの報道。実際のところ、過去にあちこちで米国が手を下した空爆と同様、無差別(または未必の故意)の大量虐殺であるようだ。・・・といった報道は、建前の報道に比べて例によってとても少ない。そして「残念だ」(官房長官)としか言うことのできない政府。

あるメーリングリストに、京都大学の岡真理さんが、以下のような一連のメールを急いで翻訳し、転送している。ガザ・アル=アズハル大学のアブデルワーヘド教授(英文学科)のメールを訳したものということだ。氏は身を潜め、現状を発信するために発電しつつメールを出しているが、脅しの電話も受けている。(転送可なので抜粋転載)

===抜粋転載===

●2008/12/27 午後8:03
25の建物がイスラエルに空から攻撃された。建物はすべて地上レベルに崩れ去った。死者はすでに250名に達する。負傷者は何百人にものぼるが貧弱な設備しかないガザの病院では、彼らは行き場もない。電気も来ないが、ディーゼル発電機でなんとかこれを書いている。世界にメッセージを送るために。携帯電話もすべて使用できない!

●2008/12/28 午前1:03
なんという光景だ。数分前、パレスチナ側のカッサーム・ロケットが飛んでいく音が聞こえた。続いて、もう一つ、そして爆発音。2発目は、パレスチナ人を標的にしていたイスラエルの機体から爆撃されたものと思われる。今、聴いたニュースによれば、イスラエルのアパッチ・ヘリが攻撃したのは、釣堀用の池のあるリクリエーション・グラウンドだという。シファー病院は、195人の遺体、570人の負傷者が同病院に運ばれていると声明を発表している。刻一刻と死傷者の数は増え続けている。これはガザ市だけの数字だ。ほかの町や村、難民キャンプからの公式の発表はない。自宅アパートの近くで末息子がスクール・バスを待っていたところ、以前、国境警備局があったところが攻撃された。息子が立っていたところから50メートルしか離れていないところで、男性二人と少女二人が即死した!
真っ暗な夜だ。小さな発電機を動かして、ネットを通じて世界と交信している。

●2008/12/28 午前3:03
今宵、ガザの誰もが恐怖におびえている。完全な暗闇。子どもたちは恐怖から泣いている。死者は206人。遺体はシファー病院の床の上に横たえられている。負傷者は575名をうわまわるが、同病院の設備は貧弱だ。病院事務局は市民に輸血を要請している。教員組合は虐殺に抗議し3日間のストライキを決定。イスラエルの機体がガザ市東部を爆撃、大勢の人々が死傷した。犠牲者の数は増え続けている。瓦礫の下敷きになっている人々もいる。一人の女性は二人の幼い娘と一人の息子を亡くした。彼らは通学途中だった!

●2008/12/28 午前6:09
11:00pm。イスラエルのF16型戦闘機による、複数回にわたる新たな爆撃。ガザでは3つのテレビ局を視聴できるが、これは電力をなんとか確保できた場合の話だ。空爆はガザ市東部に集中。ある女性は10人の家族を失った。生き残ったのは彼女と娘一人だけだ。娘はメディアに向かって、何も語ることができなかった。何が起こったのか見当がつかない、と彼女は言う。町のいたるところでパニックが起きている。最悪の事態が起こるのではないかとみな、恐れている。エジプト、ヨルダン、レバノンで、この残虐な空爆に対するデモが行われた。死者数は、219以上にのぼる。225という説もある。

●2008/12/28 午前
今晩、爆破のせいで窓ガラスが砕け散った家庭にとっては冷たい夜だ。ガザの封鎖のため、窓ガラスが割れても、新たなガラスは手に入らない。私が居住するビルでは、7つのアパートが、凍てつく夜をいく晩もそうした状態で過ごしている。彼らは割れた窓をなんとか毛布で覆っている。何百軒もの家々が同じ境遇に置かれているのだ!私に言えることはそれくらいだ。他方、ハニーエ氏は地元テレビでハマースについて話をした。彼の話は、士気を高め、ハマースは屈服しないということを再確認するものだった。死者の数は210に、重傷を負った者もも200人に達した。今また、ガザの北部で新たな爆撃が!

●2008/12/28 午前6:40
今、10分のあいだに5回の空爆。標的は人口密集地域の協会や社会活動グループ。モスクもひとつやられた。もう30時間、電気が来ない。なんとか小さな発電機でこらえている。インターネットで世界に発信するためだ。

●2008/12/28
今しがた、イスラエルから何者かが電話してきた。末息子が応答したが、電話の主は、私が武器を所有しているなら、住まいを攻撃すると脅しをかけてきた。

<追転載> アパートがロケット砲の標的になっている!

●2008/12/29 午前1:45

私も家族も無事だが、緊張が続き疲労している。自家用発電機のトラブルのせいで、依然、電気なしの状態。2時間前、隣接するビルがヘリから小規模なロケット砲で攻撃された。標的は7階のアパート。私のアパートは4階だ。それから、通りの向かいにあるビルの5階のアパートも攻撃された。耐え難い状況だ。住民は正真正銘のパニックに襲われている!昨晩、F16型戦闘機がアル=アクサー衛星放送局を攻撃した。同局は粉々になり、周囲のビルも多くが居住不可能になってしまった!ビルの持ち主も住人たちもよそへ移らなければならない!シファー病院の向かいにある小さなモスクも粉々になり、その攻撃のせいで周りの住宅も深刻な被害を受けた。私の友人の家もその一つだ。何が起きたのか、言葉では言い表せないと!
 は言う。彼の家は重篤な被害に見舞われた。56歳になる姉は重傷を負った!さらに英国の委任統治時代に英軍が建設した庁舎(アル=サライヤ)もやられた。標的になったのは刑務所だった。収容されているのは政治犯や一般の囚人だというのに!メディアは死者280名と報道しているが、シファー病院で医師をしている友人の一人は、死者は約500名に達し、負傷者も1000人以上にのぼるという!ラファの国境地帯でも攻撃はエスカレートしている。トンネルを破壊するための作戦が展開されているのだ。何百人ものパレスチナ人が怒涛のようにエジプト国境に徒歩で押しよせているが、エジプト人官憲の発砲に遭って、誰もエジプト側に入れないでいる。

●2008/12/29 午前3:09 
数分前、複数の地点を狙ってまた空襲があった。死傷者多数。うちの窓ガラスも砕け散った。税関事務所と入国管理事務所も先刻、破壊された。飛行機やヘリがまだ上空で作戦を継続中。

●2008/12/29 午前5:12
F16型戦闘機がガザ最大の、公安関係のビルを破壊した。アラファトの身辺警護のためにEUが建設した一群のビルだ。4発のミサイルを受けてビルは粉々になった。各地の警察署も攻撃され、今日、すべて破壊された。230もの地点がイスラエル軍用機の標的になっているという話だ。今日の攻撃で、子どもを含む大勢の民間人が死傷した。ラファの国境地帯ではパレスチナ人が一人射殺された。さらに発砲があり、エジプト人官憲が一人撃ち殺された。国境の状況も悲惨だ。イスラエルによる地上攻撃もありうる!


<追転載>

●2008/12/29 午後8:09
昨晩、ガザ市内だけで20ヶ所が空襲された。爆撃について私が知るかぎりのことをお伝えする。

1.自宅近所に3回目の攻撃。元公安局。うちミサイル1基が不発のまま、自宅アパートのあるビルの正面、救急ステーションから数メートルのところ、に落ちる。
2.ガザのイスラーム大学の主要校舎二つが粉々に。建物の一つは実験室棟、もう一つは講義棟。いずれも地上4階、地下1階建て。
3.ビーチ難民キャンプ、イスマーイール・ハニーエ氏の住まいの隣家が空と海から同時攻撃され崩壊。
4.モスク2つが空襲され粉々に。中にいた10人が死亡、うち5人はアンワル・バルーシャ氏の娘たち。自宅が危険なのでモスクに避難していたのだろう。これで、破壊されたモスクは計6つに。
5.内務省のパスポート局の建物も今朝、破壊された。
6.文化省のビルも今朝、こなごなに。
7.首相執務室のビルも空襲され完全に破壊。
8.民事行政の主要ビルも完全破壊。
9.地元メディアが報道していないため私が把握できていない複数ヶ所に何度かの攻撃が実行されている。夜間、ヘリコプターが複数回にわたり攻撃するのを目撃。
10.ジャバリーヤ青年スポーツセンター(UNRWAの施設)が、空から直撃された。
11.サライヤ政府センター近くの空き家が空襲され破壊。
12.ゼイトゥーン地区で移動中の車体が攻撃され破壊、男性2人、子ども1人が死亡。
13.下校途中の高校生の姉妹2人が、空爆を受け死亡。
14.いつかの警察署が再度、攻撃される。
15.イスラエルはジャーナリストおよび記者に対し自宅もしくはオフィスにとどまること、従わない場合は攻撃目標にすると公式に伝達。ガザで起きていることをメディアに報道させないためだ。
16.病院二つが標的に。ファタ病院はまだできたばかりで操業していなかったが、空から攻撃された。もう一つのほうは小さな個人経営の病院。テル・エル=ハワーのアル=ウィアム病院も標的にされた。
17.ベイト・ハヌーンの庁舎も昨晩、破壊された。
18.ラファの自治体のビルも昨晩、破壊された。
19.ラファの庁舎も昨晩、標的にされた。
20.ラファのハシャシュ地区が昨晩、二度にわたり攻撃された。いずれもミサイル2基によるもの。2回目の着弾で周囲15軒の家々が破壊される。
21.ゼイトゥーン地区のグランドにミサイル一基、着弾。
22.ラファ国境地帯にある40個のトンネルに対し空から攻撃、トンネルすべてを破壊。
23.ビーチ難民キャンプの警察署、完全に破壊。
24.旧エジプト・ガザ総督の邸宅も空と海からミサイル攻撃を受け完全に破壊。

続報
ガザの負傷者のための民間協会が破壊された。ガザとハーン・ユーヌスにあるアル=ファラフ慈善協会の二つの建物も破壊された。

続報2
数分前、ウンマ大学の新しい小さな校舎が1棟、攻撃を受け、破壊された。

===

また、NPO「パレスチナ子どものキャンペーン」では、現地の声を速報している。

http://ccpreport.blog90.fc2.com/blog-entry-70.html

●参照
吉田敏浩氏の著作 『反空爆の思想』『民間人も「戦地」へ』
戦争被害と相容れない国際政治


尹健次『思想体験の交錯』

2008-12-27 23:43:10 | 韓国・朝鮮

この数日間ずっと、尹健次(ユン・コォンチャ)『思想体験の交錯 日本・韓国・在日1945年以後』(岩波書店、2008年)を読んでいた。

本書の構成は、日本の敗戦と朝鮮の解放(1945-46年)、両国憲法と朝鮮戦争(1947-54年)、55年体制と安保闘争(1955-64年)、日韓国交開始から朴政権終焉まで(1964-79年)、韓国民主化運動の高まり・日本の歴史教科書問題(1980-89年)、従軍慰安婦問題・金大中政権・北朝鮮問題(1990-)といったようにクロノロジカルになっている。一貫して著者が指摘するのは、日本人が日本人であるための覚悟と責任を放棄していることであり(それは狭隘なナショナリズム論ではない)、無知・無自覚であることの罪である。もちろんこれを読む私にとっても無関係ではありえない。視線が向けられているものは、戦争責任であり、天皇制であり、差別や抑圧であり、そしてそれを下支えする無思想だということになる。

ここで在日論と関わって、日本人が朝鮮人に接して、最初につまづき、あるいはためらうのは、朝鮮人をどう呼ぶかである。普通は、「朝鮮のひと」ないし「朝鮮の方」と呼び、ほとんどの場合、「朝鮮人」という言葉は使わない。(略)
「アメリカ人」とか、「イギリス人」と呼び、またときに「中国人」と言うことはあっても、なぜ「朝鮮人」とは言わないのか。そこに歴史的に蓄積されてきた、日本人にとっての民族問題・植民地問題の重みがあるのは言うまでもない。「朝鮮人」とすんなり言えないこと、それがまさに「日本人」の問題なのである。

今後、戻りつつ確かめ、納得したい点はいくつもある。マーキングした指摘は以下のようなものだ。

○8/15が終戦記念日として定着したのは1955年頃。ポツダム宣言の受諾・回答が8/14、玉音放送が8/15、大本営からの停戦命令が8/16、降伏文書の調印が9/2。戦争終結が8/14または9/2でないのは、「聖断=玉音放送=終戦」とする「国体」の継続性とそれを記憶化しようとした国家の主導があった。
○日本では、敗戦後、政治犯の釈放に時間を要し、最終的には占領軍の命令によってなされた。これは、敗戦を革命に転化しうる政治的前衛が失われていたことを意味する。
○日本国憲法には「日本人」の世界だけが描かれている。これは、脱植民地化のプロセスを覆い隠し、「単一民族国家」「伝統」「象徴天皇制」をセットで提示する役割を持った。マッカーサー憲法草案では「人民」という言葉が使われたが、これは「国民」にすり替えられ、基本的人権の保障も「国民」に限定された。
○近代日本の成り立ちを考えるとき、天皇制と朝鮮蔑視観は表裏の関係にあった。それは日本で国のかたちを考える力をそぐ役割を果たしてきた。天皇制の議論がタブーとなるとき、朝鮮、アジア、戦争責任、戦争体験について語ることは難しくなる。このタブーを軸に、日本社会全般で批判的知性が広範囲に衰退する。タブーがタブーを呼び、社会全体に思考停止・沈黙が無自覚のうちに沈潜してしまう。
○憲法九条に基づく「平和主義」は、一種の「気分」のようなものとして知覚され、日本特有の「民族問題」の存在を覆い隠す役割を担った。在日朝鮮人の国籍剥奪がいとも簡単に実施された点からみても、戦後日本の「平和主義」は出発点から大きな欺瞞を抱え込んだものとなった。
○吉田茂は朝鮮に蔑視観をもち、GHQに朝鮮人全員の強制送還を要求した。これに対し、同じく反共・親米主義者であった李承晩は親日派を数多く登用し、以後韓国における歪みを生む一因となった。また、李承晩政権以降、韓国では共産主義に与する(あるいは「アカ」との濡れ衣を着せられる)ことは死にも直結する禁忌となった。
○韓国軍事独裁時代の政治を評価するにあたって、それは親日派という植民地時代の遺産を引き継いでいることから、「強圧か同意か」という論点は独裁政治に協力し、さかのぼって植民地統治を支持した人たちを正当化するような結論をもたらしかねず、さらには現代日本の韓国との関わり方を容認することにつながりかねない。
○サンフランシスコ講和条約は、西側との単独講和という意味で親米というだけでなく、日本はアジアを軽視する路線を自ら選び取ったということにもなる。
○戦後、在日朝鮮人が往々にして「犯罪者」として報道される記事の作られ方があった。力道山が在日一世であることが公にされたのは活躍時から20年のちの1978年になってからであり、マスメディアは「国民的英雄」として虚構の世界を放映しつづけた。こうした日本社会にはびこる朝鮮人に対する民族的偏見は国家権力によって主導されたものであると言うしかない。(これは、現在のプロ野球選手の出自を曖昧にしようとする歪んだ日本社会の姿でもある。)
○「国民教育」論における戦前教育の否定は、あくまで自由・平等・人権の普遍主義によるものとされ、国内の被差別・被抑圧者およびアジアの民衆を視野に入れた民族集団としての日本人の反省・自覚によるものとは言いがたかった。
○1965年日韓条約の最終局面にあっても、その後、日本の政治家や軍人が同様の妄言を繰り返すことになる「日本はいいことをしようとした」発言を、日本側代表が行った。
○岩波の『世界』は、1970年代から朝鮮問題に取り組みはじめる。一方、保守・右派系の雑誌が露骨な反共・反民主化・反朝鮮のキャンペーンを繰り広げていった(文藝春秋『諸君』創刊が1969年、産経新聞『正論』創刊が1973年、PHP『Voice』創刊が1977年)。
○教科書に関しては、日本の政府・与党は過去のアジア侵略・植民地支配の事実を隠蔽し、日本は戦争の「被害者」であるとして、それに基づく検定姿勢をとり続けている。
○日本で反差別を考えるとき、「沖縄」と「在日」は深くリンクしている。
○日本において「民族」は拒否反応を示す言葉であり、それと関連して、歴史や現実から切り離された議論が少なくない。知識人はいとも簡単に民族や国民国家を「虚構」と決め付けてしまう。むしろ民族や国家にまつわる記憶が忘却・隠蔽・美化される方向に操作され、「非暴力」「寛容」「共生」「和解」ばかりが強調される。そこには植民地支配や民族問題の重さから逃れようとする姿勢がかいま見え、歴史責任と加害責任を棚上げにする「共同幻想」の発想が読み取れる。
○90年代以降、女性たちや市民団体が中心となって従軍慰安婦などの問題に取り組んできたことは、日本の戦後史において特筆すべきことである。
○21世紀になり、粗野な反「北朝鮮」キャンペーンにおいて、拉致被害者に成り代わって北批判・攻撃を行うナショナリストたちは、日本の過去を覆い隠す絶好の機会ととらえ、ひたすら北の悪行を叫び、あたかも戦争を煽動するような態度をとった。これは戦後日本で積み重ねられてきた暴力と不正義に対する抵抗、排他主義・人種差別・偏見・蔑視に対するたたかいを無にしかねないものであった。

実際には、読んでいて、社会への間接的な加担者のひとりであるこちらを刺すものもあれば、首をかしげてしまうようなものもある。敗戦時に、天皇制の維持、平和憲法の構築、沖縄の軍事利用がセットとしてすすめられたことは事実ではあるが、それと現在の天皇制・平和憲法のあり方とを同一視することには少なからず抵抗を感じてしまう。天皇制のことはともかく、戦後、平和憲法を「とらえ直し」、9条を大事にしてきたという実績は評価にあたいすることであるはずだ。憲法の出自を改憲の根拠とする保守勢力の理屈には限界を見出すべきではないかとおもう。

しかし、違う視線には必ず真実が含まれていることも確かだ。朝鮮からの視線、朝鮮への視線、その非対称さといったものを考える際に、何しろ無知・無自覚であるこちらには大きな刺激になった。475頁の大著であり5,000円近くする本だが、ぜひ一読をすすめたい。


ガムラン

2008-12-26 23:28:18 | 東南アジア

市川市主催の、子どもを対象とした「ガムラン・ワークショップ」というものに応募したら当選したので、ひとあし先に年末休みに入り、息子と市川市文化会館まで出かけてきた。ワークショップ1時間のあとは1時間のコンサート、両方無料である。バリ島を含め、インドネシアを訪れたことはないので、ガムランには興味深々。

ワークショップは、演奏グループ「サリ・メカール」のメンバーが子どもに打楽器を叩かせ、合奏してみるというものだった。青銅でできたヴィヴラフォン(ガンサウガール)は、響きが微妙に異なっており、合奏によってうなりを生じるよう調律された極めてファジーなものということだ。

コンサートでは、そのウガールとガンサあわせて6人くらいが主メロディーを奏で、低音のヴィヴラフォンであるジェゴガン1人が和音を被せていった。さらには幾つもの銅鑼も金属。そしてクンダンという両面の太鼓と竹笛スリンがそれらと違って生物起源の素材ということになる。

笛(と勿論舞踏)以外はすべて打楽器であり、「楽譜がなく、合奏でのみ成立する、まる覚えの全体音楽」は、やはり気持ちいい音楽だった。若林忠宏『民族楽器を楽しもう』(ヤマハミュージックメディア、2002年)によると、「ひとりではできないのが最大の悩み」だそうだ。

「基本的に調律はセット単位で、調律師の耳を頼りに作られるので、異なる場所、製作者の楽器では合奏できない場合が多い。その中で各パート楽器はたいがい二台ずつ微妙にピッチをずらして作られ、隣り合ったり向かい合って演奏し、強力なヴァイヴレイションを生み出す。パートによっては、二台で細かな旋律を分業するので、単体を入手してもパート練習すらできない場合もある。」


サインホ・ナムチラックの映像

2008-12-25 00:30:34 | アヴァンギャルド・ジャズ

ロシア・トゥヴァ共和国出身のヴォイス・パフォーマーであるサインホ・ナムチラックの映像作品を入手した。『Sainkho Namtchylak』(Guy Girard、2008年)である。ウィリアム・パーカー(ベース)、ハミッド・ドレイク(ドラムス)との2004年の共演をおさめた記録であり、映像のほとんどがパフォーマンスであることに好感を持つ。

それにしても驚異の声だ。超低音を響かせるかとおもえば、小鳥か笛のような高音、それからガラスコップを擦るような音。さらにはトゥヴァのみならずモンゴル、ハカスなどのあたりに共通する、高音と低音とを同時に出す歌声(モンゴルではホーミー、トゥヴァではホーメイ、ハカスではハイと称する)。最近来日していないサインホだが健在ということなのだ。

この共演では、しばらくはウィリアム・パーカーのベースとの相性がとても良い。終盤になって、ドレイクの存在感が次第に際立ってくる。完全即興かとおもえばそうでもないようで、映像には楽譜の一部がうつし出される。五線譜と周波数のようなもの、さらにはアンソニー・ブラクストンの曲名を彷彿とさせるようなコンセプト図。聴いていると頭のてっぺんが痒くなってきた。


妙な楽譜

サインホが90年代後半に来日したとき、六本木ロマーニッシェス・カフェ(もうない)でのネッド・ローゼンバーグ(サックス)との共演、それから六本木の(夜は)トップレスキャバレーであるらしい「将軍」でのソロを聴いた。それぞれ素晴らしくて、聴いていると妙に覚醒する気分になった。特に、サインホのサックスとの共演は面白いので、いずれ改めて聴き込みたいとおもう―――ネッド・ローゼンバーグ、姜泰煥、エヴァン・パーカーとはそれぞれ特徴的な共演盤を残している。

その「将軍」でのライヴの時、宇都宮にある大谷石採石場跡でのライヴ映像も上映された。先日「現代ジャズ文化研究会」の際に、一連の「将軍」ライヴを企画したジャズ評論家の副島輝人さんに尋ねてみると、映像はあくまで私家版であって公表するつもりではなかったということだった。映像のクオリティが高かったと記憶している。重要な記録のひとつとして公開してほしいとおもっていると伝えたが、どうだろうか。

サインホの映像はもうひとつ観た。NHK『ロシア語会話』の中で、亀山郁夫氏がロシアの芸術家を紹介していた「ロシア芸術館」のコーナーだ(1999年)。まだそのときの録画を持っているが、大友良英(ターンテーブル)との新宿ピットインでの共演が紹介されており、このときも立ち会いたかったといまさら後悔するのだった。サインホは、「前衛芸術」と「伝統芸術」の両者が重要だという一見ステレオタイプな発言をしているが、実際に、トゥヴァの音楽をまとめたCDをプロデュースしてもいる。


新宿ピットインの楽屋


インターフェースの実験講座、製鉄の映像(たたら製鉄、キューポラ、近代製鉄)

2008-12-23 23:42:05 | 関東

息子が行くというので、本八幡にある千葉県立現代産業科学館(>> 過去の記事)で、「実験講座 人と物をつなぐもの―インターフェースのお話―」(千葉大学・下村義弘氏)を聴いてきた。ここでインターフェースというのは、人と物との橋渡しを意味する。したがって、例えばリモコンを操作するのもインターフェースだが、今回の講座は、もっと高度な橋渡しである。

まず腕に電極を付け、筋肉を使ったときに流れる電流を感知して増幅し、自動車などのおもちゃを動かす。肝心の箇所意外はリラックスしていなければならないので、動かすのにコツが要るというのが面白い。慣れてくると、踊るようにしておもちゃを前後左右に動かしはじめる。

さらには、頭に電極を付け、脳波がアルファ波となったらスイッチが入るような驚くべき実験もした。緊張するとアルファ波が出ないのだ、と言って、瞑想するのに苦労していた。

いやもう、驚愕である。義手などに技術利用されるのだろうか。子どもの頃に観ていたロボットアニメ『ライディーン』は、コックピット内の主人公のアキラの動きがライディーンの動きにもなっていたことを思い出してしまう(もっとも、ライディーンが攻撃を受けると、アキラにもダメージがあるという双方向型だった)。


筋肉の電気信号によりおもちゃを動かす


電気信号の出力を、生体波形処理ソフト「Acqknowledge」で示す

折角なので、2階の常設展示を再度見学した。産業として、鉄鋼、石油化学、電力の3つの歴史が示されている。特に鉄鋼については、川崎製鉄(現・JFEスチール)の高炉の1/10模型や、旧型の転炉である「ベッセマー転炉」の1/2模型が展示してあるのが必見だとおもう。

通常の鉄鉱石からの製鉄は高炉と転炉、鉄スクラップからの製鉄は電炉を用いるわけで、現在、ほとんどの鉄はこの2パターンを基本として作られている。もちろんそのほかの方法もある。私には技術的なことは充分にはわからないが、仕事上、このような産業プロセスは何度も実際に観察したことがある。ただ、日本古来の「たたら製鉄」には興味があっても見る機会がなかった。この現代産業科学館でも、1枚のパネルで軽く触れてあるのみだ。

帰宅して、「科学映像館」にたたら製鉄の映像がアップされていたことをおもい出した。

『たたら吹き』(日立製作所、2008年)(>> リンク)は、戦後しばらく途絶えていた、たたら製鉄の様子を記録した映像である。日本の伝統技術であり、マニュアルは技術伝承者ひとりひとりであるから、マイスターとしての「村下」(むらげ)が存在している(村下には「表」と「裏」が居る)。近代的な炉と何が違うかといえば、たたらでは、同じところに原材料の砂鉄と、還元剤のコークスを投入し、4日間も加熱し続ける。これにより、酸化鉄から酸素と不純物が奪われ、純度の高い鋼になる。

驚いたのは、実はできあがりの鋼は近代製鉄ではなかなか作ることができないもので、日本刀に用いられるのだという。古い伝統技術を伝えるだけではないわけだ。砂鉄から鋼への歩留まりは1/3程度、純度の高い良質なものとなると1/10程度だと解説している。こうなるとコストがどうのという問題ではなくなる。(関係ないが、ニコンがS3とSPの復刻により、かつての伝統技術を甦らせたことは、同じ意味で賞賛にあたいする。精密なレンジファインダー機は、もはや世界でもライカ、ニコン、コシナくらいしか作ることができない。銀塩カメラの技術も同じ道を辿りつつあり、とにかくアナログレコードのようにニッチでも残ってほしいと切におもう。)

「科学映像館」では、『鋳物の技術―キュポラ熔解―』(三菱化成工業、1954年)(>> リンク)という映像も観ることができる。こちらは、コークスメーカーであった三菱化成工業(現・三菱化学)が、キューポラでの製鉄について技術普及を目的に作った映像である。いまと比べ、当時キューポラの数は非常に多かったのではないか。埼玉県川口市を舞台にした『キューポラのある街』(浦山桐郎)は1962年である。

目的が目的だけあって、技術的な説明が多いのが非常に面白い。解説は炉の絵を用いてなされているが、驚くべきことに、その原画を村山知義が描いている。大正から昭和にかけての時代の寵児、モダンボーイの表徴である。神奈川県立近代美術館『近代日本美術家列伝』(美術出版社、1999年)によると、「めまぐるしいまでに美術の最先端で活動するが、やがてプロレタリア運動に傾斜し、演劇人としての活動が主になっていた」ということであり、このような国策でもある重厚長大型産業への関与も村山のベクトルからは外れていなかったのかもしれない。

「科学映像館」に収録されている鉄鋼関連の映像はこの2つである。伝統技術と、ちょっと昔の技術。なかなか目にできない映像であり、いつもながら素晴らしい仕事である。それに、社会見学は機会があまりないし、さらに現場は暑かったり、また途上国の工場では凄い臭いがしたりで、なかなか落ち着いて観察できないのだ。

欲をいえば、できれば近代技術についても良いものを入れてほしいとおもう。たとえば、日本鉄鋼連盟『鉄―地球の記憶、地球の未来』というVHSを持っているが、これも改めて観ると実に面白い。ユニークなのは、鉄鉱石の誕生に関して、ストロマトライトなど光合成できる植物により鉄が酸化して沈降するという20億年前の様子にまで遡っている点だ(その意味で、製鉄は酸化鉄を還元するという、逆プロセスを踏んでいることになる)。さらに地球の鉄元素そのものを作った、超新星などの内部の強烈な重力にまで言及すれば、これはもう『コスモス』や『地球大紀行』になってしまうが。

●科学映像館のおすすめ映像
『沖縄久高島のイザイホー(第一部、第二部)』(1978年の最後のイザイホー)
『科学の眼 ニコン』(坩堝法によるレンズ製造、ウルトラマイクロニッコール)
『昭和初期 9.5ミリ映画』(8ミリ以前の小型映画)
『石垣島川平のマユンガナシ』、『ビール誕生』
ザーラ・イマーエワ『子どもの物語にあらず』(チェチェン)


野村岳也・田野多栄一『あけもどろ』

2008-12-22 22:44:02 | 沖縄

沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックが集めている、辺野古基地建設反対の署名を集めたので送った(>> リンク 署名提出は年内)。

ついでに、ここのYさんが先日送ってくれた、『あけもどろ』(野村岳也・田野多栄一、1972年)のDVDを観た。半年ほど前にneoneo坐で観て以来だ(>> 記事)。

『あけもどろ』は、沖縄県読谷村において土地を米軍に強制収用されたひとびとのドキュメントである。題名は、『おもろさうし』の文章、「天に鳴響む大主  明けもどろの花の  咲い渡り  あれよ 見れよ  清らやよ」(太陽よ、朝日に照らされた花が咲き、美しい)から引用している。

読谷村の土地強制収用については、通称「象のオリ」(楚辺通信所)などで有名になった。このドキュで中心となって描かれるのは、集落ごと隣の比謝集落に移転し仮住まいを強いられた渡具知集落のひとびとである。住民同士で話し合い、土地追い出しに反対し、その一方で米軍フェンスの内側・「耕作黙認地」において農業を営み、清明(シーミー)という祭りでもフェンスの中にある祖先の墓前に集まり宴を開いている。

この時点ですでに基本的人権の侵害が明らかなのだが、さらに、土地収用の見返りとして支払われるオカネによって「おかしなこと」になっているのは、ざっくり言えば、基地のあるところ、原子力のあるところに共通している。ドキュでも、一旦土地を強制的に預かりそれを米軍に貸す防衛施設庁(現・防衛省)が、地元の小学校などにオカネを投じ、また、形ばかりの説明会を開いている様子が記録されている。前回観たときと同じ、いまと変わらない日本のありさまだという印象だ。

又吉栄喜『鯨岩』(光文社、2003年)は、「軍用地主」にオカネが払い込まれることによって起きる歪みをユーモラスに描いていた。以前読んだときには、その軽さがとても気になったが、軽さによって風の音のように立てられるノイズこそが、この作品の狙いだったのかな。あまり好きになれない小説だが。

●参照
坂手洋二『海の沸点/沖縄ミルクプラントの最后/ピカドン・キジムナー』
短編調査団・沖縄の巻@neoneo坐
ゆんたく高江、『ゆんたんざ沖縄』
基地景と「まーみなー」
読谷村 登り窯、チビチリガマ


淺井愼平『キッドナップ・ブルース』

2008-12-21 00:17:42 | アート・映画

だらだらとテレビを見ていたら、山下洋輔が料理番組に出ていた。昔かなり集めたCDはあらかた手放してしまったが、ライヴも存在感も嫌いではないので、山下洋輔の登場する映画『キッドナップ・ブルース』(淺井愼平、1982年)を取り出してきて観た。やはり山下の登場する、若松孝二『天使の恍惚』(1972年)にしようかともおもったが、家族が寝ている隣ではどうも観にくいのでまだ録ったままだ。

主演はタモリ。鍵っ子の可哀想な女の子を連れて歩いているうちに、そのまま旅に出てしまい、誘拐犯ということになってしまう。旅の途中、山下洋輔、内藤陳(笑)、川谷拓三、渡辺文雄、小松方正など奇怪なひとびとと出会う。山下洋輔は、真夜中、広い空き地にピアノを置き、独りで弾きまくる役である。そこにタモリが現われ、焚き火をして夜を過ごす。翌朝、港で山下が腰をおろし、女の子がしゃがんでゴリラの縫いぐるみと遊び、タモリが自転車を乗り回すシーンは、なんとも「気分」だ。

これによらず、淺井愼平の写真そのものを想起させるような雰囲気のシーンはとても多い。実は淺井愼平本人にもその狙いがあったようだ。

「淺井が『キッドナップ・ブルース』でやろうとしたのは、彼がもともと持っていた「ストーリーではなくシーン」を重視する感覚を強調することで、むしろ映画を写真的に断片化して再構築しようという試みだったのではないだろうか。」(飯沢耕太郎『青の時代―淺井愼平が見たもの』、『アサヒカメラ』2006年3月)

山下洋輔と「時代」だけを覗くつもりで観た映画だが、少なからず好感を持った。いまこのような映画を撮ることのできるひとは少ないのではないか。


アーマッド・ジャマル

2008-12-20 16:42:09 | アヴァンギャルド・ジャズ

アーマッド・ジャマルも積極的には聴いてこなかったピアニストだ。ただ、また改めて聴きなおしたい思いはあったので、ディスクユニオンで『Ahmad Jamal A L'Olympia』(Dreyfus、2001年)の中古盤を見つけて買った。好みのサックス奏者、ジョージ・コールマンも参加しているという理由もあった。

1曲目の「Night Has a Thousand Eyes」から、いきなりゆるいというか、違和感がある。定型の何かに乗っていない、要は独自性ということになるのだろうが、そこにまたジョージ・コールマンのテナーがゆるくからんでいく。ゆるさというのは、ここでは甘さではなく、アナーキーさのベクトルである。ジョージ・コールマンのはっきりコードに乗らない吹き始めというのは、聴くたびに刺激される。エルヴィン・ジョーンズ『Live at the Village Vanguard』(ENJA、1968年)(>> 記事)でもいちばんの個人的なツボなのだ。最後のオリジナル曲「Aftermath」に至っては、やりたい放題、文脈とは別次元世界を並行して走り、ピアノを鳴らしまくる。

これまで好きなジャマルのアルバムは、ピアノトリオ作『The Awakening』(Impulse、1970年)だった。ハービー・ハンコックの「Dolphin Dance」、オリヴァー・ネルソンの「Stolen Moments」、アントニオ・カルロス・ジョビンの「Wave」といった、メロディーが売りの曲を演奏しているのが嬉しい。

それよりも凄みを感じるのは「I Love Music」において、螺旋のように美しくよじれていく時間であり、この響きはほかに類を見ない。よくこのアルバムは、クラブジャズやヒップホップで二次利用されるのだという(といっても、ジャズに変わった付加価値を付けて宣伝するための常套句ではある)。『BRUTUS』(2008/8/15、特集「chill out 心を鎮める旅、本、音楽。」)でも、「チルアウト」なCDのひとつとして紹介されていて、「独特のシャープなタイム感とピアノの透明感がとにかく美しい」と表現している(橋本徹)。

おそらく多くのジャズ・ファンが最初に聴くジャマルのアルバムは、『Ahmad Jamal at the Pershing / But Not For Me』(MCA、1958年)だろう。私も、マイルス・デイヴィスが「アーマッド・ジャマルのピアノ」を参考にしていたという逸話を念頭に置いて聴いていたが、不幸な聴き方だったかもしれない。音数の少なさや「間」だけを感じようとすると、まあそんなものかねとおもうだけである(その時点でもう感じる心が不自由になっている)。改めて聴くと、過激で異常な演奏に聴こえてならない。この時間の伸び縮みによる違和感はかなり癖になる。


ジュニア・マンス

2008-12-19 00:54:08 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジュニア・マンスのアルバムは2枚だけ持っていた。安心できてしみじみとするブルースなので、時々出してきては聴いている。けれども、それだけに、もう2枚あれば十分だと思っていた・・・自分にとってはそのくらいの存在感のピアニストである。

1998年だかに新宿ピットインで演奏を聴いた。枯れていて嬉しかった。いまもピアノトリオ作をときどき出しているようなので、最近の枯れた録音も1枚くらい欲しいとおもって、数日前にディスクユニオンの中古コーナーを物色した。『With a Lotta Help from My Friends』(Atlantic、1970年)という妙なものを見つけた。


ジャケットのセンスは最高

共演者が「らしくない」。エリック・ゲイル(ギター)、チャック・レイニー(エレキベース)、ビリー・コブハム(ドラムス)という、フュージョン畑のスタジオミュージシャンたち。それでもマンスの演奏は相変わらずブルージーであり、執拗なリフが格好いいのだ。ジャズはプロセスでもあるから、異色作を作るマンスという存在を聴く記録でもあるようにおもった。まあ、はっきり言ってダサくもあるのだけど・・・。

ジュニア・マンスの名演と称される作品は、マンス30歳のときの初リーダー作『Junior』(Verve、1959年)。これは誰が聴いても素晴らしいとおもうに違いない。若いだけあって後年のプレイよりも緊張感があり、「Love for Sale」など選曲も良い。前につんのめるようなレイ・ブラウンのベースを聴くための録音でもある。

『That's Where Is Is!』(Capitol、1964年)は、プレイがより弛緩してきていて、実はこちらのほうが好みではある。リラックスした「St. Louis Blues」や「God Bless The Child」が嬉しい。きょうは福岡に行って飲み食いしてきたので疲れていて、これでこちらも弛緩する。


サインをもらった

これでCD棚にあるマンスは3枚だけ。もうお腹一杯。


大隈講堂での『人類館』

2008-12-16 23:02:53 | 沖縄

演劇集団「創造」による演劇『人類館』の公演が、入場無料で行われるというので、早稲田大学大隈講堂まで足を運んだ。1903年に大阪で開かれた「内国勧業博覧会」の「人類館」において、沖縄やアイヌを含む実際の人々が見世物にされた事件を題材にした演劇である。

最近いろいろ無理していて、今日も厚木から小田急で立ちっぱなしで戻り直行したこともあって、座るなり眠くて眠くてしかたなく、前半はかなりウトウトしながらになってしまった。席は完全に埋まっていた。

劇は沖縄の男、沖縄の女、調教師の3人でのみ演じられる。鞭を持った調教師が、差別はいけないと謳いながら差別者そのものとして振舞う。男と女は、見世物として騙されて沖縄から連れてこられている。話は日本軍による民間人虐殺・暴行や「集団自決」などに唐突に転換し続け、調教師は矛盾を抱えるグロテスクな存在としてあり続ける。

「集団自決」において、日本軍によって渡された手榴弾を男が使おうとすると不発、実はそれは芋である。逆に、芋を齧ろうとした調教師が、実は手榴弾を持っていて、爆死してしまう。そういったユーモアは秀逸。そして最後、沖縄の男が突然調教師と化し、「人類館」の口上を述べ始める。沖縄とヤマトゥとの転換とも取ることができるし、また、歴史の蓄積を吸い込んでしまう沖縄というようにも捉えることができる。次第に大きくなる音楽とともに迎えるエンディングは、そのようなモヤモヤした気分を残した。


ポール・オースター『Travels in the Scriptorium』

2008-12-16 01:24:42 | 北米

ポール・オースターの2007年の作品、『Travels in the Scriptorium』。中国への旅の本だと決めて持っていったが、機内では、普通、映画を観たりビールを飲んだり寝たりして、あまり読み進まないのだった。結局、帰国後数日経って、さっき読み終えた。

タイトルの「Scriptorium」という言葉はきいたことがなかった。調べると「写字室」、中世ヨーロッパの文字通り「書く部屋」という意味である。書斎などの言葉を使わなかったのは、オースターが「書くこと」自体を異化したかったのだろう。

主人公のブランクは、なぜか部屋に幽閉されている。老いていて、記憶がほとんどなく、身体が動くかどうかも自分ではっきりしない。部屋にある物にはすべてその名前が書かれたラベルが付されている。机には、よくわからない原稿と、ポートレート写真の束がある。

部屋には謎な人物が訪れる。そのたびにブランクは記憶をまさぐり、「私は何かあなたに悪いことをした」と、罪の意識に苛まれる。それらの人物たちは、他人の夢を思い出せと命じたり、原稿を読んでその続きを考えて報告せよと命じたり、赤子のようにブラウンを着替えさせたりする。

途中まで読み進んでようやく気がついた。ブラウンはオースターの分身であり、登場する人物たちは過去のオースターの作品において奇妙で不幸な運命に置かれた者たちなのだ、と。どうりで記憶の片隅にある名前が出てくるわけだ。『シティ・オブ・グラス』の探偵依頼人と探偵される者であるスティルマン親子。『鍵のかかった部屋』において「Neverland」という小説を書いて失踪したファンショーとその妻ソフィー。『最後の物たちの国で』のアンナ。小説の最後に至っては、『シティ・オブ・グラス』の探偵クィン、『ムーン・パレス』の(ビルドゥングスロマンらしく)成長する主人公マーコ・フォッグ、『リヴァイアサン』において自由の女神像を破壊するテロリストとなってしまった哀れなサックスらが次々と登場し、もはやオースター同窓会となってしまう。

あまりにも奇妙なメタフィクションだが、この小説は誰に向けて書かれたものなのだろうか。オースター・ファンに向けた同人誌的な小説、では少なくともないようにおもわれる。複数の世界と時間が交錯する世界を描いたものとして非常に面白く、運命的で、迷宮に迷い込んだようで、そしてオースター作品らしく後味が悪かった。もっとも、独立した小説として破綻しているくらい奇妙で内向きであることは確かだ。オースター作品は、シリーズとして読んで、オースター・ワールドとして捉えなければならないのか。

本棚にあるオースター関連本を集めてみたが、『スモーク』とか『最後の物たちの国で』とか『シティ・オブ・グラス』とか見当たらない。最近、柴田元幸が『シティ・オブ・グラス』の新訳(『ガラスの街』)を発表した雑誌『Coyote』(2007年10月)によると、この『Travels in the Scriptorium』はオースターが「枯れた男の五部作」と呼んでいる作品の最終作にあたるそうである。『ティンブクトゥ』『幻影の書』(最近柴田訳が出たが、まだ読んでいない)は翻訳された。残るは、『Oracle Night』『The Brooklyn Follies』、それから本書だ。このペースだと、いつ邦訳を読めるかわからないけれど。

It is unclear to him exactly where he is. In the room, yes, but in what building is the room located? In a house? In a hospital? In a prison? He can't remember how long he has been here or the nature of the circumstances that precipitated his removal to this place. Perhaps he has always been here; perhaps this is where he has lived since he was born. What he knows is that his heart is filled with an implacable sense of guilt.

●参照 ポール・オースターの『ガラスの街』新訳


陸元敏『上海人』、王福春『火車上的中国人』、陳綿『茶舗』

2008-12-14 09:08:42 | 中国・台湾

空港の本屋に置いてある写真集など、大抵は名所案内のような絵葉書の延長だが、上海の空港では良いものを見つけた。上海錦綉文章出版社が出している写真集のシリーズで、6冊ほどあるようだ。1冊32元(400円程度)であり安い。ただ、紙はそれほど上等ではない。置いてあったのは陸元敏『上海人』、王福春『火車上的中国人』、陳綿『茶舗』の3冊。すべてモノクロのスナップであり、引き込まれる。

陳綿『茶舗』は、四川省で撮られた作品集。文字通り、店に集まって茶を飲んだり、談笑したり、煙草を吸ったり、カードや麻雀に興じたりといったひとびとの姿を捉えている。かなりの広角で全体をおさめる写真が多いが、一方、中望遠で味のある老人の顔をとらえたものもある。写真家の陳綿は1955年生まれだそうで、巻末にニコンFM系またはFE系を構えた姿がある。

王福春『火車上的中国人』は、列車で移動するひとびとの姿ばかりだ。とにかく老若男女いろいろいるので、とても人間的でユーモラスな出来事が集められている。この王福春という女性写真家は鉄道写真家としてかなり有名な存在のようだ(1943年生まれ)。巻末には、ライカM4-Pに何やら広角レンズを装着した姿がある。

この3冊のなかでもっとも自分の琴線に触れたのは、陸元敏『上海人』だった。構図も被写体への迫り方も融通無碍という感じがする。相手との距離感は、特に室内で向かい合った作品群において、牛腸茂雄の写真をおもわせるものがある。北井一夫のズミルックス35mmのような、ハイライトが滲んでいるものも良い。たまらない写真もある。実際のプリントはどんなものだろう。


上の2点は、『誰も知らなかった中国の写真家たち』でも紹介されている


牛腸的

この写真家は1950年生まれ。これまでの展覧会のリストには、「陸元敏的LOMO世界」(2006年)というものもある。この調子でトイカメラを使ったらどうなるのだろう・・・ぜひ観たい。

陸元敏については、『誰も知らなかった中国の写真家たち』(アサヒカメラ別冊、1994年)にも収録されていた。画家を志し美術学校に合格したが、1966年文革の開始と共に取り消され、下放され、8年間農村で生活したという。自分の写真については「流れて過ぎ去ってしまったことへの懐かしさを表現」としている。


表紙も陸元敏の写真


ジョニー・トー『文雀』、『エレクション』

2008-12-13 12:31:14 | 香港

中国・杭州行きの機内で、ジョニー・トー『文雀(Sparrow)』(2008年)を観た。ちょうどジョニー・トーのいま公開されている『エクザイル/絆』(2006年)を観たいなとおもっていたところだった。こっちは日本未公開である。

『文雀』はスリの話。癖のある妙な美女に篭絡され、スリ4人組が美女のパトロンである大物(実はスリ出身)にスリのたたかいを挑む。口に隠し持ったカッターの刃、風船、白黒写真、鳥、ガラス、傘などの小道具が絶妙で、一気に引き込まれる。

主演のサイモン・ヤムが趣味にしている白黒写真は、バルナック型ライカやローライの二眼で撮られている。機内テレビの解像度では機種はわからない。6×6で撮ったはずがプリント時には長方形の印画紙に焼いていたり(トリミングしている可能性もあるが)、予告編ではバルナック型のシャッター音が自動巻上げ機能付きの電子カメラの音になっていたりと、突っ込みを入れたくなるところはあるが、まあそれだけで嬉しくなるのは確かだ。

●『文雀』予告編 >> リンク

あまりにも面白かったので、録画しておいた『エレクション(黒社会)』(2005年)を、きのう帰国して今朝早々に観た。こちらは香港マフィアものであり、暴力描写もある。しかし、ひとつひとつのシーンに工夫がほどこされていて厭にならない。警察の留置場のなかでマフィア同士が交渉をしたり、マフィアの会長の証を奪い合っている際に両方に電話がかかってきたりするシーンなどは秀逸。

2本観ただけで、すっかりジョニー・トーのファンになってしまった。『週刊金曜日』における北村肇による『エグザイル/絆』評によると、『エレクション』後、ジョニー・トーは娯楽映画に回帰したということだ。『エグザイル/絆』もきっと激しく面白いに違いない。