鶴見良行『ナマコの眼』(ちくま学芸文庫、原著1990年)を再読。
われわれは世界市場や植民地主義のことを考えるとき、立派な換金商品や国家があることを前提とする。
だがナマコはそのような視線を無視して存在していた。水分が多く歩留まりが1割とか3割とか、その時点で重量ベースの統計から逃れおおせている。加工技術は難しく、それ自体が執念にはりついている。執念というのはゼラチン食や東洋医学、なにやら精神的な階層。
そして東南アジア多島海の海上民、糸満を含め北からの漁業者の動きは、国境などというものには無関係だった。海のアジア史はラッフルズや東インド会社だけのものではない。マラッカ、マカッサル、リアウ、想像するとつかみどころがなくて茫然とする。ザイ・クーニンさんや齋藤徹さんの表現のことも考える。
南方だけではない。日本列島の住民も古くからナマコに興味を持っていた。記紀神話におけるアメノウズメは、アマテラスが引きこもった天岩戸の前でエロチックにもコミカルにも踊り、またニニギノミコトが天孫として日本に降りるときに立ちはだかっていた怪神サルタヒコに迫りもするトリックスターだが、彼女が魚たちを集めて「我に従うか」と訊いたところナマコだけが返事をしなかったので、刀でナマコに口を切り開いた。妙なやつである。
そういえばしばらくナマコを食べていない。小さいころどうも好きになれなかったがいまは欲しい。
●鶴見良行
鶴見良行『東南アジアを知る』