Sightsong

自縄自縛日記

サラ・マニング『Dandelion Clock』、『Harmonious Creature』

2017-12-31 23:43:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

サラ・マニングの『Dandelion Clock』(Posi-Tone、2009年)、『Harmonious Creature』(Posi-Tone、2013年)。

Sarah Manning (as)
Art Hirahara (p)
Linda Oh (b)
Kyle Struve (ds)

Sarah Manning (as)
Eyvind Kang (viola)
Jonathan Goldberger (g)
Rene Hart (b)
Jerome Jennings (ds)

2009年の吹込みではよく通るクリアな音色が素敵なのだが、2013年に至り、弦3本を使ったサウンドもアルトの音も多彩になっていて、明らかに進化している。

マニングの最近の言うところでは、サウンドはこのレーベルのカラーから逸脱し、実験的なものになってきているという。新しい吹込みに期待。


今村祐司グループ@新宿ピットイン

2017-12-31 22:44:18 | アヴァンギャルド・ジャズ

2017年最後のライヴは、新宿ピットイン昼の部において今村祐司グループ(2017/12/31)。

Yuji Imamura 今村祐司 (perc)
Koichi Matsukaze 松風鉱一 (as, ts)
Takeshi Shibuya 渋谷毅 (p, org)
Katsumasa Kamimura 上村勝正 (b)
Tamaya Honda 本田珠也 (ds)

今村さんのプレイを観るのはもう十何年かぶりである。それに加え、ジャズ界の至宝・渋谷毅さんに松風鉱一さん。昼ピでこの面々、じつはたいへんな贅沢なのだ。

ファーストセットは、「Limbo Jazz」(エリントン)からはじまり、「No. 513」(松風)、「マリオ」(今村)、「Folk Song」(松風)、「Black Tree in Shochu Island」(松風)。セカンドセットは、今村さんがメンバーにフォービートだフォービートだと言いながら「Big Valley」(松風)、「Manteca」(ガレスピー)、「Outside」(松風)、「ウキウキ」(今村)、そして1曲やってアンコール。

松風さんはアルトのマウスピースをロートンに変えた(サックスはテナー、アルトともに、この日はヤナギサワ)。なんでもリード(ヴァンドレンの4番)との隙間が狭いが、安定した音が出るのだという。持たせてもらうとずっしりと重い。そして、ちょっと前まで意外なほどに可愛い音だったアルトが、シャギーでささくれた、昔からの松風さんらしい実にいい音色を発していた。それはまるで、魚が乱流の中を見事に悠然と泳いでいくようなのだった。

渋谷毅さんはいつでも素晴らしい。どんなピアノソロでも渋谷毅であるし、どのオルガンの断片も痺れさせてくれる。この日、ピアノでぐちゃぐちゃと不協和音を寄せ集め、オルガンのように聴こえる技も繰り出した。

そしてリーダーの今村さんは枯れまくっている。その愉し気なパーカッションの後ろで、ぶっとい鞭のような本田さんのドラムスが共存する不思議。

●松風鉱一
松風M.A.S.H. その2@なってるハウス(2017年)
松風M.A.S.H.@なってるハウス(2017年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2017年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2016年その3)
松風鉱一カルテット+石田幹雄@新宿ピットイン(2016年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2016年その2)
松風鉱一@十条カフェスペース101(2016年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2016年その1)
渋谷毅エッセンシャル・エリントン@新宿ピットイン(2015年)
松風鉱一カルテット+石田幹雄@新宿ピットイン(2015年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2014年)
5年ぶりの松風鉱一トリオ@Lindenbaum(2013年)
松風鉱一カルテット@新宿ピットイン(2012年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2011年)
松風鉱一トリオ@Lindenbaum(2008年)
松風鉱一カルテット、ズミクロン50mm/f2(2007年)
原みどりとワンダー5『恋☆さざなみ慕情』(2006年)
松風鉱一『Good Nature』(1981年)
『生活向上委員会ライブ・イン・益田』(1976年)
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ
森山威男『SMILE』、『Live at LOVELY』 
反対側の新宿ピットイン
くにおんジャズ、鳥飼否宇『密林』

●渋谷毅
渋谷毅@裏窓(2017年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2017年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2016年その3)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2016年その2)
廣木光一+渋谷毅@本八幡Cooljojo(2016年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2016年その1)
渋谷毅@裏窓(2016年)
渋谷毅+市野元彦+外山明『Childhood』(2015年)
渋谷毅エッセンシャル・エリントン@新宿ピットイン(2015年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2014年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2011年)
渋谷毅+津上研太@ディスクユニオン(2011年)
渋谷毅のソロピアノ2枚(2007年)
原みどりとワンダー5『恋☆さざなみ慕情』(2006年)
『RAdIO』(1996, 99年) 
渋谷毅+川端民生『蝶々在中』(1998年)
『RAdIO』カセットテープ版(1994年)
『浅川マキを観る vol.3』@国分寺giee(1988年)
『山崎幹夫撮影による浅川マキ文芸座ル・ピリエ大晦日ライヴ映像セレクション』(1987-92年)
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』(1985年) 
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ
見上げてごらん夜の星を 

●本田珠也
TAMAXILLE『Live at Shinjuku Pit Inn』(2017年)
ナチュラル・ボーン・キラー・バンド『Catastrophe of Love Psychedelic』(2015-16年)
守谷美由貴トリオ@新宿ピットイン(2016年)
蓮見令麻@荻窪ベルベットサン(2015年)
荒武裕一朗『Time for a Change』(2015年)
鈴木勲セッション@新宿ピットイン(2014年)
本田珠也SESSION@新宿ピットイン(2014年)
ポール・ニルセン・ラヴ+ケン・ヴァンダーマーク@新宿ピットイン(2012年)
石田幹雄トリオ『ターキッシュ・マンボ』(2008年)

 


フレッド・フリス『Storytelling』

2017-12-31 09:57:37 | アヴァンギャルド・ジャズ

フレッド・フリス『Storytelling』(Intuition、2017年)を聴く。

Fred Frith (g)
Lotte Anker (sax)
Sam Duhsler (ds)

はじめは飄々としたフレッド・フリスのノリとともに気楽に流していたのだが、やっぱり手を止めて聴き込んでしまう。

『Step Across The Border』を思い出すまでもなく、フリスの達観したような漂流ぶりは旅人のインプロヴィゼーションなのだ。ロッテ・アンカーのサックスは、発酵しぶくぶくと泡立つところから胃液を吐き出すようでもあり、これもまたいい。かれらによる人間の音楽はなぜだかノスタルジックでもあり、その感覚は「Backsliding」において極大化する。

このふたりのデュオは『Edge of the Light』(2010年)でも個性を発揮していたのだけど、本作はドラムスが加わったためか、より風穴からの隙間風が吹き込んでいるようで、いい感じの距離感を生んでいる。

●フレッド・フリス
ロッテ・アンカー+フレッド・フリス『Edge of the Light』(2010年)
フレッド・フリス+ジョン・ブッチャー『The Natural Order』(2009年)
高瀬アキ『St. Louis Blues』(2001年)
突然段ボールとフレッド・フリス、ロル・コクスヒル(1981、98年)
『Improvised Music New York 1981』(1981年)

●ロッテ・アンカー 
須川崇志+ロッテ・アンカー+キャスパー・トランバーグ+ラース・グレーヴェ@下北沢APOLLO(2017年) 
ロッテ・アンカー+フレッド・フリス『Edge of the Light』(2010年)
ロッテ・アンカー+クレイグ・テイボーン+ジェラルド・クリーヴァー『Triptych』(2003年)


川島誠@川越駅陸橋

2017-12-31 08:54:47 | アヴァンギャルド・ジャズ

川越駅前の陸橋で、川島誠ソロ(2017/12/30)。

Makoto Kawashima 川島誠 (as)

特に告知していたわけでもなかったため、敢えて観に来た者はわたしともうひとりのみ。他の人たちは訝しみながら橋を渡ってゆく。

はじめは朗々と吐露するアジアンブルース。やがて咳き込むように破裂させ、そして、簡単に切れてしまいそうな糸を思わせる、弱弱しい喘ぎ。終わらせようにも終わらない生命がこちらも息苦しくさせる。

少し休んで、覚悟したのか、内面との往還を音にした。それはいつまでも光を見出せない無間地獄のようなものだった。

終わってから、川越市駅前の「もとはし」で焼き鳥を食べた。つくね、ぼんじりの燻製、いぶりがっこのポテトサラダ、KOEDOのビール、たかはしの卵を使った卵かけごはん、すべてうまかった。

Fuji X-E2、XF60mmF2.4

●川島誠
むらさきの色に心はあらねども深くぞ人を思ひそめつる(Albedo Gravitas、Kみかる みこ÷川島誠)@大久保ひかりのうま(2017年)
#167 【日米先鋭音楽家対談】クリス・ピッツィオコス×美川俊治×橋本孝之×川島誠(2017年)
川島誠『Dialogue』(JazzTokyo)(2017年)
Psychedelic Speed Freaks/生悦住英夫氏追悼ライヴ@スーパーデラックス(2017年)
川島誠+西沢直人『浜千鳥』(-2016年)
川島誠『HOMOSACER』(-2015年)


ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『マリア・ブラウンの結婚』

2017-12-30 23:24:04 | ヨーロッパ

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『マリア・ブラウンの結婚』(1979年)を観る。

ベルリン。マリアの夫は、結婚1日半で戦争に出征し、間違って戦死したと伝えられる。生き延びるために、マリアは連合軍の黒人兵士と、結婚しない形でパートナーとなろうとする。しかし、まさにベッドインのときに、夫が帰ってくる。マリアは鈍器で兵士の頭を殴り、殺す。その罪は夫が被り、長く収監される。またもマリアは生き延びるために、女性であることを使うのだが、それを刑務所の夫に明け透けに喋る。かれはそれを受け容れられず、去ってゆく。マリアは絶望する。

ファスビンダーらしい描写は、愛の不毛というよりも、いやそこまでやるのかという展開か。一歩間違えるとギャグになってしまうほどのプロットを躊躇なく突き進むことで圧倒されるのだが、これは鈴木則文と同じ天才性のゆえであったに違いない。もう救いも何もあったものではない。

その生き地獄の中で、マリアことハンナ・シグラの恍惚とした表情が凄い(ジャン=リュック・ゴダール『パッション』においてのように)。あるいはハンナ・シグラのための映画であったのかもしれない。

●ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
ファスビンダーの初期作品3本(1969-70年)


徐京植『日本リベラル派の頽落』

2017-12-30 10:05:59 | 韓国・朝鮮

徐京植『日本リベラル派の頽落』(高文研、2017年)を読む。

本書には、1989年から現在までの著者の文章が収録されている。テーマは、植民地主義、戦争責任、慰安婦、ナショナリズムといったものであり、これらの問題を気にかけていた者にとってはさほど新しいものではない。指摘は正鵠を得ており、それらが新しくないということが、日本において歴史の真っ当な共有が失敗してしまったことを如実に示している。

思索の数々は、それを記憶にとどめておき、深めてゆくべきものだ。

かつて小林よしのりは、侵略の手先となった皇軍の兵士を「じっちゃん」と呼び、感情を欺瞞的に肥大化させて日本の侵略責任や戦争責任をなきものにしようとした。しかし、著者が言うように、「罪」と「責任」とは異なる。手先が組織の決定や空気に抗えなかったからといって、そして「罪」に問われなかったからといって、「責任」は存在するわけである。すなわち大日本帝国の手先と市民とは無条件に同じとはできない。この差について、柄谷行人は個人と社会との間にある自由度を「括弧に入れる」ことによる態度変更を説いた(『倫理21』)。また、高橋哲哉は「責任」は「応答責任」だと明確に位置づけた(『戦後責任論』)。こういった知識人たちの思索を発展させずに、暴力的に歴史を歪め、忘却の彼方に追いやろうとする策動、すなわち歴史修正主義は、いまなお怪物のようになって生きながらえている。

これは著者にとっての「韓国人としての責任」についても同じであるようだ。韓国の兵士も、ベトナム戦争において、残虐行為を行った。

「私は、彼(※小林よしのり)とはちがって、自分を騙してまで「クソまみれ」の背中を立派だと思い込もうとしているのではない。自国の権力によって理不尽にも背中になすりつけられた「クソ」を、なんとかして拭いとるために努力しようとするのである。私の「韓国人としての責任」は、朴正煕や全斗煥と「同一化」して、彼らを「かばい」、彼らの罪に連座することではない。彼らやその残党と闘い、韓国政府にベトナムに対する公式謝罪と個人補償を実現させ、そうしたことを再び繰り返さないような社会に韓国を変えるべく務めることである。それが背中の「クソ」を拭いとる唯一の途だからだ。」

こういった「責任」についての考え方は、北朝鮮の拉致被害者問題についても、まさにブーメランのように戻ってくる。工作員が組織の一員として「やむを得ず」やったことだとして認めるのか。ましてやその罪や責任を無きものとして一方的に押し付けてきたとして、それを認めるのか。拉致被害者家族を政治利用しつつ、慰安婦や侵略の犠牲者を罵るのか。それはあまりにも非対称である。

●参照
徐京植のフクシマ
徐京植『ディアスポラ紀行』
高橋哲哉・徐京植編著『奪われた野にも春は来るか 鄭周河写真展の記録』
鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』
鄭周河写真集『奪われた野にも春は来るか』、「こころの時代」
徐京植、高橋哲哉、韓洪九『フクシマ以後の思想をもとめて』


ブルース・ウェーバー『Let's Get Lost』

2017-12-30 09:33:56 | アヴァンギャルド・ジャズ

ブルース・ウェーバー『Let's Get Lost』(1988年)をDVDで観る。

VHSは持っていたのだが、やはり、こうして改めて観たかった。

若者たちが海岸で踊りながらディジー・ガレスピーのソロを口ずさむはじめの場面から、どうしようもなく惹き込まれる。亡くなる直前のチェット・ベイカーはまだ60歳にもなっていないのに、皺が深々と刻まれ、美女を横に座らせて諦念のような表情を浮かべており、どうみても普通の人生を送ってきた人ではない。この時間をとらえたブルース・ウェーバーの手腕はさすがである。

そして、チェットが「Everytime We Say Goodbye」、「Almost Blue」、「Imagination」などを歌い、吹き、酒場でクリフォード・ブラウンのソロを真似して呟く、そのひとつひとつが沁みて沁みて仕方がない。

●チェット・ベイカー
ロバート・バドロー『ブルーに生まれついて』(2015年)
チェット・ベイカー+ポール・ブレイ『Diane』(1985年)

●ブルース・ウェーバー
カメラじろじろ(2) 『トゥルーへの手紙』(2004年)


黒沢清『散歩する侵略者』

2017-12-30 08:39:28 | アート・映画

バンコクからの帰国便で、黒沢清『散歩する侵略者』(2017年)を観る。

3人の宇宙人が、地球侵略準備のためにやってくる。人間の身体を乗っ取って、人間を理解するために、他者から概念を盗む。自由という概念、家族という概念、所有という概念。盗まれた者は文字通り腑抜けとなってしまう。

日常の風景とは当たり前のことであり、むしろ、ささくれてやさぐれた風景の中での淡々とした蛮行が怖い。この侵略が方向を変えたこと、それは、愛という概念を盗もうとしたことにあった。まさに「愛でもくらえ」。


デヴィッド・リーチ『アトミック・ブロンド』

2017-12-27 07:26:15 | ヨーロッパ
成田からバンコクに向かう機内で、デヴィッド・リーチ『アトミック・ブロンド』(2017年)を観る。



シャーリーズ・セロン好きなのでそれだけでOKなのだ。それにしても痛々しく強すぎる。真似してウォッカのロック派になろうかな。
舞台は壁崩壊直前のベルリン(1989年)。映画館でタルコフスキーの『ストーカー』(1979年)をやっているのが面白いのだが、これは実際のことなのだろうか。
西側に脱出しようとするスパイに対し、セロンが「シュタージっぽいから着替えて西側風になって」と言っている。いまベルリンの人をそんなふうに揶揄すると怒るだろうね。

クリス・スピード『Platinum on Tap』

2017-12-24 21:30:37 | アヴァンギャルド・ジャズ

クリス・スピード『Platinum on Tap』(Intakt、2016年)を聴く。

Chris Speed (ts)
Chris Tordini (b)
Dave King (ds)

中が不思議にからっぽの木を共鳴させるようなクリス・スピードのテナーは、いつも通りである。それがサックストリオで、奇妙にのほほんとした感覚がある。あとのふたりともスーパーに予測不可能な音を発してくる人たちではない、そのこともあるだろうか。気持ちいいサウンドである。リラックスして、かすれそうでかすれない筆で文字を書き続けているような。

どれもいいのだが、ホーギー・カーマイケルの「Stardust」は、スピード的でありながら古くも新しくも聴こえて、何度もリピートしてしまう。

●クリス・スピード
クレイグ・テイボーン『Daylight Ghosts』(2016年)
及部恭子+クリス・スピード@Body & Soul(2015年)
マット・ミッチェル『Vista Accumulation』(2015年)
三田の「みの」、ジム・ブラック(2002、2004年)
ブリガン・クラウス『Good Kitty』、『Descending to End』(1996、1999年)


『南方熊楠 100年早かった智の人』@国立科学博物館

2017-12-24 20:10:32 | 環境・自然

上野の国立科学博物館で、『南方熊楠 100年早かった智の人』という企画展を観る。

南方熊楠の評価、またこの企画展の位置づけは、次の文章で明らかに示されている。

「南方熊楠は、森羅万象を探求した『研究者』とされてきましたが、近年の研究では、むしろ広く資料を収集し、蓄積して提供しようとした『情報提供者』として評価されるようになってきました。」

本展は熊楠の活動ぶりを、かれが採取した標本や、文献を書き写した膨大なノート(抜書)や、やはり膨大に描き残した「菌類図譜」などの紹介によって示さんとするものである。紹介される分野としては、菌類、粘菌(変形菌類)、地衣類、藻類などのよくわからない生物ども。

こうして自然・世界の不思議をミクロな目でひたすら観察・収集し、しかも分野間をなにかにこだわることなくつなぎおおせる。公開され自由にピックアップ可能なアーカイブであり、インターネット時代にふたたびシンパシーの対象となることはよくわかる。神社合祀への反対は貴重な鎮守の森の生物が消えてしまうことに対するマニア的な活動であり、『十二支考』などはとにかく多くのネタを集めてつなぎなおすという知的快感のもとで書かれたものだったに違いない(熊楠は、確かどこかに、『十二支考』の執筆にあたり、「締切がやばいなー、ただのコピペだと芸がないしなー」なんてことを書いていた)。しかも、この常軌を逸した分量の「菌類図譜」は、どうも、書き続けることによって熊楠が自身の精神を安定させるという目的もあったようなのだ。まさに現代。

この企画展の分野に近い『森の思想』においては、中沢新一が、80年代の雰囲気でマンダラがどうの東アジアがどうのともっともらしいことを書いている。いずれ河出文庫のシリーズもその恥ずかしい「解題」を変えざるを得なくなるだろう。

それはともかく、展示は面白い。街路樹にも生きている地衣類は、藻類と菌類とがwin-winの関係で共生して成り立っている(サンゴのようだ)。粘菌(変形菌類)も、まあよくこんなヘンなものに注目したねと思えるものばかり。そして4000点近く作成した「菌類図譜」では、また妙な形のきのこばかりが描かれ、余白にはびっしりと情報が書き込まれている。会場内で流されるヴィデオの中で、安田忠典・関西大学准教授が、「絵は下手だが情報収集量に価値がある」といった発言をしている。なるほど下手で楽しそうだ。


変形菌類


菌類


地衣類


「菌類図譜」

●南方熊楠
南方熊楠『森の思想』


マリオ・パヴォーン『chrome』

2017-12-24 12:20:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

マリオ・パヴォーン『chrome』(playscape recordings、2016年)を聴く。

Mario Pavone (b)
Matt Mitchell (p)
Tyshawn Sorey (ds)

『Blue Dialect』(2014年)と同メンバーの「dialect trio」による作品。

確実に現代的でエッジ―なものでありながら、何なのだろうと圧倒される。それはほかのマット・ミッチェルやタイショーン・ソーリーの参加作にも言えることで、かれらが独自で強靭きわまりない構造を創っているようなのだ。

リーダーのマリオ・パヴォーンがもっとも過去の尻尾を引きずっている印象だが、それがバランスという意味でいいのかもしれない。

●マリオ・パヴォーン
マリオ・パヴォーン『Blue Dialect』(2014年)
アネット・ピーコック+ポール・ブレイ『Dual Unity』(1970年)

●マット・ミッチェル
マット・ミッチェル『A Pouting Grimace』(2017年)
ティム・バーン Snakeoil@Jazz Standard(2017年)
マット・ミッチェル『Vista Accumulation』(2015年)
ティム・バーン『Incidentals』(2014年)
マリオ・パヴォーン『Blue Dialect』(2014年)
ティム・バーン『You've Been Watching Me』(2014年)
ティム・バーン『Shadow Man』(2013年)

●タイショーン・ソーリー
ヴィジェイ・アイヤー『Far From Over』(2017年)
マット・ミッチェル『A Pouting Grimace』(2017年)
マット・ブリューワー『Unspoken』(2016年)
『Blue Buddha』(2015年)
マリオ・パヴォーン『Blue Dialect』(2014年)
イルテット『Gain』(2014年)
スティーヴ・リーマンのクインテットとオクテット(2007、2008、2014年)
マイラ・メルフォード『Snowy Egret』(2013年)
ジョン・エスクリート『Sound, Space and Structures』(2013年)
フィールドワーク『Door』(2007年)


飽きもせずに蒲田の魚寅食堂と喜来楽

2017-12-24 10:12:23 | 関東

なにしろ蒲田LOVEなので、2週間前に飲んだばかりの蒲田にまた遠征し、編集者のMさん、OAM(沖縄オルタナティブメディア)のNさんと忘年会らしきもの。

■ 魚寅食堂

300円メニューを揃えている安酒場。まぐろも3切れ、鯛も3切れ。あんこうの唐揚げなんかわりに旨かった(これは300円ではない)。沖縄の「越境広場」誌やホッピーやなんかの話。

■ 喜来楽(シライル)

やはりこの台湾料理屋に来なければ年を越せない、というわけでもないのだが、やはり吸い寄せられるように足が勝手に向かう。阿部薫、柄谷行人とNAM・ひまわり運動、汪暉、坂口安吾、沖縄の安宿、下丸子文化集団、『三里塚のイカロス』など雑談をしながら、「アド街ック天国」の銀座特集を視てケチをつけたりしているうちに、いつものように、おばちゃんのアナーキズムがとどまることなく炸裂しはじめた。

アヒルと台湾の高菜の汁だとか、朝食べるお好み焼きのようなものだとか、テールスープだとかあれこれと旨いものを出してくれたり、突然、このくそ寒いのに外で美容師さんに髪を切ってもらっていたり。牡蠣のお好み焼きを切ってくれるといいながら面倒くさくなって急にやめたり。金門島の高粱の酒(58度!)を勧められて舐めていると、なぜか次に台湾からわたしが買って帰ることになっていたり。脇腹が苦しい。最後にはみかんとお菓子をくれた。また、Mさんはなぜか京急蒲田というラベルが貼られた静岡の地酒(???)をくれた。

そんなわけで、また来なければならない。

●蒲田界隈
飽きもせずに蒲田ののんき屋と金春本館と直立猿人
チンドン屋@蒲田西口商店街
飽きもせずに蒲田の八重瀬とスズコウ
飽きもせずに蒲田の三州屋と喜来楽(と、黒色戦線社)
飽きもせずに蒲田の東屋慶名
飽きもせずに蒲田の鳥万と喜来楽
蒲田の鳥万、直立猿人
蒲田の喜来楽、かぶら屋(、山城、上弦の月、沖縄)
蒲田のニーハオとエクステンション・チューブ
「東京の沖縄料理店」と蒲田の「和鉄」
深作欣二+つかこうへい『蒲田行進曲』、『つかこうへい 日本の芝居を変えた男』
庵野秀明+樋口真嗣『シン・ゴジラ』
道場親信『下丸子文化集団とその時代』


Seshen x 蓮見令麻@喫茶茶会記

2017-12-24 09:02:11 | アヴァンギャルド・ジャズ

四谷三丁目の喫茶茶会記(2017/12/23)。

Seshen (vo, movement)
Rema Hasumi 蓮見令麻 (p)

蓮見ソロ、Seshenソロ、デュオの順に行われた。

蓮見さんのピアノ演奏は、音楽が種から生まれたちのぼる瞬間のプロセスを繰り返すようだった。緊張感が張り詰めるということとも違う。なにか常ならぬことを目撃するような感覚か。演奏中にもちろん静寂もあるものの、それが音楽の途上で亀裂を生じさせないように見守るのではなく、それを観客も、また蓮見さん自身も当然のこととして受けとめていた。

次にSeshenのソロ・パフォーマンス。どこかから声が聴こえる。こうなると発生源は喉だとも言えず身体全体であり、それが場と境界を隔てることなくつながっていた。その増幅と共振のプロセスを目撃したのだった。彼女は体躯を前方に折り曲げてゆき、最後には鳥になったように見えた。

休憩をはさまずデュオ。Seshenは床面をスキャンし、その探索の動きを水平から垂直へと持ち上げてゆく。天をめざすような場面も、髪の毛によって顔を隠し匿名化する場面もあった。彼女はまた媒介者でもあり、それが、ピアノ演奏と場とをつなげているようだった。蓮見さんのプレイも明らかにソロとは異なり、複数者の流れの中に身を置いた。そしてまた、Seshenは鳥になった。

ご出産後はじめての日本での演奏だったが、蓮見さんは元気そうだった。この9月にNYのRouletteでマタナ・ロバーツのコンサートにご一緒したときも同じで、演奏時も、他人のパフォーマンスを観るときも、なにかを感知する端子が場に向けられているように思えてうれしかった。

ちょうど来日しているベン・ガースティンも来て動画を撮っていた(今回はかれのライヴに行けず残念)。「While We Still Have Bodies」の新譜を持ってきていれば欲しかったのだが、もう出発前にばたばたしていて忘れてしまったと笑っていた。

Fuji X-E2、XF35mmF1.4

●蓮見令麻
蓮見令麻@新宿ピットイン(2016年)
蓮見令麻@荻窪ベルベットサン(2015年)


ニック・フレイザー『Is Life Long?』

2017-12-23 10:34:49 | アヴァンギャルド・ジャズ

ニック・フレイザー『Is Life Long?』(clean feed、2016年)を聴く。

Nick Fraser (ds)
Tony Malaby (sax)
Andrew Downing (cello)
Rob Clutton (b)

ニック・フレイザーのカラフルでさわやかでもあるドラムスのことは置いておくとして(はじめてなのでよくわからない)。

個人的な聴きどころはやはりトニー・マラビーのサックスなのだ。隙間と凝集という矛盾する要素が溢れんばかりに共存している。このノイズは懐の深さと同義であって、それが、チェロ、ベースという弦ふたりと一緒にごった煮の鍋をつくっている。なるほど快感。

●トニー・マラビー
ベン・モンダー・トリオ@Cornelia Street Cafe(2017年)
アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas V』(JazzTokyo)(2016年)
トニー・マラビー+マット・マネリ+ダニエル・レヴィン『New Artifacts』(2015年)
トニー・マラビー『Incantations』(2015年)
チャーリー・ヘイデンLMO『Time/Life』(2011、15年)
アイヴィン・オプスヴィーク Overseas@Seeds(2015年)
ハリス・アイゼンスタット『Old Growth Forest』(2015年)
ジェシ・スタッケン『Helleborus』(2014年)
クリス・ライトキャップ『Epicenter』(2013年)
トニー・マラビー『Scorpion Eater』、ユメール+キューン+マラビー『Full Contact』(2013、08年)
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』(2003、13年)
リチャード・ボネ+トニー・マラビー+アントニン・レイヨン+トム・レイニー『Warrior』(2013年)
チェス・スミス『International Hoohah』(2012年)
アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas IV』(2011年)
ポール・モチアンのトリオ(2009年)
ダニエル・ユメール+トニー・マラビー+ブルーノ・シュヴィヨン『pas de dense』(2009年)
トニー・マラビー『Paloma Recio』(2008年)
アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas III』(2007年)
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』(2007年)
アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas II』(2004年)