Sightsong

自縄自縛日記

ジョー・モリス『solos bimhuis』

2015-06-30 07:26:56 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョー・モリス『solos bimhuis』(Relative Pitch Records、2013-14年)を聴く。

Joe Morris (g)

アムステルダム・Bimhuisにおけるアコースティックギター1本のソロ。

ためらうことなく淡々と、アイデアを開陳しているようだ。早いパッセージが同時に複数のプロセスで提示され、重ね合わされ、この人の思考と指はどうなっているんだろうと思う。

●参照
ジョー・モリス+ヤスミン・アザイエズ@Arts for Art(2015年)
「ニューヨーク、冬の終わりのライヴ日記」(2015年)


クリス・ピッツィオコス『Gordian Twine』

2015-06-29 08:03:15 | アヴァンギャルド・ジャズ

「JAZZTOKYO」に、クリス・ピッツィオコス『Gordian Twine』(New Atlantis、2015年)のレビューを寄稿させていただきました。

http://www.jazztokyo.com/five/five1224.html

Chris Pitsiokos (as)
Max Johnson (b)
Kevin Shea (ds)

●参照
クリス・ピッツィオコス@Shapeshifter Lab、Don Pedro(2015年)
「ニューヨーク、冬の終わりのライヴ日記」(2015年)
ウィーゼル・ウォルター+クリス・ピッツィオコス『Drawn and Quartered』(2014年)
クリス・ピッツィオコス+フィリップ・ホワイト『Paroxysm』(2014年)
クリス・ピッツィオコス『Maximalism』(2013年)
MOPDtK『Blue』(2014年)(シェイ参加)
MOPDtK『The Coimbra Concert』(2010年)(シェイ参加)
MOPDtK『Forty Fort』(2008-09年)(シェイ参加)
ピーター・エヴァンス『Live in Lisbon』(2009年)(シェイ参加)


白石民夫@新宿西口カリヨン橋

2015-06-29 01:05:57 | アヴァンギャルド・ジャズ

白石民夫さんがNYより帰国して路上ライヴをやるというので、日曜日の夜10時に、新宿駅西口ビックカメラ前のカリヨン橋まで出かけた(2015/6/28)。

昔、白石さんのサックスソロCDを持っていた。それは実に凶悪なる音を発するもので、怖くてあまり聴かなかった。それ以来の接点である。

ちょっと他所を向いていると、甲高いキキキキキキという音が耳に刺さった。白石さんがもうアルトサックスを吹いているのだった。昔感じた凶の磁場ではなかったが、西口の空をぐるぐると浮遊して叫びつづける怪鳥は、目の前に居ながら異世界の人だった。

白石民夫 (as)
後飯塚僚 (vl)
山崎晴美 (叫び、佇み)


ツァイスイコンのMoviflexと値段が2倍のトライX

2015-06-28 07:54:09 | 小型映画

映像作家(本人はなぜか強く否定する)の安田哲さんから、スーパー8のTri-Xで何でもいいから撮るようにと言われ、とりあえず江戸川区に浮かぶ妙見島まで散歩してきた。船の運転講習を行うところや一軒のラブホテル以外は、産業廃棄物の処理事業者や一般廃棄物の収集事業者、食品工場などが立地しており、あまり足を踏み入れることはない。

そんなわけで、使わないでしまっておいたTri-Xもあわせて2本回した。それにしても並べてみると仰天する。数年前の1,450円から、いまや2,780円。ほぼ倍である。しかもこれに現像料金が加わる。使う人がどんどんいなくなるのも仕方がない。ところで、まだ他に、低感度のモノクロフィルム・Plus-Xと、(当時)新タイプのEktachromeが残っている。どうすべきか。

カメラは、ツァイスイコン・Moviflex GS8。6mmからの広角(広い)、最短撮影距離1m(短い)となかなかのハイスペックである。適当に妙見島の猫を撮っていたら、2本目の途中で異音を生じはじめた。慌てて電池を取り出し、5秒後に戻したら回復した。ちゃんと撮れているのだろうか。

希望は、スーパー8のデジタルカートリッジを早く開発までこぎつけてもらうことなのだが、なかなか進んでいない模様(2014/3/1に更新)。
http://hayesurban.com/current-projects/2012/3/14/digital-super-8.html


1977年の阿部薫

2015-06-27 23:37:09 | アヴァンギャルド・ジャズ

ある方から、阿部薫が亡くなる前年の1977年に行ったサックス・ソロ演奏の記録をいただいた。(ありがとうございます。)

最初に告白しておくと、わたしは阿部薫が好きではない(正確に言うと、持っていた音源をすべて手放してもう何年も聴いていなかったから、「好きではなかった」)。あらためて何度も聴くと、なるほど、文字通り強烈なブローである。内省的でもあり、先の見えない闇のなかに突入し続けた人なのだろう。訓練もおそらくかなり行ったのだろうか、早いフレーズ、力尽きないで吹き切るパワーをもった体躯、喉を開いたようなダミ音から切り裂くような高音までの音色には圧倒される。

ではなぜ苦手「だった」のか。拠って自らを支えるものが、永遠に自らの周りにあるものだけなのではないかという印象を持ってしまうのだ。かっと見開いた目は宇宙を視ているようでいて、実はその辺の棚や壁のシミを視ている。情念とは、ど演歌とは、クリシェである。

この録音においては、やはり阿部薫の迫力と素晴らしさを聴くことができる。その一方で、抽象ではないともあらためて感じてしまう。「Lonely Woman」「Lover, Come Back to Me」、「We Shall Overcome」をネタとして使っているから抽象ではない、ということでもないのだが。つまり、阿部薫を視るわたしの目はまだ落ち着かない。よくわからない。


『ガマフヤー 遺骨を家族に 沖縄戦を掘る』

2015-06-27 22:32:33 | 沖縄

「NNNドキュメント'15」枠で放送された『ガマフヤー 遺骨を家族に 沖縄戦を掘る』(2015/6/21、日本テレビ制作)を観る。

沖縄戦で亡くなった人は約20万人。いまだ遺骨は数多く地下に眠っており、毎年、百人前後が発掘される。しかし、そのほとんどは、誰の遺体なのか特定されない。数があまりにも多く、住民は着の身着のまま避難を強いられたからだ。立派に残っている歯などを使えば、DNA鑑定が可能である。しかし、何かその人と特定できるものが一緒に発掘されなければ、政府は鑑定を認めない。

具志堅隆松さんは、28歳のときから、遺骨を発掘する作業を30年以上もボランティアとして続けておられる。大変なことだ。具志堅さんにとっては、発掘されるとそれは遺骨ではなく「人」なのだという。それだけ重い存在が、何人も、国策の間違いのために眠っている。そしてそれはまだ清算できていないということである。

政府は、DNA鑑定の対象を拡大する方針なのだという。具志堅さんの地道な要請を踏まえてのことか。どうなるか注目である。

●参照
具志堅隆松『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。』
沖縄の渡口万年筆店
比嘉豊光『光るナナムイの神々』『骨の戦世』

●NNNドキュメント
『9条を抱きしめて ~元米海兵隊員が語る戦争と平和~』(2015年)
『“じいちゃん”の戦争 孫と歩いた激戦地ペリリュー』(2015年)
『100歳、叫ぶ 元従軍記者の戦争反対』(2015年)
『日本地図から消えた島 奄美 無血の復帰から60年』(2014年)
大島渚『忘れられた皇軍』(2014年)
『ルル、ラン どこに帰ろうか タンチョウ相次ぐ衝突死』(2013年)
『狂気の正体 連合赤軍兵士41年目の証言』(2013年)
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』(2013年)
『沖縄からの手紙』(2012年)
『八ッ場 長すぎる翻弄』(2012年)
『鉄条網とアメとムチ』、『基地の町に生きて』(2008、11年)
『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
『風の民、練塀の街』(2010年)
『証言 集団自決』(2008年)
『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』(1979、80年)
『毒ガスは去ったが』、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1971、79年)
『沖縄の十八歳』、『一幕一場・沖縄人類館』、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』 (1966、78、1983年)


Sticks and Stonesの2枚、マタナ・ロバーツ『Live in London』

2015-06-27 08:47:28 | アヴァンギャルド・ジャズ

マタナ・ロバーツの3枚。

以前に、ベースのジョシュ・エイブラムス、ドラムスのチャド・テイラーとのピアノレストリオ「Sticks and Stones」で活動しており、『Sticks and Stones』(482 Music、2002年)と『Shed Grace』(Thrill Jockey Records、2003年)が吹き込まれている。マタナのアルトサックスは管をよく鳴らしきるというよりも、微細なよれ具合やかすれや環境との融合を大事にしたもののようだ。そのため、やはり隙間が大きく柔軟なエイブラムス、テイラーと対等に、音をボール何個分も出し入れする。たまに吹くモンクやストレイホーンのブルースも最高なのだ。

Matana Roberts (as, cl)
Josh Abrams (b)
Chad Taylor (ds)

『Live in London』(Central Control、2011年)は、マタナのクインテット。ここでは、よりクリアでコントラストが高い音になり、押し出しの強いサックスを見せている。土埃にまみれたようなSticks and Stonesでの演奏のほうが好みではあるが、こちらもくっさいサックスが素晴らしい。

Matana Roberts (sax)
Tom Mason (b)
Robert Mitchell (p)
Chris Vatalaro (ds)

マタナについては、メッセージ性の強い「Coin Coin」シリーズのイメージが強いのだと思うが、シカゴAACMが輩出した実力あるサックス奏者として、もっと聴かれていい人である。

●参照
マタナ・ロバーツ『Always.』
マタナ・ロバーツ『Coin Coin Chapter Three: River Run Thee』


トム・ハレル@Cotton Club

2015-06-26 00:01:48 | アヴァンギャルド・ジャズ

トム・ハレルの「Trip」バンドを観るために、Cotton Clubに足を運んだ(2015/6/25 2nd set)。会場はほぼ満員。

Tom Harrell (tp, flh)
Mark Turner (ts)
Ugonna Okegwo (b)
Adam Cruz (ds)

いままで録音に接してもピンとこなかったマーク・ターナーのテナーサックスだが、こうして聴いてみると、実はたいへん個性的なプレイヤーであることを実感した。スモーキーな音色。これ見よがしに目立つ音は出さない。しかし、微妙なトーンの変化が非常に豊かであり、それらが連続的なフレーズの橋渡し役を担っている。「その手」のスムースさではなく、スムースである。北澤敏さんの記事にある通りなのだ。

そして感動的なことに、そのターナーは、ハレルの引き立て役に徹している。ハレルのフリューゲルホーンは雲の中にいるようにくぐもっていて、トランペットはより明晰。小節の後ろから入っていく独特の節回しと、一瞬ハラハラしてしまう、間。また心の底から感情を巻き上げられてしまう。

最後は、この4月にNYのVillage Vanguardで聴いたときと同じく、「There Will Never Be Another You」。

●参照
トム・ハレル@Village Vanguard(2015年)
トム・ハレル『Trip』(2014年)
トム・ハレル『Colors of a Dream』(2013年)
デイヴィッド・バークマン『Live at Smalls』(2013年)


ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』

2015-06-24 22:50:55 | ヨーロッパ

モンゴルへの行き帰りに、ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』(新潮文庫、原著1857年)を読む。今年の新訳である。

19世紀、フランスの田舎。父とふたりで暮らす美しいエンマは、開業医のシャルル・ボヴァリーと結婚する。シャルルは真面目で誠実な男だが、冒険を志向するロマンチシズムも、はみ出した面白さも皆無であり、心のはみ出した部分こそが反乱を行うという機微を解することがない。逸脱に向かう潜在性を持ったエンマは、絶望的な退屈に耐えられず、女たらしの色男や、文化を愛する青年を激しく愛するようになる。そして、放縦すぎる生活が、やがて破滅をもたらすことになる。

今回の新訳は、原文の文体への忠実さを心がけたのだという。「自由間接話法」、すなわち、「私は」という直接話法に近いものではあるが、主体は「かれは」という間接話法。しかし第三者の言動や思考を、神の視点で語るわけではない。これがフローベールによる革命であったのだという。

そのように、語り手がつぎつぎに遷移していくことで、愚鈍かつ誠実なシャルルや、卑近なものにしか影響されない大勢の登場人物たちが世界を創り出していく様が、実に面白く描かれている。しかし、その中でもエンマは特別である。内奥のわけのわからないものに衝き動かされて、自己認識に至ることはできない。フローベールは「ボヴァリー夫人は私だ!」と言ったという。読者も、相対化できないエンマを主体として自己に重ね合わせ、「ボヴァリー夫人は私だ」と呟きたくなるにちがいない。


旨いウランバートル その3

2015-06-24 16:37:10 | 北アジア・中央アジア

5回目のウランバートル。

■ イフ・モンゴリア(ビアガーデン)

結構暑く、みんな外のテラスに出ている。しかも1リットルのジョッキ(それをストローで飲む女性もいる)。わたしは根性がないので500ミリリットル。もう夏至前夜、ようやく夜10時半ころになって薄暗くなってきた。

■ レインボウ(フローズンヨーグルト)

ソウル通りに新しい店ができていた。夜遅くまで開いていて、つい食べてしまう。シーバックソーン味はとても旨かった。

■ オリエンタル・トレジャー(台湾料理)

旨いタイ料理店があると聞いて行ってみるとなんだか様子がヘン。タイではなく台湾だった。味はふつう。

なお、隣には、実に旨いインド料理店デリー・ダルバールがある。

■ ナーダム(全般)

ウランバートルにシャングリラ・ホテルができたばかりで、高くて泊まれないので、中のレストランで宴会をした。

ナーダムとはモンゴルを代表するお祭りで、今年は7月10日から。人によっては田舎に戻って1か月近く休みを取る。この店の名前の下には「1年中」と書いてあり笑ってしまう。

気が向いてラム肉のハンバーガーを食べた。

■ 京泰飯店(中華料理)

再訪、ふつうの中華料理。太刀魚の揚げ物があったのでつい食べてしまった。ところで、太刀魚食い文化の広がりはずっと気になっている。韓国では一般的な魚だが、日本では西だけだと思う。

■ ピョンヤン(北朝鮮料理)

料理とサービスとパフォーマンスのあまりのハイクオリティぶりに感動して、ついに3回目。大喜びで観ていたら、手を引っ張られて踊る羽目になってしまった。ああ恥ずかしい。

参鶏湯に似ているが汁で煮込むのではなく蒸す料理があって、見るからに滋養の塊。体調がよくなるに違いない。

●参照
旨いウランバートル
旨いウランバートル その2


2015年6月、ウランバートルの綿毛

2015-06-23 06:55:12 | 北アジア・中央アジア

4か月ぶりのウランバートル。2月はマイナス25度くらいまで下がり強烈な寒さだったのだが、もうすっかり暑くなっている。

この時期には、街中で、綿毛が冗談のように飛んでいる。以前、春の中国で驚いたことがあったが、それ以上のインパクトがある。これはヤナギ科のポプラであり、英語ではCotton Treeなどと呼ぶこともあるらしい。

綿毛は路上の隅っコに吹き溜っていて、風が吹くとものすごい勢いで巻き上がる。フェデリコ・フェリーニ『アマルコルド』において街を舞う綿毛もポプラである。

●参照
2014年10月、ウランバートル郊外のチンギス像
2014年8月、ゴビ砂漠
2014年8月、ゴビ砂漠(2)
2014年8月、ウランバートル
2013年11月、ウランバートル


明田川荘之『ライヴ・イン・函館「あうん堂ホール」』

2015-06-20 23:14:19 | アヴァンギャルド・ジャズ

明田川荘之『ライヴ・イン・函館「あうん堂ホール」』(Aketa's Disk、2013年)を聴く。

明田川荘之 (p, ocarina)
大矢内愛史 (ss)

名前からして大矢内さんは女性サックス奏者と思いきや、実は函館を拠点に活動する大ヴェテランの男性サックス奏者であり、国立音大では松風鉱一さんの先輩にあたるという。おそるべし函館、このような凄い人がいる。何しろソロのとき以外も背後でともかくもサックスに息を吹き込んでいる音がするし、時折は鳴らし始めている。そんなわけなので、ソロともなると溜まった力を注ぎまくる感覚である。少しかすれた音色と幅広い音域が良い。もっと聴きたい。

それにしても、なぜ天才・アケタの音は、いつもこんなにもしみじみと物悲しいのか。オカリナも、その寂しさに胸をしめつけられそうである(もっとも、昔ご本人がアケタの店・深夜の部のあとに語っていたところによれば、オカリナが飽きずに聴けるのは「37分」が限界だそうだが)。

「My Favorite Things」も、「I Should Care」も、いやたまらないね。「African Dream」は、アブドゥーラ・イブラヒム風に始まりつつ、やがてアケタ色になっていく。確か、アケタ氏の著書『ああ良心様、ポン!』によると、マックス・ローチ来日時にセッションした曲は「I Should Care」だった。録音は残っていないのだろうか。

●参照
中央線ジャズ


下嶋哲朗『平和は「退屈」ですか』

2015-06-20 20:36:57 | 沖縄

下嶋哲朗『平和は「退屈」ですか 元ひめゆり学徒と若者たちの五〇〇日』(岩波現代文庫、2006/15年)を読む。

1945年1月、沖縄県庁は、沖縄守備軍第32軍と折衝して、おそるべき決定をくだした。すなわち、米軍上陸に備えて、女学生に対して看護婦訓練を実施し、また動員に際して学徒の身分を軍属とすることを。すでに「本土」を護るための「捨て石」として扱われていたことを考えれば、これは国家による若者の犠牲の強制に他ならない。このことを、著者は、「青春の大量虐殺」と表現する。

こうして1月よりひめゆり学園を含む女学生に看護婦教育が行われ、3月、彼女たちは不帰の道と知らず看護要員として配属されていった。また、同様に男子については、通信教育(部隊間の伝令)が行われ、通信隊として動員された。以下を含め、男子1489名、女子414名、合計1903名が戦死したという。これは学徒動員に限った数である。

ひめゆり学園 222名中123名戦死
首里高女 61名中33名戦死
沖縄師範 386名中226名戦死
沖縄県立第一中 254名中171名戦死
沖縄県立第二中 140名中115名戦死
県立水産学校 48名中31名戦死
県立工業学校 97名中88名戦死

運よく生き残った「ひめゆり学徒」の一部の方々は、戦後、「語り部」として体験を語り伝えてこられた。しかし、次第に戦争は遠いものになり、戦争の実態を記憶する方々は少なくなってきている。それに伴って、平和学習を受ける若者たちから「リアル館」が稀薄なものになってきた(もちろん若者に限らない)。「戦争のリアリティ」「実体験のリアリティ」に対し少しでも想像力を働かせれば、心ない言動をすることはないはずだ、と考えるのは、おそらく理屈に過ぎないのだろう。

本書には、ではどのように語り継いでいけばよいのか、どのように「向戦派」に抗していけばよいのか、どのように「リアル」を再生すればよいのか、模索したプロセスと成果が書かれている。

「記憶」とは、「思い出す」だけではないこと。歴史とは、能動的に知ろうとしなければ理解し得ないこと。歴史への無関心が、日本の政治に対する無関心を生んでいること。辺野古も、沖縄戦と地続きであること。

●参照
『けーし風』読者の集い(15) 上江田千代さん講演会(2011年)(上江田さんは元「ひめゆり学徒」)
大田昌秀講演会「戦争体験から沖縄のいま・未来を語る」(2011年)(上江田さんも参加)
沖縄「集団自決」問題(9) 教科書検定意見撤回を求める総決起集会(2007年)(上江田さんの講演)
今井正『ひめゆりの塔』
舛田利雄『あゝひめゆりの塔』
森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』、川満信一『カオスの貌』
『ひめゆり』 「人」という単位


ネイト・ウーリー『(Put Your) Hands Together』

2015-06-20 08:10:32 | アヴァンギャルド・ジャズ

ネイト・ウーリー『(Put Your) Hands Together』(clean feed、2011年)を聴く。

Nate Wooley (tp)
Josh Sinton (bcl)
Matt Moran (vib)
Eivind Opsvik (b)
Harris Eisenstadt (ds)

この人の音楽は小劇場での演劇なのだな、と、『Battle Pieces』を聴いたときと同様に思う。ライヴを観れば魅せられるに違いない。

最初はトランペットのみのソロである。暗いステージ上にひとり立ち、スポットライトが当てられる中で、少し転べばコミカルにさえ聴こえてしまうような人間的なトランペットを吹くイメージである。独白が終わったところで、めいめいが楽器を持って小社会の会話を開始する。ジョシュ・シントンのバスクラは決してこれ見よがしなプレイはしない。ハリス・アイゼンスタットのドラムスはいい「演技」をする。そして最後またウーリーの独白でカーテンがおろされる。

●参照
ネイト・ウーリー『Battle Pieces』
ヴィンセント・チャンシー+ジョシュ・シントン+イングリッド・ラブロック@Arts for Art
Ideal Bread『Beating the Teens / Songs of Steve Lacy』(ジョシュ・シントン参加)


岡村幸宣『非核芸術案内』

2015-06-19 00:25:59 | アート・映画

岡村幸宣『非核芸術案内 核はどう描かれてきたか』(岩波ブックレット、2013年)を読む。

広島での原爆投下直後、丸木夫妻はその惨状を描いた。それが30年以上続き、連作「原爆の図」となった。このことは、著者の岡村さんの話を聴いたばかりである。同時期に原爆被害の実情を描いたのは丸木夫妻だけではなかったが、そのなかで丸木夫妻の作品をすぐれたものにしていた特徴は「人間の存在」を中心に描いたことであったという。

実体験をもとにした芸術家たちには、この悲惨な事件をとにかく可視化しなければならないという衝動やエネルギーがあった。さまざまな表現があった。中沢啓二は骨太な絵で『はだしのゲン』を描き、戦争犯罪や体制にすり寄る者たちへの怒りをかつてない形で示した。のちに『ウルトラマン』で有名になる高山良策は、復興が被害を覆い隠していく姿を見出した。

原爆直後だけではない。丸木位里の母・丸木スマは、被爆後に70歳を超えてはじめて絵筆をとり絵を書き始めたし、位里の妹・大道あやは、21世紀になってはじめて原爆の絵を描いている。彼女たちを駆り立てたものがいかに苛烈な体験であったかということだ。

また芸術家にとっての駆動力は一次体験だけではなかった。Chim↑Pomは、広島の空に飛行機雲で「ピカッ」というカタカナを描き(『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』)、あえて騒動を巻き起こした。この芸術家集団に、「3・11」がどれだけの衝撃を与え、あらたな創作を行わしめたのか、それはあとでわかる。岡本太郎の壁画「明日の神話」にイタズラをするような形で事故を描き、さらには福島に入り、放射能マークの旗を日の丸のように掲げる様子を映像に撮る(わたしはこの映像を、ブルックリンのMOMA PS1で開催された「ゼロ・トレランス」展で観た)。この一見軽薄な活動が何を企てているのか。著者は、「等身大の日常と核との距離を鮮やかに縮めていく手法」だと書いている。なるほど、気になってしかたがない理由を説明してくれているように思える。

本書では、壷井明による「無主物」シリーズについても言及している。壷井さんの作品は、現在Nuisance Galerieで展示してあり、そこでも本書を販売しているようだ。会期中にぜひ足を運んでほしい。

●参照(本書で言及)
「FUKUSHIMAと壷井明 無主物」@Nuisance Galerie(2015/6/6、丸木美術館・岡村幸宣さんとの対談)
「FUKUSHIMAと壷井明 無主物」@Nuisance Galerie その2 (2015/6/13、僧侶・大來尚順さんとの対談)
『魯迅』、丸木位里・丸木俊二人展
過剰が嬉しい 『けとばし山のおてんば画家 大道あや展』
『はだしのゲン』を見比べる
『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』(Chim↑Pom)
MOMA PS1の「ゼロ・トレランス」、ワエル・シャウキー、またしてもビョーク(Chim↑Pom)
岡本太郎「明日の神話」
鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』
鄭周河写真集『奪われた野にも春は来るか』、「こころの時代」
纐纈あや『祝の島』
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』