Sightsong

自縄自縛日記

ジョニー・トー(4) 『フルタイム・キラー』

2009-03-31 01:04:02 | 香港

これもレンタル店で借りてきた。2001年の作品で、ワイ・カーファイとの共同監督。アンディ・ラウと反町隆史というスターを立てたというところからも、興行上の不自由さが見え隠れする。

とは言え、地下鉄の進入路に逃げ込み、ホームとの隙間に立って地下鉄が通過する間白い泡を吐き続けるラウのキャラクターはかなりイカレていて、鈴木清順『殺しの烙印』の宍戸錠を思い出させる(あれは、ご飯が炊ける匂いを愛し、電気釜に頬ずりする奴だった)。駄目なのは只の二枚目、反町隆史だ。

制約が仮にあったとしても、ジョニー・トーの作家性に違いないきらめきはあちこちで爆発している。自分の部屋を、雇った家政婦に掃除させ、それを隣のビルの一室から望遠レンズで監視するという奇妙さ(カメラはペンタックスZ-1Pだった)。警察から逃れる際に使う、水流を最大にして暴れるホース。電子メールが行き来するサイバー空間の描写。圧巻は、2人の殺し屋の対決場面。花火の倉庫で撃ちあったために、対決は祝祭空間と化す。そして、どちらが生き残ったのかは、2つのシナリオが示される。何故なら、警察官であったサイモン・ヤム(トー作品の常連)は、職を辞して2人の物語の書き手となり、タイプライターと証言と空想で、シナリオが語られるからだ。

ただ、どうしても、『エグザイル/絆』(2006年)の屹立に向けた未完成なものとしか観ることができず、困ってしまう。その後の洗練された『文雀』(2008年)は、いま改めて観てもきっとそのような印象を抱くことはないに違いない。つまり、ジョニー・トーは進化しているのだと断定して良いのかもしれない。

●ジョニー・トー作品
『エグザイル/絆』
『文雀』、『エレクション』
『ブレイキング・ニュース』


『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』

2009-03-29 23:00:28 | 環境・自然

千葉県知事選の結果にはがっかりだ。・・・と言っても結果が覆るわけではないので、具体的に提示されてこなかった政策がどのようなものになるのか、まずはじろじろ見ていくことにしよう。

先日の講演会会場に、アンソニー・ブラクストンのディスコグラフィ(>> 記事)まで出している愉快な編集者のOさんが、新刊書の宣伝に来られていたので、1冊購入した。

『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』(西尾漠・末田一秀編著、創史社、2009年)は、原子力のバックエンドに存在する危うい部分を示す本である。原子力のリスクと言うと、日本の技術からみてもチェルノブイリ(ウクライナ)のような事故は起きっこないという意見や、原子力がなくて日本のエネルギー供給は成り立たないじゃないかという意見が、エネルギー・技術に近い人間の口から出てくることが多い。しかし問題はむしろ、核燃料サイクルが確立できない点にあるのであって、実は社会的にも充分に周知されているとは言えない。誰にとっても他人事ではない問題であるから、どのような評価を下すにしても、知らないよりは知っておいた方が断然いい。

本書の特徴は、リスクそのものよりも、放射性廃棄物の最終処分場の建設候補地が、如何に非民主的に検討され、住民の知らないところで計画が進められているのか、具体例とともに示しているところにある。「カネで頬を叩き、地域社会を狂わせる」あり方は、軍事基地と変わるところはない。地元に経済波及効果があるに違いないという幻想が裏切られることも同様。

●参照
眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)


ジョニー・トー(3) 『ブレイキング・ニュース』

2009-03-29 00:19:26 | 香港

『エグザイル/絆』の痺れるような眩暈を求めて、同じジョニー・トーの監督作『ブレイキング・ニュース(大事件)』(2004年)をレンタル店で借りてきた。

喉をからからにして観た。やはり、多層的な速度、世界、感情が恐るべきスピードとテンポで錯綜する万華鏡、しかも中では火薬が破裂しまくっている。これを映画の至福と言わずして何と言うか。

強盗犯グループを追う警察、それがメディアを通じて社会問題となってしまい、警察はメディアを広告宣伝の手段として利用し、犯人逮捕ショーを演出しようとする。その電波を通じた映像、さらには立て篭もる犯人から発信されるネット映像、携帯電話による音といった情報が映画の内外で共有される。(もっとも、メタ映画として成功しているとは言えず、小道具として最高に面白いというところだ。)

生き残った犯人2人が立て篭もった部屋には、全く別の殺し屋2人が警察から逃げ込んでくる。ここでお互いに無関係な犯罪者、人質になった親子の奇妙な関係が生まれてくる。強盗犯が腹が減ったと言って料理を始めると、殺し屋も料理を手伝う。2人とも本職のような手際のよさであり、顔を見合わせてにやりとする。そして、人質を含め全員で一度だけの食卓を囲む。この展開が、さらに敵味方の呉越同舟での晩餐という、『エグザイル/絆』の忘れ難いシーンとしてのちに結実したに違いない。

強盗犯と殺し屋との友情が、ラストの思いつかない展開へとなだれ込んでいく。出来すぎた物語だが、これが何とも言えない余韻を残す。『エグザイル/絆』ほどの神がかったような映画世界ではない。タイトルも忘れ去られそうな凡庸さだ。だが、ジョニー・トーの作品であるから大傑作なのだ。

●ジョニー・トー作品
『エグザイル/絆』
『文雀』、『エレクション』

●Youtubeの映像
オープニングの銃撃
予告編


行徳の「寺のまち回遊展」

2009-03-28 18:36:19 | 関東

行徳(千葉県市川市)の旧道付近は寺町である。このあたりで、昨年から、「寺のまち回遊展」という企画を行っている。今回、家族でずんごろずんごろと歩いてきた。

目当ては、息子の海苔作り体験。と言っても、既に細かく裁断された生海苔を掬い、簾の上に置いた枠の中に注ぐだけである。かなりムラができたので二度注ぎ、厚みがばらばらになった。そのまま日に干し、乾く間に他の寺をまわる。今日は曇っていたので、充分には乾かず、家のベランダでさらに干した。明日にでも炙って食べるつもりだ。

徳願寺では、寺宝を公開していた。何と宮本武蔵の手による書と画が1点ずつ、それから円山応挙の作品が8点。ここの所蔵物のうち、幽霊の絵が有名だそうだが、私には李白が滝を眺めている2点セットの掛け軸が嬉しかった。法善寺には、『別冊太陽』の表紙を飾ったこともある棟方志功の版画なんかもあった。

それぞれの寺でスタンプを押し、最後に景品と鉢植えの花をもらった。




市川崑(1) 新旧の『犬神家の一族』

2009-03-27 00:22:10 | アート・映画

切れが抜群でモダン感覚溢れる市川崑の映画が大好きである。監督作はとにかく多いが、金田一耕助のシリーズは代表作のひとつだろう。『犬神家の一族』(1976年)はこれまで何度か観た。それだけに、30年を経て再び石坂浩二主演で作った『犬神家の一族』(2006年)については、何だか嫌な先入観があって観る気がしなかった。と言いながら、最近両方ともテレビで放送されたので、立て続けに観てしまった。

金田一役の石坂浩二以外に同じ役を演じているのは、神官役の大滝秀治、等々力署長役の加藤武くらいだ。草笛光子は、惨殺される従兄たちの母たち(腹違い)の姉妹のうち76年版では三女役だったが、06年版では、琴の師匠を演じている(76年版では岸田今日子)。それから音楽が大野雄二であることも同じ。

配役はともかく、シナリオもコマ割りもほとんど全く同じであり、実に奇妙な感じがする。市川崑は何を考えていたのだろう。よほどの自信作だったのか・・・ただ、06年版が最後の監督作になった(短編を除く)。因縁のような話だ。

ただ、細かい点はいろいろ散見されたが、大きなシナリオ上の相違もある。もっとも気になったのは、同性愛への言及だ。犬神家を巨大なものにした犬神佐兵衛は、あちこちを転々と流浪していた少年時代に、神官に拾われるという恩を受ける。その神官は性的に不能であり、神官の子の父は実は佐兵衛だったが、そのことは外部にはひた隠しにされる。76年版では、そのふたりが同性愛だったとの指摘がなされるが、06年版ではばっさりと削除されていた。なぜそのような妻と佐兵衛との関係を神官が認めていたのか、06年版だけを観る者にはピンとこないかもしれない。

また、76年版では回想シーンがスタイリッシュな超ハイコントラストの白黒映像だったが、06年版では大人しいソフトフォーカスの白黒にとどまっている。さらには冗長さを省くためか、若干短めになっていて、逆に懐の深さがなくなっていた。たとえば、いつもせっかちに犯人を断定したがる等々力署長に対し、金田一が「あの人はそんなことはしないでしょう」と口を挟むと、等々力は「世の中には2種類の人間がいる。悪い人と良い人だ」などと得々と説く。ここで「良い人」というとき、76年版では等々力が顔を歪ませて俺だとばかりに笑ってみせて、こちらも吹き出してしまったのだが、06年版ではその愛嬌が姿を消している。

こういったあたりだけでも、市川崑の尖った個性がもはやマイルドになっていたのかな、などという印象を持ってしまう。それでも面白く、息を呑んで観てしまう作品なのだった。市川崑のテンポの良さは本当に抜群だ。

俳優の良し悪しならば、断然76年版に軍配をあげる。富司純子より高峰三枝子。萬田久子より草笛光子。林家木久蔵 より三木のり平。中村敦夫より小沢栄太郎。ただ松坂慶子のど迫力だけは、前作を遥かに凌駕していた。


コムラーの24mm

2009-03-26 00:10:17 | 写真

コムラーという名前のレンズは、今では「渋い」なのか、「誰も使わないよ」なのかわからないが、何とも昭和的な佇まいを感じさせる「もの」である。飯田鉄『コムラーレンズ物語』(所収『カメラこだわり読本2002-2003』毎日ムック)によると、三協光機はコムラー銘を1955年頃から使い始め、80年代初頭まで存続させている。工場は台東区の北稲荷町(のちに東上野に移転)にあったそうで、まさしく下町の町工場で作られたレンズだったということになる。このあたりには、ペンタックスの修理で名高い長谷川工作所もあり、何度かオーバーホールをお願いしたことがある。長谷川工作所も、横丁にある町工場そのものだ。なお、三協光機からアベノン光機が生まれ、ごく最近までライカマウントのレンズを作っていたが、残念ながらいまでは活動を止めている。

描写はというと、使ったことがあるライカマウントの35mmF3.5(もう手元にない)と、ここで紹介するM42マウントの24mmF4だけから言えば、「可もなく不可もなく」といったところだ。さほどシャープでもないし、目を見張るような点もない。しかし、「渋い」ものであれば、それでいいのだ。24mmは、四隅の光量がいきなりなくなり、イメージサークルぎりぎりのようだ。昔の一眼用の広角だから当然といえば当然だが、歪曲収差は結構ある。

この24mmはプリセット方式である。つまり、予め絞りを決めておいて、ピントを合わせたら撮影する直前に手で絞る(決めておいた絞りで止まる)。超広角だから問題ないが、望遠寄りの場合には、そんなことをしている間に、ピントがずれるに違いない。こんな玉を相手にするので、もたもたする手間はなるべく省いたほうがよい。そんなわけで、AEを利用したいので、アダプターを介してペンタックスLXを使った。・・・・・・こんな話、敢えて不便なことをしているだけで、興味のない人にはまったくナンセンスである。でもいいのだ、「渋い」のだから。


旧江戸川 PENTAX LX、W-KOMURA 24mmF4、コダックE100G、ダイレクトプリント


旧江戸川 PENTAX LX、W-KOMURA 24mmF4、コダックE100G、ダイレクトプリント


旧江戸川 PENTAX LX、W-KOMURA 24mmF4、コダックE100G、ダイレクトプリント


何だか怪しい道具のような佇まい


WBCの不在に気付く来年の春

2009-03-24 21:27:05 | スポーツ

WBCは日本代表が優勝した。ちょうど大阪伊丹空港に着いたのは、ダルビッシュ有が投げはじめた9回裏、テレビの前には凄い人だかり。韓国代表が同点に追いつき、悲鳴があがった。サヨナラ負けを見る度胸がなく、すぐに搭乗手続を行ってゲートに移動した。延長戦に入っていた。そこから、飛行機に乗り込むぎりぎり前に、運良く試合終了までを見ることができた。


10回表のイチローのタイムリー後(左)、大阪伊丹空港での優勝の瞬間(右)

それにしても、異常なほどの盛り上がりようだ。日本の国旗の真ん中は日の丸ではなく野球のボールだ、と言ったのは、ロバート・ホワイティングだったか。普段プロ野球やMLBに興味を持っていなさそうな人でも、ここのところ、職場で一喜一憂している。監督交代のごたごたがあったためか、それとも、メディアの宣伝が奏功しただけなのか。(保守寄りの発言を繰り返す前代表監督が、これで人気を得て、政界に登場するような醜い姿を見ることがなかったのは、少なくとも、ほっとすることである。)

どう少なく見積もっても日本には野球評論家が500万人はいるだろうから、日本代表の試合ぶりを云々することはやめておくとして(ただ、浦安の星・阿部慎之介がいまいち活躍しなかったのは残念だ)。CATVで録画しておいたキューバ対メキシコ、米国対ベネズエラ、米国対プエルトリコ、ベネズエラ対プエルトリコなんかをあとで暇潰しに観るのが楽しみである。ちょっと観ただけでも、キューバ代表選手たちの動きはとても魅力的で、空振りしたバットが観客席まで飛んでいくような豪快さもある。ドラゴンズで今ひとつ活躍できなかったオマール・リナレスの姿は、やはり峠を越していたそれだったのだな、と改めて感じたりした。

国威発揚という面でいえば、韓国の保守系新聞である『朝鮮日報』『中央日報』『東亜日報』の日本語版を、毎日チェックしていた。奉重根のピッチングがイチローを抑えたからといって、安重根(名前が似ている)と伊藤博文に重ね合わせて「奉重根義士」「イチロー博文」と書いていたのにはさすがに驚かされた。ただ、別の背景を持つ声に耳を傾けることは、テレビのバラエティで「侍ジャパンがどうじら」と騒いでいるのをみるよりも遥かに大事なことだ。むしろ、それに対する日本側からの過剰なコメントを読むのはその何万倍も嫌なものだった。それから、フィデル・カストロの声はとても人間的だった。そういえばベネズエラのチャベス大統領も野球好きだったはずだが、何か面白い発言をしていないだろうか。

今回は、『Number』(文藝春秋)が、WBC開催前に特集号を組んでいる。今度改めて出されるであろうWBC特集号がとても楽しみだ。3年前の特集号では、地下鉄の吊り広告に使われていた写真が素晴らしく、よほど引き抜いて丸めて逃げようかと考えた。今度はどんなライヴ写真が採用されるのだろう。

来年の春、われわれはWBCの不在に気付いて、寂しさと物足りなさを覚えるのではないか。」(芝山幹郎、前回WBC特集号より)


今回開催前の特集号


前回開催後の特集号


前回特集号の吊り広告に使われた写真


『リダクテッド 真実の価値』、『ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史』、『ウミガメが教えてくれること』

2009-03-22 23:46:11 | アート・映画

■ブライアン・デ・パルマ『リダクテッド 真実の価値』

デ・パルマといえば、『愛のメモリー』や『殺しのドレス』などヒッチコックにすり寄った作品、『キャリー』などハチャメチャを喜ぶ作品などいろいろな顔がある。『アンタッチャブル』では『戦艦ポチョムキン』のパクリを見せて、多くの観客を失笑させた(に違いない)。器用貧乏とは言わないが、カメレオンのような変身が個性と言うべきだろうか。この最新作『リダクテッド 真実の価値』(2007年)が最新作ということになる。

イラクにおける米兵の民間人強姦と殺人という実際の凶悪犯罪を題材にして、真正面から<軍なるもの>の姿や、つねに非対称な構造を作り上げる<米国>の姿を示したものと評価されているようだ。ヴェトナム戦争と同様に、何人もの映画作家が、この国家的犯罪を告発しはじめている。ヴィム・ヴェンダースさえ、米国を諌める映画『ランド・オブ・プレンティ』(2004年)を作っている(>> リンク)。

もっとも、穿った見方をすれば、ライヴカメラ、YouTube、個人ヴィデオなどのインターネットを通じた映像ネットワークが、この器用な映画作家の描きたかった新規性のあるテーマのようにも思える。

しかし、これまでいろいろなことを思い知らされた私たちにとって、ここで示される醜い<軍>や<米国>の姿には既視感がある。それでも、映画は米国とイラクとの間で対称的なものとはなっていない。たとえば、この映画の上映とディスカッションが行われた「中東カフェ」(>> リンク)では、「米国兵士それぞれに名前があって、人格があって、家族や人生が描かれていたのに、登場するイラク人の名前さえわからないまま映画は終わる」という指摘がなされている。これに対し、取りまとめの酒井啓子さんは「これは米国の映画だ。米国市民に反戦を訴えることを目的にしているから、米国人のみを描いている」とコメントしている。さらには、人ごとではなく、このような軍事行動に加担し続ける日本人が観るべき映画だと考えた。

■『ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史』

家族で観に行った。『のび太の恐竜2006』以来、どの作品でも、筆ペンのような線のキャラクター描写が素晴らしいと思う。本作では、さらに身体のデフォルメが手馴れてきたような感がある。テレビとは別物である。

『のび太の恐竜2006』同様にリメイクであり、ストーリーは、小学生のころに「宇部東宝」(たぶん)で観た『のび太の宇宙開拓史』と大きくは変わっていない。何しろドラえもん映画30周年ということで、小学生のときに観た映画のリメイクを、小学生を連れて観るとは感無量(笑)である。

開拓民が住む星に貴重な資源があるからといって、デベロッパー企業があらゆる汚い手を使って、開拓民たちを追い出そうとする。まるで成田だ。違う点は、最後に警察が助けにくること―――という皮肉は置いておいて、前作『緑の巨人伝』と同じく良い作品だ。常に子どもの目線での正義があり、出会いと別れが描かれる。ドラえもんよ永遠に。

■TBS『ウミガメが教えてくれること』

元ちとせが新曲とともにナビゲーター役として登場するというので、楽しみに観た(TBS、2009/3/21)。ウミガメの生育環境が無くなっていること、日本からメキシコへ旅し、再び産卵のために日本に戻ってくることなどが示された。

しかし、話が散漫で、子どもの芸能人を登場させたりして良い印象は持たなかった。番組のディレクターは「番組は、環境保護とかウミガメを守ろうとか声高に訴えない。視聴者にウミガメに気持ちを近づけてもらい、自然界を生きる知恵、命をつなぐ作業の尊さなどを感じてもらえれば」とコメントしている(東京新聞、2009/3/7)。それでは「癒し」映像と何が違うのだろう。作り手も視聴者も、何も考えないだけではないか。

ところで、元ちとせだが、<脱力して鼻から声を抜く>ような歌い方が妙に目立っているような気が。


浦安魚市場(14) 手巻き寿司

2009-03-22 14:44:34 | 関東

鮪が食べたいなあという気分が続いていたので、よし手巻き寿司だと思い立ち浦安魚市場へ。

ここに行くと、必ず「泉銀」に立ち寄ってしまう。以前、息子の「仕事をしている人にインタビューを行う」という宿題でお世話になったところだ。鮪の赤身のサクを買い、ついでに「大力」で鯵の刺身を調達し、わくわくして帰った。買い物の間、ツマはご飯と卵焼を作っておいてくれた。鮪は半分方残して、「ヅケ」にしておいた。

具材を並べたら、あとはそれぞれとり憑かれたように巻いて食べ続けるだけである。


鮪、鯵、卵、大葉、納豆


ひたすら巻く

ところで、「泉銀」の店長、兼、バンド「漁港」のリーダーである森田釣竿さんのブログは、抱腹絶倒の面白さだ。先月などは、この「鱈男」(>> リンク)の子分(笑)とおぼしき鱈のアラを買ってきて、アラ汁を作った。いい出汁が出て旨いのだが、残った身から小骨を取りきれず、娘に食べさせるのに苦労した。当分は、アラなら鯛のアラを入手して、「でんぶ」にしようと目論んでいる。これが頑張っただけ旨いのだ。


鱈のアラ


汁は旨いけど


身から小骨を取るのが大変


伴野朗『上海伝説』、『中国歴史散歩』

2009-03-21 22:28:36 | 中国・台湾

1930年代の魔都・上海の雰囲気を味わえるかと、買っておいた105円の古本、伴野朗『上海伝説』(集英社文庫、2002年)を読んだ。気分転換の冒険小説である(最近、ストレスフルで瞼が痙攣していたりするので・・・)。

日本軍と国民党との勢力争い、その中で、怪物が蠢く。男装の麗人・川島芳子、のちの政財界の黒幕・児玉誉士夫、満州国建国の黒幕・土肥原賢二。謀略と暗殺のオンパレードなのだが、講談的・活劇的な虚構であっても、土肥原機関、藍衣社、CC団などが活動した中国の様子が描かれていて愉快だ。上海を舞台にした小説としては、J.G.バラード『太陽の帝国』がもっとも好きなものなのだが、租界のイギリス人から見た世界と、このように魑魅魍魎のアンダーグラウンドを睨んだものとは、当然ながら、全然異なる。北京の胡同(フートン)に相当する、上海の横丁・弄堂(ロンタン)を彷徨ってみたくなる。

ところで、小説では、蒋介石に抗して、汪兆銘(汪精衛)を土肥原機関が保護し、かつぎあげていく。汪の生涯には興味があったので、どうなることかと読み進めていくと、何だか中途半端に終わってしまい、別の話(終わるまで、挿入されたエピソードだと思っていた)になってしまう。長編ではなく、連作集なのだ。ちょっと残念。

大阪・梅田の地下街にある古本屋・萬字屋書店(わりと密度が高くて楽しい)で見つけ、これも気分転換用に手に入れたのが、伴野朗『中国歴史散歩』(集英社、1994年)。やはり知らないエピソードが散りばめられていて、何度もへええと言わされてしまう。

三国志や邪馬台国のことは、ウルサガタが多いので下手なことは言わないことにして、例えば。

○大航海時代に先立つこと90年、中国の鄭和は南回りでアフリカ東海岸に到達する。その船団は8千トン級が62隻、27,800人以上。これに対し、コロンブス船団は3隻であり、サンタマリア号は250トンだった。
○黄河の水1トンに含まれる泥砂は37.6キロ。なおナイル川は1.6キロ、長江は0.4キロ。これにより、日本総面積の半分を超える面積を造成してしまった。
○北京郊外・周口店で発掘された北京原人の骨は、1941年、米軍により米本土に移送すべく、秦皇島のキャンプ・ホーカムに移された。ここで失踪した骨は、まだ見つかっていない。
○万里の長城の東端(秦皇島)・山海関は、明の時代、とても攻略できない大要塞だった。北京の明が陥落した報をきいた将軍は、北京に残した自らの愛妾を取り戻すため、清に山海関を明け渡した。要塞は内部から崩壊した。
○悪女ぶり、政治家としてのスケールで言えば、西太后は、中国唯一の女帝である則天武后に遠く及ばない。ところで自ら文字(則天文字)を20程度作ったが、そのうち1字だけ日本に生き残っている。徳川光圀の「圀」である。
○元寇において、2回の「神風」により、モンゴル軍の多くの船は沈没した件。1回目は高麗の軍、2回目は旧南宋の軍が多く、実はモンゴルにとってはさほどの痛手ではなかった。とくに南宋については、危険な存在として、日本への入植も見越した「棄兵」だった。

―――など。

新聞社で中国を担当していただけあって、この作家の中国ものは多い。だが、いつでも人気のある三国志もの(ちょうど『レッドクリフ』も流行っているし・・・)を除いては、今はあまり新刊としては本屋に並んでいないようだ。

●参照
万里の長城の端ッコ(秦皇島)
上海の夜と朝


北京のチベット仏教寺院、雍和宮

2009-03-19 23:58:03 | 中国・台湾

北京では、そのうち行こうと思っていた雍和宮に足を運んだ。チベット仏教の寺院であり、清朝時代の17世紀末に建立されている。その時期の建造物も残されている。拝観料は25元(300円程度)と若干高い。

雍和宮の門前を守る獅子は青銅製で精巧なつくりだった。首に鈴が2つと飾り房3つがさがっている。


雍和門を守る獅子 Voigtlander Bessaflex、MIR-20M、Fuji PRO 400

門や拝殿の前には火がくべてあり、大勢の拝観者が線香に火をつけていた。雍和門の中には四天王(持国天王、広目天王、増長天王、毘沙門天王)が左右に向かい合っている。他の仏教寺院と同様に、ひたすらコミカルなつくりである。


線香 Voigtlander Bessaflex、MIR-20M、Fuji PRO 400


祈り Voigtlander Bessaflex、MIR-20M、Fuji PRO 400


雍和宮 Voigtlander Bessaflex、MIR-20M、Fuji PRO 400

拝殿の中では、何十人もの臙脂色の袈裟をまとった僧侶が並んで座り、経を唱えていた。ぞっとさせられる光景だった。

チベット仏教において崇拝される神仏は極めて独特である。仏陀や菩薩はもとより、女神と交接している姿の大威徳金剛、観世音菩薩の女形である緑度母白度母(乳房がある)など、その拡がりに吃驚させられる。また、この寺院の最大の見物は、1本の白檀の木で彫刻された18mもの大仏であり、本当に1本の木だったのかと想像すると気が遠くなる。

私がこのようなチベット仏教に触れたのは、1995年にネパールを訪れたときがはじめてだ。しかし、実際の神仏の姿は、1997年に開催された展覧会『チベット密教美術展』(東武美術館)ではじめて目の当りにした(遅い?)。正直言って、交接する禍々しい姿にかなり驚いた。

カトマンドゥの寺院にも置かれているマニ車は、信者が手でぐるぐる回すことによって功徳があるのだというものであり、ここ雍和宮にもあった。


マニ車 Voigtlander Bessaflex、MIR-20M、Fuji PRO 400


旗 Voigtlander Bessaflex、MIR-20M、Fuji PRO 400

配殿2つの中で、彫刻や美術など文化財が展示されていた。何代も前のダライ・ラマパンチェン・ラマの像はあったが、当然ながら、説法を行う現在の写真などは、パンチェンのものしかなかった。


中、日、英の3ヶ国語で書いてあるパンフレット

●中国の仏教寺院
浄土教のルーツ・玄中寺(山西省)
道元が修行した天童寺(浙江省)
阿育王寺(アショーカ王寺)(浙江省)


北京の散歩(3) 春雨胡同から外交部街へ

2009-03-17 22:21:09 | 中国・台湾

先月(2009年2月)、北京に立ち寄った。もう十何回目だが全く飽きない。歩いたことのない胡同(フートン)を散歩してみようと考え、春雨胡同という粋な名前の小道に入り、くねくねと曲って外交部街に出た。事前に調べたところでは、この外交部街に、「閑暇時光」という、ヒマでヒマなときに立ち寄ってくださいという名前の本屋兼カフェがあるということだったが、どうも見当たらなかった。

ここは東単ちかくの中心部、繁華街の王府井(ワンフーチン)のすぐ隣あたりであり、もう開発がかなり進んでいて胡同の風情は虫の息という印象が残った。実際、(北京の城内はどこでも多かれ少なかれそうだが)やたらと家を取り壊している。

今回は超広角の視点を持ってみようという考えで、フォクトレンダーのベッサフレックスに、ロシア製のMIR-20M(20mmF3.5)を付けて行った。やたらと前玉が大きく、みんなにじろじろ見られる。北京の空気は綺麗でないから汚れるかなとも思ったが、何ということもなかった。リバーサルを使うと、フィルムの四隅の光量が急激に落ちるレンズである。しかし、カラーネガを使ったら全然気にならない。


春雨胡同 Voigtlander Bessaflex、MIR-20M、Fuji PRO 400


春雨胡同 Voigtlander Bessaflex、MIR-20M、Fuji PRO 400


春雨胡同 Voigtlander Bessaflex、MIR-20M、Fuji PRO 400


外交部街 Voigtlander Bessaflex、MIR-20M、Fuji PRO 400


外交部街 Voigtlander Bessaflex、MIR-20M、Fuji PRO 400

●参照 中国の古いまち
北京の散歩(1)
北京の散歩(2)
牛街の散歩
上海の夜と朝
盧溝橋
平遥
寧波の湖畔の村


ヴィクトル・I・ストイキツァ『幻視絵画の詩学』、澁澤龍彦+巖谷國士『裸婦の中の裸婦』

2009-03-16 23:08:22 | ヨーロッパ

インターネット新聞JanJanに、ヴィクトル・I・ストイキツァ『幻視絵画の詩学』(三元社、2009年)の書評を寄稿した。

>> 『幻視絵画の詩学』の感想

 本書は、主に16、17世紀のスペインにおけるキリスト教絵画を分析の対象としている。それも、ただの歴史や神話ではなく、<幻視>(見えるはずのないものが見えること)を題材にした作品のみを執拗に追っている点が独特だ。幻想絵画ではなく、幻視絵画である。

 <幻視絵画>とは、絵画の中で何者かが幻を視ている状態があることを意味する。すなわち、この絵画を見ることによって、視る者を視る、という奇妙な関係が結ばれることになるのだ。著者のストイキツァは、さらにその共犯関係を万遍なく視まわす。本書がつくりだしているのは、そのような複層的な視線と、背後に隠れる思惑とが織り成すドラマである。

 キリスト教の始まりから<幻視>があったわけでは勿論ない。後年、聖者のような特別な存在が、神からの恩寵なのか、イエスや聖母マリアを突然視てしまうのである。驚くべきことには、視るだけでなく、マリアの乳房から放たれる乳を授かったという聖ベルナルドゥスという人物さえもいる。その一方で、幻視の真実性が検証され、虚言だとされた者もいたようだ。

 現代に生きる私たちは、それが作られた物語であることを<知っている>かもしれない。しかし、その時代の人々にとっては、テキストや口承、そして何より絵画こそが、物語を発見し、再体験し、共有するための、かけがえのない媒体であったことは容易に想像できることだ。第三者的な評価は有り得ないのである。

 興味深いことに、特定の幻視テーマを扱う絵画の作成が<コード>に沿ったものと化していき(何と、驚愕や忘我などを表すための眼や手の描画パターン集が発行されていた!)、職人芸に取り込まれていく。そして教会は、幻視絵画を<権力>強化のためのツールとして用いた。幻視という個人内部の超常現象を外部に伝えるための絵画が、権威として確立されたものとなると、逆に内部の信心を高めるための装置へと反転するわけだ。

 こういったダイナミクスは本書で開陳される一部分に過ぎない。読者は、ストイキツァが次々に繰り出してくる語りに心地よく乗せられてしまう。快感に近い知的興奮が得られる書物だ。

◇ ◇ ◇

16、17世紀のスペインにおける<幻視絵画>に執拗に拘泥した分析である。いやもう、ストイキツァの語り(騙り?)の芸にやられてしまう。このひとの著書ははじめて読んだが、美術史における<影>の存在を追及した『影の歴史』なんてものも読んでみたいところだ。

ベラスケスも幻視絵画を手がけていたようであり、そういえばと思い出し、澁澤龍彦+巖谷國士『裸婦の中の裸婦』(文春文庫、1997年)を棚から探し出した。ここでは、澁澤は、ベラスケスの『鏡を見るウェヌス』をとりあげて与太話を繰り広げている。何でも唯一現存するベラスケスの裸婦像だそうだ。

それはそれとして、スペイン絵画が18世紀にいたるまで表現したヌード絵画は、この作品と、有名なゴヤ『裸のマハ』くらいで、それ以外にはせいぜいイエス、髭のはえた聖者、マグダラのマリアくらいだろうなと語っている(仮想の対話)。しかし、ストイキツァが見せてくれるのは、聖母マリアが空中に放った乳を受けるという幻視の絵画であり、碩学の澁澤といえど、この授乳の絵画パターンを認識していなかったのだろうか。少なくとも、私は宗教画に疎いこともあり、こんなものがあるのかと驚いた。


2009-03-15 23:24:26 | もろもろ

『BRUTUS』(マガジンハウス)が、猫の特集を組んでいる。出張に出かけるときに電車の吊り広告で見つけてドキドキしたのだが、わざわざ買って中国まで持っていくのも馬鹿げているので、帰ってきてから慌てて1冊確保した。(まあ、それほどの話でもないのだが。)

昔は「犬派」だったので猫なんて見向きもしなかった。それが何故か、街角で猫が飄々としているのを見ると嬉しくてしかたがない。そんなわけで、所詮にわか猫好きであり、飼ったこともない。この雑誌の中に収められていた「猫検定」にトライしたが、50問中32問しか正解しなかった。普通に考えたら当る問題も多いので、この結果はかなり低レベルに違いない。

はじめて知ったこと。猫は甘みを感じない。猫は赤色を識別できない。猫に生のイカを食べさせてはいけない。

それでも、いろいろな猫の写真や、漫画に登場する猫(マイケルとか、ニャンコ先生とか、猫村さんとか)を眺めているとひたすら楽しく、ときどきは声を出して笑ってしまう。一緒に読もうよなどと言って、幼い娘と並んで開いたら、案の定興奮して、「ニャンニャ!ニャンニャ!ニャンニャ!」と指差して叫び続けるのでまともに読めない。やはり、猫に反応するDNAが人間には組み込まれているのだ。

ニコラス・ソーンダス『ネコの宗教』(平凡社、1992年)というグラフィック本があって、太古からの猫のイメージがあれこれ開陳されている。ライオンやトラやピューマといった大型ネコについての素材が多いが、やはりイエネコは確固たる位置を占めている。

何でも、イエネコが最初に登場したのは紀元前1500年ころ、エジプト新王国の時代だそうで、よく知られているように、この国で神格化された。ライオンの頭を持つ女神セクメトと、その妹で猫の頭を持つバステートとが、太陽神ラーの2つの眼として崇められた。現代と異なり、崇敬の念である。30万体もの猫のミイラが見つかった墓地もあるそうだ。

「人間が対抗できないものは、字義どおり超人的なものと見なされた。ことに、鏡のように輝く眼を使って夜間に獲物を狩ることのできるネコ族の習性が、その印象をなおいっそう強めた。1頭1頭の強さと敏捷性と夜間視力という魔法のような能力の組み合わせは、それに比べればか弱い人間の昼間だけの活動とひどく対照的なものだったため、いびつなほど強力なイメージが生まれ、われわれの太古の祖先の意識にしっかりと植えつけられた。
 このイメージは歴史を生き抜き、現代人をも魅了している。現代人のネコ狂いは、人間とネコ類との昔からの関係がいちばん新しいかたちで表面化しているに過ぎない。」

『BRUTUS』には、「まこ」という猫のシールが付いていた。ついつい気分が盛り上がって、ザウルスを猫ザウルスにしてしまった。

●参照
魯迅『朝花夕拾』、イワン・ポポフ『こねこ』
沖縄県東村・高江の猫小
沖縄県・久高島の猫小
土屋景子『猫のいる島』


鎌田慧『抵抗する自由』 成田・三里塚のいま

2009-03-14 19:58:47 | 関東

家族で内房の富津まで行く予定だったのだが、強風で電車が止まっていたので引き返し、何だかだらしのない一日を過ごしてしまった。だからというわけではないが、読みかけの、鎌田慧『抵抗する自由―少数者として生きる』(七つ森書館、2007年)を読了した(もっとも、すぐ読める分量)。先日の六ヶ所村に関する鎌田氏の講演の際にも、出版社の方がこの本を宣伝にきていた。

三里塚>がリアルタイムでない自分にとっては、これは国家暴力による過去の弾圧だという認識に過ぎなかった。まだ住んでいる方々が存在する、ということも、乏しい報道による知識に過ぎなかった。本書は、<三里塚>が現在の問題でもあり続けていることを明確に示している。私を含め、無自覚に成田発着の国際便を使うことによって非民主的な計画に加担し、間接的に騒音被害を与えている者にとって、読むべき本のひとつだろう。(なお、鎌田氏も、当初は他の空港を使うなどしていたが、いまは「かすかな心の痛みを感じながらも、成田から飛び立っている。なにか知り合いの頭を踏みつけているような、後ろめたい気がうるのだが。」と書いている。誠実な書き手であることを感じさせる点だ。)

「成田空港建設が批判されて当然なのは、建設を計画した政府とそこに住んでいた人間とが、まったくの対等な関係として認められず、いきなり「用地決定」というかたちで通告され、機動隊を差しむけた力ずくによってはじめられたことだった。死者ばかりか、負傷者があまりにも多かった。だから、これ以上の拡大は許されるものではない。
 勝手に決定された「開港日」は、管制塔占拠という反対派の未曾有の攻撃によって、二ヶ月間延期された。そのあと、政府は運輸大臣や政務次官を派遣して、公開の場で謝罪、「収用法は返上し、今後対等な立場で二期工事については話し合いをしてはじめることにする」と確約したのだった。」

それにもかかわらず、工事を拡大し、有罪に追い込んだひとびとから、総額1億円を超える「損害賠償」の強制執行を行っている。この、間違いを口で認めながら暴力をふるいつづける権力とはどのようなものか。

「いまも空港公団改め空港会社は、かつてのように暴力装置としての機動隊の力は借りないにしても、騒音で追い出そうとしている。
 空港内に民家と畑が残っているようにみえたにしても、それは民家と畑のすぐそばまで、あつかましくも空港が勝手に押しかけてきたからだ。三里塚闘争は終わったといわれたにしても、ここで畑を耕して生活しつづけたいひとたちがいるかぎり、わたしはそれを支持する。」

ところで、拡大した滑走路は、サッカーのW杯開催にかこつけて、「暫定」という名のもとに強引に運用を開始したわけだが、それでは、スポーツ選手や芸能人を動員して誘致の気運を高めようとしている東京オリンピックについてはどうだろう。空港だけではなく、道路の建設なんかも、経済波及効果、インフラ整備という看板で語られるのではないか。

●参照
六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』
前田俊彦『ええじゃないかドブロク(鎌田慧『非国民!?』)